-紫翼-
起章:はじまりの春

06.至高の黄金



 紫色の夢をみる。
 暗い、暗い、それは黒のはずだった。
 だけれど、深い黒は実際は紫色。
 光を浴びれば幻惑的に輝き、闇に紛れたなら全てを飲み込む。そんな色だ。
 流れている。とどまることなく、何かが流れている。
 こぽこぽこぽ、と音は遠い。
 だから、世界は無音に近い。

 誰かがいるのだろうか。だが、興味は、ない。
 そこには風すらなかった。
 だけれど、流れるものは確かにあった。
 そういえば、目を閉じたままだ。
 ずっとずっと、ずっと。
 目を、閉じたままでいる。
 だから、紫色に見えていたのは目蓋の裏。
 目を開けば、違うものが見えるのかもしれなかった。
 だけれど、目を開かなかった。
 開く必要もなかった。
 開いたところで、何が変わる気もおきなかったから。
 何が流れているのか、知る必要すらなかった。
 知ることすら、知らなかった。
 喜びもない。
 だが痛みもない。
 幸福もない。
 だが不幸もない。
 何もない。
 何もない。
 いつまでも続く、くるくると続く、機械のような流れの中で。
 ただじっと、目を閉じたまま、そこにあるだけ。
 穏やかに、穏やかに、その身だけをまかせて。
 宙ぶらりんにふわふわと浮いたまま。
 誰にも気付かれぬほど微かな音をたてて、世界は崩れていくのかもしれなかった。
 しかし、そんなことはどうでも良くて。
 紫色の夢を見ながら、じっとその場に存在している。

 永遠とも呼べる時を、その中で。

 誰かが呼ぶ声がした気がした。
 誰かが呼ぶ声が、どこかで。どこかで。
 ――どこかで。


 ***


「――ッ!?」
 かっと体が熱くなって、その拍子に目が見開かれた。
 胸が痛いな、と思ったら、心臓が飛び跳ねるように高鳴っている。仰向けになっているのに、その鼓動がよくわかる。
「な――、」
 自分がどうなっているのか気付くのに、数秒を要した。
 取り戻した自己はそれ以上ないくらいに乱れて、体の中で熱い余韻を残している。思いがけず呼吸が荒くなっていたことに気付いて、手を額にやった。まだ春だというのに、汗をぐっしょりとかいて、髪が額にはりついていた。
「つ……」
 全身に鈍い痛みを覚えてかすかにうめく。
 そうだ、確か夢をみた。
 どんな夢かは忘れてしまった。
 だけれど、良い夢ではなかったことは確かだ。
「……はあ」
 熱くなった息を吐き出して、指で目を覆う。
 汗だくになった体を、風だけが優しく冷やしていった。だが、凍えるほど冷たい頭の中が、その異常への警鐘を打ち鳴らす。
「なんだったんだ」
 自分に向けて、呟いてみる。
 無論、答えはない。
「なんだったん、だ……」
 芽吹いたばかりの草が、首筋をくすぐる。草の匂いがした。土の匂いかもしれない。よくわからない。
 指をずらして、自分の顔の形を確かめた。自分がここにいることを確かめるように。
 薄目を開いて、空を見上げた。
 暗かった。
 ……。
 ちょっと、待て。
 ええと。
 ……暗い?
「あれっ?」
 反射的に手をどけて、体を起こす。ちょっと軋んだが、それはどうでもいい。
 ――夜だった。
 そりゃもう笑えるくらいに、どーんと夜の景色が俺の目の前に広がっていた。
 寝る前に聞こえていた鳥の音は虫の音に変わっている。先生の家の窓からは暖かな灯りが零れていた。しかもほとんどの窓から。耳をすませると、笑い声や騒ぐ声が風に乗って微かに聞こえてくる。
 どうやら皆さんおそろいのようだった。
 んでもって、俺は完璧に出遅れたようだった。
「……おお、マジか」
 昼寝、万歳。
 夜まで寝てしまうとは思わなかったぞ。
 どこからかいい匂いが漂ってくる。もしかしたら夕飯時なのかもしれない。
 俺はここで寝たまま、誰にも気付かれなかったということか。
「あっはっはっ」
 ひとまず、笑ってみる。
 もちろん、何もおこらなかった。
「うおー」
 ぐしぐしと頭をかきまわして、立ち上がる。
 このタイミングでどうやってあの中に入っていけばいいか甚だ不安だったが、ここで夜風に冷えていても仕方がない。
 再び空を見上げると、星屑が一杯に広がっていた。どうやら今宵は満月らしい。数多の星達を従えるようにして、月が冷たく輝いている。
 少し寒くなってきて、腕を抱えるようにした。春とはいえ、夜になれば冷えてくる。もうなるようにしかならないだろうから、早く中に入ってしまおう。
 そうして高くにあげていた目線を戻す、その途中で――止まる。

 何かが切れたような音が、俺の頭の中でした。
「――」

 自然と全身の神経がそちらに向く。
 やっと治まっていた動悸が、逆に停止する。
 視界に切り取られた、ただ一つの画面に。
 まるで定められたかのように、呼吸が止まって。すっと汗ですら一瞬で乾いていった。
 それは、三階のベランダ。
 誰かが立っていた。
 俺と同じように空を見上げていた。
 暗くて、遠くて、影だけしか見えない。
 だけれど、何故だろう。
 じっと空を見上げているその姿に、思わずよろめきそうになって。
 畏怖の感情にも似た、痺れと寒気が背筋を這い上がる。何故、それを見た瞬間にそう思ったのかはわからない。しかしその姿は俺の思考を麻痺させるに十分すぎる威力を秘めていた。
 ひたむきなまでに必死で空を見上げているその様子に、俺の世界はぷつりと現実から切り離されて。
 穴が、俺の意志とは関係なくうずく。
 心が、俺の理性とは関係なくそれを響かせた。
 どこかで――。
 ゆるりとそれは、俺という形の縁を滑って。
 どこかで、俺は――。
 何もできないまま、俺はただそこにいるだけで。
 どこか、どこかで――。

 どこかで。

「――ぁッ」
 心の奥、一番奥が咆哮をあげた。足の裏から電流が突き上げる。あらゆる思考過程を無視し、全身に向けて命令を下す。
 気がついたとき、俺は全力で庭を駆け抜けていた。家の中に飛び込み、階段を駆け上る。人の気配があったが、誰かと鉢合わせになることはなかった。
 階段の途中、すぐに息がきれて、足が悲鳴をあげた。当たり前だ、目覚めてから俺は走ったことなどろくにない。
 それでも最後の階段を上りきると、一度手すりに体を預けてぜえぜえと肩で呼吸をする。どうにか顔をもたげると、突き当たりのベランダに続く扉が開け放たれているのを見つけた。
 ごくり、と喉が鳴る。
 頭の頂点に集まっていた熱い血が、体中に冷たく四散していく。
 走ることをやめて、そろそろと歩き出した。走っていってしまえば、あの光景を壊してしまうように思えたからだ。
 どうも平衡感覚が希薄だ。ゆらゆらと眩暈がしている。
 そうして、吸い寄せられるように舞台に近付く。
 息を殺して。
 一歩、また一歩。
 風が室内に吹き込んでいた。夜の、冷たく軽やかな風だ。優しい音が、誘うように軽く耳朶を叩く。
 そうして俺の目は、ベランダに立つ影を――捉えた。

 時は、確実に止まっていた。
 満月は最も魔力の高まる日だ。
 だからなのかもしれなかった。
 始めに見えたのは、月の鈍い光を被ってやわらかく輝く至高の黄金。風に揺らめいて微かにけぶる。
 よくよく見るとそれは腰の辺りまで緩やかに波打つ、豊かで長い髪の色だった。
 立っていたのは、一人の少女。
 少女は黙って空を見上げていた。
 何を祈るわけでもなく。何を望むわけでも、問いかけるわけでもなく。
 ただ、空と、そこに昇れぬ己を見つめていた。
 その足で地を踏みしめて、一人で立っていた。
 息を呑むことすら忘れて、俺はそれを呆然と見つめた。
 背筋を伸ばしたそれは、何かの誓いを立てているかのよう。
 だから、この背中には翼はいらないな、と――そんな余計なことをどこかで考えた。
 いつかも、同じようなことを考えた気がしていた。
 だが、そうやってずっと見つめていたからだろうか――。

 少女は、背後に立つ俺に気付いた。

「――誰だっ?」
 無防備な背中の上にあった髪が、物語に出てくる騎士のように揺れる。月と闇が、舞台を作り上げる。そうして、凛々しい二つの青い目が俺の顔を捉えた。
 その表情に険があるのは当たり前だろう。見知らぬ人が声もかけずに背後に立っていたのだから。
 鷹のように気高い顔立ちをしていた。俺を認識すると、不審そうに目を細める。俺はというと、蛇に睨まれた蛙のように声のひとつもだせなくて。
「誰だ、お前は」
 その声は、先ほどよりも低かった。知らぬ相手への警戒感がぴりぴりと肌を灼く。
 動かず、答えもしない俺に、動いたのは少女だった。否、動いたと思ったのは、既に事が終わってからのことだった。俺には、突然風が唸って目の前から少女が掻き消えたようにしか見えなかったのだ。
 ヒュッ、と鋭い音と共に、至近距離に気配を感じた。感じたと思ったら、ぐんっと体が持ち上げられて。背中に鈍い音と呼吸が止まるような衝撃を覚えるまで、たった一瞬のことだった。数秒後、目の前の少女に胸倉を持ち上げられて壁に叩きつけられたのだと、やっと状況を理解した。
「何者だ、お前――!」
 敵意のこもる声が凛と響く。視線を下ろすと、片手一本で軽々と俺を爪先立ちにさせている少女の激昂した青い瞳とぶつかる。
 呼吸が止まった頭の中で思った。
 ああ、この子。
 思いっきり、俺を不法侵入者と勘違いしているよ。
 とりあえずこの状態のままだと窒息死しそうなので、ぱくぱくと口を開くが胸倉を掴まれていてろくに声はでないし。更にぎゅむっ!といわんばかりに腕の力が強められる。もしかしたらこれ、俺が考えてるよりもかなりまずい状況なんじゃないだろうか。息ができなくて、非常に苦しい。
「動くな! 一体何処から入ってきた? 何が目的だ!!」
 マズ、ソノ前ニ、ソノ手ヲ、放シテ、クレマセンカ。
 段々薄れてきた意識の中で祈ってみる。一体何処からこんな力がでてくるんだ。抵抗しようにもまったく歯がたたない。
 白みはじめた脳裏に何処からともなくお花畑が見えてきた気がした、――声がきこえてきたのはそんな時だった。
「セライム君」
 一瞬、お迎えの声かと思って短い人生に想いを馳せた俺だったが、少女は弾かれたように声の方に顔を向けた。
「――フェレイ先生!」
「そろそろご飯ですから、下に下りてきて下さいね。……おや?」
 のんびりとやってきたその人――フェレイ先生は、現時点での状況を見て、首を傾げた。
 現時点の状況、それはもちろん白目をむいて泡をふいている俺と、そんな哀れな俺を片手で吊るし上げている少女である。
「どうしました?」
 慌てないところがフェレイ先生だった。
 すると少女は助けを請うように自由な方の指で俺を指す。
「せ、先生! あの、不審者が!」
「ああ、ユラス君」
 にこっと先生は笑った。
「はい?」
 ぴきっと少女は固まった。
「セライム君も楽しみにしていたでしょう? 例の編入してきた生徒ですよ」
「……」
 少女の目が、俺の顔を再び捉える。
「……え?」
 みるみるその顔が青ざめていくのを、俺はぼやけた視界の中で確認した。
「は、ハーイ、俺、ユラスー……」
 ギリギリの笑顔で白目をむいたまま言ってみる。ちょっと自分でも不気味かと思った。
 きつく胸倉を掴みあげていた手が段々と緩んで、俺はぼとりとその場に落とされる。
「え――、あ、な、……そ、その、」
 その顔は真っ赤になったり真っ青になったり。俺は遠くのお花畑がやっと見えなくなって、安堵の息をつく。
「……先生」
 最後、少女はフェレイ先生を助けを請うように呼んだ。ちょっぴり泣きそうな顔だった。先生はそんな少女をあやすように微笑んだ。
「そういえばちゃんと紹介していませんでしたね。セライム君、彼がユラス・アティルド君です。今度から君と同じ魔術科に入ることになりました」
 フェレイ先生。この状況で俺の紹介ってのもどんなもんでしょう。
 どうにか立ち上がった俺の視線をどう受け取ったのか、フェレイ先生はにこにこ顔のまま少女を紹介してくれた。
「彼女はセライム・ユルスィート君。ユラス君と同じ学年ですから、どうぞ仲良くして下さいね」
「あ、あの……」
 セライムは消え入りそうな声で、ぱくぱくと口を開け閉めしながら俺に話しかけてきた。どうやら自分のしたことをあまりに重大に受け止めてしまったらしい。顔面が蒼白だ。
「す……すまない!!」
 謝罪の言葉と共にがばりと盛大に頭を下げてくれた。
「すまない……すまなかった! そ、その、忍び込んできた盗賊の類かと思って」
 先ほどの気高さは何処に行ったのか、完全に余裕をなくしているのが手にとるように分かる。こんなに直に謝られるとこちらが困るくらいだ。いや、しかしそれにしてもセライム、このご時勢に盗賊なんてのはそういないと思うぞ。
「ああ、軽く死にかけたくらいだ。気にするな」
「ど、どこか怪我はないか? 痛いところとか」
 このままにしておくと死んで詫びるとか言い出しかねない勢いだった。思わず俺も苦笑して顔を横に振ってみせる。
「大丈夫だ。このまま空も飛べるくらいに平気だぞ」
「そ……それはすごいな」
「それに背後に無言で立ってた俺が悪かったんだし」
「そうか……? 本当にすまないことをした」
 しゅん、という効果音が最も似合うだろう仕草でセライムは俯く。
「丁度良かったですね。じゃあ皆で下に行きましょうか。ユラス君を紹介しなければいけませんし」
「そ、そうだ! なら私が皆にユラスを紹介しよう、それでいいか?」
 きっと今の件の詫びがしたいのだろう。セライムは不安げに俺に問いかけてくる。もちろん、俺に断る理由があるはずもなかった。
「よし、じゃあ決まりだな! 皆、お前が来るのを楽しみにしていたんだ」
 俺が答えると嬉しそうに笑ってくれる。先ほど月の下で醸していた神秘的な風貌とは打って変わった元気さだった。
「ああ。一夜にして俺の名が世界にとどろくようなスペシャルな紹介をしてくれ」
「え――ぅ、わ、わかった、やれるだけやるぞ」
 俺の贅沢な注文に、セライムは一瞬焦ったような顔をみせたが、それでも意気込んでみせた。
 そんな俺たちのやりとりを見て、フェレイ先生も楽しそうに笑っていた。
 役者を失ったベランダでは、夜風に窓がかすかに揺れて。
 ふわりと夜の風が、その冷たい舞台を一撫でして去っていった。




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