-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>12話:生者の行進

06.生者の行進



「つまり叔父上はフィランを疑っていなかったと?」
 レティオは呆然とオーヴィンを見上げたものだった。
「んん。まあ言い方は悪かったけどな」
「そうだ。フィランを捕らえろと言ったではないか」
 自警団での奮戦で一躍有名になったベルナーデ家の跡取りは、不審を露に口の端を曲げている。オーヴィンは思わず苦笑した。
「本当に疑ってたら、ルミニの神殿に殴りこみになんか行かなかったよ」
 ガルダ人の根城がルミニの神殿であると情報を得たとき、ギルグランスは自警団の編成を待って突入することもできたのだ。しかし、フィランが地下からガルダ人の根城に近付いていると妖精クロイスの訴えを聞くや、ギルグランスは単身で乗り込んでいったのである。
 本人に聞けば「面倒だったから」と答えるだろうが、長らく遣えたオーヴィンはその本心を察していた。
「本当にフィランを掴まえていったら、まあ拳一発くらいはあったかもなあ。でも、それで斬り捨てるくらいなら初めから親父は自分の配下になんかしてないよ」
「……」
 レティオはもどかしげに考え込み、押し出すように問うた。
「お前は、そのように考えたから叔父上を信じてついていったのか」
「まあねえ。付き合いは長いし」
 呑気に答えたが、レティオは頬を張られたような表情を見せた。どうも、自分が叔父を信用しなかったことを恥じているらしい。
「叔父上に謝罪してくる」
 そう告げるが早く、踵を返したレティオは全力で走って行った。後ろから慌てて従者の奴隷ピートが追いかける。父セーヴェのように影のごとく追従する域に達するのは何時になるのだろうと考え、オーヴィンは苦笑した。セーヴェだって初めの頃はああやって必死に主人を追っていたのだろう。人間とは、成長するものなのだ、きっと。


 ***


 ヴェルスを襲った凶事の数々は禍々しい爪跡をいくつも残したが、人々の復興にかける意欲は高かった。帝国軍の力を借りずに戦闘民族のガルダ人に勝利したという事実が、ヴェルスの民の心に自立の気概を齎したのだ。
 特に自警団の士気は高まり、彼らを主導として多くの民が復興に協力をした。また、長男を失ったトランヴェードは、その悲しみを外に見せなかったことで、更に人々の涙を誘った。聞いた本人は憤慨したそうだが、吟遊詩人がこぞってその悲劇を歌い、都市に尽くした男の武勇を語ったのである。尚、ギルグランスは影で大層悔しがっていたらしい。
 ギルグランスは州都への報告のため、二人官と共に何度もヴェルスと州都ティシュメを往復することとなった。エウアネーモスやアリラムも搬送され、裁きの後に極刑が決まり、闘技場で最期を迎えた。マリルはミモルザと共にそれを見に行ったようだった。
 総督への報告内容にはガルダ人の残党出現と討伐が含まれたものの、亡者を生成する秘薬の生成法については二人官とギルグランスの検討の元、報告せずに闇に葬ることとなった。今後二度と使われてはならない術であるし、まず総督に知られた時点で悪用されそうである。ダナラスの手記は、今度こそギルグランスの手で燃やされた。
 ちなみにベルナーデ家を厭う総督に何度か「本当の黒幕はベルナーデ家」と濡れ衣を着せられそうになって逆に叩きのめしてやったのは、また別の話である。
 ダナラスの手記を齎した男娼ティンクには、フィランが報告に行った。しかし、ダナラス自身が生きていたことは伏せ、手記が事件解明の役に立ち、ガルダ人を殲滅できたことだけを語った。外の世界を知らない男娼に齎されるものは、優しい事実だけでいい。仇が討てたと涙するティンクを見て、フィランはそう判断したのであった。
 ダナラス当人はディクルースと共に行方が知れない。ギルグランスは時折、その二人の目指した理想に思いを巡らせているようだったが、はっきりと自らの口から語ることはなかった。酒の量は、若干増えたように思う。

「また皇帝が変わったんですか」
 フィランが呟いたのは、飲食店で貰った釣りの銀貨を眺めたときだった。広大な帝国ファルダは皇帝の顔を全土に知らしめるため、銀貨にその横顔と名前を掘り込む習慣があるのだ。真新しい銀貨には、新しい皇帝の凛々しい顔が穿たれている。
「前の皇帝を殺しちまったんだってさ。怖いねえ」
 雲雀亭の主人ベーカーが肩を竦める。これで一年の間に三度皇帝が変わったことになるのだ。既に驚きもしていない様子だった。
 度重なる騒乱に翻弄された本国に君臨した新しき王は、果たして智者か愚者か。このような辺境では、本国の行く末など霧がかって見当すらつかない。
 雲雀亭を出ると、すっかり冬も深まった夜空が大地を暗く覆い、冷気が服の隙間から入り込んでくる。しかし顔を向けると、橙色の灯の色と共に、賑やかな楽曲と囃し声がここまで聞こえてきた。今日は大祓祭の日なのだ。
 本来の大祓祭は、年の終わりを神々に感謝すると共に、一年の間に起きた凶事を清める小規模な祭りなのだが、ガルダ人の一件で多くの秋の祭事が中止になったため、代わりと言わんばかりの盛り上がりようであった。また、祭りの遂行は来年の二人官就任が決まったギルグランスの神祇官長としての最後の職務でもある。
「ごめん。待たせたね」
 待ち合わせ場所には、ティレがぽつりと立っていた。フィランはそこに余計な妖精がいないことに影で安堵したものだった。大よそ祭りの賑やかさにつられて先に行ったのだろう。
 ティレは蔓草の冠をつけており、薄っすらと紅をさしている。フィランは微笑んで恋人の晴れ姿に見入った。きっとマリルにしてもらったのだろう。しかし当人はフィランの反応を伺う様子もなく、興味はすっかり賑わいの方に向いている。
 手を差し出てやると、ティレはいつものように握ってきた。肩を並べて、人ごみの熱気へと入っていく。
 帝国の最高神である天神トロイゼの神殿前に行くと、厳粛な祭事が始まっていた。今回の大祓祭は特別にガルダ人との戦いで亡くなった者たちを弔う式典を組み込んだのだ。神殿の壇上では神祇官長のギルグランスが、犠牲の供物を燃して天への祈りを捧げている。
「去って行った者たちに」
 近しい者を失った人々は、鎮痛な面持ちで頭を垂れた。フィランとティレも同様に俯いて、失った者たちを想う。夜空に覆われた天空は静まり返り、捧げられて燃された牛の煙は穏やかな風に靡いて天へと消えていく。
 突如、太鼓が大きく叩かれた。
 錫杖を手にしたギルグランスが、朗々と祈りを紡ぐ。別れを乗り越え、次なる生を紡ぐために。
「神々よ、とくと照覧あれ。我らが流す血を。我らが謳う嘆きと喜びを。限りある時を歩む我らが生を。我らに与えられた大地に生きる、我らの輝きを」
 激しくも音律豊かに放たれる言霊は、会場の隅々まで響き渡る。晴れ渡った夜空の向こう、星の合間から神々も覗き見るであろう。その声の力強さに。その眼差しの鮮烈さに。
「願わくば加護のあらんことを。我らが行く道に、祝福のあらんことを」
 神祇官長たる当主はそこに救いという言葉を載せない。フィランは微かに笑った。そうだ。神々は人を救わない。ただ気に入った者に運命を押し付ける。神々とは世界のことだ。だから、世界に願うものは祝福だけでいい。あとは自分の力次第なのだから。そして自分の力で歩くことは、誇らしいことだ。
 ギルグランスは目を見開くと、一際声を張り上げた。
「天と地に栄光を! 神々に栄えあれ! 世界に平和、人々に恵みの降り注がんことを!」

「人々に恵みを!」
「神々に栄えを!」
 次々と参列者が声をあげ、嵐のように空気が沸き立つ。踊り子が花弁を散らしながら駆け回り、その合間から楽師による賑やかな楽曲が始まる。
 丁度復興も軌道に乗った時期の大規模な祭事である。ヴェルスの民は、日々の労働を忘れて祭りの賑やかさに酔いしれた。

「全く。こんなに歌い騒いでていいんですかね」
 口を曲げながらも、ちゃっかり鳥肉の揚げ物を買ってティレと共にぱくついているフィランである。
 調子の外れた歌い声に視線をまわすと、派手な服を着たモーレンが両手に娼婦を侍らせて大騒ぎしている。ガルダ人の一件でベルナーデ家から多額の謝礼が払われたためであるが、若干羽目を外しすぎている気がする。後から聞いた話、モーレンは『今を生きる』と嘯いて金を貰うと瞬時に使い果たしてしまうのだそうだ。ある意味気持ちの良い男である。
 灯台島の民も多くが参加しており、冠をつけたマリルが鬼神のような顔をしたミモルザをぐいぐい引っ張って連れているところを目撃したフィランは即座に離脱したものだった。あれに近付いたら死があるのみである。
 怪我も回復して復帰したジャドは一気飲み大会に参加して見事勝ち抜き、「彼女募集中です!」と司会にコメントされてブチ切れていた。あーあーと思いながら眺めていると、オーヴィンとベーカーに羽交い絞めにされて舞台から引き摺り下ろされていった。
 トランヴェードはあまりの騒音に辟易してさっさと帰ろうとした。――ら、市民に気付かれてしまったのか、多くの民に縋りつかれていた。今やトランヴェードといえば脛当て美々しき自警団を率いその剣技は神にも見紛う猛々しき武将(一部吟遊詩人の誇張あり)なのである。
 ちなみにフィランは直接会わなかったが、豊穣の巫女ナディアがこっそり参加しようとしたところをレティオに見咎めらて連れ戻されたらしかった。
 ちなみにちなみに、トージの根城である駱駝亭ではこんな狂騒など可愛く思えるほどの笑い声・怒声・罵声・嬌声・若干悲鳴が入り乱れる宴が催されていた。無頼にも無頼の夜があるのである、うむ。ルディは酔って脱ぎ始めたところをトージに回収されたそうだ。

 ぶらぶらと回っては曲芸師の演舞や見世物屋の手品をティレと共に楽しみつつ、フィランはギルグランスの元に至った。相変わらず後ろにはセーヴェが侍る――もとい目を光らせており、ギルグランスは神祇官長席でつまらなさそうに肘掛に頬杖をついている。その横で、クロイスがもっきゅもっきゅと料理に舌鼓を打っていた。
「すげーよ! 人間の食い物ってこんなにうまいのな」
「分かりましたから、口の周りを拭いてから喋ってくださいね」
 牛肉の香草焼きを貪るクロイスに冷ややかに言い放つと、フィランは暇そうな当主に会釈した。
「良かったら祭りの様子でも語りますが」
「いらんわ」
 ギルグランスはぷいと顔を背けた。本当は一市民として参加したくて仕方がないのだろう。だが参加したらしたで剣術大会などに勝手に出場して大暴れしそうなので、徹底的に監視するセーヴェの判断は正しいとフィランは思う。
「貴様は許婚も元気そうで何よりだな」
 ギルグランスは憎々しげにフィランに告げると、ティレの方を向いてぱっと表情を変えた。
「恋人がつまらなくなったらいつでも来るが良い。喜んで迎えるぞ」
「ぶち殺されたいんですか――ってティレも頷かない!」
 きょとんと見上げてくるティレである。意味が分かっているのか分かっていないのかは甚だ疑問だ。
 ギルグランスは音律豊かな声で笑うと、ふと表情を真剣なものにした。
「ティレ。そなた、あれから何か視えることはあるか?」
 それは、分かる者にしか分からない問いだ。そしてティレも、もう逃げることはしなかった。当主の視線を受けて、小さく頷く。
「……天気がたまに見えるくらい」
「視えてはいるのだな」
「そりゃーな。言ったろ。普通の力にしてやっただけだって。なくなったわけじゃねーよ」
 クロイスがぺろりと指を舐めて口を挟む。
「あとな、新月の日は気をつけろよ。封印の力が弱まる分、視えやすくなるかもしれねー」
「ふむ……」
 何か考えがあるのか、ギルグランスは頬杖にもたれて視線を下方に流す。
「どうしたんです?」
「まあ、じきに話す。何、恐ろしい槍使い殿の許婚だ。命に代えて守らせていただくことに変わりはない」
 にっこりと笑いかけるギルグランスから、さりげなくティレを隠すフィランである。まさか傾倒するとは思っていないが、なるべく近寄らせたくないところであった。
「ところで、皇帝が変わった話は聞かれましたか?」
「うむ。相変わらず騒がしいようだな」
 ギルグランスは杯に口をつけながら、ふっと目を細めた。
「今だ勢力を保った将軍は大勢いる。恐らくあと一、二回は変わるであろうな」
 主に倣って、フィランも歌い騒ぐ人々の様子を振り返って瞳に映す。こうしている間にもヴェルスに本国混乱の影響が出始めているのが現実だ。街道には盗賊が増え、遠方から訪れる商人や旅人は減る傾向にある。帝国軍でも今や自ら皇帝を擁立して立ち上がる軍団が後を絶たず、守備の緩んだ国境では周辺諸国が侵攻の準備をしていると聞く。
 そんな不穏な噂を耳にしながらも、人々はこうして日常を守ろうとしている。それを儚いと言えばいいのか、強かと言えばいいのか、フィランには分からない。
 しかし、今ベルナーデ家が為さねばならぬのは、見えぬ未来に漠然とした不安を抱き続けることではなく、現実を見通して強かに行動することだ。
「肩に力が入りすぎだ、槍使い」
 不意に言葉を投げられて振り向くと、肘掛に頬杖をついたギルグランスの含み笑いがあった。
「じきに騒がしくはなろう。だが今を楽しめぬままでは、人生に隷従しているも同然だぞ」
「……分かってますよ」
 やれやれと肩を下ろして、フィランは薄く笑った。そしてふと隣を見て、ぎょっと目を見開いた。
 馳走を貪る妖精を興味深そうに見つめるティレに、クロイスが笑って料理を指差していた。
「お前も喰えよ。うまいぞ」
 その卓の馳走は当主向けに用意されたものだが、クロイスにはお構いなしのようだった。ティレも喉が渇いていたのだろう。おもむろに卓に乗っていた杯を手に取ると――。
「わっ、ティレ! それ、酒――」
 フィランが声をかけたときには、きゅーっと杯の中身を飲み干していたのだった。
 凍りつくフィランの目の前で、白磁のような顔がみるみる朱に染まっていく。
 ふと空を見上げて、ティレは呟いた。
「明日は、晴れ」
 どたん。仰向けに倒れたティレを前に丸々三秒停止したフィランが慌てて助け起こす。ティレの意識は明後日の方向に吹っ飛んだ様子であった。
「ああ、もう……」
 恋人を抱き上げたフィランの表情に、くつくつとギルグランスが愉しげに笑う。
「明日は晴れか、良いことを聞いたな。では存分に出歩くとするか」
「執務も進めていただきます」
 背後のセーヴェの厳しい指摘に、ぐっとその顔が引きつる。今度はフィランが笑う番だった。
「あー、っくしょ。別に彼女とか欲しいわけじゃねぇっつーの」
「んん。負け惜しみに聞こえる」
「うるせえ!」
 賑やかな会話が聞こえてきたと思えば、ジャドとオーヴィンがあがってくる。
「全く、あの巫女は……」
 辟易した様子で続いてきたのはレティオだ。
 変わらぬ仲間たちの様子に、フィランは頬を微かに緩ませた。
 いつか、家族のように思っていた人々に囲まれて、幸せに暮していたことがあった。しかしそれは蜃気楼のようにフィランを残して失せ、そしてフィランは牙を剥く世界を憎んだ。
 今も不安が完全に消えたわけではない。けれど、今度こそ彼らが消えていかないように、この目をしっかりと開いていようと。
 腕の中で、恋人が眠っている。フィランは彼らの様子を眼に焼き付けると、気付かれないようにそっと会釈をした。


 豊饒の女神を守護神に戴く都市ヴェルス。遥かなる時代には黄金の庭と謳われた裏で、この都市にはあまり知られていないもう一つの物語がある。
 都市が未だ栄華を誇っていたある雨の日のこと、一人の男がこの近くに迷い込んだ。彼の体と心は度重なる裏切りと欺瞞によって傷つき、絶望に満ちていた。終わらぬ争い、驕奢を欲しいままにする貴族たち、利権を追求するばかりに平気で他人を踏み台にする人々。清らかな心を持つが故に男は彼らによって全てを奪われ、ぼろきれのような体で野山を彷徨い、荒野に倒れた。
 それを見つけたのは、ヴェルスの地を耕す一人の農夫だった。一目では人かも分からぬその男を、彼は家に連れ返った。神は乞食の姿をとって人を試し、その徳を計るのだという伝説を、農夫は信じていたのである。
 農夫は妻と共に男を熱い湯で洗い、新しい服を渡してやった。神に捧げ物をし、清められた供物を男にも分けてやった。暖かな麦の粥とチーズ、秘蔵の葡萄酒を出してきて農夫は笑う。きっと口に合うだろう。ここは豊饒の女神様に護られた地だ。だから麦も葡萄も天の丘にあるような見事な実りをつけるのだ、と。
 男は呆然と、与えられた食事をかきこむ。空腹も手伝って、その食事は彼が味わったどんな贅沢品よりも味わい深かった。そして男は農夫に問う。本当に神はいるのだろうか、と。
 農夫は酒をうまそうに飲みながら、質素な椅子で微笑む。いるとも。豊饒の女神、結髪美々しきヴェーラメーラ様は、確かにこの地を愛されている。でなくてはこんな作物が与えられるわけがない。
 農夫の暮らしは質素であった。農夫は荘園の主に仕え、農業に従事しているのだという。朝から夜まで働いて、やっと食べていけるだけの麦と金を貰うことが出来る。
 しかし農夫は笑う。帰る場所があり、守るべき愛しい者がいて、うまい酒が飲めるなら、そこは何処でも楽園だ。神に愛された土地なのだ、と。
 翌朝、男は雨が止んだことに気付いて、外に顔を出してみた。
 秋の収穫が間近に迫る季節だった。
 農夫の家は、荘園の只中にある。その周りには何処までも続く豊饒なる黄金色の麦穂が風に波打ち、朝日を浴びて輝いていた。仕事始めの男たちが口ずさむ神への賛歌が朗々と響く。ごとごとと轍を咬む商人の荷車は異国の宝物を運び、早起きの子供たちが不思議そうに見つめている。空は青い。何処までも遠く青い。そして遥かなる麦畑の向こうに佇む堅牢な城壁、人々の息遣い、海にも見紛う湖。ちらちらと朝日を反射する水面の様は、まるで無数の水晶を浮かべたかのよう。農夫が仕事道具を担いで隣を通り過ぎる。暖かな言葉と共に。それを見送った妻は、洗濯をするために川へ水を汲みに向かう。麦の穂がさわさわと揺れる。
 ――黄金の庭。
 絶望を知る男は、そこにあるものが全て光輝くのだと思ったわけではなかった。けれど彼は得体の知れない感情を持て余し、途方に暮れた。美しかったのだ。こんなにも欺瞞に満ちた世界を、美しいと思ったのだ。彼は幻の光にそっと手を伸ばすかのように、詩を綴り始めた。

 豊饒なる麦穂の波。明星に輝く橄欖の枝葉。
 夕べに安ろう老人は、細波たちと唄うたい――。

 後に詩の聖人として奉られる吟遊詩人サフォーが黄金の庭と名付けて謳ったヴェルスの賛歌は、彼の著述の中でも傑作とされ、今を生きる人々の心をも震わせる。
 そして豊穣の都ヴェルスは、強大なる帝国の前に屈して早百年。今だ人の世は理想郷に程遠く、民は迷夢に惑う。
 しかし神々の加護が注ぐヴェルスは、今日も人の気配で溢れている。まさに詩人が謳った賛歌のように。

 ミラース暦598年の終わり、人々は前を向いて生きる。
 翌年の激動も今だ知らず、人々は今日を生きている。


 -黄金の庭に告ぐ-
 第一部 完




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