-黄金の庭に告ぐ-
<番外編>

猫の骸



 陽が最も高いところに来ると闘技場に引きずり出され、夕暮れと共に屋敷に戻され、治療を受けて翌朝まで泥のように眠る。まるで獣のような生活であった。
 エルは未だ、あの猫のような最期を遂げられずにいる。
 それどころか、日々の治療と環境のせいで、身体は死から遠いところにあるように思えた。
 ただ、吐き気が相変わらず続いている。治療時に飲まされる薬湯でさえ、戻してしまうことがあった。
 空腹で朦朧としたときに、水と僅かな食料を胃に入れて、そのまま意識を手放す。いつの間にか、それが自然となっていた。
 余ったパンは、例の奴隷女にやるようにしていた。
「……痩せたね」
 奴隷女はエルを見て、ぽつりと呟いた。食べろ、とは言わない。エルが死にたがっていることを知っているからだ。しかし、積極的に死を勧めようともしない。どうしたら良いのかわからない、といった風であった。
 他の者の目を眩ませるため、会話はしないようにしていた。部屋の隅で、膝を抱えて時を過ごす。ただ、奴隷女がやってきてパンを食べ終わるまでのその時間を、日々待ち続ける自分がいることに、エルは気がついていた。
 奴隷女が秘密をエルに伝えたのも、同じなのかもしれない。共有するものがあるからこそ、二人は同じ時間を分かち合えるようになったのだ。
 日に日に身体は痩せ細るものの、刃は冴え渡るようになった。
 罪を重ね、穢れを重ね、それでも、彼女が食事を持ってくる時間だけが待ち遠しかった。


 ***


 闘技場のガルダ人は次々と屠られていく。強く残虐な者が勝ち残るにつれて、苦戦することも増えてきた。
 面を血に染めたエルが檻へ戻る途中、見知らぬ男に腕を引っ張られ、闘技場内の小部屋に連れていかれた。
 次々とナイフを突きつけられ、椅子に縛られる。
 見ると、卓を挟んだ正面に、貴族らしき男が座っていた。三十ほどの歳だろうか。顔立ちは整っているが、抜け目ない眼差しをしている。
「手荒な招待で申し訳ない。ガルダ人。言葉は解せるかね?」
「分かる」
 尊大に頷いた男は、デュレーンと名乗った。エルの名は訊かれなかった。
「お前がカリィカルカッタに飼われていることは分かっている。あの女をどう思う」
 カリィは数日に一度、エルにガルダ人の話をさせる。男を呼び込んでいる日も多く、そのような日は男も嬉々として血生臭い話を聞くのであった。時折、命じられて殺しの実演をやることもある。
 ただ、どれも苦痛以外の感情を覚えたことがないのは同じだ。終わると奴隷女に会えるから、続けていられるようなものだ。
「少しでもあの女を殺してやりたいと思ったことはないか」
 エルは、デュレーンを正面から見た。ただ見ただけだが、デュレーンはたじろいだ。
「こ、こうしよう。あの女を殺せば、お前の命は助けてやる。森に帰れるのだぞ」
 答えないエルに、デュレーンは更に言葉を付け足した。
「私は本物のカリィカルカッタを助け出したいのだ」
「本物の?」
 頭の端が焼ける感覚があった。奴隷女の言葉が思い起こされる。あの奴隷女は、自らをカリィカルカッタと名乗ったのだ。
 興味を持ったエルに、デュレーンは喜色ばんだ。
「そうだ。あのカリィカルカッタは偽物だ。本物は、あの家の奴隷をさせられている」
 デュレーンはカリィカルカッタの住むグリュイエ家の屋敷を襲った悲劇について、エルに教えてくれた。
 グリュイエ家は元々、都市議員を担う平凡な貴族家であった。しかし、ある奴隷親子の奸計によって、一家は離散したのだという。
 はじめ、一人娘であった三歳のカリィカルカッタが姿を消した。すると奴隷親子の子供マルタが、突然自らカリィカルカッタを名乗ったのだ。本物のカリィカルカッタよりも五歳は年上であったにも関わらず、心を惑わす薬を飲まされた貴族の両親は、それを信じてしまった。
 奴隷の親は、当時の貴族を骨抜きにして操り、行く行くはマルタを家主として家を乗っ取ろうと考えていた。しかしマルタが一四歳の頃、貴族の両親、そして奴隷の親が相次いで亡くなった。デュレーンは、マルタが用心棒を雇い、彼らを皆殺しにしたのだと断言した。
 それからは、マルタ――否。カリィカルカッタとなった女は、グリュイエ家の頂点に君臨し続けている。
「本物のカリィカルカッタはマルタとして奴隷を続けているそうだ。哀れな話だろう」
 痩せた指でパンを食べる奴隷女が、脳裏に浮かんだ。エルは目を伏せた。
「……ガルダ人にも情けというものがあるのだな。いや、失礼。とにかく、カリィカルカッタは政界に顔が広く、屋敷内にも腕利きの用心棒が多くいる。公式にも非公式にも、始末は難しいのだ」
「それでぼくを?」
「日を決めて、カリィカルカッタを殺せ。屋敷の外に私の配下を置いておく。暗殺が済んだら彼らと合流し、都市を脱出するのだ。その後は、何処にでも行くが良い」
 デュレーンは反応を伺うように、頬を歪めて笑った。
 エルには、カリィカルカッタを殺す理由はない。都市の外に出て生きていく気力など、どこにも残っていなかった。
 しかし、空洞になった胸の内に、破片がひとつ刺さっていた。
「もし、殺したなら」
「うん?」
「カリィカルカッタを殺したなら、本物の奴隷はどうなる?」
 デュレーンは力強く笑った。
「無論、名誉を回復させる。私の妻として迎えようと考えているのだ」
 エルはデュレーンの出で立ちを見た。忍びの身であるとはいえ、その服に染みや皺はなく、髪は艷やかで、顔立ちも整っている。帝国人として正しく生まれ、真っ当に生きている。そう語るかのような外貌であった。
 生まれの差。己では変えることのできないそれが、深い溝となってエルとの間に横たわっている。
 忘れたと思っていた悔しさが胸を掠め、澱となって心の奥に沈んでいった。
 事が成れば、あの奴隷女――本物のカリィカルカッタは、目の前の男の隣で、もう囚人のパンに手を出すことはなくなる。
 笑って、くれるだろうか。
 エルは顔をあげた。
「分かった」
 彼は己の命を、悲しいほどに容易く、目の前の男に預けた。


 ***


 決行は五日後と決まった。その日は都市で祭りがあるため、旅芸人に紛れて脱出できるというのがデュレーンの案であった。
 その間に、ガルダ人は更に減り、前日になると、とうとう生き残りはエルを含めて四人となった。
 明日、彼らと戦い、夜にカリィカルカッタを殺す。逃がしてくれるなどという話が嘘であることは、分かっていた。エルは殺人狂として血祭りにあげられ、デュレーンがガルダ人と通じていた事実は闇に葬られる。そんなことは、エルでも容易に想像ができた。
 ただ、それでもいい、とエルは思った。もういい、とエルは思っていた。
 カリィカルカッタを殺す。そして一人でも多く、本物のカリィを虐げた人間を道連れにして、死ぬ。
「どうしたの」
 奴隷女を見ていたら、問いかけられた。この顔を見るのも、今日が最後だ。
 静かな女だった。しかし、胸の奥には怒りと苦悩が燠火のようにくすぶっていた。抑圧されながらも、強かに生きようとしていた。
 本来はもっと明るく元気な性格なのかもしれない。名誉を回復すれば、そのようになるだろうか。太陽の下で、鮮やかな服を着て――。
「エル?」
 名を呼ばれた。
 涙が頬を伝っていると、それで気付いた。
「どうしたの」
「わからない」
 嘘だ。本当は分かっている。穢れた自分はもう、死ぬべきだ。一片の救いもなく血に塗れて伏す様こそ相応しい。あの日の、猫の骸のように。
「話していいのよ?」
 そうだ。何も感じなくなった筈なのに。
「話すことは、ない」
 無様に揺れる心など、砕けて消えてしまった筈なのに。
「あたしはあなたに話して、楽になったの。あなたも楽になると思う。今日じゃなくてもいいわよ。いつでも話して」
 届かない光は、どうしてこんなにも眩く暖かいのか。
「……明日になったら話すよ」
 この目はどうして、光を知ってしまったのか。
「明日ね。必ず来るわ」
 カリィは薄く笑う。明日は来ない。エルは知っている。それでいい。笑え。人形のように。胃が引きつる。吐き気がひどい。何も食べていないのに。
 顔を伏せるしかなかった。
 目蓋の裏には、猫の骸が、はっきりと映り込んでいる。


 ***


 目蓋を開くと、戦場であった。双剣を持って立っている。息がしにくい。面を被せられているからだ。
 顔をあげる。貴族の席の中、ヴェールを被った女が、薄布の向こうで微笑している。
 本物のカリィカルカッタをあれほどに苛んだことへの憎悪があった。
 最後に自分へ役目をくれたことへの感謝があった。
 全てを飲み込んで、世界は狂い続けるのだと思った。
 それでいい。報いなどなくていい。
 目を向けると、ガルダ人の生き残りは三人。
 息を吸い、吐く。まずはこれらを始末せねばならない。
 ここまで勝ち残ったガルダ人は、誰もが心を壊しているようだった。狂ったように笑っている者が一人。呆然と立っている者が一人。誰彼構わず傷つけようとして、試合直前まで鎖で縛られている者が一人。
 はじめの戦いの相手は、笑う男だった。長剣を構えながら、男は肩を震わせて笑っている。
 開始の合図をラッパが告げた。罪人どもの最後の戦いと知って、詰めかけた民衆の騒ぎ声が一層大きくなる。
 笑う男は重たい剣を木刀のように軽々と振り上げ、踏み込んできた。けたたましい笑い声が、聴覚を支配する。
 紙一重で避け、鋭く腕を横に振りぬいて刺突する。それも躱され、乱戦となった。
 食べ物を受け付けなくなってから、日を追うごとに体力は目減りしている。長期戦になれば、不利になるのはエルの方だ。
「壊してやる、殺してやる、えへ、ふはひはははははは、壊れろ壊れろ壊れろ壊れろ」
 仮面の向こうで、哄笑に歪む口元が見えた。その口内の奥は、虚無であるように感じられた。
 次の瞬間、エルはその口に剣を突きこんだ。獣のような雄叫びをあげて、笑う男は倒れた。会場が湧いた。
 エルは、謝りはしなかった。勝ち誇りもしなかった。一人、命を殺せば、一つ世界が沈んでいく。ただその禍々しさを、全身から感じていた。
 隣で、呆然とした男と暴れる男の決闘が繰り広げられていた。暴れる男は巨人のような体躯で棍棒を振り回している。呆然とした男は、双剣を持ったまま、それを避けることに注力している。
「逃げるな! それでもガルダ人か!」
「さっさと戦え!」
 勝手な野次が飛び交う。エルは腕についた血を袖で拭い取りながら、それを見ていた。彼らの内、勝った方と戦うことになる。
 勝負はついた。呆然とした男は、ある時、ひらりと身を踊らせた。会場がどよめいた。双剣とかち合わせた棍棒が、根本から折れていた。
 同時にエルは、凍りついた。その動きが、見たことのあるものだったからだ。
 暴れる男は絶叫しながら両腕を振り回す。呆然とした男は、その両腕を次々と切り落とした。身体の内、斬れやすい部分を熟知した動きであった。
 最後に首をか斬られ、暴れる男はどうと地に伏す。
 佇立したエルに、勝者は向き直った。
 だらりと垂れ下がった腕が持ち上がり、エルのよく知る構えを形作る。
 顔は魔物を模した仮面で隠されている。しかしエルは、その向こうにある顔を知っていた。
 ラッパが鳴る間もなく、切り込まれた。とっさに受けたが、勢いを殺しきれずに後ろに飛んだ。背中から地面に叩きつけられ、呼吸が止まる。
 身体を起こすと、敵はすぐそこに迫っていた。
「エル」
 名を呼ばれた。知った声だった。
 どうして、と問う必要もない。
 ガルダ人は皆、同じ命運を辿っている。ならばそこにいるのが兄であったところで、大した疑問は湧かなかった。
 なのに、心臓は大きく波打っていた。あの戦いの最中で死ねなかったのか、と。こみ上げる感情は、哀れみに近かった。
「お前も俺と同じことを考えていたんだな、エル。嬉しいよ。もう生きているのは俺たちだけだ。全ての罪は俺たちが背負った。お前が死んで俺が死ねば、全てが終わる。全てが終わるんだ。素晴らしいことだ」
 兄は正常に、常軌を逸していた。その瞳がエルを見ていないことは、仮面を通してでもよく分かった。
「外民どもめ。今は勝利を謳歌するがいい。しかし我らは蘇る。蘇って復讐するんだ。奴らは駆逐され、森は元通りだ。ああ、いいなあ。みんな、元気にしているだろうか」
 ガルダ人として真っ当に生きた兄であった。始めて殺した人間の頭を、誇らしげに見せてくれた兄だった。その生き方を守るために全てを捧げた兄だった。
 エルは、奥歯を噛み締めた。
「みんな、死んだよ」
 押し出すように、剣を打ち払うように告げる。
「ぼくらの国は、帝国に滅ぼされた。兄さんも言ってたじゃないか、勝者が全てなんだ。ぼくらは弱かった。だから駆逐されるんだ」
 ぴくり、と兄の剣が動いた。始めて兄の殺気がこちらを捉えたような気がした。エルは横に跳躍し、その斬撃をすんでの所で躱した。
「俺たちが弱いだと? あの虫ケラどもよりも?」
「弱かった。帝国を受け入れられなかったぼくらは、弱かったんだ」
「お前はそうやって己の裏切りから目を背けるのか」
 甲高い音と共に、左手の剣が弾き飛ばされた。同時に左腕が痺れたように動かなくなる。
 兄の顔が眼前にあった。
「裏切り者め。死ね。俺も後から行く」
 刃が翻る。刺されば、死ぬ。あれほど焦がれた死が、すぐそこにある。何よりも己に相応しい末路が、そこにある。
 視界が揺らぐ。光が瞬き闇が踊る。
 どうして。
 どうして帝国に歯向かわなければならなかった。
 どうして仲間を屠り続けなければならなかった。
 どうしてあの狂った女に拾われなければならなかった。
 自分の小さな叫び声を、誰か。誰かに聞いて欲しかった。助けて欲しかった。
 しかし、世界に自分はただひとりきりで。
 ああ、それでも。

 ――あなたはガルダ人だけど、普通の人ね。

 一人だけ、耳を傾けてくれた人の眼差しが過ぎる。鮮烈で、痛烈な光と共に。
 手を伸ばす。自分は死すべきだ。しかし、成すべきことを成してから、死すべきだ。
 左手が動いた。相手の刃を通り越して手首を掴み、捻り上げる。
 右手の刃が胸を掠める。身体を逸らしたため、切れたのは皮一枚だ。
 右腕を、兄の首の付根へ振り下ろした。柄まで刺さるほどに深く食い込ませた。
「呪われろ」
 兄はぽつりと呟いた。
「帝国からもガルダからも忌まれ、救いもなく死ね」
 自分の口元が、歪んだ笑みを形作るのを感じた。
「うん。そうするよ」
 会場がどっと沸く。殺せと叫ぶ者。見事だと叫ぶ者。群衆の罵声と歓声。頭が割れるほどの。
 足元に崩れ落ちた屍体に目もくれず、エルは彼らを見上げた。見上げ続けた。
 世界は相変わらず地獄のようだ。それでも自分は、罪を重ねなければならない。

 屋敷で檻から出されると同時に、奴隷の顔面を蹴った。
 出迎えようとしていたカリィカルカッタが、喜びの表情のまま、停止している。
 エルには首輪がついていた。走ると、後ろの荷台も引きずられてついてきた。しかし、重みは感じなかった。気がつけば、鎖が切れていた。デュレーンが細工をしていたのかもしれない。
 女の身体に迫る。きつい香水の香り。首にそっと手を添えた。刹那、女がこちらを見た気がした。自分はたぶん、笑っていたと思う。
 首は脆く、簡単に折れた。
 一瞬の硬直の後、蜘蛛の子を散らすように奴隷たちが逃げていく。近くにいる者から殺していく。彼女の取り巻きは、一人でも多く殺しておいた方が良いと思ったからだ。
 噎せ返るような血の臭いが立ち込めた。持てる技と使える道具を駆使し、効率良く潰していく。
 入り口の方が騒がしくなった。デュレーンの声がした。騒ぎを聞いて駆けつけた風を装っているのだろう。乱暴に戸を破壊し、用心棒を伴って中に入ってくる。その顔が衝撃に引きつった。
「――」
 何名かが嘔吐する。中庭は今や、殺戮の楽園と化していた。顔色を蒼白にさせたデュレーンが、吐き捨てるように告げた。
「化け物め」
 エルはゆるりと立ち、嫌悪を露にするデュレーンに向き合った。彼の横に、弩弓を持った用心棒が三名、既に矢を番えている。
 これで舞台は終わりだ。救いようのないガルダ人は死に、虐げられた者は栄光を手にして物語は幕を閉じる。
 エルは目を閉じた。
 全てが終わる。
「やめて」
 しかし世界は哄笑しながら再び牙を剥いた。
 顔を向ける。奴隷女――本物のカリィカルカッタ。カリィ。
 彼女が短剣を自らの首筋に当てながら、デュレーンを睨み据えていた。
「彼を逃して。でなければ、ここで死ぬわ」
 信じていた世界では、彼女は到来する救世主に感謝し、微笑みを向ける筈だ。
 なのに彼女は冷ややかな眼差しを男にやる。
「それでは困るんでしょう? あたしがあなたの妻になることで、始めてこの家の財産が手に入るんだもの」
 そう言って、カリィは歪むように微笑んだ。
「そもそも、あたしが本当のカリィカルカッタであるかも怪しいけどね。あなたにそう吹きこまれただけだもの。あなたにとって、奴隷女ひとりを貴族に仕立て上げるなんて簡単だわ」
「ま、マルタ。いや、カリィ。きみがカリィであることは本当なんだ。とにかくこの男を殺さねば。ガルダ人なんだぞ」
「そんなことはどうでもいいわ」
 カリィは、はっきりと言った。
「どうでもいいのよ。もう考えるのは疲れたの。あなたたちに振り回されるのは嫌なの。あたしには目に見えてることが全てなのに、勝手な都合で自分の居場所を決められるのは、もう嫌なの」
「カリィ」
 始めてその名で呼んだ。カリィは刃を当てたまま、強い意志を込めて笑った。
「あなたには逃げてほしい。行って、エル」
 違う。心の奥底から、黒く熱いものが滾々と湧き出している。
 こんな顔をさせたくて、殺したのではない。
 犠牲になるべきは自分の方だ。なのに、世界はそれすら許してくれないのか。
 まだ、彷徨えと言うのか。
 まだ、苦しめと言うのか。
 そうなのだろう。世界という名の怪物は、いつだって醜悪に涎を垂らしてエルを見つめている。
「カリィ。貴族として生きていけるか」
 エルは問う。デュレーンが手で弓を制している。だが、それも上辺に過ぎない。エルが動けば矢は放たれ、カリィは取り押さえられるのだろう。
 カリィはデュレーンを眺めやりながら、呟いた。
「言ったでしょ。もう、こういうのは疲れちゃった」
 軽やかに、絶望を紡ぐ。ならばエルにできることをすればいい。死ぬまで苦しんでやり通せばいい。
 足を踏み出す。ガルダ人の男は、戦の強さが全てである。幼い頃から、矢に向き合って進む訓練を行う。デュレーンの合図。矢が放たれる。僅かな挙動で、全てが外れる。踏み込む。彼らは慌てて次の矢を番えている。教えの通りに踏み込む。素手であろうと、ガルダ人は百の殺し手を持っている。
 一人目。胸を強く拳で打つ。肋骨が割れる音を確認した。
 二人目。顎の下から掌底。骨ごと後ろに外れたことを確認した。
 デュレーンを飛び越えて三人目。取り出しかけた矢を奪い、手で心臓に刺す。
 自分が罪を重ねる間、デュレーンは腰を抜かしてへたりこんでいた。視線を向けると、手足を痙攣させ、顔を哀れに歪めて後ずさった。
 息を吐く。そして、カリィを振り返った。カリィは、剣を下ろして立ち尽くしていた。
 彼女はエルの血みどろの姿に、何の反応も示さなかった。同じだ。エルが始めて来た日と。
 彼女は、近寄り、エルの腕を取る。
「あたしがついていってもいいの?」
「ぼくは、いつか死ぬけど」
「あたしがあなたを守るわ」
 一筋の光を灯すように、あるいは終わりなき絶望を指し示すように。
 血に濡れたまま、エルは微かに頷いた。
 目蓋の裏に、猫の骸が横たわっている。
 狂おしい幻想として、そこに横たわっている。




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