-紫翼-
起章:はじまりの春

07.今のが、案内?



 本日も空は快晴。この季節の陽は夏と違ってやわらかな光を大地に降り注がせる。求婚の合図なのかもしれない、小鳥の囀りが優しく耳に届く。俺はシーツをひきあげて、そこに体を押し込めた。
 あたたかい寝床。穏やかな日差し。
 なんて幸せなんだ。
 俺ってば日ごろの行いがいいから、神様がご褒美をくれたんだろうな。
「あれ、ユラス君まだ寝てるー?」
「いーよ、寝かしておいてあげな。昨日あれだけもみくちゃにされて疲れてるだろうから」
「もう10時なのにな」
 どこかでそんな会話が通り過ぎるが、知ったことか。
 ……知った……、

「なんだとーーーーーーーーーーー!!?」

 俺は文字通り飛び起きた。
 丁度廊下を歩いていた生徒がびくりとこちらに振り向く。
「ななな、何時!? 今何時だっ!?」
「え、ええ、えっと、もうすぐ10時」
「うそーん!?」
 怯えつつも答えてくれる男子生徒――ああ、確かこいつは昨日の夜セライムが紹介してくれた後輩の一人だ――に、俺は叫んだ。
 大変だ、今日は10時にフェレイ先生と約束があるんだ。
 だが集合場所はこの家の書斎だから、今すぐに着替えて走れば間に合う!
「うぉぉおおお!!」
 部屋に飛び込んで猛然と扉を閉めると、死ぬもの狂いで身支度を整えた。
 やはりこの時間帯になると、部屋には俺しかいない。昨晩の時点で10人近くがザコ寝していたはずなのに。皆早起きだ。俺が遅いだけかもしれないが。
 上着をひったくるように掴むと、電光石火の勢いで廊下を駆け抜けた。
 だが、書斎につく頃にはヨロヨロになってしまう。俺、どうやらあまり体力がないらしい。寝起きだから低血圧だし。
 満身創痍でドアノブを捻り、体を中に滑り込ませる。
「おやユラス君。おはようございます」
 中に入ると本に目を落としていたフェレイ先生が、顔をあげて挨拶をしてくれる。
「お、おはようございます」
 ちらっと机の上の時計に目をやると、どうにか針は約束時刻の直前の位置にあった。なんとか間に合ったようだ。全く、朝から心臓に悪い。

 事の始まりは昨日の夜。
 俺はまだこの都市の地理がさっぱり分からない。そんな俺へ、フェレイ先生がある提案をしてくれたのだ。
『ユラス君と同い年の男の子が一人いると言ったでしょう? どうでしょうか、彼に都市の案内してもらうというのは』
 昨日の夕食の場では、俺は同い年の男子には会わなかった。どうやら学園に残って研究を続けていたらしく、帰りが遅かったのだそうだ。
『医学専攻の子ですからね、何かと多忙みたいなんです』
 そんな多忙な子を俺の案内役に抜擢していいのですか、と訊いてみたら。
『明日は特に予定もないと言っていましたし、とても優しい良い子ですから、きっと承諾してくれますよ』

 というわけで。
 俺は、同い年の男子を紹介してもらうため、書斎に集合することになったのだ。
「彼もすぐ来るでしょうから、どうぞお茶でも飲んで待っていて下さい」
 そう先生は紅茶を勧めてくれた。朝食を食べていないから、それだけでもありがたい。
 しばらく紅茶をすすっていると、足音と共にノックの音がした。
「失礼します」
 低めだが、よく通る声だった。俺は、次に開くであろう扉に視線を投げる。
 その声の主がきっと俺と同い年の男子、というやつ、なの、だろ、う……?
 がちゃん、と扉が開いた瞬間、俺は手にしたカップを取り落とさないようにするのに全力を注がなければならなかった。
「おはようございます、エディオ君」
 フェレイ先生がにっこり笑いかけると、扉の向こうにいたそいつは小さく会釈して返す。
 そして、その視線がこっちに投げかけられた。
 引き締まった口がかすかにもたげられる。
「――だれだテメエ」
 先生に『優しい良い子』と評されたそいつの俺に向けての第一声は、それだった。
 目の前にいる――そいつ。
 いかにも愛想の悪い不機嫌そうな顔。顔立ちが整っているだけに、目が細められただけで妙な迫力がある。着崩した服をまとった姿はちょっと間違えばヤクザそのものだ。
 想定外の威圧感に、思わず一歩後ずさってしまう俺である。
「ど、どうも」
 あのポケットにナイフでも仕込んでるんじゃなかろうか。というか先生、こいつに都市案内させるってのは明らかに人選ミスだと思うんですが。
 もちろん口にだした瞬間、本気で首をねじり切られそうだったので、愛想笑いをしながら先生に視線を投げる。だが先生は相変わらずにこにこしたまま、俺の紹介を始めてくれていた。
「あなたと同い年で、今年から編入することになりました、ユラス・アティルド君。仲良くして下さいね」
「……」
 ああどっかで聞いた、といわんばかりに再び俺のてっぺんからつま先までをもう一度眺めてくる。
「彼、この学園に来るのがはじめてということで。都市を案内してあげてくれますか?」
 面倒くせえ、とその目が何よりも雄弁に語った気がした。
 だがそいつは流石にフェレイ先生の前で露骨に渋る様子を見せたりはしなかった。はい、と短く答え、俺に正面から向き直る。
 ――俺、刺されるかも。
 素直に、そう思えた。
 こうしてみると、そいつの茶髪と緑色の瞳はありふれた色なのに、はっとするくらいに顔が整っている。だからこそ怖さ倍増なんだなあ、と遠いところで考える。
「エディオ・ギルカウ」
 声が聞こえて少し経ってから、やっとそいつ――エディオが自己紹介をしたのだと、理解した。
 だが自己紹介はそれでおしまいだった。エディオは一度先生の方に会釈をすると、踵を返して部屋を辞してしまう。
「う、うお、ちょっと」
「どうぞいってらっしゃい。夕飯までには戻ってきて下さいね」
 のん気なフェレイ先生の声を背中に受けながら、俺は慌ててその後を追うことになった。


 ***


「のわっ」
 部屋からでた瞬間、目の前にエディオがいたから俺は急ブレーキをかけて停止しなければならなかった。
 どうやらエディオ、書斎の扉の前で立ち止まっていたらしい。
 そうして、くるりと振り向いた。
「……」
 濃い緑の瞳に光を湛えて、胡散臭そうにこちらを見据える。
「な、なんでございましょう」
 たすけてせんせー、とか内心で叫びながら笑顔で応対してみる俺である。
 するとエディオは淡々と、しかし途切れることなく言葉を紡いだ。
「北東は現在地、西は研究所区域、北は学園、南は図書館、南東は近付くな」
「……は?」
 何を言っているのか分からない。
「以上」
 切り上げられてしまった。
 それで自分の役目は終わったというように、エディオはポケットに手を突っ込んで背を向ける。
「え、あの、今なんて?」
「あとは自分でどうにかしろ」
 ギロリ、と振り返り様にこちらを睨んで歩いていってしまった。
 もちろん、追う度胸など俺には残されていなかった。後姿が消えてしまうのもあっという間。
「今のが、案内?」
 情けないことを言うと分かっていても、エディオが消えた先に向けて思わず口にだしてしまう。
 しかし多分、これがあいつなりの最大の譲歩だったのだろう。本当だったら顔を合わすのも面倒という感じだった。
 それにしても。
「分からない、サッパリ」
 きっと、奴が言ったのはこの都市の大体の区域ごとの説明なのだろうけれど。さらっと口にされただけだから、うろ覚えだし。南とか北とかいったって、この都市結構広いし。
「……」
 俺は、今出てきた書斎の扉を振り向いて見やった。きっと中ではフェレイ先生が書物を読んだり自分の研究をしたりしているのだろう。これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。仕方がないので、とりあえずふらふらと廊下を歩いていくことにした。なんとも心細い。
 これからどうしようか。こうなったら一人で都市を詮索するしか道はないだろうか。怪しげなお兄さんたちに捕まったりしないだろうか。
「ああ、世間の風が冷たい……」
 窓の外に向けて感傷的に呟いてみる。
「そうね、往々にして世間の風は冷たいのよ」
「そうだな……」
 しばらく切ないモードに浸ってから、俺は誰かが隣にいることに気付いた。
「あれ?」
「あなたいい度胸してるわね、女の子が傍にいるのにぼーっとしてるなんて」
 ぱっと振り向くと、そこには呆れたように髪の中に手を突っ込んでいる女子が立っていた。
 しかも見たことのある顔だ。確か、
「えーと、キルナ?」
「あら。覚えててくれて嬉しいわ」
 淡いエメラルドグリーンの髪を鮮やかに結い上げた少女は、悪戯っぽく笑ってみせた。
 そいつの名前はキルナ・ディーンミル。昨日の夕飯でセライムが親友だと言って紹介してくれた子だった。つまり、ここの住人で俺と同い年の一人ということになる。
「昨日はあんなに人気者だったのに、今日は一人でどうしたの?」
 セライムよりずっと垢抜けた感じのある笑みを浮かべてキルナは尋ねてくる。隠す必要もないから、俺は朝からの出来事を簡単に説明してやった。
 一通り話を聞くと、キルナは一瞬唖然とした顔をして、――声をだして笑った。
「あははっ、フェレイ先生ってばあろうことか奴をだしたのね。そりゃ黄昏るあなたの気持ちも分からなくないわ」
 昨晩でも思ったが、随分と活発で気のいい奴だった。同情するように、俺の肩を叩いてくれる。
「でも先生、エディオのことを『優しい良い子』って言ったぞ」
「あの先生にかかれば例え肌が緑色をした未確認生命体でも自分の生徒なら『優しい良い子』よ」
 フェレイ先生の笑顔を思い出すと、それが冗談に聞こえてこないから恐ろしい。
「ま、エディオも無愛想なだけで、案外いい人だけどね。でも流石に案内させるのはちょっとねー」
 けらけらとひとしきり楽しそうに笑い終えると、キルナは腕を組んでこちらに挑戦的な視線を向けてきた。
「う、うお、なんだ? 決闘状なら受けとれないぞ」
「あのね」
 キルナはがくりと肩を落としたが、再び気を取り直したようにこちらを見据える。
「困ってるなら、あたしが案内してあげましょっか?」
「……」
 俺は多分かなり間の抜けた顔をしたんだろう。キルナの不敵な笑みにますます面白げな光が宿る。
「え、でも」
「あたし、今日はおやつ時まで暇だし。セライムもチノも用事で出てったから、正直つまんなかったのよね」
 どうかしら、と言わんばかりに小首を傾げてみせた。
 いや、そんなこといわれたって。
「いいの?」
「……」
 もう一度聞き返す俺に、キルナは一瞬だけ目を細めて俺を見据えた。そうして無言で何か思案するように目を閉じてから、――お腹の奥底からでたような深い溜め息をついてみせる。
 肩をがっくりと落とす彼女に一体どうしたのかと問う前に、キルナは不意に顔をあげた。何かと思えば跳ねるようにして俺の鼻先に指を突きつけてくる。
「――な?」
「ユラス・アティルド、1572年三月三日生まれ、男、現在16歳」
 この学園の生徒たちは、突然わけの分かるような分からないようなことを言うのが趣味なんだろうか。
 指をつきつけられたままの俺はそれを聞いているしかない。
「身長168センチ、髪の色、目の色、共に紫。――突然現れた、謎の天才編入生」
「……」
 ここまで言われたということは、つまり。
「お前、もしかして俺のストーカーだったり? ――でっ!?」
 鼻先にあてがわれた指をそのまま弾かれて、思わずのけぞる。
「誰でも知ってるわ、そのくらい。そしてその他は何も知らない」
 意味深なセリフを吐いて、キルナは不敵に笑ってみせた。
「それが何を意味すると思うかしら?」
 鼻先を両手で押さえながら、俺は考えた。
「神秘のヒーロー、ここに見参?」
「25点」
「ぐは!?」
「0点じゃなかったのよ、喜びなさい? ちょっとは答えにかすってるんだから」
 キルナは大げさに肩をすくめてみせる。そうして、すいっと目を細めて答えを言い放った。
「謎が多すぎるの、あなたには。ついでに目立ちすぎる」
 きょとんとした俺の表情を見て、鼻から息を抜く。
「家族不明、故郷も不明、得体の知れない人間よね。ついでに髪は見事なまでの紫色。かなり目立つわよ、その頭」
「これ?」
 俺は自分の髪を引っ張ってみた。確かに今まで俺が見てきた中に紫色の髪をした奴はいなかった。珍しいのだろうか。
「あなたはこの学園についてあまり知らないようだから、教えてあげる。ここの生徒の大半はね、馬鹿みたいにプライドが高いのよ。なんせ自分は天才に分類されたと思ってるからね。そんな中にあなたみたいなトンチキが入ってごらんなさい、あからさまに不審人物扱いされるわよ」
 そこまで恐ろしげなことを喋ると、一転して明るい笑顔に戻してみせる。
「だから、そういう時の為に仲間を増やしておいた方がいいんじゃないのかしら?」
 俺はそこまできて、やっとこいつの意図を汲むことができた。
 つまり、だ。
 俺みたいな出生不明で謎だらけ、見るからに怪しげな人物が神聖なる学園内に入ってきたら潔癖かつ高貴な連中にイジメを受けかねないから、今の内に頼れる仲間を作っておけ――、ということ。
 そして、目の前のキルナがその仲間の一員に名乗り出てくれた、というわけだ。だから俺の為にも誘いを受けておいた方がいい、とキルナは暗に言っているのだろう。
「ああ、そういうことか」
 ぽん、と手を叩いて俺は納得した。
 キルナが言うことも確かに一理ある。ここはこいつの厚意に甘えるのが一番だろう。
「わかった、じゃあ案内を頼む」
「物分りが良くてよろしい」
 キルナは教師のような仕草で人差し指を立てると、俺を促すようにして歩き出した。
 その背中は先ほどのエディオと違って、ちゃんとこちらが着いてくることを意識したものだった。
「なあ、キルナ」
「何?」
 少し気になっていたことを、俺は口にする。
「お前は俺の……前いた所とか、そういうのが気になったりしないのか?」
 この家の住人は揃って同じだった。過去のことを根掘り葉掘り聞かれるのかと思えば、全くそのような気配はない。
 振り向いたキルナの瞳が、一瞬だけ揺れた。だがそれがどんな表情を表すものかは、よくわからない。
「――この家に来る人は、ほとんどワケありだからね」
 ちらっと視線を地にさまよわせるようにして、呟く。
 だが瞬きをしたその後には、先ほどと同じ笑顔がそこにあって。
「さ、行きましょ」
 軽い足取りで階段を下りていくキルナを、俺もまた追った。


 ***


 大通りは相変わらず人が多く、研究者や身なりの整った紳士など、様々な人間が行き交っていた。
 都市の中央部に近づけば、露店の類もちらほら見ることが出来る。綺麗に並べられた石畳と白い家が立ち並ぶ、いかにも都会の商店街という感じだ。
「何度も通ったでしょ、ここが都市の大通りよ。北は学園、南は図書館まで繋がってるの」
「結構人が多いんだな」
「ふふ、今はほとんどの学園生が帰省してるから少ない方よ」
 さっさか歩いていくキルナの後ろを、おたおたと付いていく。
「この大通りで大体全てがまかなえるわ。大通りから抜けて横道に入れば、それはそれで隠れた良い店があるんだけど。まあ自分で見つけることね」
「そっちの道を行くとどうなるんだ?」
「西地区に通じてるわ。あっちは研究所とか公園とかがあるわね。研究所が占めてる面積がかなり広いけど」
 そういえばそんなことをエディオも言っていたっけ。
 ――北東は現在地、西は研究所区域、北は学園、南は図書館、南東は近付くな。
「……キルナ」
「うん?」
「南東の方って何があるんだ?」
 俺がそう言うと、キルナは目を丸くした。
 一瞬、失言でもしたのかと思って慌ててエディオがそう言ったのだと弁明する。するとキルナは苦笑して手を振り、別に口をはばかるようなことじゃないのよ、と言った。
「あたしもあそこには近付かない方がいいと思ってるし、まっとうな生き方してたら少なくとも学生の内は行く機会すらないわよ」
「何だ、そこ」
 なんとなくその意味を掴みかけたが、思わず聞き返してしまう。
「俗に言う歓楽街よ」
 キルナはさらりと言って、髪に手を突っ込んだ。
「こんな綺麗綺麗してる都市だけどね、結局人間の住む場所だから。表向きは酒場が多い商業地区になってるんだけど、非合法の店とか沢山あるらしいって聞いてるわ」
 つまり、この都市の裏側ってことか。そりゃ確かにお近付きにもなりたくないし、お世話になる機会もないだろう。
 暫く歩くと、キルナは前方を指差してこんなことを言った。
「この先が中央広場よ。来た時に通ったでしょ?」
 通ったっけ、そんな所。
 首を捻る俺に、キルナは怪訝そうな顔をした。
「だってまさかあなた、ここに歩いて来たわけじゃないんでしょ。駅があるところよ」
 実際俺はここに歩いて来たわけなんだが、まさかそんな怪しげなことを口走るわけにも行かずに適当に相槌を打っておく。先生の家で調べたことなんだが、このフローリエム大陸南部は百年くらい前まで大荒野が広がっていた地域だったらしく、この学園から隣町まで歩いていこうとすると一週間はかかるらしいのだ。
 キルナの口ぶりからして多分、この都市の中央に広場があって、そこに機関車の駅があるんだろう。
 春の風に乗るようにして午前の大通りを並んで歩く。周囲の店に飾られた花も芽吹き、到来した季節を喜ぶようにその身を陽光にさらしている。
 道の向こうには開けた場所が見えはじめていた。あそこが中央広場というところなのだろう。
 絶好の散歩日和といえる天気の中、きっと吸い込まれるくらいの色をしているであろう空をふと仰ごうとして。
「わっわっ、どいてどいてーー!!」
 ――視界が真っ暗になった。ああこれは嫌な予感。頭の隅でそう考えたそのとき、俺は頭上から降ってきたものに無残に押し潰されていた。




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