-紫翼-

終わりの記憶



 何故だろう。こんなにも心が穏やかに、ゆるやかに静まっているだなんて。
 それが信じられなくて、何かを言おうと小さく吐いた息すらもかすかに震える。
 遠い空には夕暮れがどこまでも広がっていた。
 今日もまた陽が落ちて、明日へと繋がっていく。
 この陽は今もどこかで朝日をもたらし、またどこかで午後の日差しをもたらし――。
 これからもずっと、時はゆるやかに淀むこともせず流れていくのだろう。
 肌に感じる空気は冷たくはない。そう、きっと、もう春も近い。また、花の匂いに包まれた、それでいて強い風の中にある春がやってくるのだ。
 紫色の綺麗な髪がすぐそこにあった。まるで目が覚めるような鮮やかな紫色だ。
 夜になれば闇にとろける色なのに、今は光を吸い込んで、煌いて。
 ふと目にとまる彼の腕の細さに、ああ、彼はこんなか細い体で立っていたのかと。
 なぜだかそんなことを薄ぼんやりと考えていた。
 彼は相変わらず、ほんの少し呆然としたような顔をしていた。
 いつも笑っているくせに、不意にみせるこの表情。普段、そんな時にぼんやりと虚空を見つめていた紫色の瞳は、けれど今はこちらに向いていて。
 その身いっぱいに浴びるなんと美しい夕日の輝き。少年の面影を残したあどけない顔つきは、夕暮れと同じ色に染まっていた。
 ――ほんの少し、笑ってみせる。
 ――すると、彼もひとつ、つられて笑ってくれた。
 時が来るまでに言わなくてはならないことがある。
 もう、ためらう必要はない。いや、いつだってためらう必要はなかったのだ。
 それを縛っていたのは自分自身だった。ただ、変わってしまうことを恐れて。物事が動いてゆく、その漠然とした恐ろしさに、言葉をぼかしていただけで。
 だから静かに、ゆっくりと風に乗せる。
「……ひとつだけ、頼みがある」
 声は自分でも驚くほどかすれてしまっていた。
 しかし、きっと彼には届くのだろう。
 この冷たい空気を伝って。
 きっと、きっと、その胸の奥に届くのだろう。
「――なんだ?」
 返答はまるで夢の中にいるように、ふんわりとあたたかい。
 とても……とても、涙が零れてしまうほどに落ち着ける。
 たぶんきっと、これが幸せというものなのだろう。
 ずっと欲しかった、幸せというものなのだろう。
 そうだ。もう二度と手に入らないと思っていた。そうしていつだって自分は膝を抱えていただけで。
 だけれど、今はもう違う。それだけで、それだけで、この我が身を幸福と呼ぶには事足りる。
 風が吹いていた。痛みも喜びも、何もかもをすりぬけて、風が吹いていた。
 それが滑稽で空虚でおかしくて――果てしなく、いとおしくて、だから声は幾分か弾んだものになったのかもしれない。
「必ず守ってくれるか」
「もちろんさ。俺が約束を守らなかったことなんてあったか」
「かなりあったぞ」
 言い放つと、彼は苦いものでも口に含んだような顔をした。
 もう一度笑う。
 風がまた、吹き抜けていく。
「だから今度こそ必ず守ってくれ」
「――了解だ。なんでもこい」
 ふるっと彼の声が震えた気がした。どこか、切ない響きだった。夕暮れに落ちる影だけが、無言で長く伸びている。
 その潤んでいるようにも見える紫色の瞳をじっと見つめて、祈るように告げた。

「もう生きていけないなんて思わないで欲しい」

 ――彼の翼は大地に繋がれている。
 どんなに自由に高く飛び立ったとしても、悠然と空の高みを舞ったとしても、いつしか鳥は大地に還るより他はない。
 激しい風に傷ついた翼は、しかし空にいる間は絶えずはためかせていなければならないのだから。
 翼を持つ者にでさえ等しく、この大地の束縛から離れることは叶わない。
 永遠に飛び続けることなど、できはしない。
 だというのにまた、彼らは空に焦がれて翼を広げる。
 何度も何度も、この地上を細い足で蹴って、大空へ舞い上がる。
 その羽根をまき散らせながら、羽ばたいて。自らが大地から解き放たれることなど許されぬと、知っていながらも。
 だから、自分は、きっとこの大地で待っていようと思う。
 天空へと飛び立つ彼を、目を細めて見送ろうと思う。
 彼の翼が見えなくなったとしても、きっとその空を見上げていようと思う。
 そうして、いつしか疲れて地に戻る彼を、この両手を一杯に広げて。
 もしも、迎えてあげられたのなら。
 疲れきった彼に、彼の翼に――おかえりなさい、と。
 そう呟く日がくるのなら。
 少女の祈りは、穏やかに。


「どんなことがあっても生きていけると……ずっと、ずっと、信じていてくれ」
 空高く飛んでゆくであろう彼の紫翼に、この地上から愛を込めて。




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