-黄金の庭に告ぐ-
<番外編>

猫の骸



 道端に、猫の骸が落ちていた。

 馬車か何かに轢かれたのだろう。時間が経って腐敗が進み、蝿と蛆にたかられたそれは、決して珍しいわけではなかったのに。
 何故だろう。

 道端に、猫の骸が落ちていた。

 目にした途端、胸におぞましい嫌悪感を覚えて顔を背けた。
 そう、あれは確か戦に出た初めの日。惨敗が分かっていても刃を手に取らねばならず、怒りと諦念の合間に揺れていた、そう、あれは初めの日。
 骸が視界から失せても吐き気は消えず、目蓋の裏には肉塊に残った毛が風になびく様がいつまでも映し出された。
 ああ、きっと。それは予感があったからだ。
 ――あれが、いつかの自分の姿なのだと。
 喉元に指を這わせ、呻くしかなかった朝。

 道端に、猫の骸が落ちていた。

 眼に焼き付けられた、死の印象。

 道端に、猫の骸が落ちていた。

 それだけが、今になっても忘れられない。


 ***


 空気は肌が湧き立つ熱気に包まれていた。
 吹き荒れる歓声とけたたましいラッパの鳴り声、石の椅子には人が虫のようにひしめき、天上からは残酷なまでに強い日差しが降り注ぐ。
 彼ら観客の眼差しの先には巨大な競技場。ラッパ隊の演奏が一際高く鳴り響くと、鉄の柵が開かれて武人たちが現れた。歓声は勢いを増す。耳が痛くなるほどに。
 不気味な鎧や気味の悪い仮面を被った屈強な武人たちは、様々な得物を振り上げてそれに答える。数にして二十。彼らは広い競技場を香水を振りまきながら一周する。その横では祭司が祈りを唱えて祭壇に犠牲の獣を捧げ、奴隷たちは観客席へパンを投げかける。引きずり出された檻からは獰猛な唸り声。観客席には、武人の一人の名を叫ぶ者、手を叩いて騒ぐ者、振舞われたパンを頬張る者。
 こうした狂騒の内に、剣闘士たちの競技は幕をあける。

 剣戟が始まれば、観客は一斉に自分が賭けた者に声援を送る。猛者が巨大な魔物に立ち向かえば、勇気と無謀を見定めた者かと注意深く見守る。素晴らしい武技を見せた者には惜しみない拍手が送られ、逆に尻込みした者には容赦ない罵声と死の宣告が下る。
 決して競技は一つ一つが独立して行われるわけではない。あちらで戦いが始まればこちらで決着が着き、また別の場所で次の者が戦いを始める。
 命を落とした者は死の番人に扮した男が鈎針を使って死の門へと運んでいく。ここで死んだ者はゴミのように川に捨てられるのが運命であった。

 いよいよ競技は終盤に差し掛かり、人々は猛獣を屠る大男にも神速の一閃を誇る武者にも飽き始める。
 そんなとき、今再び鉄の柵は開き、新たな武人たちが姿を現した。数にして十。誰もが仮面や兜で顔を隠し、手には長剣や双剣を持っている。しかし上半身はほぼ裸に近く、見るに奇妙な姿をしていた。更に、彼らの足は重たい枷でつながれている。
 野次は最高潮を迎えた。しかしそれは声援ではなく罵声であった。ありとあらゆる憎悪と怒りが競技場に降り注ぐ。奇妙な格好の男たちは、顔こそ見えないものの、怯えた者が多かったようだ。――己を迎える運命を悟っていたのか。
 主催者の貴族が口上を述べて、立てた親指を下向きに振り下ろす。奴隷が足枷を外し、兵士たちが彼らを強制的に中央へ連れていく。戦いの始まりを告げるラッパは無情に鳴る。
「死を!」
「彼らに死を!」
 一人、二人。一騎打ちの形式で、戦いが繰り広げられる。通常であれば勝負が決まったところで審判が下るが、その戦いはどちらか死ぬまで続けられる。悲鳴、怒号、恐怖と怒り。振りまかれる絶望の内で、戦うことを少しでもためらえば背後の兵士に剣で押し出され、その傷によって死ぬ者もいる。
 彼らは穢れた罪人なのだ。その肉の一片までも、救いは許されないのであった。立ち止まることですら許されない。
 ――例え、屠る相手がかつての同胞だったとしても。
 観衆に責め立てられて、彼らは剣を振るう。帝国の反逆者である、彼らガルダ人は。
 その中に、喉を切り裂かれて死んだ者があった。殺した者は、薄い仮面に顔を隠し、双剣を握っている。続いて無感動な足取りで振り返ると、追い立てられた次の者に斬りかかった。細い腕から繰り出される鋭い薙ぎ。猫のようにしなやかに、そして簡単に命を奪う。
 観客は戸惑いの視線をその者に注ぐ。課せられた凄惨な罰の中で、迷いなく双剣を振るう細い男の姿を、数多の目が映しだす。
「殺せっ!」
 誰かが叫んだ。
「そいつを殺せ!!」
 観客の囃し声に押されて、兵士は他の罪人たちを前に押しやり、その者を屠るように命じる。
 細い上半身を空気に晒したその者は、水のように静かに立っている。しかし次の瞬間、彼の体は宙を舞った。
 血が飛沫となって踊る。人の命が、雪のように脆く散る。
 いくつもの骸を足元に従えて、血塗られた剣を持ってその者は立つ。次から次へと、その者の首を狙って新手が繰り出される。その日の分の罪人がいなくなれば、通常の剣闘士までもが。

 けれど、最後にはその者だけがそこに立っていた。
 そう。その者だけが。


 ***


 胃がひっくり返るほどに吐いて、とうに腹は空っぽだというのに、吐き気が止まらなかった。
 気がつけば意識を失っており、その意識が二度と戻らないことを心から願う。
 夢の闇に縋るように眠り、水をかけられて鞭を振るわれ目が覚めて。
 おぞましいほどの空腹に投げ込まれた食べ物を口が勝手に貪り。
 それも終わると兜を着せられ、双剣を持たされ、そして舞台を強制される。

 一体、何が何処から間違っていたのか、エルにはよく分からなかった。

 視界に靄がかかっている。いつからここにいるのだろう。何ヶ月も前からのような気もするし、まだ数日と経っていない気もする。
 身体に負った傷は、眠っている間に縫われているようだった。つまり、まだ殺してはくれないということだ。それほどまでに民衆の恨みは深いのだろう。
 この都市は、ガルダ人の叛乱時に一度の襲撃を受けている。エルは参加しなかったが、略奪と暴行の横行する地獄と化したことは想像に難くない。奪えるものは奪いつくす。それがガルダの戦い方であり、誇りだ。
 誇り。歯噛みするほどに忌わしい言葉だった。
「なあ」
 声をかけられたのが昼なのか夜なのか、もはや己の眼が開いていることすら定かではない。
「ここから逃げないか」
 始めて眼が視界を捉えた。暗闇の牢獄でエルは死体のように転がっていた。しかしガルダ人は夜目がきく。横目で見ると、隣で同じように仰臥した若者と眼があった。同じくらいの歳の、ガルダ人だった。
「……どうしてぼくと?」
 乾いた唇はくっついていて、無理に喋ると破れて血が滲んだ。喉を搾り、ようやく掠れた声になる。看守からは、苦しみに喘ぐ声にしか聞こえないだろう。
「ぼくは、仲間を殺している」
「ああ、お前はためたいなく殺す。だからお前がいいんだ」
 看守への露見を恐れているのか、若者は仰臥したまま呟く。
「俺だって同胞を殺してる。俺は生きたいからだ。お前もそうだろう。一緒に逃げるなら、共犯者の方が安心する」
 違う、と呟いたつもりだったが、言葉にはならなかった。
「俺はモノトスの氏、ロディの子グラムハル。グラムでいい」
「……エル」
 声を出すことが苦痛というより、ガルダ流の名乗り方をしたくなかった。だが、グラムは違う方向に解釈したようだった。
「消耗してるな。明日に行動を起こすから今日は休め。明日は牢屋の左端の方にいろ」
 それきりグラムは目を閉じた。
 全てが悪夢にしか思えなかったから、エルもまた目蓋を閉じた。


 ***


 肩を揺さぶられる。
「行くぞ」
 悪夢の続きであった。ただ、どうでもいい悪夢であった。あらゆる思考が億劫になっていた。
 グラムが石をどかすと、暗闇が覗いた。格子が嵌まっていたようだが、根本から折れている。スープをかけて腐食させ、壊したのだろう。
 先にグラムが行く。この暗闇の先に何があるのかもどうでも良かった。言われるままに続いた。自分にできることは、目の前の敵を屠り、いつか殺されることだけだ。あの、猫の骸のように。
 後から考えてみても、グラムは衝動的で無分別であった。穴の先に何があるのかも調べず、武具すら持たずに行動を起こしたのだ。実際、穴の先は闘技場の宿舎の通路で、そして二人は簡単に発見された。
「脱走者だ!」
「ガルダ人が逃げたぞ!」
 叫び声があがり、緊急を知らせる鐘が甲高く鳴る。
「ちっ、エル! 強行突破だ!」
 無理だろうと直感していたが、エルは頷いた。出会い頭に看守の首を折って、小剣を奪う。出会う者を次々と薙ぎ払い、鮮血を撒き散らせながら前へ進む。
 宿舎の門は閉ざされていたが、ガルダ人にとって塀を越えることなど造作もない。鼠のように柱を伝って屋根に昇り、跳躍すると、そこは壁の外であった。
「エル、見ろよ。外だぞ」
 喜色ばんだグラムの声。求めていた自由を前に、グラムは目を輝かせて走り出した。
 次の瞬間、その背中に矢が突き刺さった。
 人形のように倒れ伏すグラムを、エルは何の感傷もなく眺めていた。この程度の出来事、既に見飽きている。それを悲しいと思うことすら、やめてしまった。
 振り向くと、宿舎の追跡隊が次々と弓弦に矢を番えていた。ガルダ人を恐れているのか、距離がある。腕は悪く、グラムに当たったのはまぐれのようだった。二、三本が立て続けに放たれるが、エルの脇を素通りしていく。
 早くこの悪夢を終わらせてくれ。
 ふらふらと彼らに近付いていくと、怯えた声があがった。ただ、早く殺してほしいだけなのに。隊長の激が飛び、ようやく再び矢が番えられる。
「お待ちくださいませ」
 放たれようとした矢を、艶やかな女の声が止めていた。
 兵士たちの後ろから、輿に乗った貴族が現れた。ヴェールに隠れて、顔は見えない。隊長がその姿を見て、明らかに動揺する。
「こ、これは」
「偶然通りすがりました。あの男に興味がありますの。わたくしにいただけます?」
 何を言っているのかよく分からない。貴族の女は隊長といくつか会話をし、何かを渡したようだった。
 エルは剣を持った兵士に取り囲まれ、縄に繋がれた。
「弱っているとはいえ、凶悪なガルダ人です。お取り扱いにはご注意を」
「猛獣なのね。嬉しい、前から欲しかったの」
 女に付き従っていた禿頭の奴隷に縄を引かれる。足も縛られているため、布袋のように引きずられるしかなかった。
 悪夢は続いている。
 自分は、まだ骸ではなかった。


 ***


「食べろ」
 そう言われた瞬間、スープの器に顔ごと突っ込まれた。
 屈辱には慣れている。しかし、熱さによる苦痛に、喉が引きつった悲鳴を絞り出した。腕がどけられ、顔を覆ってむせ込む。
 ようやく面をあげると、禿頭の奴隷の、ごみくずを見るような視線とぶつかった。
「ガルダの猿め。こんな奴らに食い物の味が分かるか」
 唾を吐かれる。エルは、ゆっくりとそれまでの記憶を思い出した。
 引きずられて連れていかれた先は、壮麗な屋敷であった。ヴェールを被った女は輿から降りるとエルを舐めるように観察し、こう言った。
『もう少し綺麗にしてちょうだい。体つきが貧相だわ。食べ物もやって』
 エルは捕縛されたまま、小部屋に連れていかれた。すぐに湯気のあがる食事が用意された。
「さっさと食べろ」
 たっぷりと肉の入ったスープ。断面が雪のように白いパン。小皿に盛られた珍味の数々。泡を縁に溜めた、艶やかな葡萄酒。
 夢としか思えないそれらを、ぼんやりと眺めていたら、スープに顔を押し付けられたのだ。
 半ば強制されて、胃袋にそれらを押し込んだ。味はせず、異物感が胃を満たした。時をおかず、全て吐き戻した。
「ちっ。汚え」
 意識が朦朧としている。それからも衣服を剥がれたり湯に放り込まれた。
 闘技場で負った傷には大小関係なく、適切な処理が施された。泥まみれの肌はすっかり清潔さを取り戻し、衣服は真新しいものにされた。
 唯一、拘束具として首輪を取り付けられた。
 香の焚き染められた広い部屋で、再び女に引き合わせられる。彼女の後ろには、屈強な奴隷と女奴隷が数名侍っている。
「まあ。思っていたよりも肌が白いのね、ガルダ人は」
 ヴェールをとった女は、ふくよかだが、口元にほくろがあり、妖艶な顔立ちをしていた。艶のある橙色の髪を緩く結っており、化粧が濃いために具体的な年齢は判断できない。ねっとりと舐めるような眼差しが、エルの四肢を遠慮無く這いまわった。
「顔に火傷をしているわ。新しいわね」
 呟いた女は、老いた女奴隷に何事か確認した。
「そう。傷を負わせたのね」
 そして、その瞳から感情を消し、冷淡に言った。
「その奴隷をここに」
「かしこまりました」
 女奴隷は頭を下げて部屋を辞す。
「ごめんなさいね。躾がなっていなくって」
 立ち上がると床に膝をつき、エルの頬を優しく撫でる。程なくして、先ほどの禿頭の奴隷が引きずられるようにして連れてこられた。エルの横に放られた奴隷は、後ろ手に縛られ、すっかり怯えた様子であった。
 女は臥床に寝そべり、果物を摘んだ。
「それを殺してもらえるかしら」
 何を言っているのか、よく分からなかった。
「聞こえているのかしら? ガルダ人の殺し方を見てみたいの。息を吸うように殺すと聞いているのよ」
「ひっ……」
 奴隷が怯えた眼差しで女と自分を交互に見る。
 身体が重たい。うまく、思考が回らない。
「……命令か?」
 かろうじて、そんな問いを唇に乗せた。
「ええ。命令よ。殺しなさい」
 女は命ずる。いつかの朝、そうやってガルダ人の長が自分に命じたように。
 そして、命じられたままに動くことが、エルの全てであった。
 床を蹴った。奴隷の恐怖に歪む顔が迫る。首輪がじゃらりと音を立てる。それが引きつる寸前、奴隷の頭を左手に抱く。勢いのまま、体重をかけた。ごきり、と生々しい音を立てて、頚椎が折れた。
 物と化した奴隷から手を離し、女を見る。
 女は、無表情で果物を咀嚼していた。やや興が醒めた様子であった。
「ずいぶん綺麗に殺すのですわね。もっと血が流れると思っていましたのに」
「……血を浴びると手足が滑る」
「敵の首を狩って家の前に並べると聞いています」
「首を落とすのは戦いが終わってからだ」
 どうしてこんな会話をしているのだろう。女は優雅に銀の杯に口付ける。
「あなたも女子供構わず殺したのかしら?」
「命令なら」
「どのくらい?」
「一々数えていない」
 正常な心があれば、削られる心地を味わったろう。しかし、既に削られる心すら、なくなってしまっていた。
「あなたは魔物を使役できるの?」
「調練した魔物なら。野生のものは、怒らせるか眠らせる程度しか」
「まあ。魔物の調練を行うのね。興味深いわ」
 く、と女は杯を飲み干した。
「今日は遅いし、この辺にしましょう。寝床を用意させるわ。また、色々と教えてくださると嬉しいわ」
 女が合図すると、奴隷が果物の盆を片付け始めた。女は気だるげに立ち上がった。
「そうだ、忘れていたわ。あなたのお名前は?」
「……エル」
 床に視線を落としたまま応える。床には死体がひとつ、転がっている。
 女の軽やかな笑い声が転がった。

「そう。私はカリィカルカッタ。カリィとお呼びなさい。あなたは私のものですわ」

 一体、何が何処から間違っていたのだろう。
 悪夢は、まだ眼前に続いている。




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