-紫翼-
起章:はじまりの春

05.情けは人の為ではなく



 この世界が戦乱に包まれていたのは、今からもう何百年も前のことだ。
 大陸には人とエルフ、妖精が共存し、それぞれの国がひしめいていた。だが戦は激化の一途を辿る。エルフは人間によって狩られ絶滅し、妖精は人前から姿を消して森の奥深くの住人となった。
 人が我が物顔で大地を歩き、国を興し、また滅びる。人によりはじまり、人に帰着する時代が、歴史の長い間を支配していた。
 ――そして転機は今から約500年前、ミラース歴1091年のこと。このミラースと呼ばれた世界は、史上最悪の災害にみまわれることになる。とある強大な力を秘めた玉石と契約した人間により、この世界の半分を占めていた巨大な大陸がまるごと消失したのだ。
 無論、直撃された大陸全土が滅亡した。今でもその地は地図にすら描かれず、嵐によって入ることすら許されぬ死の大地と化している。現在ある五つの大陸の内のいくつかも、その影響で大きく形を変えたという。
 それが混乱の始まりだった。災厄に怯えた人々は、戦争どころではなくなった。次にその災害が自分の住む大陸に降りかかるのだと、誰もが恐れた。国王でさえ恐怖に震え、逃げ場などないのに逃げ出す者が多かったのである。だが、そんな中に現れた覇者がいた。今でも多くの書物で語り継がれる、大蛇が住まう家、ウッドカーツ家である。
 ウッドカーツ家は元は辺境の小さな貴族であったのだが、世界の半分が闇に消えたという誰もがこの世の終わりを予感した大災害の中で怯むことなく、むしろ勝利は自らにありと歴史の大舞台に踊り出たのだ。
 彼らの行動は混乱のさなか、素早かった。まず北と南の有力な者たちと手を組み、怯えた民を抱え弱体化した国々を次々と降伏させた。そうして貴族たちには炎の堕天使とも恐れられた民衆たちの希望、女将軍プリエル・ボロウドゥールを同年に火刑に処す。
 事実上、ウッドカーツ家は世界征服を成し遂げてしまったというわけだ。
 そんなウッドカーツ家の冷たい貴族政権は、300年もの間続けられた。世界の半分を一瞬で失い、滅びに怯える人々は『抗う』という選択肢をも失ってしまったのである。
 時代は止まっていた。ウッドカーツ家の政治は変えないことにその真価があった、と現代の歴史家たちは語る。
 例えば兵器などを製造する技術などの向上は、驚いたことにその300年の間ほとんど平行線を辿っていた。まるで機械のように、世界はひたすら同じ道をぐるぐると回り続けていたのである。
 だが、いつか繋がれた鎖が錆びるように、使い古した服がほつれるように、封じられたダムが一杯になるように、ウッドカーツ家の力が弱まる時代がやってきた。
 とある一つの革命をきっかけに、それは世界中で起こった。
 そう、300年ぶりの世界の変動である。はじめは単なる反乱にすぎなかった。だけれど一度導火線に火がつけば、もう誰にも止められなかった。それは連鎖的に世界中へと繋がっていく。300年もの間虐げられた民たちは怒りに煽られ、我らに力を、我らに権利をと、次々と貴族に襲い掛かったのである。世界を支配していた貴族たちはことごとく民衆により引きずりだされ、絞首もしくは斬首、更に酷い殺され方をしたものもあった。
 世界中が加速する変動に酔っていた。人は血を求め、肉を求め、何もかもを求めた。それが『血に濡れた11年』と呼ばれる悪夢の時代である。
 貴族たちの力が弱まれば、のしあがろうと数多の野心家たちが立ち上がった。戦争が起きた。また革命が起きた。誰かが英雄になった。だがその後、他の英雄に殺された。
 それはもう、筆舌に尽くしがたい恐ろしい時代だったらしい。300年という年月の間封じられた歴史の動きが、たった10年ほどの間で爆発したのだ。治安は荒れに荒れ、盗賊の類が無数に増え、強盗や殺人が日常茶飯事となる。土地は痩せ、家族は引き裂かれ、疫病が蔓延し、子供は生まれる前に死に、炎と血だけが町に大地に染み付いた。まさに地獄の時代だった。
 だがそれが幾年も続いて、人は自らの疲労に気付く。血に飢えて熱狂した人は、だがいつまでも狂ったダンスを踊り続けるほど強くはないのだ。
 そして民は、ついに安定を望んだ。
 これ以上の血を流したくはない。これ以上の涙を流したくない。だというのに、それでもまだ世界を動かすことを望む狂者たちがいた。また、家を失い、友を失い、闇の道に足を踏み入れた者も数え切れないほどいた。世界はゆっくりと崩壊に近付いていっているようにすら思えた。
 そんな時である。
 それはまるで、この世を造りたもうた精霊の女神に世界の救済を命じられて舞い降りたかのようだった、と『彼』の物語にはある。
 ある一人の青年が、剣を抜いた。
 人の目にはじめ、それは未だに血を望む愚か者にしか見えなかった。誰もが彼を嘲り哂い、誰が混沌の道についていこうかと罵った。しかし、青年は血を求めてはいなかった。
 彼は、再建を求めたのだ。
 ――誰もがなしえなかったことを、彼はやってのけた。
 ミラース歴1441年。その英雄ウェリエル・ソルスィードは、300年の間世界を止め続けたウッドカーツ家を滅ぼし、聖都リザンドを制圧したのである。
 人々は、この11年とは違った意味で新たな英雄の誕生に熱狂した。若干24歳、その若き英雄は忠実な五人の配下と共に聖都で数多の人々の喝采を受けることになる。その勢いは留まることを知らず、各地で続いていた内乱を鎮圧し、貴族の残党を排除し、世界に平和を取り戻した。彼はこのフローリエム大陸にリーナディア合州国を興国、初代大総統としてその礎を作った。それが今では子供でも知っているウェリエルの英雄譚である。

 そう、そして――その英雄譚の主人公、ウェリエル・ソルスィードこそがグラーシア学園の創始者なのである。
 大総統となった彼が最も力を注いだのが子供たちの教育だった。学者でもあった彼は、積極的に各地に学校を建て、教員を育成し、次の時代を担う子供たちの可能性を養った。はじめは労働力の不足から子供を学校にやらなかった家も多かったが、ゆっくりと時代が流れ国が豊かになるにつれて学校に通う子供は増えていった。そうしてウェリエルは大総統の座を早々に後任に譲り、この学園の建設に着手した、というわけである。
 だが協力者がいたとはいえ、人の手で一つの都市を作るというのだから、その執念はすさまじいものだ。この学園を世界中からの『天才』が集うようにしたい、そんな子供たちを集めて特別な教育を受けさせ、世に貢献できる人材を作ることができたら――ウェリエルはそう考えていたらしい。
 こうして学術都市グラーシアが創立したのが、1470年のこと。偉大な創始者を称えて、学園の正門から入ってすぐの広場にはウェリエルの像が建っている。初代学園長には、ウェリエルが最も信頼をおく配下の一人が就任した。
 都市には大陸で最も蔵書数が多いと言われる国立図書館が学園と対をなすようにして建っている。その他に種々の研究所が軒を連ね、学園卒業後も都市に留まり研究を続ける生徒も多いという。また学園から少し歩けば緑豊かな林と川があり、深くまで分け入れば貴重な植物や、今では珍種とされている『魔物』の生息域もあり、研究が執り行われている。更に、グラーシアには大陸を南北に貫く蒸気機関車が通っており、古都リザンドや工業都市マリンバ、首都アルジェリアンなどへの交通の便も良い。
 人は、グラーシアこそ最高学府、グラーシアこそ学びの都、とその学園をはやし立てる。まさにここは、人によって作られた学びの聖地なのだ。


 ***


 幾晩か泊めてもらったときに、なんでこんなに広いんだろうと首を捻ったものだったが、今日やっとその謎が解けた。
 フェレイ先生の自宅のことである。
 先生の自宅は、都市の大通りから外れた住宅街の一角にあった。賑わいのある大通りから転じて、ここは穏やかな日常の空気が流れている。
 学術都市グラーシアの北東地区。そこ一帯はこの都市の住人達の主な居住地域になっているのだそうだ。学園からも大通りからも遠くない、温かな趣のある民家に挟まれるようにして、先生の家は建っていた。そこにはちゃんと庭があって、ついでにやけに広かった。なのに使用人などは一切雇っていないので、最近使われていない部屋は見るからに埃が積もっている。
 そんなことだったら、もっと狭い家に住んだ方がいいんじゃないかと思っていたのだけれど。
「今日からまた賑やかになりますねえ」
 石畳を歩く先生の足取りが軽い。いつもにこにこしている先生だが、今日は一段と嬉しそうなのだ見て取れる。
 学園への合格通知書を貰った俺は、保護者をフェレイ先生ということにして、学園への正式な編入を申し込んできた。そんなところまで嫌な顔一つせずに面倒を見てくれる先生には本当に、頭があがらない。これで晴れて俺は学園生だ。何処かの誰かの思惑通りに。
 もちろん一抹どころか百抹くらいの不安は胸にはあったが。

 この学園は、昨日をもって終業式を迎えたんだそうだ。これから生徒は長期休業期間に入るのだという。
 昨日の夕方、ちらっと通りを覗いたら機関車に乗り込む生徒で大変なことになっていた。全寮制である学園の生徒たちは、この休みを利用して帰省するのだ。
 だが、事情で実家に帰ることができない生徒だっている。
 ――例えば、俺みたいに記憶喪失で実家が不明、とか。
 それは少し例外すぎといえなくもないが、例えば親を亡くしていたり、事情で帰るべきところがなかったり、そんな生徒たちは都市に留まっているらしいのだ。
 そして――俺は後に、これがフェレイ先生を稀代の珍学園長たらしめる所以であると知ることになるのだが。
 都市に留まる生徒たちは、この長期休業期間になんとフェレイ先生の家に集合して住みついているらしいのだ。
 確かに人が消えた学園で少人数でいるよりは、少しでも集まった方が寂しさも紛れるのだろうが。先生曰く、暇だったら遊びに来て下さいと言ったらそのまま全員そこに居ついてしまったのが始まりらしい。
 だからあんなに家が広いんだろう。先生曰く、大体泊まりにくる生徒は30名ほどだという。そりゃ30人が生活する為にはそれなりの広さがないと、辛いものがあるだろう。
「ユラス君と同い年の子は四人いますからね。女の子が三人と男の子が一人」
 一体あの家にそんな大量の生徒が入ったらどんなことになるんだろう。フェレイ先生の声を聞きながらぼんやり考える。
 もうすっかり空気は暖かい。本格的な春の到来を前に、木々の芽は膨らみ、都市中が新たなはじまりの予感に浮き足立っているような雰囲気だった。
 今の俺の身の上は、先生の知り合いから事情があって先生に預けられた息子、ということになっている。
 俺に記憶がないということを知っているのはフェレイ先生だけだ。そんな先生は、俺の過去や両親を探すことに手を尽くすと約束してくれた。
 どうしてそこまでしてくれるんだろうと思ったが、先生曰く『情けは人の為ではなく、自分の為にあるものです』らしい。つまり、困っている人を見ると放っておけないということのようだ。
 横を歩いているフェレイ先生は、何かと道行く人に声をかけられることが多い。
「おや、学園長さんじゃないですか! 今日からお休みですか?」
「ええ、いくつか仕事はあるんですけど、とりあえず一休みです」
「フェレイ先生! あとで用事があるときにでも寄って下さいな、イチゴのジャムを作ったんですよ」
「ありがとうございます、是非頂きに参りますね」
 住宅街だからか、近所の人々も窓を開いて声をかけてくる。――それくらいにこの辺りの人に好かれているんだろう、この先生は。こんな人柄なんだから、それも深く頷ける。
「先生」
「はい」
 風が少し強くて、髪がなびいた。空は息を呑むほどに晴れ渡っている。
 春の風は温かくて、かすかに湿っていた。整然と建物が並んだこの都市の中では随分とやわらかな印象を受けるこの辺りを、風は這うようにして吹き抜けていく。鮮やかな新緑が、同じリズムでさわさわと揺れる。
 そんな大気が覆う季節を何度となく過ごしてきただろうフェレイ先生は、目を細めてこちらを向いた。
 俺は、これから二年間、グラーシア学園の高等院で学ぶことになる。その間に記憶が戻るのか、それとも戻らないのかはわからない。学園を卒業した後、どうすればいいのかもまだわからない。
 だけれど、無力な俺はこの学園を、あの推薦状を、そして目の前の先生を今は信じて歩いていくしかないのだろう。
「これからよろしくお願いします」
 だから、背の高い先生を見上げて、頭をさげた。
 あまりに異質な俺を、学園に招いてくれた先生に。
 すると先生は嬉しそうに春の風の中で笑ってみせて。
「はい、こちらこそよろしくお願いします。――記憶が戻るといいですね」
 慣れたような仕草で、礼儀正しく長身を折り曲げた。


 だが、まだフェレイ先生の家には誰も着ている様子がなかった。
「皆さんが来るのは午後になってからですよ。今ごろ寮で仕度をしているでしょうから」
 書斎にて先生は持っていたものを机の上に置いて荷物の出し入れを始める。
「私はこれからお仕事なんですが、ユラス君はどうしますか? 家で待っていてもいいし、外に出てもいいですよ」
「家で待ってます。ちょっとのんびりしたいですし」
 そう答えると、どうぞゆっくりしてて下さいとフェレイ先生は笑って家を出て行った。外出も良かったが、まだ行ったことのない都市を一人で詮索するのは心もとない。その点、この家なら必要最低限の使い勝手は知っている。
 それに、この書斎にある先生の蔵書ってのがまたものすごくて、分野も文学、哲学、歴史から経済、化学、魔術とぶっとんでいるから、何日こもっていても飽きそうにない。暇つぶしになるものはいくらでもあるということだ。
「んー、何するかな」
 ぐいっと体を伸ばして、一杯に空気を吸い込んだ。
 外に目をやれば窓から差し込むうららかな日差し。やわらかな草の色。春を告げる小鳥の囀り。あることをするには最高のコンディションだ。
「寝るか」
 非生産的な己の欲求に、俺は素直だった。
 ああ、俺ってばなんて贅沢な奴。昼寝、万歳。
 そうと決まれば、足取り軽く庭にでた。豪勢といえるほどの広さはないが、芝生で覆われたそこの中央には大樹が優しく葉を広げている。
 鼻歌まじりにその根元に腰掛ける。そのまま腕を枕にして仰向けになると、木の葉の間から光がちらちらと網膜を刺激した。
 それがやや眩しかったので、目を閉じて耳だけを澄ませる。風の音と鳥の音、草の音が聞こえた。大きく息を吸って吐くと、それだけで胸が洗われたようになる。
 喧騒から離れたこの場所には、余計な音など何もない。時は穏やかに頬を撫でていく。それが心地良くて、――新鮮で。
 ぼんやりと、俺は一体何処から来たのだろうと考えた。
 俺には記憶のひとかけらすら残っていない。自分の名前も、生まれも、家族も、どんな姿をしているのかも、何を知っているのかも、何が出来るのかも、何もかも。
 ただ、今の自分がある。
 知識だけを蓄えた、己がある。
 先生の家の蔵書を漁った時に、一つ気付いたことがあった。
 それは、俺の頭の中には『記憶』ではなく『知識』があるということ。複雑な文章も読めた。歴史書を見れば、ほとんど知っていることばかりだった。
 そう。俺はきっと、あの試験を受けたときに『何も考えていなかった』。ただ、知っていただけだ。何もかも。つまり自分でもびっくりするくらいの情報が、この頭の中に入っていたのだ。
 それはもしかしたら、恐れるべきことなのかもしれなかった。知識を置き去りにして記憶だけが空いた自分を、不安がるべきなのかもしれなかった。その恐ろしさに、必死で過去を探ろうとすべきなのかもしれなかった。
 だけれど俺は、過去を考えることが、ひどく億劫で。
 それを探ってどうするのだろう、という意識の方が大きい。
 そんな自分をどこかで叱咤する声があるというのに、もう少し休ませてほしいと、言い訳を振りまいて。
 目の前に続く道があるじゃないかと、そう己に言い聞かせている。
「どうなるんだろうな、俺……」
 呟いてみるが、もちろん返事など期待してはいない。
 闇に解ける意識に身を委ねる。
 そうすると、何もかも考えることができなくなって。
 ぽっかりとあいた空洞を抱えたまま、体が深いところに落ちて行くような感覚を味わいながら、――そうして俺は意識を手放した。




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