-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

06.またしてもトンデモ発言



「大概ふざけてますぅ! なんですかなんですかどういう了見ですか『ユラス・アティルドは数日中には愛想をつかすだろうな』って! あの人の頭の中どうなってるんですかぁ!? 一度頭の中かっぽじって解析してみたいですぅ!」
「シア、そこの『ナディ記におけるウッドカーツ家の考察』とってくれ」
「わかりますかぁ、あんなバカみたいなこと白昼堂々言ってくれるなんて、爬虫類が歌いだしたのと同じくらい信じられないですぅ! 第一考古学の方々は常識のじの字も知らないんですかねぇ!」
「それから『紅の戦とディスリエの貴族たち』も」
 怒りを惜しみなく振りまきながらもシアは積み重ねられた本の中から言ったものを次々とだしてくれる。……というか、喋ることに夢中で自分の行動に気付いていない。
 あの後、俺は荒れ狂う二人の間に分け入ってどうにか言いくるめ、シアをここまでひきずってきたのだ。それだけで三日分の体力を消耗したような気分になれて、今やシアの怒声も右から左へと聞き流し、棒付き飴を咥えながら論文作成にとりかかっている。甘いものを食べながらでないと、本当にやってられない。
 第二考古学の研究室にはヴィエル先輩の姿は見当たらない。ちなみに担当の教師は……生存すらも不明である。部屋の奥にあるやけに黒ずんだ扉は当分開けたくない。
「ヴィエル先輩、何処行ったんだろうな」
「はい? ああ先輩ならもうすぐ来ると思いますよぅ」
 シアはようやく思いの丈を吐き出したのか、すっきりした顔で俺の向かいに座った。
「やっぱり焦点は開戦時のウッドカーツ家内の謎ですかぁ?」
「ああ、そうなんだけどな……」
 俺は渡された文献に目を通しながら、眉間に指を突き立てる。
 ――何故だろう。
 どうしてか、どの文章を読んでも違和感がしてならない。
 今回のテーマである紅の戦。それは今から500年ほど前に世界規模で起きた歴史上最大の、そして最悪の戦争である。
 複雑に絡み合う国際問題を抱え、あらゆる地域で紛争が絶えなかったその時代を襲った、大陸消失の悲劇。その事実が、人々の奥底にくすぶる恐怖に火をつけることになる。
 世界が滅びる――無論、栄えがあれば滅びもあるのが必然。しかしその滅びは人にとって不定の未来でなければならなかった。そうでなければとても人は正気でいられなかったのだ。
 その為、一時期世界は人の恐怖だけで自滅するかにも見えたそうである。貧富の差を越えて入り乱れる恐れ、怒り、狂気。そんな中ウッドカーツ家が歴史の舞台に踊り出たのは、まるで騒がしい子供たちを鞭ひとつで黙らせる教師のようでもあった。
 当時のウッドカーツ家はフローリエム大陸北部に本家を持つ、ただ一点を除いてありふれた貴族家だった。家長の名はジルム・ウッドカーツ。そしてその家長が、一族を世界の覇者に仕立てた張本人にして、このありふれた一族における異端の存在だ。
 彼は生まれつき、血のように赤い瞳を持っていたのである。それが突然変異だったのか、何かの要因の結果なのかは分かっていない。しかし鮮血を彷彿とさせる紅の瞳は、後に血縁者の瞳を赤で塗りつぶす慣習を残すほどの恐怖を民衆に植え付けた。赤い瞳は北東の大陸に行けば近い色の人間がいないこともない。しかし青や緑の瞳が多い大陸において、その色はまさに狂気の王者を表すものでしかなかったのだ。
 性格は横暴、それでいて冷酷。この世を300年の間、変わらぬ姿のまま繋ぎとめた張本人である男が殺戮したものは数知れない。
 だが考古学者たちによる研究が続く現代でも、当時の歴史は謎だらけだ。まず大陸一つを滅ぼしたとされる力。この力が一体何であったのか、未だにその真相は解明されていない。力ある玉石と契約をしたアレクサンドリア家の暴走によるものという話で落ち着いてはいるが、そもそもアレクサンドリア家の出所が掴めていないのだ。
 当時のウッドカーツ家についても矛盾した記録が多く発見され、いくつも時代の改ざんが行われた形跡を残している。
 そんな一族が滅んでから約140年経った今回の学会の論点は紅の戦のきっかけとなった大陸消失からウッドカーツ家の登場までに絞られるらしいと、先日ヴィエル先輩から聞き出した。
 ――んでもって、そもそもこういう論文を書くとしたら、それなりの期間をもらってじっくりと文献を研究し、なおかつ遺跡などに足を運んで――という過程を踏むのだろうが、いかんせん今回は時間がない。ついでに人材もなければ経費もない。
 そうぼやいた俺に、「所詮学生に程度の高い論文なんか求めてないサ、適当にやりな」と先輩は皮肉気に笑っていたっけ。
 だから、俺に書けるとしたら――それは歴史書を読んだ折に感じた違和感についてだ。
 その時、ふと扉が開く音がした。
「あ、先輩。おつかれさまですぅ」
 シアがぱっと顔をあげて出迎える。
 ヴィエル先輩は相変わらず気だるげな表情で中に入ると、ちらりと外に目をやって扉を閉める。俺も一度飴の棒を口から離し、顔をあげて会釈する。
「遅かったですね、午前の授業でも長引いたんですか?」
「サボった」
「……」
 無言で飴を咥えなおした。もう、何も言うまい。
「ああっ先輩! また授業行かなかったんですかぁ?」
「買い物」
「そんなの放課後にして下さいよぅ、あっ、タバコはいけませんよ」
 戦利品らしき新品のタバコを取り出したヴィエル先輩は、目ざとい指摘に黙ってそれをしまう。
「最近増えてるんですからぁ。何かありました?」
「んー」
 シアの小言に答えているのかいないのか、無造作に荷物を柵の上においてヴィエル先輩はいつもの席に座る。
 四つ並んだ机には俺とシアが向き合い、一番奥の席にヴィエル先輩が座るといった具合。そろそろ慣れてきた光景だ。ちなみにシアの背後にある扉の向こうには教室らしきものがあるが、今は完全にホコリをかぶっている。
 先輩は来たら来たで何もやることがないようで、だらんと背もたれに寄りかかったままぼんやりと視線を窓の外にやっている。
 それもいつものことだったので、俺は再び手にした文献に目を落とした。――だが、これも違う。
「……なんでだ?」
「どうかしましたか?」
 俺が頼んだ調べ物をしてくれているシアが首を傾げたので、俺は舐め終わった棒を捨てて、シアの手元を覗き込んだ。
「……」
 ――おかしい。
「あのぅ、何か?」
「……なあ、シア」
「はい」
 眉間にしわをよせた俺に、シアは元から良い背筋を更に伸ばす。
「お前、史学の成績はそこそこか?」
「はいっ、もちろんですぅ! 史学だけならAランクとってますよぉ」
 満足できる答えに俺は重々しく頷いてみせた。
「うむ。それではそんな史学のエキスパートなお前に問う」
「なんでしょう?」
 ぴっと文献の年表を指で指す。そこにきょとんとした顔で目を落としたシアに、言った。
「なんでどの論述でもウッドカーツ家のルイサダ家の襲撃事件が1092年になってるんだ? あれって1091年の話じゃなかったか?」
 ルイサダ家の襲撃事件とは、元来弱小貴族だったウッドカーツ家がその名を大陸中に知らしめた大事件である。簡単に事件の概要を言うなら――当時フローリエム大陸北部に強い勢力を保ち、それでいて大陸消失によって狂乱したルイサダ家一族をジルム・ウッドカーツが皆殺しにしてしまったというものだ。その事件をきっかけに、ウッドカーツ家は覇者への道を突き進み始めた。紅の戦勃発への第一歩に繋がる有名な話である。
 そして俺が新しい棒付き飴の包みをほどきながら「不思議だ」と呟くのと、シアを含め――ヴィエル先輩までもがぎょっとした顔でこちらを見るのは同時であった。
「ん?」
 数秒の沈黙がその場を支配する。固まった二人に俺が声をかけようとすると、シアはぱくぱくと口を開け閉めした。
 ……ああ、なんか嫌な予感。
 俺、またしてもトンデモ発言をしてしまったようだ。
「――はい?」
 ひっくり返った声が、シアの豆鉄砲くらった鳩みたいな顔から零れる。
「え――確かその襲撃って一度失敗したんだよな? 首謀者のジルム・ウッドカーツはそれで一度捕まって……家の嫁に取り入ったんだっけか? んでもって隙を見計らって一年後に一家全員殺したって」
「なに言ってるんですかぁ!」
 俺の言ったことにみるみる血の気を引かせたシアがばん、と机を叩いて立ち上がった。
「そんなこと書いたら先生が卒倒しますよぉ? 襲撃があったのは1092年ですぅ、『遠い国へ〜ウッドカーツ伝説の始まり』ってゴロ合わせで皆覚えてるくらい有名な話です、テストだと最初にでてくるようなものですよぉ!?」
「そもそもジルム・ウッドカーツは白昼堂々屋敷内に飛び込んでいって事件を引き起こしたってコトになってる」
 珍しくヴィエル先輩までもが口を挟んでくる。
 全て、俺が違和感を覚えた文献と同じことを。
「……あれ?」
 もしかして、俺の記憶の方が間違っているのか?
「アンタ、その話どっから持ってきたのサ」

 ……その話、どこから?

 つきん、と脳の奥が刺激される感覚。
 ぱらぱらと、軋んだ割れ目から欠片が降ってくるような。
「――い」
 いけない――考えては、いけない。
「……い、いえ、すいません。俺もよく覚えてなくて」
 だから、振り払うようにしてそう言った。数々の本を含め、シアやヴィエル先輩までそう言うのだから俺の認識の方が間違っていたのだろう。そうでなくてはならないのだろう。
「え、あれ? で、でも、もしユラスさんが言った話が本当だったら、それってすごい話じゃないですかぁ?」
 俺が終わらせようとした話題はしかし、身を乗り出したシアによって続くことになった。
「だって、明らかにあの事件には無理があったんじゃなかったかって論文でよく書いてあるじゃないですかぁ。私だって無理だと思いますよぉ、昼間っから玄関蹴破って一族全員亡き者にしちゃうなんて。第一、誰かが外出してたらどうするつもりだったんだろうって不思議に思ってたんですぅ」
「で――でも、俺の仮説だって証拠もないし」
 胸の内のくすぶりを覚えながら、俺は一歩退く。何故だろう、知識の奥底を探った瞬間、恐怖に近い何かが背筋を這い上がって、これ以上探ってはいけないと思ってしまう。
 それではいけないのに。
 いつまでも逃げ続けるわけにはいかないのに。
 ふいに光をかぶった横顔が頭を過ぎったのは、その時のことだった。
 ――あの、ひたむきに前を見つめていた横顔が。
「いいえっ、今からでも遅くないですぅ、様々な文献を照らし合わせてみましょう! もしかしたら裏付ける記述が見つかるかもしれません。歴史の探求というものは最初は仮定から始めるんですよぉ、きっとできますよ! これで第一の鼻を明かしてやりましょうっ、できます、できますよぉ!」
 すっかり一人で盛り上がってしまったシアが拳を握ってめらめらと燃え始める。ヴィエル先輩は呆れたのか、ポケットから銀製のライターを取り出して遊び始めた。
 俺は気づかれないように、ごくりと唾を呑んでそんな二人を交互に見る。
 そう、きっとここで逃げることもできる筈だった。
 今までのように、誤魔化して、目を逸らして。
 けれど、だけれど。永遠に逃げているわけにはいかない。
 俺の失ってしまった記憶は、きっと取り戻さなければいけない。それが、俺の望むものではないとしても。
 こうしてこの、何処かおかしい知識の断片をそっと選り分けていく作業は、きっと失われた記憶に繋がる。
 ――少しだけ、頑張れるだろうか。
 胸の中に、張り裂けるような予感を痛いほどに感じていた。
 しかし、それでも笑って歩いていけると思った。
 まだ、大丈夫。
 息を小さく吸い込む。
「……ん、そうだな」
 俺はこくりと頷いて、前を向いた。いつか見たあの瞳には劣るだろうけれども、それでも真っ直ぐ進んでいけると信じて。
「じゃ、その辺の資料集めてくるか。ここにある分じゃちょっと足りないよな」
「勿論っ、学園の図書館に行ってみましょう! それから国立図書館にも!」
 今すぐ駆け出していきそうなシアを前に、俺も席を立った。
 ヴィエル先輩も、席を立った。
 ……。
 俺は、数歩後ずさった。
「せ……」
 思わず戦慄が体中を駆け抜ける。
「先輩が、立った!?」
 ヴィエル先輩が、立ち上がったというのか。あの、眠れる獅子のごとく沈黙を守っていた先輩が。俺たちが資料集めに出かけにいく時でも、黙って待っていたあの先輩が。
 シアもこれには驚いた様子で、目を丸くする。そう、ヴィエル先輩が立ち上がったのだ。世界の一つや二つ、軽く手の内に収めてみせそうだ。
「世界の運命を変えてしまったかもしれない……!」
 改めて自分の行動に空恐ろしくなる俺である。
 そしてついにその実力を発揮しようとしているヴィエル先輩は、そんな俺を眺めて。
「んー」
 ぐしぐしと、後頭部をかく。
「先輩、一体何をするつもりですか……!」
 まずはこの学園の制圧だろうか。都市を下した先輩は、次々と近隣の町をも手中に収め、ついに問題は国家の存亡にまで――!
「タバコ」
 俺は、その場に崩れ落ちた。
「それから徹夜する場合は届出をだすコト。学生課がうるさいから」
 先輩はそう残して、そのまま黙って外に消えていった。
「ユラスさーん、大丈夫ですかぁ?」
「大丈夫じゃない……」
「まあ、そんなことじゃないかと思いましたぁ。さっ、それより行きましょう! こんなところでくすぶっている時間なんて爪の先ほどもありませんよぉ」
 全身の骨が砕けた俺は、シアにずるずる引きずられていった。
 外ではやはり、ヴィエル先輩がタバコをふかしていた。
 だが、その瞳がどこか鋭い光を放っていたように見えたのは――俺の気のせいだったのかもしれなかった。


 ***


 人通りの少ないそこ一帯には、ある程度の距離を置いて古びた研究棟が立ち並ぶ。
 その合間は石畳で整備されているが、一見したところ頻繁に手入れがされているようには見えない。所々に廃棄物が見られ、好き勝手に伸びた木々がその場に醸すのは陰鬱とも言っていい空気だ。
 聖なる学び舎、グラーシア学園。
 英雄の中の英雄によって創設され、世界の最高学府と呼ばれ、光に満ち溢れているはずの、そんな学び舎を――影は、確実に侵食していた。
 グラーシア学園の最も奥に位置するそこに、ぬらりと影が伸びる。誰にも気づかれることなく、密やかに。
 午後の陽が差し込む木々の合間、しかしそこ一帯はどことなく色彩を失っている。
 ゆらり。
 影が、うごめいた。
 するする、するする。流れるように動いていく。誰の目にも留まらぬように、その存在すら現実から遠ざけて、希薄に、限りなく希薄に。
 ざわり、と木々が風にそよぐ。普段と変わりのない穏やかな学び舎の姿。
 しかし、影は確かにそこにあった。
 色を失った、人のカタチをした影。
 足音もない。呼吸の音もない。風がなければ、何もかもが止まっているかのよう。
 その影に意味はあるだろうか?
 影がそこに存在する意味はあるのだろうか?
 影はふとそんなことを考えた。
 今にもこの姿は砂塵となって消え入りそうだというのに。
 ただ、影にはそこに存在する理由がある。意味はなくとも、理由はある。それで影は十分だった。
 だから影は歩いてゆく。先に待ち受けるものが例え地獄の業火だったとしても。その存在を許された時間に、己の全てを賭けて。
 色彩をぱっきりとそぎ落とした影は灰色。限りなくモノクロームに近い色はむしろ自然と相反する。
 所詮どうなろうと自分は異端な存在か――影はなんとなしに、そう思った。しかし無駄な思考だ、と次に瞬きした時には考えていた。
 そう、異端だ。限りなく影の体はいびつだ。
 今にも崩れ落ちそうな不安定な体を繋ぎ止めているのは機械のように精密な精神。無駄なく己の体を知り尽くし、どこまでが限界でどこまでが可能かを瞬時に判断する。
 それだけで言えば、影は限りなく無機物に近かったのかもしれない。音もなく、空気を震わすことすらない。
 今の影に迷いはない。
 影はふと、進行を止めた。
 木陰に身を潜め、様子を伺う。見つめる先には一際古びた研究棟。
 そこには、一人の少女が虚空に向けて紫煙をくゆらせていた。少女の髪は周囲から浮いた桃色をしている。そう、自然と相反する色。彼の持っている色と同じ。
 ――先回りしてこちらにきたものの、目的の少年はまだ辿りついていない。当たり前だ、今ごろ大量の本を抱えて連れの少女と共によろよろと歩いているだろうから。だから、気配を消して待つことにした。
 風が吹き抜ける。それと共に、少女の持つ細い棒状のものからゆるゆると煙が誘われていく。
 影は特にその少女を問題視してはいなかった。風貌は奇抜だが、彼に危害を加える存在ではないというのが影の観察結果による結論だ。
 暫くすると、ざわざわと人の声が聞こえてきた。一瞬で聞き分けられる、彼の声。
 彼は、連れの少女と共に、外に立っていた少女に声をかけた。その声に異常は見られない。引き続きその場で待機し、様子を見ることにした。
 三人はいくつか言葉をかわして、中に入っていく。背の低い茶髪の少女が先頭、その次に彼、そして桃色の髪の少女。
 影は微かに緊張を覚えていた。先ほどの彼らの会話を聞く限り、行動を起こさねばならない事態が起きているようだ。
 影には目的がある。そこにいる理由があり、そこで行動する理由がある。それらは全て絶対的なものであり、影は機械のように事務的に思考を処理する。
 実際に行動を起こさねばならないのは幾日か先か。そう考えたとき、桃色の少女が最後に研究棟に入っていった。
 ふと、一瞬。

 ――その少女が、こちらを見た気が、した。




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