-黄金の庭に告ぐ-
<番外編>

紡ぎ歌



 私は憤慨していました。
 それまで抱いていた喜びと誇りが踏み躙られた気がしたのです。欲しかった細工物を手に入れて、その価値の低さを他人に嘲笑われた気分。
 神聖なる豊饒の巫女の神殿に、なんと若い男が仕えることになったというのです。しかも、元は軍人だったという男です。
 元軍人! 全くもって、とんでもないことでした。
 国の気候の予報という大切な役目を負う豊饒の巫女。そのような方が住まう神殿に仕えるのは、女であって当然なのです。男も数人はおりましたが、どれも枯れた老人ばかり。当たり前です。野蛮な男は美しき庭をその足で荒らすのですから。
 いくら人手不足とはいえ、上の人間は何を考えているのでしょう。

 冴えた具眼を持つティアル様が、本国首都の神殿の巫女に任じられたとき、私は誇らしい思いで一杯でした。お仕えした方が最高の名誉を賜ることは、私にとっての喜びでもあったのです。けれど同時に心配でした。幼い頃から共に育ったティアル様は、臆病な子栗鼠のような方なのです。人と違う力、――人あらざるものを視る力。ティアル様はいつでも己の力を恐れておいででした。
 私がお守りせねば。
 大役を前に怯える稚いティアル様のお姿を見て、自身も幼いながらにそう決意したのです。
 だから許せませんでした。正式な巫女となって間もないティアル様のご住居に、若い男を入れるなど。
 実際、初対面にあって、私はその思いを益々強めることになったのです。
 まず遅刻からしてありえませんでした。散々待ちぼうけをさせておいて、陽が真上に到達した頃、やっと若い男はやってきたのです。ふらりと現れたその男は、顔色が悪く、足取りも確かではありません。その上、何処か漫然としており、気後れした様子は神殿に仕える気概など微塵も感じられない始末。
 冗談ではありません。己の仕事を何だと思っているのでしょう。
 ティアル様を奥の部屋に戻した私は、勇気を絞って男の元へ行くことにしました。
 本来なら顔合わせの折に啖呵を切ることが出来れば良かったのです。しかしお恥ずかしながら、巫女の側女として育った私は男性と話したことが皆無に近く、その場で口を開く勇気が持てなかったのです。まさに一生の不覚。何の為に私はティアル様のお傍にいるのでしょう。
 そう、付け込まれる前に威嚇しておかなければ。今やティアル様を守るのは私しかいないのです。私は唇を噛み締めて覚悟を決め、その男に話しかけました。
「……フィラルディーンと申します。呼ぶときはラルディと」
 若い男――真に不服ですが、便宜上ラルディ様と呼ぶことにします。ラルディ様は、心ここにあらずといった様子で言いました。武人というよりは、文官という印象。けれど引き締まった四肢には、女にも老人にも見ない厳しさがあり、親しみより嫌悪感が勝ります。私は勇気を振り絞り、きっぱりと告げました。
「ここは神に仕える巫女様の神聖なる邸です。貴方様においても、ここにあっては掟に従って頂くこと、ゆめゆめお忘れなきよう」
「……ええ。分かっています」
 ラルディ様は、不思議そうに私を見ます。まるで何故自分がここにいるのか分からないといった様子。しかしこの顔色の悪さは一体どうしたのでしょう。四肢は萎えており、目の下には濃く黒ずんでいます。
 暫く他の女官と神殿内を見回ったラルディ様は、そのままふらふらと帰ってゆきました。
 二度と来なければいいのに。そう思いながら、私は彼の背を睨んだのでした。


 けれど意外なことに、ラルディ様は己が立場を心得ていたようです。
 翌日から彼は神殿の内務に携わることになりましたが、その様子はいつでも控えめ。人の少ない神殿の端の方で、日がな黙々と書類に向き合っていました。
 ティアル様に近寄るどころか、周囲との会話ですら必要最低限。ラルディ様はいつでも半透明の膜が張ったように、外界との繋がりを拒絶しているのでした。
 仕事ぶりは……思っていたよりは、といったところでしょうか。軍人と聞いていたので文字も書けないのではと危ぶんでいたのですが、そつなくこなしていたようです。ただ、毎年同じことを繰り返す神殿において目覚ましい実績を上げるなど無理なこと。もしかしたら優秀な方だったのかもしれませんが、私にはよく分かりません。
 不思議な人でした。
 いつ牙を剥くことやらと気を張っていたのですが、その時は一向に訪れません。
 私は彼を監視するため、いつでも彼の姿を追っていました。けれど、そんな自分が馬鹿らしくなるほど、彼の日常は殻に閉じこもったっきり変わらないのでした。

 ラルディ様が神殿内にいるのが当たり前に思える程度の月日が流れた、ある昼のことでした。
 私は目の前にうず高く詰まれた木箱を前に、途方に暮れていました。祭事用の香木が、倉庫とは逆方面に搬入されてしまったのです。香木の仕入先が変わったと聞いていたので、恐らく新しい運搬者が間違えて運んでしまったのでしょう。
 試しに一つを抱えてみますが、腕が引きつってしまって何秒も持っていられません。仕方ないですが、荷運びの奴隷を手配してもらわねばなりませんでした。
 そんな時、ラルディ様が通りがかったのです。
「どうしましたか」
 その頃のラルディ様は、初対面の時ほど顔色は悪くありませんでした。訳を話すと、ラルディ様は木箱を見上げて言いました。
「僕がやりましょう」
 そう言うなり私の隣に歩いてきて、なんと三箱もまとめて持ち上げたのです。まるで空箱でも持つみたいな気軽さでした。
「運び先へ案内してもらってもいいですか」
 呆然としていた私は、はっとしてラルディ様を見返しました。ラルディ様の金の瞳は、不思議そうに瞬いていました。柔和な優しい面立ち――そんな印象を持ってしまった自分に、心臓が跳ね上がりました。
「わ、分かりました。こちらへ」
 荷運びはあっという間に終わってしまいました。
「今度からは気をつけてもらわないといけませんね。手配はルーカスが行っている筈なので、言っておきますよ」
 ラルディ様は淡々と告げて、呼び止める間もなく行ってしまいました。
 礼を言い忘れたことに気付いたのは、その姿がすっかり見えなくなってからでした。


 ***


「シュリィ」
 名を呼ばれて、私はぎょっとしました。杯からはざばざばと水が溢れていたのです。不覚にも、水を注いでいる間にぼうっとしていたのでした。
 なんということ。慌てて布巾を取る私の横で、ティアル様はぽんやりとその様を眺めています。
 ティアル様は今日は割と気分が良いようで、風通しの良い部屋でくつろいでいるのです。中庭で楽師に琴を奏でるよう申し付けたのが良かったのでしょうか。時折目を閉じて、遠くから聞こえる旋律に耳を傾けていらっしゃるようでした。
 そんな穏やかな午後だというのに、この失態です。
「申し訳ありません。お召し物にかかりませんでしたか?」
 そう言ってもティアル様が自分の服の裾を気にすることはないのですが、声をかける行為が大切なのです。見てみると、ほとんど水はかからなかったようでした。
 私は零してしまった水を入れなおして、ティアル様の隣に腰掛けました。
「あの男のことを考えておりました」
 そう。私を苛立たせるのは、いつだってあの杏色の髪をした男なのです。
「妙です。不埒な企みを持っているなら、そろそろ行動に移してもおかしくないでしょうに。相変わらず、まるで生気がないのです。ティアル様はあの男をどう思いますか」
 ティアル様は、ゆっくりと首を傾げました。このふんわりとした方がその実、天候を読む際は凄まじい速度で予言を告げていくなど、きっと知るのは私だけです。そう思うと、私は誇らしい気持ちで一杯になるのでした。
 ティアル様は、ぽつりと答えました。
「やさしいひと」
 私は杯に口をつけていなくて良かったと思いました。口に水を含んでいたら確実に第二の失態を繰り広げるところでした。
「ティアル様、お気は確かですか!」
 私はティアル様の肩を掴んで引き寄せ、はっとしました。
「まさか、先日の件でそう思われたのですか……!?」
 そう。思い出すだに忌々しい。あの男はティアル様を助けると言いながら近付いたのです。確かに状況としては仕方なかったのかもしれません。機織機の前で転寝をしていたティアル様は、危うく椅子から転がり落ちるところでした。しかし、それにしたって声をかけるとか、もっと他に取るべき行動があったはずです。なのに自分の布を使ってティアル様を受け止めるなんて。ああ、その頭粉々にかち割れてしまえばいいのに!
「シュリィは、嫌い?」
「大嫌いです!」
「どこが?」
「その存在そのものがです! 大体、男なんて気色悪いし汚いし気持ち悪いものですよ。お気をつけください、ティアル様。あの男は腹の内で何を考えているのか分かったものではありません」
「考えてること」
 ティアル様は、ゆっくりと瞬きをしました。
「考えてることは、分からない」
「そうでしょう!? そう思われるでしょう!? こうなったら何故あの男がこの神殿に来たのか、調べなければならないと思うのです」
「考えてることは、分からないけど」
 ティアル様が私の話を聞いていないことなんて日常茶飯事。だからこそ、その続きを聞いた私は思わず停止してしまったのでした。

「とても、傷ついてる」


 ***


 フィラルディーン・ティムス・フォルトス。私はもてる手を使って彼について調べることにしました。というのも、ティアル様の発言が心に引っかかっていたのです。
 ティアル様は、ラルディ様のことを『傷ついている』と評しました。
 まあ、確かに。ラルディ様は始めてお会いしたときも健康そうではありませんでしたし、いつも周囲を拒絶するような振る舞いをなさいます。
 しかし、私が懸念しているのはその点ではありません。彼が傷ついて斃れたならむしろ厄介払いができて僥倖というもの。
 私はティアル様が他人に興味を持ったことの方が心配でした。
 冴えた具眼を持つティアル様は、いつだって心の殻に閉じこもっていて、私以外に声をかけることはありません。
 私はティアル様のたった一人の理解者なのです。
 なのに、ティアル様はあの男を『見た』。そして『評した』。
 物珍しかっただけかもしれません。気まぐれだったのかもしれません。
 しかし私は、はっきりと不安を覚えたのです。
 もしもティアル様が、あの男に特別な感情を示すことでもあれば。
 豊穣の巫女にとって、異性との交際など言語道断。もしも現実となれば、お傍に侍る私だって無事ではいられません。
 いいえ、いいえ。違うのです。私がそれ以上に恐れているのは、私がティアル様にとって特別でなくなることです。
 もしもティアル様があの男に心を寄せ、私が不要になってしまったら。私は一体何処へ行けばいいのでしょう。
 なんとしても、あの男を追い出さねばなりませんでした。
 私は文官たちに聞き込みを続ける内に、奇妙な事実を耳にしました。
 ラルディ様は確かに軍人であったそうですが、軍で問題を起こして半ば無理矢理退役したそうなのです。そして、この首都の歓楽街でその名を轟かせたのだそうです。
 名を轟かせたというのは、決して良い意味ではありません。聞いた噂は真っ黒な水を耳に注ぎ込まれるような恐ろしいものでした。酒に賭博に喧嘩に女。ぞっとする所業を、あの男は日がな繰り返していたというのです。
 なんということでしょう。そんな凶悪な男が、のうのうと神殿に出入りしていただなんて。
 そう思うと同時に、強烈な違和感もありました。
 老人のように俯いているラルディ様。あの方が悪行を繰り返していたなど、とても信じられなくて。
 いいえ。迷っている場合ではありません。
 しかしそれ以上の情報は得られず、私は困り果ててしまいました。すると、ある日の午後、私は文官部屋を訪ねた折にラルディ様に話しかけられました。
 正直、心臓が止まるかと思いました。だって、ラルディ様は。
「僕のことを調べているようですが」
 静かな目で、そんなことを言ったのです。
 私は硬直するしかありません。懐に護身刀でも忍ばせてくれば良かった。目の前にいる男は、大酒飲みで喧嘩早く、血生臭いことを好むけだもの同然の卑劣漢なのですから。
 そう思うと、座ってこちらを見上げるラルディ様の瞳は薄く闇がかかっているように見えます。
「気になることがありましたか」
 ごくり、と唾を飲み込んで、私はラルディ様を睨みつけました。力で勝てないことなど分かっています。しかし、このような野蛮な男にどうして屈することができましょう。これは、戦いなのです。
「……あなたは豊穣の神殿に相応しくありません」
「そうですね」
 思いがけず、ラルディ様は当然のように言いました。胸の奥から不快感がこみあげて、私は拳を握りました。
「私はあなたをここから追い出します」
 きっぱりと。他の文官たちが思わず振り向くほどに堂々と、私は宣言しました。ラルディ様は微かに驚き、探るような視線を向けてきます。いやらしい。
 私は背を向けて文官部屋を飛び出しました。
 心臓がどくどくと脈打っていました。息があがって、頭の中は真っ白でした。
 言ってしまった。争いを布告してしまった。もう引き返せない。
 いいえ。心は初めから決まっていたのです。
 だって、私には分かるのです。ティアル様は、ラルディ様を意識していらっしゃいます。中庭にラルディ様が見えると、ティアル様は必ず顔をあげられます。食べ物を口にしているときでさえ、言葉が少なくなったように思えます。瞑目したティアル様はあの男のことを考えているに違いないのです。
 ティアル様。あなたをお守りするのは、この私です。
 あの男をこの神殿から追い出すには、どうすれば良いのでしょう。
 幾晩も悩んだ私は、文官たちの噂話に目をつけることにしました。
 あの男の行いを、この手で暴いてやるのです。
 聞けば、ラルディ様は神殿に赴任する前は、日がな歓楽街で喧嘩に明け暮れていたということ。その証拠を得れば、国の神祇官に訴えることもできましょう。神聖な巫女の住処に人食い虎が住んでいるとでも書けば、そしてその証拠があれば、今すぐにでもあの男を駆逐することができるのです。
 私は行動を決意しました。


 ***


 神殿を抜け出すのはさほど困難ではありませんでしたが、何度も背筋が凍る思いをすることになりました。なんせ、私は一人での外出ですら始めてだったのです。
 外衣で頭からすっぽり顔を隠し、私は黄昏時の首都へ足を踏み出しました。しかし道路は家路へ急ぐ人々でごったがえし、歩きづらいことこの上ありません。その上、前へ進むごとに、不安が喉元まで競りあがります。
 また引き返すことはできる。
 いいえ。引き返すことはできない。
 私は外衣を胸元できつく寄せて、猥雑な地区へと入りました。
 そこは悪夢という名の幻惑に彩られた迷宮のようでした。きつい香の臭いが充満し、垂れ下がる看板はどれも煤で薄汚れています。汚い男たちが下賤な女に金をちらつかせて何かを交渉しており、軒先では老婆が眼を光らせ、得体の知れない呪物を売っています。そして連なる店からは耳が痛くなるような笑い声や罵声。
 おぞましい場所でした。こんな場所に、本当にラルディ様がいたというのでしょうか。
 目立たぬように歩いているのに、何人もの男が私に無遠慮な視線を向けてきます。目が合うたびに寒気が走り、何度も駆け出しては止まり、辺りを探る羽目になりました。
 涙が出てきそうになりましたが、泣いている場合ではありません。
 ぐっと唇を噛み締めて、私は目的の看板を見つけました。
 それはラルディ様が使っていたのだと文官が噂していた店でした。真偽の程など知りません。しかし私にはそれしか情報がなかったのです。
 意を決して私は店へ入りました。
 途端に、思わず口元を押さえました。吐き気すらこみあげてきます。
 広い店内は酒と香、そして人々の吐く気味悪い息の臭いで満たされていました。淀んだ空気は壁の灯火ですら霞んで見えるほど。そしてカウンターで酒を注いでいた奴隷男が、胡散臭そうにこちらを見ました。
 私は上衣の顔を隠した部分を剥ぎ取り、顔を見せました。そうでなければ対等ではありませんから。
 その途端、店内の空気が変わったように思えました。ねっとりと私の全身を這い回る視線の数々。背筋が凍りつき、歯の根が合わなくなりそうになります。
「ここに、ラルディという方が来ていたと聞いたのですが」
 私はカウンターに近付き、縋る思いで奴隷男に声をかけました。早く証拠を手に入れて、この場を脱出せねばなりません。
 しかし奴隷男は私と視線すら合わせようとしませんでした。
「いたかもね。いなかったかもしれないけど」
「そんな。ちゃんと答えてください」
「お嬢ちゃん」
 まるで猛獣に肩を捕まれた心地でした。振り向くと、髭面の屈強そうな男が薄笑いを浮かべています。
「ラルディだろ。知ってるよ」
 男の着る服は前が大きくあいていて、中から盛り上がった筋肉が見えています。嫌悪を覚えて遠ざかろうとしましたが、腕を捕まれてしまい、それもままなりません。
「知りたい話があるなら教えてやる。こっちへ着て話そうや」
 拒絶したいのに、拒絶せねばならないのに、頭は真っ白でした。私は一度掴まれば二度と抜け出すことのできない罠に自ら足を踏み入れてしまったのです。
 どくどくと心臓が鳴ります。
 嫌。帰りたい。誰か。
 そのときです。場違いなほど穏やかな声がありました。
「その子は僕の連れです、手を放して貰えますか」
 振り向いた私は、あ、と声をあげました。
 ラルディ様でした。杏色の髪の下に、金色の眼を輝かせるその様は、まるで戦の神のようで。
 男はラルディ様を見ると眉をあげ、卑屈に笑います。
「なんだ、ラルディ。久々に来たと思ったら、口のきき方を忘れたみてぇだな?」
 男はラルディ様を見上げるように睨み付けました。
「小奇麗な成りしやがって。神殿に忍び込んだって噂は本当だったんだな」
 耳を塞ぎたくなるような悪意に、しかしラルディ様は眉一つ動かしませんでした。ただ、諦めたように息を吐いただけでした。
「行きましょう」
 そう私を促します。刹那、私ははっとしました。
「舐めやがってッ」
 男が突如拳を振り上げ、ラルディ様のこめかみに叩き付けようとしたのです。
 その後どうなったのか、私の目で追うことはできませんでした。蛇のようにラルディ様が動いたと思った次の瞬間、鈍い音がしました。気が付いたときには、男は鳩尾を押さえて地に伏していました。
「口のきき方を覚えておくのはあなたの方ですよ」
 ラルディ様は私でさえ胸が寒くなるほど冷たく言い放ちました。
「騒がせました」
 ラルディ様はこちらを抜け目なく見つめる奴隷男に銀貨を一枚放ると、私の手首を掴んで外へと連れ出しました。
 私は呆然とラルディ様に手を引かれて歩いていました。ラルディ様は一言もなく、どんどんと先へ進みます。
 今更ながらに恐怖が込み上げてきて、私は自由な方の手で目尻を拭いました。なのに涙は次から次へと溢れてくるのです。
 この男の前では、このように弱い姿を見られてはならないのに。
 なのに、周囲に静寂が戻ってくるにつれて、私は安心してしまって。
 情けなさと安堵で、頭の中はぐちゃぐちゃでした。
 やがて豊穣の神殿が近付いてきました。夜闇に包まれるそこでは、まるで世界に私とラルディ様が二人きりになったようでした。
 ラルディ様がどんな顔をしているかは分かりません。
 きっと愚かな私の振る舞いに呆れ、憤慨しているのでしょう。
 そう思うと、心が妙に騒ぎました。そうあって欲しくない。何故だか胸の内はそんな思いで一杯で。何故そんなことを思うのか。分からなくて、分からなくて。私は俯くばかりでした。
 豊穣の神殿の裏口の前で、ラルディ様は立ち止まりました。私は、どきりとしてその背を見上げました。
「あなたが神殿からいなくなったというので、探しに来たのです。まさか、本当にあんな場所に一人で行くとは思いませんでしたが」
 淡々とした言葉に、胸が引きつりました。それが叱咤であることを悟ったのです。そう、私はこの上ない愚か者だったのです。
 でも、他に出来ることが私にあったのでしょうか。
 ラルディ様は振り向いてこちらを見ました。先ほどの冷たい眼光を想像して、私は身を竦めました。けれどその表情は思いがけないもので、思わず私は、息を呑んでしまいました。
「僕の経歴がそこまで気になったのですか」
 ティアル様が彼を傷ついていると評したとき、私は冗談ではないと思ったものでした。
 しかし私もまたこの時、ティアル様と同じ感想を持ったのです。
 月明かりの元、半分が闇に落ちたラルディ様の顔は、今にも崩れ落ちそうなほど憔悴されていました。
 そしてそのお顔は。
 ティアル様と同じ。
 そう。ティアル様と同じ、絶望と苦悩が浮いていて。
「あなたが勘繰ったとおり、僕はあの地区の住人でした。昼間から酒を呑み、賭博に明け暮れ、先ほどのように平気で人を殴って叩きのめし――」
「やめてください」
 思わず私は言いました。そうでないと、彼がそのまま闇の中へと消えてしまいそうだったから。
 ラルディ様は不思議そうに首を傾げました。
「僕の真実を知りたかったのではないのですか」
 それが何よりも自分自身を傷つけることを知っているように、ラルディ様は笑みすら浮かべてみせるのです。
 まるで悪夢のようなのに。今すぐ解き放たれたいのに。こんな男、破滅すれば良いと思っているのに。
 私はただ、こんなにも傷ついた人を、放っておくことができなかったのです。
「十分です。もう、十分です」
 私は泣きじゃくりました。自分の愚かしさに。無理解に。思い込みに。
「あなたはその事実を十分に悔いていらっしゃる」
 ラルディ様は、言葉に詰まったように唇を引き結びました。そして、不安げに視線を彷徨わせます。
「僕はそこまで善人ではありませんよ」
 ぽつりと落ちた返答に、私は何度も首を横に振りました。だって、善人でなければこの人は私を助けになど来ませんでした。自分をわざと傷つけるような話もしませんでした。ただ隠し通せば良い筈なのです。なのに、彼はそれをしないのです。
「今宵のことは忘れます。もうあのようなところへは参りません」
 それ以上何を言っていいか分からなくて、私は頭を下げると走り出しました。
 ラルディ様は呼び止めませんでした。
 部屋に戻ってから、また礼を言い忘れてしまったと気付いて、私はもう一度だけ声を出さずに泣きました。




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