-紫翼-
起章:はじまりの春

01.俺は、目覚めた



 この時代の建物といえば、建築技術も進んでいたのだから、ささいな衝撃で崩れるわけがないのであって。
 その上、この建物は世界の巨匠たちが技巧を凝らして作り上げた、無駄のない確立された空間なのであって。
 その為歴史的建造物とも称えられるこの建物は、雨風に晒されようと百年以上もその場に佇んでいたのであって。
 ……だから。

「学園長ーーーーーーーーーーーッッ!!」

 だから、そんな建築物の窓ガラスを割れんばかりに震わせる声はつまり、常軌を脱していた。
 まさに音波は衝撃波となり大地を激震させる。窓の外で驚いた鳥たちが一斉に飛び立っていくが、無論その声を放った主はそんな二次災害など目もくれない。
「学園長ッ!! 一体何処に行ったんですかーッ! 壺の中に隠れているなら出てきてくださいっ、壁と一体化して隠れたって無駄なんですからねー!!」
 美しく大きな窓が規則正しく並んだ廊下で、そんな怒声をあげるのは一人の女性。きっちりと長めに切りそろえられた青髪は、今や彼女の表情と共に激しく揺れていた。それもその筈、彼女は叫びながら猛然と廊下を駆け抜けていたのだ。
 女性は教師であった。ついでにここは彼女の職場、つまりは学び舎の一角。更についでに走っていい廊下というものが万国を探してもほぼ皆無であることは自明である。
「レイン先生、一体どうしたの? まずここはそんな勢いで走っていい場所じゃないわ、それにもう少し小さな声で」
「あっミューラ先生! 学園長見ませんでしたかっ?」
 走っていた女性――レインを注意しようと、通りがかりの同僚ミューラが声をかけた。が、そんな小言すら耳に入っていないようで、レインはスリットが入ったスカートがぱんぱんになるほどの大股で猛然と詰め寄る。
 ミューラは呆れたように溜め息をついた。このレインという同僚は普段はおとなしく真面目なのだが、いかんせん『学園長』のことになると途端に騒がしくなるのだ。
「なに、学園長が見当たらないの?」
「そうなんですっ! さっきまで仕事してたと思ったら学園長室がもぬけの殻で! しかも書類の山を置きっぱなし! もうすぐ会議だってあるのに」
「いいじゃない、きっとすぐに帰ってくるわよ。あの人はなんだかんだで結局は仕事を」
「いいわけありますかーーーーッ!!」
 ぶおーっ、と前髪がなびくほどの返答。とっさに眼鏡をおさえていなければ吹き飛んだかもしれない。
「だってですよ? いいですか、あの人は昨日だって突然ふらっといなくなって夕方ごろに帰ってきたと思ったら『森に散歩に行ったら迷っちゃいました、てへっ』なんておっしゃるんですよ? 仮にもこのグラーシアの学園長が? 世界に名をしらしめるグラーシア学園の看板を背負うお方がこの忙しい季節に仕事をサボり森に入った挙句道に迷ったとおっしゃる? そんなことがまかり通るんならこの世にはいさかいも戦争もクソもないんですッ! ありえない、本ッ当にありえないッ!!」
「お、落ち着きなさいレイン先生」
 目を血走らせて罵る同僚を止める手立てなど知るわけがないが、とりあえず宥めにかかるミューラである。
 確かにレインがここまで怒るのもわかる。春の近いこの季節、卒業式は二日前に執り行われたものの、新入生のクラス編成、また編入試験の準備などで教師陣は目のまわるような忙しさに追われているのだ。
 そんな中、二日間連続でふらりと学園長が姿を消したなんてことがあれば誰だって腹をたてるに決まっている。
「まあ……あの人も、色々あるから」
 ほんの少しだけ苦手意識を持っている学園長の顔を思い浮かべて、ミューラは苦笑した。
 いやしかし、と更に詰め寄ってくるレインを軽く手でいなしながら、視線を窓の外にやる。
 ――止まった。
「あら?」
 ふっと瞳がかすかに見開かれる。誰もいないと思った窓の外、そこは広い中庭になっている。
 その中央、灰色の影が佇んで空を見上げているのだ。
 今日は休業日のため学園内に生徒は少ないはずだ。なのに、一体誰が昼時でもないのに中庭で立っているのだろうか。
「どうしました、ミューラ先生?」
「ちょっと、あそこ見てくれる? ほら――」
 一度レインの方を向いて、そして再び窓の外を指差して。
「――あ」
 彼女の指は虚空を迷うばかりだった。先ほどの光景は嘘だというように、既に中庭には誰一人としていない。

 それは強い風の中にある春を、大陸を渡る雲がこの地に告げる頃。
 目が覚めるような光を湛えた春を、大陸を渡る鳥たちがこの地に告げる頃。
 そのとき、紫色の翼を持つ鳥が大空へと羽ばたいていった。

 紫翼
 起章:はじまりの春


 ***


 さらさらさら……。
 さらさらさら……。

 音をきいていた。
 流れていく音をきいていた。
 意識はまどろみの中。
 誰かの声を、おぼろげにきいた気がした。
 何かの音を、おぼろげに感じた気がした。
 もう、雨は止んだようだった。
 だけれど、そこで揺らめく影が誰だったのか、知るすべもなく。
 ただ、意識は夢の中。
 ――こつっ。
 気温は低い。自分の体を抱えるようにして丸くなる。
 何故こんな寒い日にこんな寒々しい音を聞いているのだろうか。
 ――こつっ。
 頭に何かがあたった。
 うるさいな。もう少し寝かせてくれたっていいじゃないか。
 ――こつっ、こつっ。
 続いて肩口に、ちくりとした感触。
 一体何の恨みがあるんだ。まだ……まだ、眠たいのに。
 振り払うように何度か身じろぎをして、再び丸くなる。
 それで、何かが当たる感触はなくなった。
 再び意識を深くに落とそうとして――嫌な気配を察知したのはそのときだった。
 何かが鋭く風を切る。同時に、ごいん、といやに景気の良い音。
 続いて、鈍い衝撃と共にゆっくりと世界がひっくり返って。
 ……ん?
 ちょっと待て。
 ひっくり返る?

「――ぅっ、ぉおおおぉおお!!?」
 やばい、と思った時には既に遅かった。
 思い切り水中に投げ出される。全身を襲う刺すような冷たさに目を開けば、飛び込んでくるのはまばゆい光。
 今までに知らなかったような光の嵐に、思わず顔をしかめる。
「んな――!?」
 反射的に手をついて体を起こすと、ぼたぼたと水滴が滴った。
 光が瞬くように点滅する視界。それが慌てて取り込む光の量を引き絞って、ぼやけたピントを合わせようとする。
 やっとのことで光の嵐の中に認識される、色とりどりの景色。
 ――俺は、目覚めた。
 そりゃもう気分爽快、今にも素敵世界へと羽ばたいていけるくらいに。
 スペシャル冷えた水中にダイブのモーニングコール。
 豪快すぎる目覚めだった。
「いや、ちょっと、ちょっと待て」
 慌てて周囲の様子を探る。
 やわらかな光が降り注ぐ森の中。四つんばいの格好になった俺は、穏やかに流れる川の浅瀬にいたのであった。
 いやはや、なんというか。
「寒い」
 この一言につきる。
 なんだってこんな肌寒い季節に川へ単身ダイブしなきゃいけないんだ。
 ひとまず、どうにか立ち上がってよろよろと浅瀬から陸地まで歩いていく。
「ぶぇくしょっ!」
 寒さに思わずくしゃみがでた。陽の当たる岩に腰を下ろして、自分の体を抱えるようにする。一体俺は、どうしたんだろうか。
 意識を巡らせていると、視界の影に木製の小舟を見つけた。俺が乗ったらもう満員ではないだろうか、それほどに小ぶりな舟だ。その舟も無残にひっくり返って浅瀬に浮かんでいる。
 ……そうだ、俺はこの舟の中にいたんだろうか?
 それで先ほど衝撃が加えられて、バランスを崩し、舟ごとひっくり返って川に投げ出された。
「ふむ、さて」
 春のうららかな日差しが降り注ぐ川辺は中々暖かい。だが濡れた服がびっとりと体にまとわりつく嫌な感触と寒さは和らいでくれない。
 自分の体を抱きしめるようにして、膝を抱える。なんだか、とても大事なことがあったような気がする。だけれど、それを思い出すのが億劫で頭の隅に押しやった。
 周囲には誰もいない。一体川のどの辺だろうか。流れのゆるやかさからしてきっと上流ではないのだろうけれど。
 川を取り囲んでいるのは背の高い木々。林の中だろうか。人の声など一切しないし、気配もない。
 動いているものといえば流れていく川と、視界の隅で首を傾げている一羽の鳥――。
「鳥?」
 俺は、そちらに首を向ける。突然向けられたからか、その鳥は翼を少しだけはためかせた。
 だが飛んだのはほんの少し。そいつはやはり俺の近くの岩の一つに止まって、首を傾げている。
 俺は、そんな鳥の姿に言葉を失った。こんな鳥、見たことがない。見事なまでに鮮やかな紫色をした鳥だ。アメシストをはめ込んだように透き通った、理知的な瞳が印象的だった。
 そして。
「お前か、畜生の分際で俺を川に突き落としたのは」
 こいつ以外に舟に体当たりしてきそうな生き物はいなかった。
 鳥は肯定するように、こちらをじっと見つめている。人間様に睨まれて逃げていかないなんて、よほどの神経をしている鳥だ。
 だから、俺は正直に言っていた。
「焼き鳥にして食べるか」
 丁度腹も減っていたことだし。
 ――がつっ!!
「うおっ!」
 瞬間、俺は猛然と向かってきた鳥のくちばしを額で受け止めていた。血がでるかと思う程の激痛に思わず後ろにのけぞりながら顔を歪ませる。
 鳥に倒される人間なんて、俺くらいじゃなかろうか。
 その鳥は表情も持たないのに、器用に羽根をばたつかせて怒っていることを表してみせる。今にも次の攻撃を繰り出しそうな構えだった。
「あ、ああわかった! 俺が悪かった、食べないから許してください」
 鳥に面と向かって謝る人間も、俺くらいじゃなかろうか。しかしその鳥は言葉が分かるのか、呆れたように眼光を和らげてくれる。
 俺も懇願の形にあわせていた手を離して、まじまじとその鳥を見つめた。
 紫。
 光を吸い込めば明るく輝き、闇を吸い込めば黒く蕩ける深い深い紫色だ。
「お前、どこから来たんだ?」
 すると鳥はばさばさと翼をはためかせてみせる。野生のものとは思えないほど綺麗な羽根だった。もしかしたら誰かに飼われていたのかもしれない。
「迷子か?」
 そう問うが、無論人間の言葉が鳥に通じるわけがない。――にしては先ほどは通じていたように思えてならないのだが。
 鳥はまるで俺に飼われていたのだ、というようにすぐ隣まで近付いてきた。やっぱりこいつは野生じゃないのだろう。
「そっか。お前、名前あるのか?」
 といっても鳥には言葉を話す知能がないのだから、答えもない。俺はうーんと唸って頷いた。そうだ、こいつの名前は俺が決めてやろう。
「それじゃあ、俺が素敵な名前をつけてやろう。そうだなあ……」
 言いながら手の平をひらひら動かしてみせた。
 鳥は期待しているのか、俺の手の平を興味深そうにじっと見ている。
「ぽち」
 がすっ!!
「軽い冗談だ」
 鳥に殺される人間なんて絵になりそうにないな、と他人事のように思いながら続きを考えた。
「花子」
 ごすっ!!
「ウルトラエンジェルファイター」
 げすっ!!
「焼き鳥」
 どすどすどすっっ!!!
「わかった、真面目に考えるから頼む、殺さないでほしい」
 キツツキのごとく猛然とくちばしでつついてくる鳥に、ちょっぴり恐怖する俺である。この鳥はなんで言ってることがわかるんだろうか。
「なんだろうなあ、呼びやすくて、分かりやすくて、いい名前……」
 首を捻りつつ、しっくりくる単語を頭に思い浮かべる。
 すると、ある一つの単語が転がり落ちた。
「セト」
 頭で考える前に口が勝手に動く。
 一体何処でその単語を知ったのかは覚えていないが、その名を聞くとぴくりと鳥も反応した。
「よし、決定。お前はセトだ」
 悩む余地もなかったから、あっさり鳥の名前は決定した。
 ……焼き鳥でも良かった気もするけど。まあ呼ぶたびにつつかれて血まみれになるよりはマシか。
「うーむ、これからどうするかなあ」
 目の前には流れ続ける川。表面が光を湛えて眩しいほどに輝いている。
 辺りは緑に囲まれていた。見た目からして人里まではちょっとした距離がありそうだ。
 ――何気にサバイバルな環境だった。ここで野生化しろとでもいいたいのだろうか。野生児と化して地元の人の畑でも荒らせというのか。そして簡単な罠に引っかかり役所に引っ立てられる無様な俺様――。
「いや、そうじゃなくてだな」
 ぱんぱん、と俺は両手で頬を叩いて変な想像を追い払う。
 気がつけば、濡れていたはずの服は幾分か乾いていた。
 春のうららかな日差しがやわらかく降り注ぐ。
「……」
 まずは林を抜けなければならない。
「……行ってみるか」
 人里に下りればまあどうにかなるだろう。
 そうして、俺は手をつきながら立ち上がる。しかし自分の足で立ち上がるという動作は――なんだかぎこちない。
 一歩一歩歩いてみるごとに、妙な違和感がした。
 ぺたぺたと体を触ってみても、何の異変もなかったが……。
「何日も歩いてなかったのか?」
 自問するが、答えは、ない。
「……」
 俺は暫く考えこんで。
「とぅっ!」
 足を思い切り振り上げてみた。
 ぐきっ。
 関節が、ミラクルな音をたてた。
「ぐぉぉおおおおお!!」
 その場にうずくまって悶絶。
 横でセトが驚いたのかばっさばっさと跳ね回っている。
 アホか、俺は。
 やはり、何日も体を動かしていなかったらしい。
「はぁ、はぁ、」
 気を取り直して、俺は目の前を見据える。
 そして、なにも持たずに森の中に入るという動作に、俺はひどく不安を覚えた。
「俺、手ぶら……」
 自分の手のひらを見つめて呟く。
 なんだか情けないことこの上なかった。せめてナイフの一本でも欲しいのだが、ポケットの中にも何も入ってないし。
「まあいざとなったらセトを食料に――いや、なんでもない。空耳だ」
 ぎん、とセトの瞳に光が宿ったのを見て慌てて修正する。全く、冗談の通じない奴だ。だが一人でないというだけで心強いしありがたい。
「それじゃ、行くか」
 恐れをかみ殺して、立ちはだかる木々の方向へと向きを変えた。といっても、どちらの方角に行けばいいか全く分からない。
 というか。

 ここ、どこだ。




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