-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>12話:生者の行進

04.空白



「フィラン!」
 灯台を降りると、ギルグランスとオーヴィンの二機が走ってくるところであった。
「こちらは無事です! ティレも取り戻しました」
「急げ! 灯台島を脱出するぞ!」
「え?」
 ティレの手を引いたまま聞き返すフィランである。やってきた二人の顔は険しく引き締まっている。
「波が異様に高くなっているのだ。妖精も早く逃げろと言っている。話は後だ、行くぞ」
「は、はい」
 フィランはティレと共に馬上へあがり、前を行く二機に後続した。腕に抱く恋人の体調が心配で、フィランはティレの頭に顔を寄せて言った。
「ティレ、気分が悪くなったら言ってね」
「大丈夫」
 ティレは呟いて、左手にはめられた腕輪に指をおく。
「なにも……見えないの。ごめんなさい、本当なら何が起きるか分かるかもしれなかった」
「ううん。それが普通だよ」
 妖精クロイスの処置が成功していることに、フィランは心から安堵した。ティレは自らの力で背を伸ばして辺りを伺っている。それが人として正しい姿だと、フィランは心から思う。
 森を抜けると、そこは地獄絵図だった。血の霧は収まっていたが、亡者の群があちこちで蠢いている。しかしその亡者は自警団の団員ではなかった。
「これは……」
 フィランは眉を潜める。ガルダ人は最後の戦いにあたり、自らの身体に亡者となる薬物を塗りつけていたのである。敗れたガルダ人は残らず亡者となり、死して尚戦い続けたのだ。
「構うな。一気に抜けるぞ。ついてこれるか、フィラン」
 抜刀したギルグランスに、フィランは後ろから応じた。
「僕にレティオの馬術の仕込みを頼んだのはご当主でしょう。貴方こそ、ここまで来てしくじらないで下さいよ」
「――抜かせ」
 ギルグランスは僅かに振り向いて笑うと、一気に馬の速度をあげた。亡者たちはこちらに気付いてわらわらと集まってくる。自警団は既にほとんどが撤収したようだ。
「あーあー。こりゃあ、この集落はもう再起不能かもなあ」
 集落の惨状を見て、オーヴィンが寂しげに呟く。弩弓のせいで建物の多くは倒壊し、腐臭で溢れ返っている。しかし、ここで戦うことが出来たからこそ、都市には被害が出なかったのも確かだ。
「フィラン、見て」
 ティレが指差した方向を見て、フィランは愕然とした。
「あれは、この前と同じ――!」
 マリルを追っていた時と同様に、湖面の一部が異様に盛り上がっている。流石のギルグランスも振り向いたときには瞠目した。
「なんだ、あれは!?」
「んん。天変地異かね」
 そう言うオーヴィンの横顔も青褪めている。
「急いでください! あれの後には津波が来ます!」
「ええい、見れば分かるわ!」
 舌打ちしたギルグランスは、飛び掛ってきた亡者を片手で薙ぎ払って丘を下った。渡し守の爺がいた桟橋には、自警団の少数が残ってこちらを待っていた。
「遅いぞ、ギルグランス!」
 禿頭の貴族が吼えると、ギルグランスは亡者を見たときよりも嫌そうな顔をした。
「律儀に待っている暇があったら自身の安全を優先しろ! 行くぞ!」
「貴様と同じにするな。先に行け、殿は私が持つ!」
 ギルグランスを追って亡者たちが集まりつつある。同時に荒波が灯台島を襲いはじめていた。代わりにヴェルスへ続く浅瀬の水位は異様に下がっている。
 ギルグランスを先頭にして、一同は一気に馬を走らせた。

 己の言の通り殿を守ったトランヴェードは、否応なく亡者たちとの戦闘に晒された。手足のもげた亡者たちは、それでも生ある者を引きずり込もうと追いすがる。
 突如、トランヴェードの馬が悲鳴をあげた。獣のように追いすがった亡者が、その太ももに歯を立てて食らいついたのだ。体勢を崩したトランヴェードはとっさに鞍に掴まったが、立て直すには傾きすぎていた。馬ごと転倒しそうになったその時、別の亡者が動いた。食らいついた亡者の肩を掴んで引き剥がし、馬乗りになってその場に押しとどめたのだ。
 かろうじて走り続けた馬にしがみついたトランヴェードは、信じられない気分で背後を振り返った。そして、目を見開いた。
 亡者がこちらを見ている。その顔つき。眼差し。そして、手に持つ剣の形。
「メデス」
 次の瞬間、横殴りの波が打ちつけた。地に這う亡者たちは、一気に水の手に流されていった。
「速度を上げろッ!」
 猛威を振るう湖の力に、ギルグランスが激しく叱咤する。水飛沫をあげながら、馬たちは陸へと駆け上がった。

 豊穣の都が抱く湖の異変に、早朝にも関わらず多くの民が岸辺へと集まっていた。それも波が高くなると、悲鳴をあげて高台へと逃げ出す。
 湖面の一部が盛り上がる度に巨大な波が生み出される。その盛り上がりは毎回位置を変え、みるみるヴェルスの湾内に近付いてきた。
 ベルナーデ家と自警団の面々はずぶ濡れになりながらも陸にあがり、怯える馬を叱咤して人々の避難を呼びかけた。
 その時、盛り上がりが一際大きくなった。巨山が出現したとも見紛うほどになった途端、大量の水が頂点から二つに割れて流れ落ち、「それ」が姿を現した。
「すごい」
「――」
 ティレと共に住民の避難を手伝っていたフィランは、あんぐりと口をあけたまま、声も出せなかった。魚とも蜥蜴とも言えぬ生き物であった。灯台島と同じ規模の大きさのある巨体は青光りする鱗に覆われ、濡れた背びれが陽光に輝いている。尾は長く、足は鰭のようだ。藤壷がびっしりと付着した長い首の上には竜にも似た頭部があり、その口がばかりと開いて天にも届けよと言わんばかりに嘶いた。
「いいっ!?」
 それは音波というより衝撃波といった方が近い。びりびりと肌を打ち叩く鳴き声に、馬が次々に泡を吹いてその場に倒れた。
 不意に、フィランが助け起こしていた老人が呆然と呟いた。
「姫神様だ」
「え?」
 聞き返したのは、別の場所で同じ呟きを耳にしていたオーヴィンであった。ヴェルスの老人たちは次々と膝をつき、姫神の名を口にする。
 かつて、ヴェルスが今だ独立の誇りを保っていた時代。陸続きであった灯台に立つ男に恋をした湖の姫神は、姿を現すや灯台ごと岬を湖の中へと引き込んでしまった――。
「いや、あれって伝説じゃ」
「あたりめーだろ、ありゃただの魔物だ!」
 飛んできたクロイスが、顔面を蒼白にさせて言う。
「なんだよ、都市の魔力でここまででかくなったのか? 聞いたことねーよ、そんな話……」
 クロイスは混乱に独り言を繰り返した。古の知識を持つ妖精族がここまで慌てるとなると、事態は尋常ではない。
 すると神々が遣わしたかのような優雅さで、魔物は長い首を曲げた。鰭が湖面を打ち叩き、おぞましい巨体が灯台目掛けて飛び掛った。
 大地が震撼した。水が壁のように伸び上がり、次々と建物に亀裂が走る。島に聳え立っていた灯台はがれきとなって飛散し、濛々とした煙を大地に振り撒いた。


 ***


 たぶん、自分は死んだ。妖精に身動きを封じられ、そのまま波に呑まれた。
 何がいけなかったのだろう。自分の望みは正しかったはず。
 正しい者が弑され、間違った者が生き続く。そんな世界を正したかった。
 広場で泣く捨てられた子供。物乞いをする老人。そんなものを、救いたかった。
 そして、たった一人で岸辺に佇んでいた少女。彼女に、こちらを向いて笑って欲しかった。
 しかし、それはもう叶わない。
 手を伸ばしても、叶わない――。

 近くに気配があった。
 何かを探している気配であった。
 しかし、その何かは見当たらないようだった。
 仕方なく、気配はこちらに意識を向けてきた。

『人の子か。かつて私を裏切った人の子か』

 強烈な禍々しい奔流が、精神の隅々まで流れ込んでくる。
 憤怒と憎悪。暴れる鉄球のような激しい感情。
 一体誰が、このような恐るべき存在を裏切ったというのだ。
 気配は怒りを超越した笑いを墨のように噴き出した。

『力を与えた。我の僕となり、かの樹と我を結びつけるために』
『その者も力を欲した』
『しかし裏切った』
『力を封じ、我の呼びかけに耳を化さず』
『我に背を向けた』

 この身を焼き尽くすかのように燃え盛る思惟。
 しかし同時に、力という言葉に魂が反応した。
 気配もまた、それに気付いた。

『汝は裏切らぬか』

 笑う口元すらないのに、薄っすらと笑みが浮かぶのを感じた。
 力が欲しい。世界を変える力が欲しい。
 生まれたからただ生きている。そんなのは嫌だ。
 折角欲しいものが見つかったのだ。呼吸をする理由を手に入れたのだ。

『――よかろう』
『力を与えよう』
『人の子よ。我の求めに応じて生きよ』
『百年の時を眠り続けた豊穣の都の封印を解け』

 気配が正面からこちらを向いた。
 生ぬるい息が吐きかけられる。
 身体が闇の中から天に引き上げられた。
 耳の中では禍々しい声が幾重にも重なり、終わることなく反響していた。

『汝に戒めとして聞かす』
『記憶に刻め』
『決して忘れるな』

 轟音があった。同時に肉体が再生していく。視界が。呼吸が。鼓動が戻る。
 光の筋となって飛来したものが次々と織り込まれる。
 世界の記憶。人の記憶。「気配」の記憶――。
 全身を黒く塗りつぶすような、憎しみと共に。

『我を百年の前に裏切った人の子の名は』

 それは胸の奥に焼印となって黒く染み付いた。
 最後に見た、陽光を弾く鱗の輝き。

『ヴェレドゥルード・アウル・ベルナーデ』

『呪われよ、その子々孫々に至るまで』

 光が、弾けた。


 波が終わることなく打ち付けている。
 空気が冷たい。もう冬が近いのだ。
 目を開くと、青空が飛び込んできた。雲ひとつない、美しい空だった。
 身体に痛みはない。立ち上がる。
 風に、灰を混ぜた葡萄酒色の髪が吹きさらされる。鳥が優しく鳴いている。
 目を閉じて、また開いた。
 湖に臨むその瞳には、美しい光彩が宿っている。
 ああ、と思って自らの掌を見つめる。
 まだ表へ出る時ではない。今回は、少し早すぎた。欲しいものが見つかったから、功を焦ってしまったのだ。
 驚くほど思考が澄んでいる。まずは彼の元へ戻ろう。考えたいことがある。
 若者はもう一度だけ美しい光景を瞳に映し、踵を返すと、確かな足取りで歩き出した。




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