-紫翼-
起章:はじまりの春

10.唇の先に



 虫の音ですら静まった、闇夜の世界。何もかもが黒に落ち、この世が滅びた後のような静けさが支配する夜の時間。やわらかく光を降り注がせるランプの下で、男は本のページをめくった。
 すると右手が別の生き物になったかのように動いて、手探りで机の上の茶器を取る。それは淀みない動作で、口元まで運ばれた。
 いつもと同じ味。何百回ではすまされないかもしれない、そのくらい口にし続けた紅茶の味が、ふわりと広がる。
 目だけが本の文字を追ってすらすらと動いていく。目に留まった文章ではじっくりと考えこむように。目に留まらぬ文章ではまるで流れるように。
 無音の世界の住人となった男は、また右手で茶器を机の上に置きなおして、だが本から目を逸らすことはしなかった。
 その部屋は彼の世界そのものだ。文字の連なり。幾重に重なる情報の嵐。長き間に堆積したそれらは、その男を形成するものでもあった。そして、何人たりともその空間を犯すことは出来ないと思わせるくらいに確立されている。
 だがそのとき、微かに空気が淀んだ。男は不意に本から意識と視線を逸らして、窓にやる。昼は晴れていたが、夜になって雲がでてきたようだ。月の姿はない。
 しかし窓の外が伺えないわけでもない。この都市は、夜でも街灯の明かりが所々に光をもたらしているのだ。まるで人間の英知を振りかざしているかのように。
 男の瞳が、僅かに揺れた。相変わらず、音はない。
 そこで初めて、静寂が破られる。男は本に栞を挟んで閉じた。ぱたん、と閉じられるは彼自身の世界なのかもしれなかった。
 古い木製の椅子が軋み声をあげる。男は立ち上がってランプを手に持ち、部屋を後にした。廊下には、夜の気配しかない。ただの闇。ランプの灯火だけがかすかに昼間の空間をぼやけたものとして形作る。男は影のようにそこを通り、玄関へと向かった。
 かちゃりと小気味良い音をたてて鍵が外れる。男は迷うことなく外へと続く扉を開いた。
 ふわりと香る、春の風。昼も夜も関係なく、湿った風が穏やかに吹き抜ける。男は後ろ手で扉を閉めて、――そして前を見据えて、立った。
 合間を風だけが埋める。零れるは男の声。
「どちら様でしょうか」
 まるで独り言の呟きにも似た、微かな声。だが、男の先に立つ影に届くには事足りる。
 夜。それは舞台を限りなく幻想的なものに仕立て上げる。昼間に見ればありふれた庭と門の情景。だが、今――、門を背にして立つ影が従える光景は、まるでその影を夜を司る精霊のようにすら見せている。
 影は既に門を越えた場所にいる。だが、門が開く音はなかった。開いていたのなら、その音で男は何者かの襲来に気付いたはずだった。男はすいと目を細めて、もう一度口を開いた。
「申し訳ありませんが、どちら様でしょうか。このような夜更けに、御用ですか?」
「あなたは何を知っている」
 声が、男の言葉の切れ目から間髪いれずに聞こえた。響きもなく、震えもない。ただ、空気に染みるような無機質な声だった。それが影が放った声なのだと気付くのに僅かな時間がかかるくらいに。
 男は……困惑したのかもしれなかった。表情が震えるように揺らめく。
「仰っている意味がわからないのですが……」
 影はその形をすっぽりと灰色のローブに包んでいた。フードを目深に被っているため、顔色すらも隠れている。だというのに、その下にある無機質な瞳をありありと想像できるほど、口元に表情は見えなかった。
 まるでその場は廃墟のようだった。誰一人として対峙する二人を目にする者はいない。月のない、春の風だけが通り過ぎる空間の中――それが今の世界の全て。
 ローブをまとった影が、揺らめいた。言葉をぼかしたままの男に苛立ったのかもしれない。
 前できっちりと閉じられたローブの合間から、細い指が覗く。白というよりも、むしろ灰色。その影の周辺はまるで色彩を失っている。指から手。手から腕。ゆるゆるとその形が露になる。そうして、握りしめれば砕けてしまいそうな指が、影の顔にやられた。そのままフードを後ろにおろす。
 男は黙したまま、それを見ていた。都市の灯りが静かな情景を浮かび上がらせている。
 音はやはり、なかった。
 こんなにも鮮やかに影が変貌したというのに。
 ――否。鮮やかといえば違うのかもしれない。影は、女の姿をしていた。フードの中から現れた人形のような顔が静かに、それでいて重く男を捉えている。そんな女の顔を描き出すのは無粋な街灯の明かり。頬に反射して、銀に光る。短いところで切りそろえられた髪は、灰を降らせたような色をしていた。
 なのに、鮮やかだ。
 瞳ですら石と同じほどの鈍さを秘め、肌は大理石のように冷たく、その全てをモノクロームで表せられるというのに。
 女はその姿を表す為に用いた腕を再びローブの中に隠すと、冷たい瞳で男を見据えた。
 男の顔には、何も浮かんではいなかった。
 ただ、空虚。
 目の前の光景を、希望も絶望も何もかも交えずに、長い年月を重ねたその瞳で見返していた。
「彼を保護したのはあなた」
 女が、事実を述べた。
 男は穏やかに頷いて、微かに笑った。
「あなたが、彼の」
「どれほど危険だと分かっていて、それを行った」
 男の言葉の続きを言わせずに、女が被さる。春の風に通る声と、春の風に染みる声が、とてもゆるやかに交差した。
 すると男はますます微笑むだけだった。
「私には……よくわかりません、あなたの仰ることが」
 女の無機質な顔に、微かな苛立ちが混じる。彼女は男の表情が理解できなかった。何故そこで笑うのか。その笑みが何を意味するのか。意味がわからないものなど、女にとってはこの世で一番に忌避しているものだ。だから苛立つ。
「私は、ただ」
 男は目を閉じた。余計に意味がわからない。女と男の間には明らかな亀裂がある。利はなくただ害のみがある。なのに、何故そのようなものの前で瞳を閉じるのか。
 彼の表情は女の緊張とは裏腹に穏やかだった。春の生まれたての夜風が頬を撫でるのに、心地良さすら覚えているような――。
「私はただ、私の正しきに従う。ただそう思うだけなので――この目に見える僅かなモノをやっとのことで捉えて、判断したまでです。彼は助けを求めてきました。だから、助けました」
 そんな聞く者を落ち着ける口調で語られるものは、しかし女の神経を逆撫でする効果以外を持たなかった。
 女は男を睨んだ。ただ見つめるのとは違う。射止めるようにして、女は鮮やかな灰色の瞳を男に向けた。
「あなたは、誰」
 言葉が強くなる。数少ないそれらはまるでピアノの鍵盤を一つ一つ押しているようだ。いつの間にか女の声はそんな重みのある響きまで得ている。
 すると、男は初めて動いた。女がそれに反応して反射的に身構える。
 男が危害を加えても、女には勝つ自信があった。確信といってもいいかもしれない。女は、どの人間ですら自分に敵うはずがないと思っているのだ。
 だから危害を加えてくれた方が女にとっては楽だった。いくらでも力でだったらねじ伏せることができる。
 だが、男はそうはしなかった。
 彼の腕が動く。灯りを持っていない方の手だ。
 それがそっともたげられて、人差し指だけを立てた状態で、彼の口元にあてがわれて。
 女の目が、初めて驚きに揺れた。
 男は燃えたぎるような女の瞳を諌めるよう、穏やかな面持ちのまま。
「――申し訳ありません、少し静かにしてもらえますか?」
 そうして微かに、背後を気遣うように目をやって。
「子供たちが寝ています」
 彼の瞳に何が映っているのか、女にはわからなかった。ただ男の顔を見つめるしかない。
 だが、いつしか時が満ちて――女は男から目を逸らす。俯くと、切りそろえた髪がさらりと横顔を隠した。冷たく女を照らす街灯の明かりが、煌々と光を反射して眩しいくらいだ。
 女は暫く逡巡したようだった。そうして、ぽつりと漏らす。
「彼は、もう目覚めるべきではなかった」
 それは、男に向けられた言葉ではない。ふわふわと舞台を踊っている春の風に、女の声は向けられていた。
 男は表情を消し、黙ってそれを聴いていた。女の後悔にも懺悔にも似た、その独白を。
「しかしこうなってしまっては仕方ない」
 彼女は再び顔をあげた。そこにあるのは先ほどと同じ冷たい無機質な瞳。
 だがそこには挑むような光が秘められている。街灯の明かりを映しこんだ瞳が、獣のように一瞬輝いた。
「彼をしばらくの間預けておく」
 ふわりと別の風が吹き込む。きらきらと女の周りに光が舞い始めた。留まることのない世界の流れが操られ、女へと集束しているのだ。
 それは、この都市ではありえない光景だ。だが男はじっと女の言葉に耳を傾けていた。
「しかし彼はとてもいびつ」
 焼け付くような目線を残して女は男に背を向ける。灰色のローブが操られた空気の流れによってはためいた。
 その足は既に地面についていない。目に見えない力が、細い女の影を重力から解き放ったのだ。
 女は消え行く最後、振り向いた。
 それは独り言だった。
 それでいて、男に対しての忠告でもあった。
 色のない唇の先には、絶望を乗せて。


「きっといつか、破滅する」


 ***


 強い風の中にある春はいよいよその色を深め、大気が新たな始まりを風に乗せて駆け抜けていく。
 白く荘厳な佇まいで大地を睥睨するは、世界の最高学府と謳われるグラーシア学園。その始業式の日、俺は正門にあるウェリエルの銅像の前に立っていた。
 着ているのは白と濃紅を基調としたグラーシア学園高等院の制服。ケープの止め金になっているのは学年証。
 そして、俺の脇を大河を流れる水のように歩いていくのは、全世界から集ったこの学園の生徒たち。
 生徒総数4000人。その生徒たちが、長い休業期間を終えて友人たちとの再会にはしゃぎながら、白い建物へと吸い込まれていく。
 よくこれで酸素が足りていると思えるくらいの人の流れの中、俺は目の前の銅像を見上げた。
 大きな像がそこにあった。凛々しい面持ちで、剣を携えることなく、ただこの学園を作ることだけにその半生を捧げた男の像が、そこにあった。朝の陽の光をたっぷりと受けて、神々しいという言葉が似合うほどに輝いている。そしてそれは、この都市も同じこと。
 銅像の足元には、花壇に彩られた石碑があった。
 ――我が学び舎グラーシアの名誉をここに称える/ウェリエル・ソルスィード
 そう彫り込まれていて、その下には学園史にも載っていた偉人の名前が連なっている。この学園の卒業生で多大なる業績をあげた人々の名を、こうして刻み、後の世の子供たちに残しているのだろう。
 俺はもう一度、英雄の銅像を見上げた。
 背景にした空が遠く、太陽の光があまりに眩しい。辺りの喧騒に意識を戻せば、楽しげな生徒たちの声が溢れるほどに飛び込んでくる。
 これからその中に俺が入ろうとするのだ。とてもとても異質なものであるであろう、そんな俺が。
 知らず知らずの内に、握った拳に力が入る。
「ま、ちょっとばかし頑張ってくるかな」
 慣れない服を着て、慣れない鞄を持って、俺は過去の英雄に宣言するように口の中で言っていた。
 今の俺にはこれしかないのだから。
 何も知らない俺が、どこまで行けるのかはわからないけれども。
 視界を高いところから目の前に戻す。
 流れを見極めるように、視線が動く。
 足が一歩、前にでて――。
 そうして俺は、濁流の中に飛び込むようにして、人の流れに混じるために一歩を踏み出した。
 ミラース歴1588年。鳥たちが春を告げに大陸を渡ってくる、そんな季節のこと。

 その時の俺は、まさか後にあの石碑に自分の名前が刻まれることになるのだとは、もちろん知るわけもなかった。


 <起章:はじまりの春 了>




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