-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち

04.おとといきやがれです



「ふん、相変わらず小汚い部屋だな! いい加減学園の方もこんな資金の無駄にしかならない研究室取り壊せばいいんだ」
「わざわざ嫌味を言う為に来たんですか? 第一のお方は大層お暇なようですねぇ!」
「君たちほどではないよ。全く君も物好きだな。恥をかく為にグラーシアに来たとしか思えない!」
「それはこっちのセリフですぅ! あなたみたいに厚顔無恥に手足生やしてほっつき歩いている人にいわれちゃ流石の私もおしまいですぅ!」
 現れた男子生徒とシアは顔をあわせた瞬間、とても心温まるとはいえない応酬を交わした。男子生徒の容貌といえば、東北に位置する大陸の出身を表す赤い髪。シアと同じくらいにきっちりと制服を着こなしていて、分厚い眼鏡に卑屈な笑みを浮かべる細い瞳、酷薄な笑みを浮かべた口元が印象的だった。
「ヴィエル先輩、誰ですかあのすごい人」
「名前忘れた。確かアタシと同じ学年、第一考古学の現室長」
 ヴィエル先輩は相変わらず銀製のライターをいじくってばかりいて、シアと男子生徒のやりとりを見ようともしない。
 第一考古学――といえば、Bランクで俺たちよりもずっといい教室を使っている教科である。いや、それよりもあの男子生徒がヴィエル先輩と同い年ということは俺とシアにとっても先輩ということで。まがりなりとも年上の先輩に向けてものすごい口を叩いているシアにちょっぴり戦慄する俺である。
「でもシアって今年……というか昨日辺りからここに入ったんですよね? なんで先輩に向かってあの口調?」
「シアは中等院にいる頃からここに出入りしてたのサ。よく第一の方にケンカ売りにも行ってたからね」
「中等院から?」
 一体彼女は何を思ってこんな研究室に出入りしていたのだろうか。かなり謎である。そもそもケンカって一体どんなケンカを売りに行ったのだろう。
 すると終わりの見えない口喧嘩の中からぽろりと疑問詞が漏れてきた。男子生徒が俺の姿を発見したその瞬間である。
「む?」
 事態を遠目に眺めている俺に気付いた男子生徒は、眉間にしわをよせた。そしてじっくりと俺を観察してから。
「そこにいるのはもしかして――」
 表情を一変させ、ぎょっとした顔で俺を指差してくる。
「ユラス・アティルド!?」
「どーも」
 とりあえず無視するのもどうかと思って笑顔で応対すると、男子生徒は逆に青ざめてくれた。
「な……なぜ、君がここに」
「今年の期待の星ですぅ」
 シアが胸を張って宣言する。男子生徒はますます青くなる。まあ、いつの間にか学園で有名人になっている俺がこんな辺ぴな場所にいるのだ。無理もない。
「――な、」
 驚愕に口もきけない感じの顔であった。眼鏡が若干ずれたのは指摘してあげた方がいいだろうか。
 すると男子生徒は何度か咳き込んだ後、呼吸と眼鏡を整え、突然納得したように頷いた。
「そうか――そうだな! 卑劣なお前たちのこと、何かユラス・アティルドの弱みを握ってここに入るように脅したのだろう! ふん、そうまでして優秀な生徒を引き込むなど見下げた根性だな!」
「んなぁっ」
 見事な勘違いをしてくれた男子生徒に逆上したのか、シアの顔がぼっと真っ赤になる。
「ふざけるのも大概にして下さい! あなた脳みそ腐ってるんですかぁ!? ユラスさんは、この研究室を再び光溢れるものにするために来て下さったんですぅ、あなたたちのような恥を恥とも思わない研究室になんか最初っから行きたくなかったんですよ!!」
 気持ちいいくらいに容赦ない罵声だった。しかし先輩相手に脳みそ腐ってるはないだろう、シア。
「は、負け惜しみに侮辱かね!? 僕たちの研究室は君たちのように遊んでいるわけじゃない。いいか、そもそも僕たちは己の知的好奇心に乗っ取り研究に身を捧げ、この聖なる学び舎の名に恥じぬ成果を出す為に最大限の努力をしているんだッ、わかるか、このグラーシアの面汚しめ!」
 男子生徒は唾を飛ばす勢いでそうわめくと、びしっと俺を指差した。
「はい、俺?」
「そう君だッ! 一体どんな弱みを握られたのかわからないが、ここにいては君のその才能が腐る! さあ今からでも遅くない第一考古学に入るんだ、我が研究室が総力をあげて君を守ろう」
 わはは、と腕を組んで高笑いしてくれる。――まあ、この人もシアと似たようなものか。言ったら殺されそうだけれども。
「何勝手なことを言ってるんですかぁ! あなたたちになんか髪の毛一本として渡すわけにはいきません!」
 シアは俺を庇うようにして仁王立ちになり、徹底抗戦の光を鋭く瞳に宿して男子生徒を睨みつけた。
「ふん、そもそもユラス・アティルド、君はこんな研究室でやっていけるとでも思っているのか? 部屋は狭い、タバコ臭い、設備も揃ってない、おまけに学園のゴミ箱とか囁かれている研究室に君は一体何を見出すのかッ!?」
 どうやらシアに何を言っても無駄だとわかっているらしい。男子生徒は俺に直接説得しにかかってくる。
 ……今更あみだくじで決めましたなんて言えない俺であった。
「そこの女の策略に引っかかったことはよくわかっている。だかしかし! 君の将来に向けての重大な一歩となるこの学園生活をこんな場所で過ごすなど僕は許さない――許さない! 諦めないぞ、君を絶対に第一考古学部に引き込んでやる!」
 そこの女、と男子生徒が言った先にはヴィエル先輩。確かにこの先輩なら脅迫まがいのことをやりそうな感じではある。だがどうも男子生徒のヴィエル先輩への視線はそれ以上の感情を孕んでいるような気がするのだが――。
 それにしてもすごい剣幕である。
「先輩、なんでこの人こんなに俺にこだわってるんですか?」
「研究費目当て」
「なるほど」
 目もあわせようとせずに暇潰しを続ける先輩の簡潔な説明で俺は納得した。この学園のシステムでは、研究室への資金支払い額は集まった生徒の人数とランクで決まるのだ。つまりはAランクの生徒が多い研究室の方が多額の研究費を受け取ることができるわけである。
「そら、親切にも君たちに次回の考古学総会の参加要項を持ってきてやったんだ、せいぜい感謝するといい! はは、それとも今年もまたそっちは出場することができないのか? それは悪いことをしたかもな!」
 ようやくここに来た理由を口にした男子生徒はシアに紙束を突き出してみせた。シアはそれを乱暴にふんだくって、男子生徒を睨みつける。
「それはありがとうございますぅ! そちらこそ今年は会場で悔し涙を拭く為のハンカチを買っておいたらどうですか? ええ、私のハンカチなんて絶対に貸しませんからね、あなたの涙で濡れるかと思うとぞっとしますぅ!」
 ばちばちばち。
 今にもそんな音が聞こえてきそうなほど二人はガンを飛ばしあうと、男子生徒は捨て台詞をいくつかわめいて去っていった。
「ふんっ、おとといきやがれですぅ!」
 シアは思い切りドアを閉めると、不機嫌そうにつかつかと歩いてきてばん、と紙束を机に叩きつけた。
「埃が立つよ」
「先輩ぃ! ちょっとは加勢してくれたっていいじゃないですかぁ!」
「アタシが何か言ったところでヤツが逆上するだけサ」
 ヴィエル先輩はのらりくらりと言って気だるげに桃色の髪に手をつっこんだ。
「ところでその紙束は?」
 俺が訊くとシアは大きく頷いてぴしっと紙束の一番上の文字を指差す。
「あと二週間ほど先に開催される考古学界での学会のパンフレットですぅ。ばばーんと学園の大講堂使って世界中の偉い人たち集めて開催するんです」
 大講堂といえば始業式や入学式に使われるだだっ広い施設のことだ。世界中の偉い人たちとは――つまりは名のある学者たちということか。
「それで、俺たちも行くってこと?」
「行くなんてものじゃありませんっ、参加するんですよぉ、学園のいくつかの研究室が! 第一考古学と第二考古学ももちろん入ってますぅ!」
 つまりそれは。
 俺たちが。
 世界中の名のある学者たちの前で。
 論文を。
 発表する――ということか。
「……なっ、なんだってぇーーー!?」
「んなこと言ったって、ウチは何年も欠席してるよ」
「駄目ですぅ! 今年という今年こそ、我が第二考古学研究室も参加を表明しますぅ!! 第一の方々よりも立派な論文を叩きつけて度肝を抜いてやりますよ!」
 言うが早く、シアはペンを取り出して参加要項をろくに見もせず猛然と申込書を書き始めた。
「せ、先輩。いいんですか」
「んー、シアは一度言ったらきかないからね」
 火のついていないタバコをくわえてヴィエル先輩はちらっとシアを見る。
「シア、タバコ吸いたい」
「今私は集中していますぅ! どんなものかというとそれは風速30メートルの中で針に一発で糸を通し、手刀で大型客船を一刀両断するほど――」
 ヴィエル先輩は黙ってライターで火をつけた。シアが何も聞いちゃいなかったからである。
 嵐が去った部屋は嘘のように静かになった。外からいくらか入ってきた新鮮な空気も、次第に再び淀んでくる。
 そのまま先輩はぷわーっと煙を吐き出して、机の端で灰を払った。
「アンタ」
「はい?」
 そんな一連の動作の中、不意にヴィエル先輩が発した声に思わず俺は居住まいを正した。だらけていてやる気のない声なのに、低くてよく耳に響く。
「ホントにここ、入るの?」
 ヴィエル先輩の瞳は相変わらず虚空を眺めるままだ。暇潰しに訊いているのか本気で訊いているのかよくわからない。
 漂ってくる薄煙は少し煙たかった。吸ったことなどないので、どの銘柄のものなのかさっぱりだ。昼にしては薄暗い部屋の中、煙はわだかまるばかりで、ここには空気の流れがないのだなと思う。
「……はい」
 俺は思ったまま、言っていた。
「大人数は苦手なんで」
 ここなら実際にやってくる生徒は三名。授業があってなきものだとしても、気苦労に悩むことはなさそうだ。
 正直すぎる答えだったからだろうか、ヴィエル先輩の口元が笑みの形に歪められた。
「アンタの出身地と家族構成、ついでに今までの経歴、言える?」
 だから。
 ――そのときに何を言われたのか一瞬で判断することができなかった。
「……え?」
 ふっと思考が揺らぐ。
 化粧をのせたその向こうで、伏せられたような瞳がこちらを見ている。
 流れが止まった空気が凝固し、強張った体が動かない。
 ……だが、それも数秒のこと。
「そ」
 ヴィエル先輩は呟くと共にふいっと俺から視線を逸らして、再び意識を虚空に向けた。
「……」
 また、何事もなかったかのように俺を無視してぱちぱちとライターをいじりはじめる。
 部屋に戻るのは奇妙な沈黙。ペンを走らせる音と、ライターが鳴る音と。
「あの」
「できましたぁ!」
 俺がヴィエル先輩に声をかけようとしたのと、シアが申込書を高々と掲げるのは同時だった。
「それでは、学生課に提出してきますね! 行ってきますぅ!」
 言うが早く、シアは研究室を飛び出していってしまった。そのまま地の果てまで走っていきそうな勢いだった。
「どっからあんな体力でてくるんだ」
 俺だったら50メートル走ったところでくたばってそうである。
 それにしても――と、俺はもう一度ヴィエル先輩を見た。古びた研究室の背景に、奇抜な色の髪がくっきりと陰影を作っている。
 その横顔はあらゆる関係を拒んでいるようで、そんな先輩に気軽に話しかけているシアは相当な怖いもの知らずなのではないだろうか。
「学園長」
「は、はいっ?」
 どうもこの不良にしか見えない先輩は不意打ちが好きらしい。肩を飛び上がらせる俺に小さく笑みを見せて、ヴィエル先輩はもう一度タバコを口にくわえた。
「世話になってるんだって?」
「ふぇ、フェレイ先生のことですか」
 シアでさえ俺についての噂を聞いていたのだ。きっと先輩も知っているのだろう。――フェレイ・ヴァレナス学園長が友人から一時的に預かった子という俺の表向きの経歴を。
「先生には、確かにお世話になってますけど」
 疾しいところは――あるのかもしれないが、詮索されたところで俺にだって答えは見つけられない。だから正直に頷くと、ヴィエル先輩は微かに表情を曇らせた。
「……?」
 その意味を解せず、首を傾げる。どことなく嫌な予感を覚えた頭の奥が、ぴりっと震えた。
 脳裏でフェレイ先生の笑顔が映し出されて、消える。
 またそこで会話を切ってしまうのかと思ったが、ヴィエル先輩は珍しくも先を続けてくれた。
「――アンタ、学園長についてどれだけ知ってる?」


 ***


 聖なる学び舎の学園長室は中央棟――事務室や学生課、幼学院から高等院までの職員室などが入った学園中最も背の高い建物の一階にある。
 俺が始めて学園に来たときに入ったのも同じ中央棟だった。入り口から大きなガラス窓が並ぶ廊下を抜けて奥の道に入れば、一番奥に見えるのが学園長室だ。
 いつでも好きなときに来て下さい、と言ったフェレイ先生の部屋は入りやすいようにか扉が開け放たれている。先生らしい気配りだ。
 俺は『学園長室』と書かれたプレートをちらっと見上げた。随分古くからかかっているのか、年季が入ったプレートだ。
 そういえば、フェレイ先生に会うのは久しぶりである。春休みの時は、暇を見つけて書斎にいるか庭で紅茶を飲んでいるか、もしくは生徒の勉強に付き合っているかだった先生だが、学園生活が始まると見かける機会もほとんどない。
 今日ここに来たのはいくつかの理由がある。
 一つは、――例の学会について。
 あの後シアが帰ってきてからは、たった三人での作戦会議が行われた。しかし、そもそも論文を書くといっても、普通に考えて長年の研究が必要だ。きっと第一考古学の人々はそうやっているだろうし、発表する論文も仕上がっていることだろう。ウチみたいな授業すらもまともにやっていない研究室が今からでは、まずまともな論文を書けるとも思えない。
 そんな俺の正論は、
『なに言っているんですかぁ! そんなものは気合でなんとでもなります』
 ――このように精神論で一蹴された。誰か、この娘を止めてくれ。
 そんな俺の悲痛な心の叫びも無視して話し合いは続行された。それでなくとも勢いでシアが参加表明をだしてしまったのだ。このまま引き下がるなど、書類的にもできまい。
 というわけで結局、俺が主体になって論文を書くという結論に達したのだ。
 ヴィエル先輩はもとより会議に参加しているのかしていないのか分からない様子でタバコをふかしてはシアに怒鳴られていたし、シアもシアで実際に論文を書くとなると自信がないらしい。
 だから俺がまず論文を書いてみろということになったのだ。シアはぎゅっと拳を握りながら、いくらでも手伝いはすると言ってくれた。何が何でもあの第一考古学よりも良い論文をだしたいらしい。いや無理だろう、というツッコミは俺の心の内で密やかにしまっておいた。
 それに、そんなことをいわれたって、まず何から初めていいのか見当もつかない。
 今回の学会のテーマは今から約500年前、かのウッドカーツ家が世界征服を遂げた時代の『紅の戦』と呼ばれる大戦争についてだ。その辺りに対する分析と推論を文章にまとめろ、ということなのだろうけれども。
 俺は悩んだ結果、一度フェレイ先生に相談してみようと思い至ったのだった。
 先生だったら何かと助言してくれるだろうし、あれだけ博識ならば参考になる文献の一つや二つ教えてくれるかもしれない。
 そしてここに訪れたもう一つの理由は――少し、後ろめたいものだ。
 ヴィエル先輩の引っかかる態度が、今でも俺の中で尾をひくように残っている。
 ――アンタ、学園長についてどれだけ知ってる?
 頬杖をついたまま、先輩は表情を曇らせてこう続けた。
 ――そ。まあ……知っておいた方がいいかもね、色々と。
 ――んー、黙ってれば後々耳に入ってくるサ。
 その意味を問いただそうとしたが、そこでシアが戻ってきて結局話はうやむやになってしまったのだ。フェレイ先生について、先輩は一体何が言いたかったのだろうか。いつでも穏やかな笑みを絶やさず、時折ちょっと苦笑を交えて、困りましたね――とぼやいているあの先生に。
 だから、俺はもう一度フェレイ先生に会ってみようと思った。もちろん先生を疑う気持ちはないが、それでも気になるものは気になる。学園で何か噂がたっているのだとしたら、学園の中にいる先生を見てみようという気になったのだ。
 俺は背筋を伸ばして、一度呼びかけてから中に入ろうとした。
「先せ――」
「大変申し訳ないのですが」
 はっとして口をつぐみ、足を止める。
 学園長室から聞こえてきたのは紛れもなくフェレイ先生のものだった。どうやら先客がいて、その人と話をしているようだ。
 しかし俺は心臓が高鳴るのを抑えきれずに反射的に壁に背をつけていた。それだけ、今の声がいつものフェレイ先生とは掛け離れた硬質な音色をしていたからだ。
 じっとりと汗ばむような緊張を孕んだその声は、明らかに拒絶の意志をもっていた。先生がそんな声をだすなど一体何があったのだろうか。立ち聞きは悪いと思いながらも、そっと中を伺ってみる。
 そこには、一人の教師の後姿と、真剣そのものの面持ちで机の上に手を組むフェレイ先生。後姿でフェレイ先生と対峙する教師――あれはもしかしてうちのクラスの担任ではないだろうか。高等院の教師としてはずば抜けて若く、長めに切りそろえられた青い髪をもつその人は間違いない、俺たちのクラスの担任レイン・エイシャント先生だ。
 そしてフェレイ先生の表情は、まるで別人のように――硬い。
「……学園長」
 感情を抑えた声音でレイン先生が呼びかける。しかしフェレイ先生は首を横に振るだけだった。
「こればかりは私も譲れないのです、レイン先生。大変申し訳ないとは思いますが」
「どうしても、とおっしゃるのですか」
「――はい」
 フェレイ先生は重々しく頷くと、ふっと苦しげに瞳を伏せて目線を床にさまよわせた。
「このことは、きっと私の今までの経歴を調べれば分かってもらえると思うのです。私は、行くことはできません」
「……」
「私には生徒を守る義務があります。生徒たちが望む限り、私はこの立場で彼らを見守り続けましょう。そんな私が、あのような場所に行くべきではないと思うのです。もしも私に何かあれば――」
 ――どんっ!!
 フェレイ先生の声は、鈍い音でかき消された。レイン先生が突然執務机を拳で叩いたのだ。
「……許しません」
 顔を伏せたレイン先生は、震えた声でそう呟いた。
「何があろうと、そればかりは許せません、学園長――。あなたには行って頂きます」
 フェレイ先生が口を挟む隙も与えないような鋭く強い語気。後姿だから見えないが、その瞳は光にさらされた銀のような眼光を秘めていることだろう。
「レイン先生」
「駄目です!」
 レイン先生はとうとう内なる感情が爆発したのか、一気に声を荒げた。

「行って頂きますよ――職員健康診断に!!」

 ――俺は、その場でずっこけた。

 がたっ、と平和でない音がした。フェレイ先生が後ずさるようにして椅子を引いたのだ。その表情に浮かんでいるのは、明らかな恐怖だった。
「れ、レイン先生! 落ち着いて下さい、話せばわかります。ですから私は何度も健康体だと――」
「はいはいはい、健康体なのは分かりましたからさっさと病院に行って異常なしと言われてきて下さい! すっぽかそうだなんて、そうはいきませんよ!」
 あのフェレイ先生が、冷や汗を垂らして焦っている。かなり貴重な現場だ。
「わ……私は生まれてこのかた病気などにかかった覚えはありません。ですからそのような診断を受けなくとも大丈夫です。大体病院というものは自然の摂理に反しているものなんです。我々人間はあるがままに生きるのであって――」
「そんなにあなたは注射が嫌ですか!!」
 注射――その単語を聞いた瞬間に、ぞわっとフェレイ先生の髪の毛が逆立った気がした。椅子から転げ落ちなかったのは奇跡だったかもしれない。
「か、考えてもみて下さいレイン先生! 針ですよ? 金属で出来た針が、体内に皮膚を破って差し込まれるだなんてそんな」
「ヘリクツこねないで下さい!」
 レイン先生は痺れを切らしたようにカツカツと歩いて行って、フェレイ先生の首根っこを引っ掴んだ。
「お、落ち着いて下さいっ、暴力はこの場にふさわしくありません。私は病院に行くと逆に気分が悪くなるんです!」
「ええ、それならごゆっくり病院で治療してきてもらって下さいね! 学園長がいない間は私たちがしっかりと学園を守りますから! さ、早くしないと診療時間が終わってしまいますよ、病院の方々の迷惑になりますっ」
「ひーーーっ!?」
 ずるずるずる。
 フェレイ先生はろくに身動きがとれないまま、俺の目の前を素通りして引きずられていってしまった。あの慌てようでは、俺の存在など気付いてもいないだろう。
 片頬をぴくぴく引きつらせた俺だけがその場に取り残される。
「フェ、フェレイせんせー……」
 とりあえずその名を弱々しく呼んでみたが、何が変わるわけでもない。
 ――フェレイ先生、病院が苦手だったんだろうか?
 あの取り乱しっぷりは、よっぽど病院行きを嫌がっているように見えた。フェレイ先生は見かけによらず、時折子供っぽい性質が見え隠れすることがある。今回もその一つが垣間見えたということだろうか。
「はあ……」
 溜め息を一つもらす。職員健康診断とやらに行ったのなら、暫くは帰ってこないだろう。帰ってきたとしても、あの様子では灰になっているかもしれない。
 今日のところはフェレイ先生に会うのは諦めよう。
 仕方なくそう思って、俺は出口へと足を向けた。




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