-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち 01.お前の目は正常だ 紫色の夢を見る。 気がつくと、そこにいる自分を見つけていた。 自分の存在を認識したのは、いつのことだったろうか。 いつからそこにいたのかもよくわからない。 なにもわからない。 ただ、自分の存在だけが、そこにある。 声も音も、何もかもが果てなく遠い。 光だけがひたすらに降り注いでいる。 痛いほどの光が肌を伝って、全身を駆け巡る。 一際大きな光が瞬いた。 それが再び肌を突き抜ける。痛覚が、また悲鳴をあげる。 だがぼんやりと、その痛みを見つめていた。 それから逃げるという選択肢すら、持ち合わせてはいなくて。 長い長い間、そこにたゆたったまま。 穏やかにゆるやかに、決して留まることなく流れる時を、感じることすらなく。 ――そうしてまた、誰かに呼ばれて、目を覚ます。 -紫翼- 一章:聖なる学び舎の子供たち *** 「……だよ、……まえ」 初め、その声が何を言っているのかわからなくて顔をしかめた。まだ体の至る所がその機能を停止していて、五感の全てがぼんやりとしている。だが僅かに捉えた光の強さでそれが朝だということを知り、ああ、起きなくてはいけないとそう思って――。 「遅刻したいのかいっ!? 早く起きたまえよ!」 「むわっ!?」 やっとのことで目覚めた聴覚が、その大音量を俺の脳天に突き刺してくれた。 「あ、朝か!? ――ぶぐっ!!」 思わず条件反射で飛び起きて――、ここが二段ベッドであることを忘れていて、見事に高くない天井に頭を強打する。 ぐわんぐわんと眩暈を伴う衝撃はしかし、体中の神経を一気に起床させてくれた。 「いたたたた……い、今何時だ? ――ふむっ!?」 次の衝撃は神速で吹っ飛んできた俺の制服によるものだった。顔面に激突して、口を塞がれる。 「ほら、君の制服。早く着替えたまえ、あと五分で始業だよ」 「何ぃ!?」 そう叫んでみても、顔面に打ち付けられた制服はばさばさと無情に膝の上に落ちて行くだけだ。 そう。ここは聖なる学び舎グラーシア学園の男子寮の一室。そして現在、入学式の翌日早朝。時刻、遅刻寸前。 初っ端からなんて出だしなんだ。嘆きながら寝巻きを脱ぐ俺である。 制服を投げつけてきたのは同じ部屋割りとなったスアローグという奴だ。淡い金髪を長く伸ばしてひとくくりに結った、皮肉気な笑みが印象的な同級生だった。ちょっと変わった奴だが、悪い人間じゃないというのが俺の感想だ。奴は既に身支度を終えていて、慌てる俺をよそに朝食のコーヒーをすすっていた。 ちなみに部屋は三人一部屋で、もう一人の同居者はあのヤクザかぶれ、エディオ本人であった。だが制服の袖を通しながらエディオの姿を探しても部屋にはスアローグ以外の人影は見えない。 「エディオは何処行ったんだ?」 「彼は医学専攻だからね、早朝補習でとっくに出てったよ。あ、もう出なきゃいけない時間だ。ユラス、朝食は諦めたまえよ」 スアローグはにやりと笑うと鞄を手に俺をせかした。俺も上着を着てケープと鞄をふんだくるように抱え、玄関へ遠くない道のりを走る。時計を見ると、始業時間まであと三分。かなりヤバい。 「なんでこんなにギリギリの時間なんだっ!」 「僕は無駄が嫌いなのさ、早起きしたって一文も得にはならないからね。大体僕に起こされてなかったら君は遅刻だったじゃないか」 「うっ」 痛いところをつかれて思わず詰まる。どうも俺は寝起きがよろしくないようだ。記憶を失う前もそうだったのだろうか。 「さ、走るよ」 スアローグは慣れた様子で扉を思い切り開いた。そこにはとても清々しい春の朝の情景が広がっている――。 その、筈だった。 「え……な、なんだこれっておいちょっと待てスアローグ!!」 「早くしないと遅刻だよ」 「んなーー!?」 また、今日も波乱の一日が幕を開けるのであった。 *** 「初日から危ない時間に来るんだな」 教室に飛び込んだ瞬間、妙に感心したような顔で迎えてくれたのはセライムだ。始めて見る制服姿の新鮮さに感動する余裕もない俺には、ひきつった顔で手をあげることしかできなかった。 「い、いや、な、なに、あれ」 息も絶え絶えに言うと、けろりとした顔で後ろからスアローグが肩を叩いてくれた。 「そういえばユラスは見るの初めてだったね。学園名物三分ダッシュ」 あの寮の扉が開いた瞬間、俺の目に飛び込んできたのは、茶色い煙だった。 それが人の作り出す砂埃の嵐だと気付くのに、10秒を要した。 んでもって、それが全てグラーシア学園の生徒が生み出したものだと気付くのに、更に10秒を要した。 朝の遅刻寸前の時間、俺たちみたいにギリギリで学園になだれ込む生徒で、寮から正門までの道は濁流も同然だったのである。 「死ぬかと思った……」 なんせあの濁流の中では、ちょっと足を踏み外せば踏み潰されてお陀仏は免れない。しかも、この学園の中で高等院は一番奥、しかも教室にたどり着くまでには三階分の階段を登らなければならないのだ。 部屋からここまで、スアローグ曰く『学園名物三分ダッシュ』に巻き込まれて死ぬもの狂いで走り続けた体は三分で三日分の体力を消費したに近かった。 朝から早々にくたばりかけている俺の横で、スアローグが平気な顔でセライムに挨拶をしてくれる。見かけはひ弱そうなのに、中々あなどれない。 「大丈夫か、ユラス。顔色が悪いぞ」 「これに巻き込まれたくなかったら明日からは早めに起きたまえよ」 貧血をおこしかけている俺に、スアローグは親切にも十字をきってくれた。聞くところによると実家が教会だそうなのだが、全然ありがたくない。 時計をみると丁度予鈴が鳴る時刻だったので、ふらふらと席に向かう。同時に、周囲から奇異の視線を浴びているのが痛いほどに分かった。 編入生が少ないのってこういう理由もあるんじゃないか――、少々息苦しい空気に、そんなことをちらと考える俺である。 「おはよう、編入生。朝から元気そうね」 崩れるように腰を下ろした俺に、斜め後ろの席からキルナが人の悪い顔つきでにこやかに笑いかけてくる。 「この死に体が元気に見えるというのか……」 「大丈夫よ。人はそう簡単に死にはしないわ」 がくり、と鞄を抱きかかえるようにして伏すしかない。 キルナのくすくす笑う声を背後に聞きながら、俺は明日から必ず早く起きようと固く心に誓うのだった。 「ところでユラス」 会議が長引いているのか、中々担任は現れない。だからかキルナが声をかけてきた。 「ん?」 「あなた、専攻科目もう決めたの?」 「あ……」 グラーシア学園の高等院では専攻科目を生徒に選ばせている。その専攻科目ってのがやたら大量にあって、また成績如何によって履修できるものも異なるのだ。やはり人気のある医学や魔術を学ぶにはそれなりの成績をあげていないと無理ということらしい。 「今日、提出締め切りでしょ」 「んー」 早くそれも片付けなきゃいけないのだが、今はとても考える気になれなくて生返事を返す。 やることはまだまだ掃いて捨てるほどありそうだった。 *** ――でも、何にしよう? まだ新学期も始まったばかりであるため、授業もそこそこに俺たちは解放された。 しかし寮に戻った俺を待ち受けていたのは専攻教科リストにびっちりと刻まれた文字の群れだ。こうして一覧化すると、本当に多い。大規模なところから少数でやっているところまで、様々だ。一体どれを選んでいいのかと考えながら、棒付き飴を咥えたままペンを指で弄ぶ時間ばかりが過ぎていく。 第一、俺自身この学園に入学したのはどこぞの知らない人に推薦された結果なのであって、何が学びたいとかそういう欲求はあまりない。俺を推薦した謎の人が何を学ばせたかったかなんて、見当もつかないし。 「仕方ない」 俺は、ぐちゃぐちゃになってきた思考を飴と共にバリボリと砕いて、リストを裏返しにした。咥えていた棒を捨てると、用紙の裏面に縦線を何本も引っ張り、それぞれ線の下に数字を一つずつ書き込んでいく。線と線の間には適当に横線を書き足して、準備は完了だ。 「よし」 俺は一度目を閉じて、集中力を高める。 一切の迷いを払うようにして、頭の中を空っぽにすると――無心で目を開いた。 「ここだ!!」 「んなっ?」 ガツッ、とペンの先が線の一つを選び取った。背後にあるベッドの上でごろごろしていたスアローグがびくりと体を起こすが、今の俺に構っている暇はない。 そのまま線を下に辿って……。 「26番」 辿りついた先にあった番号を確かめて、もう一度リストを見た。 教科番号が26番のものは、と……。 「決定」 26番とふられていたものを一度ペンの先で叩いて、俺は意気揚々と自分の書類に希望教科を書き込んだ。 「な、何事だい?」 二段ベッドの上から身を乗り出してスアローグが訊いてくる。 「専攻教科決めてただけだ、気にするな」 「へえ、何にしたんだい? 第一魔術かい?」 俺はくるりと振り向いて、声高々に宣言した。 「第二考古学」 「へえ」 スアローグは納得したように頷いた。 暫く、スアローグを沈黙が支配した。 続いて。 「な、なんだってぇーーーーーー!!?」 爆音、炸裂。 「ちょっと待ちたまえユラス、待て、いや待つんだっ!!」 ベッドを転がり落ちるようにして詰め寄ってきてくれた。 「スアローグ、隣の部屋の連中に迷惑だぞ」 「ききき君、正気かいっ!? 変なものでも食べたんじゃないだろうねっ」 「俺はいつでも真面目100%勇気もりんりんだ」 「世の中勇気があればどうにかなるってもんじゃないのだよ!? 君のしようとしていることは勇気を通り越して無謀だ、この世には正面から立ち向かっていくだけじゃどうにもならないことなんていくらでもある! 分かるかい!?」 ばん、と机を叩いて力説される。鬼気迫る感じだ。 はて。俺、とんでもない教科を選んでしまったのだろうか? そんなこといっても、名前を見る限りは変哲もない教科なのだが。 首を捻る俺にスアローグはしばらくぜいぜいと肩で呼吸をしてから、コホンと咳をした。ちょっとは落ち着いたらしい。向かいの椅子に座ると、まじまじと俺の顔を凝視してくれる。 「ユラス」 「なんだ」 「何故君はそれを選んだんだい?」 「神のお告げだ」 「そのリスト、裏に何か書いてあるだろう?」 おろしたてのペンで書いたからか、リストの表面には裏面に書いたことがうっすらと滲んで見えていた。 「ああ」 笑顔で頷くと、スアローグは無言でリストを裏返した。 「……」 そのまま、凍っていた。 「ユラス」 「なんだ」 「何故君はそれを選んだんだい?」 「だから神のお告げだって」 「これ」 スアローグは、その皮肉げな笑みを極限までひきつらせた表情で、言った。 「俗に言う、あみだくじって奴に見えるのは僕の目の錯覚かい……?」 「いや、安心しろ。お前の目は正常だ」 「……」 ものすごく疲れた表情が、スアローグの顔一杯に広がった。 例えていうなら、諦めの境地を飛び越えてそのまま無我の世界に行ってしまった感じだろうか。 暫くそんな彼岸をふらふらと彷徨ったスアローグは、やがてぽつりと漏らした。 「……君は、学園の生徒評価法を知っているね?」 「ああ」 グラーシア学園では、成績でAからDまでの4段階にわけて生徒ごとにランクをつけている。そして専攻教科にもAからDまでのランクがついていて、規定のランクを持った生徒以外は入れないシステムになっているのだ。例えばAランクを持っていればどの専攻教科も受けることができるが、CやDのランクしか持っていないと入れる教科がかなり制限されてくる。 「それなりに頑張っていれば、Bランクはとれる」 あたかも真理を口にするかのように、だけれど表情だけはとてもやる気なさげにスアローグは続けた。 「実際、五割の生徒はBランクだよ。残りの三割がCランク」 「ああ」 「一割のエリート集団がAランク。そして――」 スアローグは、一瞬だけ間をおく。 「Dランク。落ち組寸前、ギリギリの連中が一割」 「おう」 「君のランクは?」 「Aって書いてあった」 「その第二考古学のランクは?」 「D」 スアローグは、頭を抱えてくれた。 「別にいいんじゃないか? 考古学って歴史とか勉強するんだろ?」 もちろん、俺だって何も考えずに教科を決めたわけではない。 特に、今の状態からして闘争心が丸出しになるような教科は避けた方がいいと思っている。それに関して選んだ第二考古学は人数も少ないしやりやすそうだ。 「そこまでいうなら、明日にでも行ってみたまえよ……」 ぐったりとしながらスアローグは、はらはらと手を振った。 「なんだ、問題のある教科なのか?」 「行けばわかるよ。ま、帰ってこなかったら骨でも拾いに行ってあげるから。精霊の加護を」 やる気なさげに十字をきってくれる。 「そう言われると逆に行ってみたくなるな」 「君は好奇心は猫をも殺すって言葉を知った方がいいね」 疲れた顔でそう言ってくれるスアローグを横目に、時計を見上げる。今日はハーヴェイさんのところに行かなければいけないのだ。 「んじゃ、そろそろ鷹目堂行ってくるわ」 「強く生きてくれたまえよ、自業自得だろうけど」 最後まで不穏なセリフを残してくれるスアローグを背に、俺は上着を羽織って寮をでた。扉を開くと共に吹き込む風は、まだ春の匂いを残していた。 Back |