-黄金の庭に告ぐ- <番外編> 紡ぎ歌 それから、私とラルディ様の関係は少し変わりました。 「供物の手配先をこちらの商会に変えれば、少し安くあがります。先ほど仰ったものであれば、余った資金で補填がきくと思いますよ」 文官部屋で、ラルディ様は私に何枚か巻物を広げてみせます。難しいことばかり書いてありますが、ラルディ様は私の質問に淀みなく答えてみせるのでした。 「良かった。ティアル様も少しはお心が安らかになるでしょう」 「巫女の体はそこまで悪いのですか」 ラルディ様の気遣わしげな言に、私は頷きました。ここのところティアル様の調子が悪く、急ぎ薬の手配をせねばならなかったのです。しかし神祇官たちへ上告すると時間ばかりかかってしまうので、ラルディ様に頼んで工面してもらうことにしたのです。 ラルディ様に頼んだ仕事は、他の文官に頼むより倍は早く済まされました。元々有能な方だったのでしょう。相変わらずラルディ様は表情に乏しく、声をあげて笑うところなど見せてくださいませんが、彼がいることの安心感は拭いがたいものになっていました。 も、もちろん。ティアル様に近付くそぶりを見せたなら、全力を以て阻止いたしますが、そんな様子もないので。それに、ティアル様もラルディ様への興味はそれ以上のものにならなかったようなので。彼が文官部屋の末端に席を置く程度なら、まあ問題ないのではないかと。私はそう思い始めていたのです。 ある日、文官部屋を訪ねると、中央の卓に文官が集まっていました。休憩時間だったようです。卓には薬湯が湯気を立てており、彼らは楽しげに談笑していました。 歓迎を受けて薬湯をいただいた私は、卓に置かれた皮製の札に興味を持ちました。ラルディ様がそれを使って老人の文官と遊戯をしていたのです。ラルディ様が薄く笑って札を返すと、老人は「うあ」と呟いて片手で顔を覆いました。 「また負けた。アンタ、強いなァ」 「今日がついているだけですよ」 「昨日も同じこと言っとったよ」 ラルディ様は含み笑いをしながら軽やかに札を集めます。 「何ですか、それは」 思わず問うと、ラルディ様は一度目を瞬いてから教えてくれました。 「馬札です」 「うまふだ……」 見せてもらうと、札には様々な色の馬と数字が描かれています。ラルディ様曰く、これを使って簡単な遊びから博打まで、何でもできるということです。 「例えば――この中から好きな札を選んでください。札の内容は僕に見せないように」 ラルディ様は持っていた札束を私に差し出します。不思議に思いながらも一枚とると、白足袋の馬と七という数字が書かれていました。 ラルディ様は札束をきりながら、当然のように言いました。 「あなたが引いたのは白足袋の七番ですね」 「えっ」 ぎょっとして私は手の中の札を見つめました。だって、私が自分の意志で引いた札の絵柄や数字を、どうしてラルディ様が知っているのでしょう。 「一体どんな魔術を使ったのです!?」 「あなたの考えていることは大体分かりますから」 「えっ」 「こらこら、ラルディ殿。いたいけな女官をからかってはなりませんぞ」 老人が悪戯っぽく言うと、ラルディ様はまた小さく笑いました。 「冗談ですよ。ちょっとした仕掛けを覚えれば誰にだって出来ます」 そう札を捌く指先は、それこそ魔法を紡ぐかのようで。私はただただ、目を丸くするしかありません。 「ラルディ様は博識なのですね」 「博識っていうと少し違う気がしますけど……」 言いながらも、ラルディ様は嬉しそうです。そういえばラルディ様は、笑うことが前より少し増えたような気がします。 そう思うと胸にじんわりとした温かさが沁みて、私はそれからもしばらくラルディ様に馬札を習うのでした。 *** 「ティアル様、ティアル様! 見てください!」 今日のティアル様は気分が良さそうだったので、私はかねてよりの計画を実行に移すことにしました。 臥床に腰掛けてぼんやりとしているティアル様の前に、小箱の中身をぶちまけます。 「これは馬札といいます」 卓の上にばらまかれた馬札を一つとって渡すと、ティアル様はそれを顔の近くまで近付け、琥珀色の瞳に映しました。 「うまふだ」 「様々な馬と数字が書かれているのです。一枚とて同じ札はありません。庶民はこれを使って遊戯をするそうです」 「ゆうぎ」 「それでは――」 私は慎重に札をかき集め、ティアル様に差し出しました。 「ここから、お好きな札を一枚とってください」 ティアル様の手をとって札の近くに向けてやると、ついと抜き取ってくださいます。 その札の絵柄を見つめるティアル様に、私はぐっと眉を潜め、重々しく告げました。 「ティアル様が引いたのは、黒毛の三番です」 「……」 ティアル様は暫く停止していました。やはり驚きに声もでないといったところでしょうか。ふっふっふ。 「シュリィ」 ティアル様は言って、くるりと札を返しました。 札は斑点模様の五番でした。 「ラルディ様、どういうことです!?」 「え?」 書類の整理をしていたラルディ様をとっ掴まえて、私は詰め寄りました。 経緯を話すと、ラルディ様は困ったように眉を下げました。 「それは普通に失敗したということですね」 「あなたに教えられた通りにやりました!」 「馬札の扱いは練習が必要ですから。失敗は誰にもありますよ」 「あなたがやると成功するではありませんか!」 「僕は指の皮が剥けるまで練習しましたよ」 「ゆっ……」 眩暈がして、私は数歩よたつきました。指の皮が剥けるなど、当然のような顔で言う台詞ではありません。 「嘘に決まってます」 ラルディ様は口の端を曲げて、巻物を傍らの台に置くと、私に掌を差し出しました。 「……確かにそこそこ治ってはいますが。見てみます?」 私はラルディ様の手を凝視し、そして驚きました。傷跡だらけの掌は節くれだっており、明らかに表皮が厚くなっています。 「触ってもよろしいですか」 「どうぞ」 試しに人差し指をひょいと摘んで、私は小さく声をあげました。指と思えないほどかさついて固いのです。 「なんですか、これは」 「僕の手です」 「人間の手とは思えません」 「相変わらず結構な物言いをしますね」 ラルディ様は眉を下げて、自分の両手を合わせました。 「帝国軍では馬札ができれば一般兵と割合すぐに仲良くなれるんですよ」 「何故一般兵とやらと仲良くする必要があるのです?」 瞑目したラルディ様は、苦笑の形に唇を歪めました。 「彼らは僕の部下であり、供に戦う仲です。形だけの隊では実戦で戦えませんから、心の距離を狭めておく必要があるんですよ。――供に飯を食らい、供に賭博をし、供に酒を飲む。それが基本です」 「……つまりあなたは戦うために馬札を練習したのですか」 「はい、そうですよ」 さも当然のように、ラルディ様は肯定なさいます。そして私の目を見て言いました。 「あなたがやっているものであれば、皮が剥けるまで練習する必要はないと思います。頑張ってくださいね」 何故でしょう。その時のラルディ様の笑顔は私の網膜にくっきりと焼きつきました。 胸が高鳴って、頬が熱くなって。どうしてそうなるのか分からず、でも、もっとラルディ様とお話をしたくなって。 いけない。私は一体、何を考えているのです。 「あ――し、失礼します」 やはり私はラルディ様に礼の一つも言うことができないまま、背を向けてしまうのでした。 *** ティアル様はよしよし、と背をさすってくださいました。 何故なら、私が一人で臥床に腰掛けて顔を覆っていたからです。 自己嫌悪で死にたい気分でした。 不覚にも、あれからラルディ様のことが頭から離れないのです。 どうしてでしょう。あんなに腹の立つ男だというのに。いなくなってしまえばいいのに。なのに私は、気がつくと文官部屋へ行く理由を探しているのです。 女官たる身で、私は何を考えているのでしょう。ありえないことです。あってはならないことです。 「どうしたの」 小一時間ばかり経った頃、ティアル様はようやく口を開きました。私はティアル様に向き直りました。 淡い藤色の髪を美しく伸ばしたティアル様は、まるで精霊のよう。清く稚く、憂いを乗せた瞳は息を呑むほどに美しくありました。 優しく傷つきやすい心を持ったティアル様。こんな雲上のお方が、私のことを気にかけてくれるのです。それは女官として至上の喜びです。 なのに私は罪深いことに、女官としてあるまじき考えを抱いてしまったのです。 「ティアル様……」 震える私を、ティアル様は何も言わずに見ていてくださいます。私は俯いて、胸の前で両手を重ねました。心がとても苦しく、息さえ詰まりそうでした。 「ティアル様はラルディ様のことを傷ついていると仰いました」 「うん」 ティアル様は優しく頷いてくださいます。 「私も……ようやく、そう思いました」 「うん」 違う。私が言いたいのはそんなことではないのです。 いいえ。駄目です。言葉にしてはいけません。ティアル様の優しさに甘えて洗いざらい胸の内を口にするなど、あってはならないことです。 「私は……」 言葉が詰まって、私は顔を手で覆いました。するとティアル様は私の髪に手を触れて、そのまま母がするように抱いてくださいました。嗚咽が止まらなくなり、私は声をあげて泣きました。 私はもう、どうすれば良いのか分からなかったのです。 どうしてこんなことになってしまったのか。私の思いを他所に、時は進んでいきます。私はラルディ様の姿を目で追う癖を必死で直そうとし、文官部屋へ行くことも可能な限り減らすように心がけました。 幸か不幸か、事件が起きました。ティアル様が災厄の予兆を『視て』しまったのです。 ティアル様の神託が年を経るごとに正確になっていくことは私も感じていました。しかしその年の神託は、隣で聞いていた私でさえ怖気に震えるような内容でした。 神託の記録係であった私は、一瞬その神託を記すか躊躇したほどです。しかし巫女の傍に侍る女官にとって、巫女の口から齎された神託を誤らずに記すことこそが使命なのです。私は一言も漏らさず、ティアル様の神託を記録しました。 その時、もしも私が一部の神託を改変して口を閉ざしたのなら、事が皇帝に伝わる事態にはならなかったのでしょうか。 嵐はティアル様の言葉通りに到来しました。数多の被害があったと聞きましたが、恐ろしくて自分から調べることなど出来ませんでした。 ティアル様は、酷く塞ぎこんでしまわれました。 私はティアル様が哀れでなりませんでした。ティアル様は、未来に起こる恐ろしい災害を知りながら、それを待つことしかできなかったのです。嵐は神々の怒りであり、その到来を人の力で防ぐことはできないのですから。ティアル様の苦痛はいかばかりのものでしょうか。 私がお守りせねば。その使命感は、私に程よくラルディ様のことを忘れさせてくれました。ほとんど部屋から出なくなったティアル様のお世話のため、私はつきっきりでお傍にいるようになりました。 しかしある日、ティアル様に異変が起きました。ようやくティアル様の顔色が良くなったので、瞑想室に行っていただいた日のことでした。 ティアル様のために蜂蜜水を運んでいた私は、悲鳴を聞きました。中庭から見上げると、階上の回廊で女官が慌てている様が目に入りました。 私は持っていたものを取り落として、そこへ走りました。 やはり悲鳴をあげたのはティアル様で、今までにないような恐怖の眼差しを私に向けられました。 なのにティアル様は、何も話してくださいませんでした。 それからティアル様は怯えきった様子で日がな膝を抱えて過ごされました。私が何を言っても返答はありません。 私は諦めずに何度も声をかけました。ティアル様が喜びそうなものをいくらでも用意しました。なのに振り向いてさえくれません。 ティアル様は、もしかすると私のことが嫌いになったのでしょうか。 どうしましょう。ティアル様に捨てられたら、私はもう行く先はありません。 嫌です。一人にしないでください、ティアル様。 ティアル様の前で泣きながら訴えたこともありました。しかしティアル様は蹲ったまま膝に顔を押し付けて、首を横に振るばかりです。 私は混乱していました。私が私でなくなってしまう気がしました。ティアル様が私を求めて手を伸ばしてくれる日常がないなんて。そんなの、耐えられません。 私に頼れる人は、一人しかいませんでした。 私は意を決し、久しぶりに文官部屋を訪れました。 ラルディ様を呼び出し、中庭で窮状を訴えます。話せば話すほど泣いてしまいそうで、それを必死で堪えながら。 するとラルディ様は言ったのです。 「巫女に会わせていただけますか」 何故でしょう。 何故でしょうね。 私は、とてもとても罪深い女です。 それは求めていた助けが得られる幸せな返答だった筈なのに。 なのに、私は。 心からティアル様を心配するラルディ様を見て。 胸が張り裂けるほどに悲しくなったのです。 当然なのです。ラルディ様は優しいお方です。以前助けていただいたことは、決して特別ではないのです。私と同じようにラルディ様はティアル様を助けようとしている。ただそれだけのことです。 なのに、どうして私は、そんな風に言って欲しくなかったと思ってしまうのか。 「どうされました?」 ラルディ様の声に、私は現実に引き戻されました。唇を噛み締めて、私はラルディ様をティアル様の元へ案内しました。たったそれだけなのに、全身から血を流している気分でした。 ティアル様にラルディ様が声をかけているときも、私は部屋の隅でなるべく聞かないようにしていました。ああ、神がいるなら私に厳罰を下してくださいますよう。私はティアル様がラルディ様のお言葉で心を動かしてしまったらどうしようとすら考えていたのです。 息苦しい時間が過ぎ去ると、ラルディ様は暫く考えて、戯曲を買ってこようと仰いました。私はもう一刻も早くラルディ様の前から離れたくて。それで良いです、と言いました。ラルディ様は本当に優しいのです。頷いて、今から買ってくると仰いました。ティアル様のために。――ティアル様のために。 ラルディ様の姿が見えなくなると、私はいてもたってもいられず、駆け出しました。神殿の裏庭、誰もいない倉庫の裏で私は蹲り、声を押し殺して泣きました。 私はラルディ様が好きです。 押し込めていた心の奥底から、とうとう想いは言葉となってしまいました。 私は、ラルディ様のことが好きなのです。 ああ。もう駄目です。その気持ちに気付いてしまったら、私は女官ではいられない。ティアル様が私を遠ざけて当然です。ティアル様のために私は存在するはずでした。なのに、ティアル様ではないその人に見つめられたいのです。ティアル様でないその人に、ティアル様を見つめて欲しくないのです。 あの晩に手首を引いてくださった、その感触が忘れられないのです。 私は馬鹿です。この上なく愚かです。なのに、胸は痛んで、辛くて、涙が止まらなくて。壊れかけた心を、あのかさついた固い掌で包んで欲しいと願ってしまう。その温もりを夢見てしまう。 でも私は知っている。この恋を成就させてはならない。 どれほど身を切り刻まれる想いをしようと、私は豊穣の巫女の遣い女なのです。ティアル様のためにこそ、私は存在するのです。 涙が枯れるまで泣いて、それも乾くほど。私は長いこと蹲っていました。 そして、ゆっくりと決心しました。 この想いは、ここに置いていくのです。 文官のラルディ様と、巫女のティアル様と、そして私。仮に私がラルディ様に想いを告げてしまえば、全ては壊れてしまうでしょう。だから、私の想いは、ここに置いておくべきものなのです。 そう思うと、目尻が再び濡れました。でも大丈夫。私は私の役目を知っているのですから。 そういえば、私は一度もラルディ様にお礼を言っていません。 戻ってきたら、しっかりと言うことにしましょう。 そこにいてくれてありがとう。あなたがいてくれたことが、私の幸せです。 それで終わりにするのです。 そして、ティアル様に全てを打ち明けましょう。私の汚らわしい思いも全部。ティアル様ならきっと、聞いてくださるはずです。私の傍にいてくださるはずです。 きっと、できるはずです。 それで十分。 もう十分です。 言い聞かせる間、何度か涙がぶり返しましたが、それもようやく収まってきて、私は深呼吸をしました。 もう大丈夫。服の裾で目元を拭い、鼻を啜ります。そろそろティアル様の元へ戻らないと。 その時、遠くから妙な声が聞こえてきました。神聖な神殿に相応しくない叫び声です。 何でしょう。とにかく、ティアル様の下へ戻らねば。 胸騒ぎを覚えて、私は立ち上がったのでした。 了 Back |