-黄金の庭に告ぐ-
<番外編>

猫の骸



「ちょっとエル! ぼんやりしてないで手伝ってくださいよ!」
「ええー。力仕事は苦手なんだよ、ぼく」
「なら縄で縛るくらいやってください! そっちの包みも乗せないといけないんですから」
「ジャドを縛る作業ならやってもいいよ」
「テメェ、殴んぞ!?」
 青空の下に、騒ぎ声はよく通った。その年は、夏の終わりにも関わらず、異様な暑さが続いていた。
 フィランとジャドが汗を拭いながら、馬車に荷物を積んでいる。州都ティシュメで開催される大会議のためだ。
 エルは、ひょいと木箱から立ち上がって縄をとった。軽い荷物は馬車内にくくりつけておかないと、衝撃で落ちてしまうことがあるのだ。
「ああ、クソ。朝っぱらからなんて暑さだよ」
「天気に文句を言ったって始まりませんよ。あと少しですから、さっさと終わらせましょう」
 最近ベルナーデ家に入ってきたフィランは、頭が良く、てきぱきとした若者だ。ただ、他者を自らの心の内に入れないところがあった。本国から恋人と逃げてきたのだという。エルは、彼の心の内に黒い烈火が滾っているように感じていた。その炎が彼自身を焼き尽くさなければいいのだが。もしもそんな時があれば、助けてやりたいと思う。
 そんな風に考えている自分に気づき、エルは僅かに笑った。他人の心配をするなど、自分もずいぶんと余裕が出てきたものだ。
 荷造りが終わる頃、奴隷のリアラが、水を運んできてくれた。フィランとジャドはリアラが感心するほどの勢いで飲み干した。エルはひとり、水を受け取らなかった。この体は未だ相変わらず、ほとんど食べ物を受け付けない。
「留守番は一人で大丈夫なんですか?」
 フィランが二杯目の水を飲みながら問いかけてくる。はじめは食事を伴にしないエルを不審げに眺めることが多かった彼だが、何かを察したのか、今は当然のように接してくれる。
「うん。のんびりやるよー」
「けっ。一人でばっくれやがって。次の州都行きはぜってぇに押し付けてやるからな」
「たまにはいいじゃん。州都はきれーなお姉さんがいっぱいいるでしょ?」
「遊んでる暇があると思うか、テメェ」
「うん、ないね」
 エルはにっこりと笑った。彼自身も何度かギルグランスの護衛で州都を訪れたことがあるが、オーヴィンと共に昼夜走り回っていた記憶しかない。しかもカリィに妙な誤解をされて帰宅後も散々な目に遭ったものだ。
「……どういうことです?」
「行ってのお楽しみだよー。お土産よろしくね」
 何やら不穏な気配を察しているフィランに、エルはぱたぱたと手を振った。ちなみに、以前土産を頼んだとき、オーヴィンは温泉を煮詰めて作ったという曰くつきの特製栄養飲料を買ってきた。ジャドは謎の民芸品を買ったが適当に荷物に放り込んだため帰路で全部壊れた。どちらも灯台島の住民からは大非難を浴びたものだった。
 フィランであれば、一番常識的なものを常識的な方法で持って帰ってきそうだ。マリルなどがこっそり期待しているのをエルは知っている。
 暫く待っていると、オーヴィンがクレーゼを伴って現れた。自然と全員が立ち上がって挨拶をする。クレーゼには、人をそうさせるだけの品格と知性があった。エルとカリィを灯台島で受け入れると初めに言ったのも彼女だ。
「朝からご苦労ね。今日からはよろしくお願いするわ」
「フィラン、マダム・クレーゼには先に乗ってもらっといてくれ。俺はオヤジんとこ行ってくる」
「分かりました」
 州都への出立の日であるため、オーヴィンは何かと気忙しい。フィランがクレーゼを案内して馬車に乗せる。ジャドが立ったまま、欠伸をした。今日は早朝から働き詰めなのだ。
 気温は高いが、木陰にいると、吹き抜ける風が心地良い。同時に、心地良いと感じてしまう心に僅かな痛みが走る。
「おい、エル」
「んー?」
 ジャドが横目でこちらを見ていた。
「テメェ、マジで気ぃつけろよ。一人で深入りして殺されでもしたら笑えねぇからな」
 配下たちは、エルがヴェルスに残る理由を知っている。エルが自ら調査の役を買って出たことも。
 そして、押し付けがましくもなく、ただ仲間として、言葉をくれる。
「……んー」
 目を伏せて言葉を切ったのは、すぐに答えれば声が震えてしまいそうだったからだ。
 救いなどない。報いもない。それが自分だ。相応しい末路は、自分が一番よく知っている。苦しんで、絶望の中に死ぬ。あの猫の骸のように。そう信じているのに、時に世界はこんなにも穏やかで、優しい。
「信用ないなあ。ぼく、ジャドよりは無鉄砲じゃないと思ってるんだけど」
「真面目な話だよ」
 茶化そうとして、無様に失敗した。
 風が吹く。決して罪を洗うことなく、想いを流すことなく、ただ風は吹く。
「絶対に深入りはすんなよ。行動はオレたちが戻ってきてからだ」
 明るい景色。楽しい仲間。信頼できる主。そして、愛する妻。なにもかも、得られなくて当然と思っていたものが、ここにはある。
「そう、だね」
 全てが手の内から消えることを願っているのは、他ならぬ自分自身なのだ。
 気がつけば、口元を歪めて笑っていた。
「やめろ、そういう笑い方。気持ち悪ぃんだよ」
「うん。ごめん」
 エルは俯いた。悲劇の先を転がって、また転がって。しかし、この諦観の闇を、大切な仲間たちに見せてはならないと思った。
「ごめん」
 屋敷から当主とレティオが伴を従えて出てくる。出立だ。
 ジャドはエルの肩を軽く小突き、馬車に乗り込んでいった。

 道端に、猫の骸が落ちていた。

 それはエルの原初の光景だ。あの時、全ての運命が決められたような気がする。
 用事を済ませて家に戻る。カリィが刺繍の手を止めて、出迎えてくれた。
「おかえり。どうしたの?」
 あの頃に比べると、別人と思うほどにカリィは明るくなった。否。これが本来の彼女なのだろう。奴隷として育ち、本来の身分を吹きこまれて苦しみ、自分の下でパンを食べていたあの痛々しい姿は、抑圧されたものだった。
 しかし、二人きりのときだけ、カリィはあの頃の闇を湛えていることがある。エルの中に潜むどす黒いものを、分かち合うかのように。ただ明るいだけでは、エルは焼き殺されてしまうから。
「エル?」
 俯いていると、頬をカリィの掌がなぞり、そのまま抱きしめられた。
 エルは体の力を抜いた。
 皆の顔が、言葉が、頭から離れない。彼らはエルに生きろと言う。世界はエルに苦しめと言う。そしてエルはエルに死んでしまえばいいと言う。
 全てが歪み、狂っている。
 何もかもを壊したくあり、同時に狂おしいほどに愛おしくもある。
 カリィが耳元で何か囁いている。何でも良かった。目を閉じて闇に埋没する。
 きっと、少し疲れているのだ。明日になったら、また自身で立てるだろう。
 だから。
 今夜だけは、暗がりに埋もれたかった。
 闇の向こうに、焦がれた光景が広がっている。


 道端に、猫の骸が落ちていた。

 眼に焼き付けられた、死の印象。


 道端に、猫の骸が落ちていた。

 それだけが、今になっても忘れられない。





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