-黄金の庭に告ぐ- <番外編> 猫の骸 充てがわれた部屋は、物は少ないが清潔に整えられていた。炉には火が入り、空気は十分に暖められていた。 ただ、首の鎖が格子の外に繋がれ、扉に鍵がかかっている。それが、エルを猛獣と区別する証であった。 どうでも良かったので、倒れるように毛布に潜り込んだ。乾燥した場所で最後に眠ったのはいつだろう。考える前に、意識が途切れていた。 人の騒ぐ声で目が覚めた。鉄格子の嵌った窓から、朝日が差し込んでいる。 久々に自分から起きたため、妙な心地であった。遠くで押し問答の声が聞こえる。自分のことで揉めているのかもしれない。 鈍い音をたてて鍵が開いた。 姿を見せたのは、予想を外れて若い女奴隷であった。橙色の髪を真っ直ぐに垂らした娘だ。 娘はエルが起きていると思っていなかったらしく、こちらを見て硬直した。持っていた盆の椀が音を立てる。 そして、そろそろと床に盆を置き、逃げるように出ていった。 ガルダ人には真っ当な扱いだ。心は動きもしなかった。 盆には食事が湯気を立てている。しかし、見るだけで胃が引きつったようになり、とても口に入れる気になれなかった。 暫くすると、喧騒は近くなり、不意に男が鉄格子からこちらを覗いた。 「本物だ。あなたね、自分が何をしているのか分かっているんですか」 「金は存分に払いましてございます。まだ欲しいと仰るのですか?」 「い、いや。そういった意味ではなく」 昨日会ったカリィという女もいるようだ。 「困るんですよ。人民があれほど闘技場に熱狂するのも、ガルダ人を恐れているからこそです。貴族の家で飼うなど、もし逃げ出しなどすれば……」 「ならば、こうするのはいかがですしょう。このガルダ人を、私が闘技場に貸すのです」 「貸す?」 「何と戦わせても構いません。これまでの刑罰を続けてくださっても結構ですわ。私は、この者が戦う様が見たいのです」 僅かな沈黙があった。微かに、硬貨がこすれあう音がした。賄賂が渡されたのだろう。 「……分かりました。そこまで仰るのであれば」 「次の競技は?」 「すぐにでも」 「檻をここへ持ってきて」 足音がひとつ、遠ざかっていく。扉が開き、白い光が差した。カリィの妖艶な顔立ちは、背後の快晴には吐き気を覚えるほど似合わなかった。 「さあ、エル。お仕事の時間よ。今日も素敵に舞ってちょうだい」 *** 目を開けると、双剣を持って舞台に立っていた。円形に広がる客席が、上の方へと続いている。誰もが自分の死を願っている。 ガルダの囚人が、武具を手にこちらへ向かってくる。 一晩、しっかりと眠っただけで、笑ってしまうほどに身体はよく動いた。 左手を前に、右手は下に。構えから一呼吸置き、跳躍。すれ違い様に一人の喉を掻ききり、横から向かってきた敵には下から切り上げる。舞う血しぶきに、客席から興奮の声があがる。 「裏切り者め! グラムを殺したのはお前だろう。恥を知れっ。何故同志を殺せる!?」 叫び声を無視して、首を切り裂く。 どこまでも、現実は腐っていた。 五人をしとめると、六人目が怖気付いた。獄吏が槍でついて前へ押しやろうとしている。 不意に、客席の一点と目があった。 身なりの良い者たちが集まる主催者の席。その端で、カリィがヴェールの合間から、うっとりとこちらを見ている。 痛烈な吐き気が喉元まで突き上げた、触れた喉は、ぬるりと濡れていた。汗なのか血なのか、自分でも分からなかった。 鳥の鳴き声のような雄叫び。腹を槍で突かれたガルダ人が、涙を流しながら向かってくる。このまま、あの剣に貫かれて死んでしまえばいい。 なのに、身体は動く。死にたくないと叫びながら。鬼め。そう言われた。胃液を吐き戻した。そうしている内に、誰かの刃が脇腹を掠めた。会場が沸く。耳が痛い。腕を振るう。それで闇が打ち払えはしないと、分かっているのに。 立っているのが自分だけになると、もう一度だけ顔をあげた。 カリィが満足そうに頷く。 今日も、死ぬことができなかった。 地に、膝がついた。 *** 朦朧とする意識の中、何者かの気配に気がついた。二人いる。 ここは、カリィの屋敷だ。いつの間に戻されたのだろう。 傷口に液体をかけられた。激痛が走り、うめき声が漏れる。一人が低い声で何かを命じた。もう一人がおずおずと、肩を押さえてきた。手足はどこかに固定されているようだった。 手当をされていることは分かったが、痛みはどうしようもなかった。しかも、この痛みの先に更なる苦痛がある。世界は自分を生かそうとする。生かして、苦しめようとする。何故だ、と問いかけても、答えはない。 「……ろして」 なかばうわ言のように繰り返した。 「殺して……くれ。殺して……」 ぼやけた視界の先、肩を押さえていた者が、はっとこちらを見た。今朝方に食事を届けに着た奴隷女であった。 暫くすると、湯で濡らした布が頬に触れた。丁寧な手つきで、血と泥と涙が拭われる。 「無駄なことはやめろ。こいつはガルダ人だぞ」 低い声。エルの脇腹を縫う老人のものだ。 「……手当を命じられているのよ」 ぽそぽそと、聞き取りづらい音で奴隷女が言う。 「それはこのけだものを、明日からも苦しめるためだ」 針を刺しながら、老人は凄惨な笑みで口元を飾った。 「こやつらに私の息子は殺されたのだ。犬のようにな。喚こうが狂おうが、何度でも縫ってやるぞ。あの子の十倍の苦しみを味わうがいいのだ」 奴隷女は何も言わなかった。 ひと通り手当を済ませると、老人は荷物を持って出て行った。 奴隷女は何事か言ってその場に残った。 ぼんやりと、すぐ傍の床に座る奴隷女を見上げていた。手を伸ばせば首に届くほどの近さだ。 恐ろしくないのだろうか。女の首は、小枝のように折ることができそうだ。もしかすると、既にそんなことも出来ないほどに身体が傷ついているのかもしれない。どちらにしろ、意識の感覚は薄く、攻撃どころか、身じろぎする気も起きなかった。 「決めたわ」 奴隷女はぽつりと呟いた。 「近くで百数えて、あなたがあたしを殺そうとしなければ、話してみようと思ったの。百、数えきったわ。あなたはあたしに手を出さなかった」 瞬きをする。奴隷女は、それまでの無表情に、微かな笑みを滲ませた。 「言葉は分かる?」 ガルダ人が言葉を介さないと考えている帝国人は多い。エルは目で頷いた。 「ここはグリュイエ家の屋敷よ。あなたは主のカリィカルカッタに買われてきた」 ほとんど声にならない囁きだ。彼女が主人に敬称をつけないことに、エルは気がついた。 「あの女は殺人狂よ。人が苦しんで死ぬところを見るのが趣味なの。毎日、退屈を持て余しては、気まぐれに奴隷同士に殺し合いをさせてるわ 」 侮蔑が、声に篭っている。奴隷女は、ただならぬ怒りを瞳に溜め、髪を耳にかけた。 「他に知りたいことがあったら、言って。あたしにできるのは、それだけだけど」 どうして自分にこんなことを言うのだ。そう言いたかったが、ほとんど声にならなかった。しかし唇の震えで、奴隷女は悟ったようだった。 「あたし、誰かに伝えたいと思ってたことがあるの。でも、誰にも言えなかった。正常な人なんて、ここにはいないから」 そう言うなら、自分が一番異常だ。人殺しを苦痛に思いながら、いくらでも殺すことのできる自分が。 「ごめんなさい。あなたには迷惑かもしれないけど……もう、一人で苦しむのに疲れちゃった」 契約を取り交わすように、奴隷女はエルの胸に手を置く。 「あなたの名前は知ってるわ。エル。あの女が何度も自慢して言うから。あたしの名前はね――」 「マルタ!」 遠くから呼び声があった。さっと奴隷女は表情を消した。そしてエルの耳元に口を近づけると、何言か囁いた。 エルは、微かに目を見開いた。 「また来るわ」 奴隷女は立ち上がると、走り去っていった。続いて、奴隷頭らしき女性の詰問する声が聞こえ、足音は遠ざかっていく。 耳の中には、奴隷女が残した言葉がいつまでも残っていた。 「あたしはカリィカルカッタ。あたしの名は、カリィというの」 どういうことだろう。発熱する身体を横たえ、エルはぼんやりと考えていた。 *** エルには両親と兄が二人、姉が一人、妹が三人いた。叛乱時までに生きていた兄弟は兄が一人と、妹が二人。他は戦と病で子供の内に死んだ。 戦から帰ってくる父の槍には、いつも敵の首が刺さっていた。エルの住んでいた村が他のガルダ人に襲撃されることもあった。自然と、隠れる技と人を殺す術を覚えた。 勝者は敗者から奪い尽くす。それがガルダの掟だ。疑うことすら知らず、常識として受け取っていた。 だが、帝国ファルダとの戦が、ガルダ人にとって何もかもを変えたのだった。 はじめ、ガルダ人は縄張りの近くまで国境を広げた帝国軍に襲い掛かった。豊かな帝国は、略奪に値する富を持っていたからだ。 しばらく小競り合いが続くと、ついに帝国は国境安定のため、ガルダへの侵攻を始めた。 このとき、エルはまだ子供だった。次々と焼かれる故郷の森を、ただ呆然と見ていることしかできなかった。 しかし、ガルダの全面降伏が成されると、驚くべき時代がやってきた。 勝者は敗者の全てを奪い尽くせ。そう語っていた長老たちが、突然、武具を捨て、文字を習えと言い始めた。どうしても武具を捨てられない者は、帝国軍となり国境の守備に入れとも。 大人たちは激怒していた。長老たちを老いぼれの臆病者と呼ばわった。彼らが臆したからこそ、ガルダは負けたのだと主張した。 だがエルは、そのとき長老の言葉に耳を澄ました数少ないガルダ人の一人であった。 『帝国兵の武具を見ろ。帝国の都市を見ろ。あれほど美しく、あれほど力強い者たちを、私は見たことがない。我々と彼らを分かつものは、知恵だ。我々は、彼らに学ぶべきだと思う』 エルは言いつけに従って帝国の都市を見に行き、衝撃を受けた。建物の規模も。人の多さも。豊かさも。女の美しさも。清潔さも。何もかも、エルの想像を超えた世界が広がっていた。 エルは、獣の皮をまとい、泥にまみれ、双剣を持つ自分の姿が、突然汚らしく思えてきた。 エルは帝国を知ろうとした。商売というものがあることを、そこで始めて学んだ。ガルダ人の内でも物々交換は時折あったが、貨幣を使うことによって、より安全で安定した流通が生まれるのだ。 新しい考えに触れたエルの心は、自然と踊った。 無論、ガルダ人に対する差別はあった。都市に行けば小汚い蛮族だと白い目で見られ、店に入れないことも頻繁にあった。だが、ガルダ人にも対等に接してくれる者も、少数ながら存在した。そのような人を見分けることさえ出来れば、帝国人に染まることは難しくなかった。 エルも都市を探し、文字を始めとした知識を教えてくれる師を見つけた。太った商人であった。代償は、薬草を集めて彼の元へ持っていくことであった。ガルダに伝わる薬の効能は噂に名高く、儲けを狙う商人は多くいたのだ。実際、商人はかなり儲けていたように思う。 エルのように教えを乞いに来るガルダ人は何人かおり、商人は、優秀な者がいれば助手にしてやると言った。俄然とやる気が出た。日夜、慣れない鉄筆で蝋板を引っ掻いて文字を習い、書物を読み、数字を暗唱した。 全てがうまくいっていると思っていた。 幸福な記憶は、そこで唐突に途切れる。 エルの村は定住を強制されていた。そうでなくては税金が均一に取れないためだとエルは理解できたが、大人たちはそれができずに憎悪を募らせていた。気ままに放浪し、気ままに奪う。それがガルダ人の生活であったのだ。 何故都市などに出ていくのだと、両親や兄はいつもエルに文句を言った。エルは帝国文化の素晴らしさを伝えようとしたが、誰も取り合わなかった。妹も同じで、狩猟や盗みばかりをしていた。 ある朝、唐突に都市に行くことを禁じられた。 何故だと問うと、返答の代わりに頬を張られた。命があるだけありがたいと思え。そう父と兄は言った。 間もなくして、集会が開かれた。 連れていかれる途中、猫の屍体を見た。 これから起きる全てのことを、予期するかのような情景であった。 壇上に立つ人物を見て、呆然とした。 赤銅色の長髪を靡かせた男だった。若いが、禍々しい妖気が全身から立ち上っていた。 彼は帝国の圧政からガルダを救い、再び名誉ある独立を勝ち取ると言う。 馬鹿ではないのか。帝国に学ぶことこそガルダが発展する道だ。 反射的にそう思ったものの、不意に男と視線が合い、その鋭さに身体が痺れたように動かなくなった。凶悪な魔物のような目をした男であった。 彼は言った。既に多数の同志が集い、途中の村で人を集めながら進軍している。昨晩から、そして、憎き帝国の都市を焼いていると。 大地が歪んだと思うほどの目眩に襲われた。師は。師は、無事なのだろうか。 村人は熱に浮かされたように、喝采した。男女の区別なく次々と武具を取り、今すぐにでも帝国を焼きにいこうと言わんばかりであった。 気がつけば、走っていた。母なる森を抜けて開けた平地へ。 都市は、炎に包まれていた。 頭の後ろの方が、ちりちりと焦げ付くようだった。何故燃したのだ。あそこには、ガルダが学ぶべき全てがあったのに。 どうして、どうして。 問いかけても、世界は答えをくれない。 都市内部では、かつてのガルダのやり方が徹底して行われていた。 悲鳴、母を呼ぶ子供の泣き声。以前は心が動かなかったものが、今は刺のように両耳を苛んだ。 燃え盛る荷物を飛び越えて、師の家に至る。師は生きていた。荷を集めて逃げるところだった。エルに気づいた師の目に、恐怖が宿った。それは、すぐに怒りに変わった。 「この恩知らずの裏切り者め! 二度と目の前に現れるな!」 呆然と立ちつくした。奴隷と共に荷車を引いて、師は駆けていく。横から、ガルダ人が襲い掛かった。師が肉塊と化すのは、あっという間であった。 師は、赤い死に様を晒す。猫の骸のように。 立っていると、襲われた。帝国兵であった。彼らの敵は、ガルダ人。エルであった。 殺される。嫌だ。折角字を覚えたのに。全てが始まるところだったのに。 身体が、勝手に動いた。武具は持たないようにしていたため、素手だった。それでも、軽々と五人を屍体に変えた。字を習ったのはほんの二年。殺し方を習ったのは、十数年に渡っていた。 わけもわからず、叫んでいた。帝国兵から奪った剣を双剣代わりに二本持ち、襲い来る者を切り刻む。 「いいぞ、殺せ! 帝国の犬どもを殺せ!」 魔物に乗ったガルダ人が次々と現れ、戦を鼓舞する。 世界が崩れかかっている。それを今、自身の手で微塵に砕いているのだ。微かな希望でさえ、残さぬように。 そう。希望はひとひらさえも残さぬべきであった。 残っていたら、それは、ただ痛みになるだけだから。 ガルダ人の士気は凄まじかった。それまで氏族ごとに争っていた彼らは、この時はじめて一丸となった。憎悪は炎の矢となって帝国の脇腹に突き刺さった。 エルは、命じられるがままに戦った。家族は、それでエルが一族の誇りを思い出したのだと安堵したようだったが、逆だった。全ての終わりをエルは悟っていたのだ。だから、自らの思考を放棄した。命じられるままに戦って死のうと思っていた。幸い、身体は勝手に戦士として動いてくれたのだ。 予想どおり、帝国軍の立て直しは早かった。一旦は総崩れとなり、散り散りに逃げた帝国軍であったが、とある一隊が迅速に隊列を組み直し、反転して攻勢に出たのだ。隊の司令官は、地方貴族出身の現場叩き上げであったそうだ。その軍勢は荒れ狂う獣のように、反逆者に襲い掛かった。 幾日もせず、叛乱の首謀者であったバストルが、呆気無く討たれた。指揮系統を失ったガルダ人は、混乱するばかりであった。そうしている内に、怒り狂った皇帝が、自ら大軍を率いて参戦した。 圧倒的な物量を正面から当てられ、ガルダ人は為す術もなく屠られていった。 ようやく死ねる。そう思ったとき、矢傷を受けて後方に運ばれた。手当を受けている間に帝国兵が流れこみ、そのまま捕虜にされた。 後のことは、よく覚えていない。 *** 「……食べないの?」 夕飯を持ってきた奴隷女が、一口もつけていない朝食を見て言った。 エルは壁にもたれかかり、半分目蓋を閉じたままでいた。 「あなた、死にたがってたわね。だから食べないの?」 食べないのではない。食べられないのだ。吐き気が続いている。平静にしていられるのは、胃にものが入っていないときだけだった。しかし、説明するのも億劫だったので、頷くことにした。 馬鹿なことをと笑われると思った。怒りだすかもしれない。食事を用意しているのは、どうやらこの女のようだから。 なのに奴隷女は持ってきた夕飯をエルの横に置き、長い溜息をついた。 「そりゃね。こんな状態になったら、死にたいって思うのが普通の反応だと思うわ」 奴隷女を見る。床に膝をついたまま、淋しげに彼女は言う。 「あなたはガルダ人だけど、普通の人ね。皮肉だわ、こんな屋敷の中で、あの女が連れてきたガルダ人だけが普通の感覚を持っているなんて」 「ぼくは狂ってる、同じガルダ人を殺している」 「殺さなきゃ殺される。なら生きようとして当然よ。それが良いとか悪いとかは別としてね――これ、もらってもいい?」 朝食の余りを奴隷女は指差す。頷くと、奴隷女は干からびたパンを大事そうに手に取り、ちぎって口元に運んだ。痩せ方からして、満足な食事を与えられていないのだろう。しかし、それでも生きようとしているのだ。 「きみは、マルタと呼ばれてた」 「それはあたしの本当の名前じゃないわ」 遮るように、奴隷女は言う。ぼそぼそした喋り声には似合わない、鮮烈な光がその瞳に宿った。 「なら、きみがここの主?」 奴隷女はパンの最後の一欠片を飲み込んで、服の裾を握りしめた。 「あたしは」 不意に、奴隷女が顔をあげた。人の気配。扉が開き、カリィが奴隷を侍らせて入ってくる。今日は、極彩色で美しく着飾っていた。奴隷女は、立ち上がり、頭を垂れた。 「あら。どうしてあなたがここに?」 カリィは軽やかに問いかける。しかし、奴隷女を見る瞳に異様な光が浮いていることに、エルは気がついた。 「食事を運んできたところです」 「ずいぶんと長居をしているようではないですの。まさか猛獣を手懐けようとしていたのですか?」 「いいえ。朝食が余っていたので、文句を言っていました」 奴隷女は顔をあげない。カリィはすっと目を細めた。 「可愛らしい言い訳ですこと」 奴隷女の頬が、微かにひきつった。 反射的に、エルは呼んでいた。 「カリィ」 カリィの意識がこちらに向いたのを確認して、続ける。 「話が聞きたいんだろう。今日は何を話せばいい。ぼくの始めての人殺しの話か。それとも、女同士での決闘の話がいいか」 頭を垂れたまま、奴隷女がこちらを見た。微かな戸惑いが伝わってくる。 カリィは満足そうに頷いた。 「まあ。話したくて仕方がないのね。それでは、あちらでゆっくり話しましょう」 カリィが手で合図をする。すると奴隷女は面を伏せたまま、部屋を去っていった。こちらを振り返りはしない。それでいい、とエルは感じた。 自分はもう、諦めてしまった身だ。穢れてしまった身だ。 しかし彼女は生きようとしている。ならば、自分など振り向きもせずに進めばいいのだ。 夕飯の卓に、パンが一切れ置いてある。これも持っていかせれば良かったと考えながら、エルは身を起こし、煉獄へと足を踏み出した。 Back |