-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>12話:生者の行進

03.神ですら至ることのできない



 鬨の声が遠くであがった。戦いが始まったようであった。
 ディクルースは灯台島の裏手に隠しておいた船で脱出を試みようとしていた。明け方の薄闇に紛れて灯台島へ走るガルダ人とは早々に道を違え、二人は灯台島の森へと足を踏み入れたのだ。
 はらりと全身を覆っていた黒っぽい布を解く。冬の足音が聞こえてくるかのように、灯台島の朝は寒かった。
 落ち葉の中に巧妙に布を隠したディクルースは、ティレの腕をとった。そして走り出そうとして、足を止めた。
 ティレもディクルースの視線の先を見て、はっとする。立ち木の合間に杖を持った老人が一人、こちらへ鷹のような鋭い眼差しを注いでいる。
 灯台守のパンデモウス。ディクルースの育ての親であった。
「何をしている、小僧」
 ディクルースは無表情にパンデモウスを見返した。
「お爺さんこそ。こんなところで何を?」
 パンデモウスは皺だらけの顔をしかめた。
「薪拾いの小僧が逃げたでな。薪を拾っておったわ」
 それは嘘だと、ティレでも気付いた。パンデモウスの老体ではろくに薪など拾えはしない。しかしディクルースは既に牙も隠さぬ様子で、口角を吊り上げた。
「薪拾いの小僧からの伝言です。――お世話になりました、何も知らないお爺さん」
「貴様が私に隠れて得体の知れぬ者と供にいたこと、知らぬとでも思ったか」
 闇の内から悪鬼が怨念を噴き出すような声であった。ディクルースが一瞬の間の後、打ち返すように言う。
「知ったところで、貴方は何もしなかった。なら、あなたも僕と同罪だ」
「己の行いを罪と認めるか」
 ディクルースの言葉が詰まった。灰を混ぜた葡萄酒色の長い前髪が、白い顔を覆う。
「……そうだ。僕は理想のために罪を犯す。この手で何万の命を殺しながら、その先の理想郷を掴むんだ」
「何故そのように思ったのだ」
「世界が汚れているからだよ、お爺さん」
 ディクルースはそう断じて、ゆっくりとパンデモウスに近付いていった。
「僕はあの灯台からずっとヴェルスを見ていた。全く酷い世界だった。堂々と生きるには、強くなるしかない。慰めなんか何処にもない世界だ」
 刃を抜き払ったような笑みを浮かべ、ディクルースは語る。ティレは胸の上で両手を握る。パンデモウスが、一瞬だけこちらを見たような気がした。
「僕には力がある。なら僕は世界を変革する。もう、誰一人として鞭を打たせはしない」
「貴様のような仕打ちを受けさせないというか」
「そうだよ、お爺さん。始めて出会ったとき、僕の手当てをしてくれて本当にありがとう。世界を救ったのは、お爺さんかもしれないね」
 ディクルースは更に歩を進める。至近距離まで。
「お嬢さんや」
 パンデモウスは、ディクルースをきつく見据えたまま言った。
「逃げなさい」
 鮮血がパンデモウスの背中から噴き出た。魔力の流れが刃となってディクルースの指先から迸ったのだ。
 喉の奥が引きつって、悲鳴すら出なかった。
「ごめんなさい、お爺さん。お爺さんのせいで追っ手がつくと困るんだ」
 頬に返り血を浴びて、ディクルースがぽつりと呟く。狂っている。この男は狂っている。
 全身に怖気と寒気が駆け巡り、足が嘘のように震えだす。
「ティレ。気持ち悪いものを見せてごめんね」
 ディクルースは血を拭って、苦笑した。フィランの堪えるような笑みではない。大切な何かが欠けた笑みであった。
「さあ、早く行こう」
「――」
 返答をする前に、足が地を蹴っていた。すぐに封印魔法を使われるだろう。だが大きな魔法の連発は流石に苦しい筈だ。発動までの間に、逃げなくては。
「おかしいな。死体なんて、見るのは始めてじゃないはずなのに」
 ディクルースの呟きは、突然真剣なものに変わった。ティレもまた、全身を凍りつかせた。
 駆け込んだ草むらの先に、全身を異様な赤黒さに染めたバストルが虚ろに立っている。――亡者だ。
「やっ……」
 視界が明滅する。亡者がこちらに手を伸べてくる。悪夢のような恐怖に、全身を火のように燃やしながらひた走る。

「ちっ」
 ディクルースにとっても、その亡者の出現は想定の外にあった。しかも動きが素早く、あっという間に茂る葉の間に隠れてしまう。手早く片付けるために追おうとすると、突然空から飛来したものがあった。
 それはぴたりとディクルースの眼前で止まり、残忍な笑みを浮かべた。
 手の平に乗るほどの背丈。若草色の髪の下に揺らめく凍てついた灰色の瞳。宙に足を遊ばせ、耳に踊る金のリングピアスをいじりながら、くすくすと嘲笑う。
「見つけた、封印魔法の使い手」
 即座に敵と判断したディクルースは、魔力を手の内に集めて針として放った。先ほどパンデモウスを屠った魔法だ。
 しかし妖精は身じろぎもしなかった。妖精に群がった針は、肌の上で泡のように弾け飛んでしまう。
「下手くそめ」
 小さく侮蔑したルシェトは、ゆっくりと腕を掲げた。
「本物を見せてあげるよ」
 張り詰めた空気がみるみる彼の腕に集まって渦を巻く。流石に危険と知って、ディクルースはその場からの離脱を試みた。
 走る彼の背後から聞こえてきたのは、歌うような詠唱であった。
「精霊よ、久遠の流れに背く者に、永久不変の戒めを。罪深き者を救い、裁定の時を与えたまえ」
 ぱん、と世界が瞬くように白く輝いた。無慈悲に妖精は、魔法の発動の一句を口にした。
「――精霊の御名において」
 瞬間、全身が鈍器で打たれたように硬直した。足も手も、指先でさえも動かない。呆然としていると、目の前にすい、と妖精が下りてきた。
「これが本物の封印魔法だ」
 そして、心地よさげに手を掲げる。そこに火口が現れ、火の玉となって襲い掛かってきた。目の前が紅蓮の炎に覆われる。
 恐怖が込み上げてくるのに、喉を引きつらせることもできない。
 助からない。そう思った瞬間、炎の先に変わらぬ森の姿が映った。続いて風と氷が次々と刃となって打ちつけられる。がつん、がつん、と衝撃の一つ一つはあるのに、痛みがない。荒れ狂う混乱に、それでも声を出すことは叶わない。
「封印魔法をかけられた者は世界から切り離されて停止する。それはいかなる外界からの干渉も受けないということだ」
 次々と攻撃魔法を打ち放ったルシェトは、呆然と凝固するディクルースを小馬鹿にするように見やった。
「人間ぶぜいが、その程度で全能を気取るとは笑わせるね。僕はお前みたいな傲慢な奴が大嫌いだ。さっさと死んでしまえ」
 くすくすくす。生粋の悪意が、見開かれたディクルースの瞳に注がれる。
 ルシェトは笑いながら羽根を翻し、石像も同様の若者を残して宙へと舞い上がった。
「さて、あの具眼の娘はまだ生きているかな……?」


 ***


 強くなる違和感に冷や汗を伝わせながら馬を駆るフィランは、崖の上を走る人影をその眼に捉えた。小鹿のように逃げ惑う少女と、それを追う異形。
「ティレ……!」
 体温が消し飛ぶほどの衝撃に、フィランは反射的に手綱を横に切った。馬は大きく嘶いて立ち上がり、聳え立つ崖に方向を変えて走り始めた。


 このままでは追いつかれる。何度も足を取られそうになりながら、ティレは己の限界を感じていた。人と会わねばならなかったが、もうどちらが集落の方かも分からない。背後の亡者は疲れも知らぬ様子で追ってくる。時折四足になり、本物の獣のようであった。
 何かないかと顔をあげると、島の岬に立つ灯台が瞳に映った。あそこなら篭城できるかもしれない。悲鳴をあげる足を叱咤して、ティレはそちらへ方向を変えた。
 カリィと共に入った記憶が幸いして、灯台の麓からは迅速に行動できた。入り口から中に入って、木製の扉を閉める。閂のない作りであったため、ティレは階段を使って上階へと至った。上っている間に、がつり、と凶暴な音があった。扉が破られたのだろう。
 最上階の部屋に入ると、燃え盛る灯台の灯の激しさに思わず息を呑んだ。灯を絶やさぬためか、己の最期を知っていたのか、パンデモウスは全ての薪を炉に入れて行ったのだ。焼けるような暑さであった。
 振り向き様に扉を閉め、閂をかける。ほどなくして、扉に大きなものが当たるおぞましい音がした。何度も体当たりをしているようで、みしみしと木が撓む。
 反対側の壁で祈るようにその様を見つめていたティレは、暫くして音が止むと、その場にへたりこんだ。途端に、どっと汗が出てきた。
 心臓が口から飛び出しそうなほどに鳴り、荒い呼吸は自分のものではないようだった。視界が歪んでいると思ったら、涙が溢れていた。
 ――生きている。自分は、生きているのだ。
 そんな感慨が込み上げ、ティレは指で目を拭った。まだ、戦いが終わったわけではない。自分は、生き続けなければならない。
 まずはディクルースに見つからないように、誰かと合流しなければ。外の様子はどうなっているだろうと、ティレは窓に手をかけた。
 そして、窓枠の外から黒い手を伸ばして這い上がるバストルと視線を通わせた。


 赤黒い染みを追って灯台へ至ったフィランは、槍を抜き払ったまま全速力で階段を上った。最上階の扉には大量の肉片と引っかいた跡が残っている。頬を撓ませたフィランは、足腰に全身の力を込めて肩から扉にぶつかった。
 蝶番が弾け飛び、扉の板と共に中へと転がる。立ち上がると共に素早く視線を巡らせたフィランは、考えるより先に足を踏み出していた。転倒したティレにたった今襲いかかろうとしている亡者に、鋭く槍を突きこむ。
 だが、それはただの亡者ではなかった。長い赤銅色の髪を散らしてこちらを向いたその顔に、フィランは血の気が飛ぶのを感じた。身体をずらして穂先を躱し、狼のような動きで間合いをとる。
 ガルダ人の長バストル。その胸から背には穴が開き、血走った目は見開かれるまま。手には長剣を持ち、低い唸り声を吐き出している。
「ティレ、今の内に奥へ!」
 ティレの様子を詳しく確かめる余裕もなく、それだけ叫んだフィランはバストルの剣戟を受けた。作法に従い横に流したが、その重さが尋常ではない。
「ちっ……」
 一度は負けた相手だ。全身の力を振り絞って戦って、しかしこの男には蹂躙された。恐怖が胃の腑から喉元まで込み上げる。それを無理矢理飲み込んで、フィランは金の瞳を輝かせた。
 斬撃を流すのではなく躱すように身体を動かし、相手が振り下ろした間隙を縫って槍を打ち込む。炙ったチーズのように肉片が飛び、バストルが後退する。しかし反撃も早かった。赤黒い血で汚れた口元を笑みを浮かべたように歪ませ、狂った速度で突きを為す。
 避け、払い、突く。二つの刃の舞が互いの位置を入れ替えながら続く。片方は守るべき恋人を取り戻し、己の理想郷を掴むために。もう片方は、強きが弱きを蹂躙する理を示すために。守と攻は一歩も譲らず、風を切る刃の音と互いの呼気、そして燃え盛る炎の音だけが支配する。
 フィランは牙を剥き出しにして襲い掛かるバストルの顔を見た。答えを見つけたその様の、なんと迷いのないことか。神々がそうであるように、残酷に、幸福に、彼らは己が業を為す。それがどのような歪みを生んだとしても、答えに向かって突き進む。眩く、美しく、なんと羨ましいことか。
 しかしフィランはそうなれなかった。諦めながらも切望してしまう。苦しみながらももがいてしまう。陽光に灼かれ、風雨に晒され、砂嵐に目の前を覆われても。栄光ある天を求めることなく、ただ前へ進もうとしてしまう。
 それは生きている内に何も為せぬ愚かな姿なのかもしれぬ。
 それでも、共に歩く人がいる。
 もたれあって、依存しあって。無様に互いを傷つけあい、あるいは和解し、笑い、泣きながら、傍で共に歩く人がいる。
 だから天に向かって吼えよう。仕える主の家紋において、翼なき一角獣が大地を強く咬んで空に挑むように。
 ――見るがいい。我々が人として生きるその様を。
 転機は一瞬の出来事であった。フィランは相手に深く踏み込んで得物を振るおうとした。その動きを敏感に察知した亡者が、剣を振り上げた。
 石畳についた足に体重を込めた瞬間、突然視界が回転した。足先の感覚で、瞬時に状況を理解し、そして青くなった。長い間使っていた旅用のサンダルの緒が切れて、足が滑ったのだ。
 理解したからといってすぐに動けるものでもない。裸足が滑るまま、仰向けに倒れた。顎を引いて後頭部の強打から免れたが、背中を強かに打って呼吸が詰まった。この隙をバストルが逃す筈がなかった。
 しかし、それは生者のバストルに限った話であった。突然視界から失せた若者を、亡者は素早く捉えることができなかった。
 見上げたバストルは、困惑に停止している。ぎっと歯を食いしばったフィランは、仰臥の体勢から起き上がる勢いを使って渾身の力で槍を突き上げた。
 名状しがたい声が、胸を貫かれたバストルの喉から迸る。槍の柄を持って身体を引き抜こうとするバストルを、立ち上がったフィランは串刺しのまま横に凪いだ。
「随分と勝手なことしてくれましたけどね」
 その先には轟々と燃え盛る煉獄の炎。灯台の灯だ。
「汚い手で僕のティレに触れるんじゃありませんよッ」
 絶叫と共にバストルの身体は槍もろとも炎に投げ込まれ、黒い影となって消えていった。

 片方だけ裸足となったフィランは、太ももに手をついてぜいぜいと肩を揺らした。昨日塞いでもらった傷がいくつか開いたようだ。全身に焼け付く痛みがある。
 しかし、冷涼とした風が吹き込むように。
 誰かが、フィランの名を呼んでくれる。
「フィラン」
 それだけで生きていける。世界に認めてもらえなくとも、誰かに存在を認めてもらえるなら。
「フィラン……っ」
 苦心して膝から手を放し、身体の向きを変える。
 そして、息を呑んだ。
 世界を傍観し、世界を否定し、世界から逸脱していた少女は、今や自らの足で地を踏み、腕の中に飛び込んでくる。
 抱きとめたその身体は細く脆く砕けてしまいそうで、しかし確かに生きている。
「ティレ……」
 背中に手を回してしがみ付いたティレは、胸に顔を埋めて何度もしゃくりあげた。
 自分よりも小さな身体だというのに、抱きしめられている気分になるのは何故だろう。
「ティレ、ごめん」
 けぶる淡い藤色の髪に指を被せて、握る。
「ティレの言う通りだったよ」
 その柔らかな感触に。生きている痛みに。涙が零れ落ちた。
「帰ろう。皆のところに」
 腕の中で、ティレは頷いた。
 陽光が、みるみると高くなっていく。フィランは、恋人を強く抱きしめた。




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