-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>12話:生者の行進

01.予兆、未来を生きる者たち



 ベルナーデ家の邸宅内に集められた灯台島の住民は、慣れぬ時間を過ごしていた。本来ならまだ日が出ている時間帯であるが、吹き荒れる豪雨のせいで夜のような暗さであった。
 クレーゼは列柱に手を添えて遠くに見える灯台を見つめていた。あの中にはパンデモ爺が一人で残っているのだ。更に、現状で自由に部屋の出入りができるのはクレーゼただ一人であった。他の島民はミモルザを除き、事実上、室内に軟禁されている。医女として駆りだされたミモルザにも、ベルナーデ家の奴隷が監視のため同行しているという。
 ギルグランスはダナラスの日記を読んで灯台島の民に裏切り者がいると知り、その処置をとったのだ。事実を知らされたのはクレーゼだけだった。クレーゼは心を痛めながらも、当主の判断に従ったのであった。
 しかし理性で分かっていても、身内を疑うのは辛いことだ。クレーゼは風の吹き荒れる曇天の下に聳える灯台見据え、そっと胸に手をやるのであった。

「カリィ、手伝えなくてごめんなさい」
「ん? 何言ってるの。いいから寝てなさい」
 女性陣にあてがわれた部屋で毛布を畳むカリィを、マリルは気まずげに見上げた。怪我の癒えないマリルは、寝台から出るなとミモルザから厳命されているのだ。それにしても、自分だけこれは不公平だと思う。ミモルザだって毒が抜けきっていないのに、都市の医者に混じって負傷者の治療にあたっているのだ。
 一仕事終えたカリィはマリルの枕元に座ると、荷物から刺繍道具を取り出した。あ、とマリルは目を見開く。
「また始めたんですか」
「うん。これからは、一人で稼がなきゃいけないからね」
 刺繍の得意なカリィは、夫が生きていた頃は縫った刺繍を売りに出して家計を助けていたものだった。暫くは家に篭ったきりだったが、それをまた始めたということは、ようやく彼女に生きる意志が戻ったということだろう。
 生成りの布には、既に瑞々しい草花が刺繍糸で彩られている。今は半分といったところだが、完成すれば見事な品になるだろう。物々しく空気が張り詰めたベルナーデ家の邸宅にあって、マリルはようやく微かな希望に出会ったような気がした。
「それじゃあ、出来上がったらマリルにも買わせてください」
「あら。マリルならタダでいいわよ。ティレとお揃いで縫ってあげるからね」
「――」
 つとマリルは眉を下げた。しかしカリィは布に針を通しながら続けた。
「大丈夫よ。きっと戻ってくるわ、きっとね」
 だって、生きているんだもの。やつれた横顔からそんな続きが聞こえてくるようで。だからマリルは不安がってはいけないと思った。信じることが、どれほど辛くとも。
 ティレが戻ってきたら、まずは謝らねばならない。その後は何を話そうか――そう考えたとき、ふとカリィの手が止まっていることに気付いた。口元に手をあてて背中を丸め、辛そうにしている。
「カリィ? どうしたんですか?」
 思わず身体を起こしかけて、自身に走る痛みにマリルも顔を歪めてしまう。
「ごめん。大丈夫……」
 カリィは青白い顔で呟いて、何度か深く息を吸った。
「だ、駄目ですよ。カリィだって本調子じゃないです。寝てた方がいいんじゃないですか」
「ううん。なんだか、寝てても起きてても同じなの。ちょっとだるくて、吐き気が治まらなくって。……うん、でも平気よ」
 カリィは自分に言い聞かせるように空元気を出す。何かの病に侵されているのではないだろうかと、マリルは不安になった。思えばカリィはすっかり食が細くなったし、今日の朝食も戻してしまっていた。ミモルザが帰ってきたら観てもらわなければ。少なくともこんな症例で、マリルに思いつくものといえば――。
「あ」
 閃きが走り、頬をはたかれたように、マリルは硬直した。込み上げる予感に、思わず真顔でじっとカリィを見つめてしまう。
「カリィ……」
「ん、なに?」
 疲れた様子で見返すカリィに、マリルは一つ息を呑んでから口を開いた。
「ちょっと質問をさせてください。失礼なことを聞くかもれないです。いいですか?」
「どうしたのよ、突然」
 怪訝そうなカリィに向け、マリルはゆっくりと質問を投げかけていった。


 -黄金の庭に告ぐ-
 12話:生者の行進


 ***


 豊穣の都ヴェルスを包んだ横殴りの雨は、腐肉をまとう亡者の動きを弱めたが、自警団をはじめ包囲網に加わっている者たちに休む暇はなかった。少ない人員で防衛を固めるため、近辺の家を崩して防塞を築る作業は、豪雨の中では困難を極めた。都市を駆け回るトランヴェードの懸命な激励叱咤がなければ、彼らの腕は疲労と恐怖に萎えてしまっていたことだろう。
 日没前に食糧が配られたが、間もなく天候は霧雨となり、再び亡者たちの攻撃が始まった。
 断続的に交戦の怒号が聞こえてくる。遊軍として参戦していたレティオは、食糧を素早く胃に詰め込むと、交戦地へと急いだ。亡者のおぞましい出で立ちに自警団の中には食事を拒む者も多かったが、彼の場合は全く気にしなかった。
「灯りを持ってこい! 数が多いぞっ!」
「ばらばらに仕掛けるな、同士討ちになる!」
 逼迫した叫びを聞いて、レティオは抜刀しつつ大通りに出た。松明に煌々と照らされた通りに、異形の亡者の影が伸びている。レティオはそれらを目にして舌打ちをした。亡者は明らかに自警団の制服を着た者が多い。これでは味方の士気も下がろうものだ。
 レティオは馬から一旦降りると、亡者に群がられて悲鳴をあげている団員の元へ走った。実戦経験の浅いレティオであったが、動きの鈍い亡者の一つ一つは落ち着いて対応すれば決して強敵ではない。そしてレティオは異形への生理的な恐怖心を押さえ込める才能の持ち主であった。
 瞬く間に三体の亡者を文字通り切り刻む。亡者はただ急所を突いただけでは動きを止めることができないのだ。しかも今朝はまだ生きていた死体だったのか、斬った感触はまだ人間のそれで、流石にレティオも顔をしかめた。
「大丈夫か。一度後退しろ」
「た、助かった……」
 生命の危機を前に顔面を涙と鼻水で汚した自警団の男が、這々の呈で逃げていく。やはり、士気が低い。レティオはキッと眦を吊り上げると、全身を声にして叫んだ。
「ベルナーデ家のヴェレティオールだ! 助太刀する!」
 堂々と名乗り、襲い掛かる亡者たちの中へ切り込んでいく。単身での突撃は下策中の下策であり、ここに当主の配下が一人でもいたら止めたかもしれないが、今回ばかりは無鉄砲な判断が功を奏した。
 レティオの体重を込めた一撃の下、亡者が頭から真っ二つに裂かれる。その鮮やかな技に、衆目が集まった。松明に照らされて血の饗宴を織り成す若き剣士に、自警団の間からベルナーデ家の名が囁かれだす。地方貴族でありながら遥か本国に武勇を知らしめたヴェルスの誇り、ベルナーデ家。その名は次第に彼らの心に炎を灯らせ、彼らに力を齎した。
 沸き立つ空気に機を見つけた団員の一人が、剣を頭上に突き上げた。
「ベルナーデ家の若頭に続けぇっ!」
 その声に、レティオ自身も血が熱く鼓舞されるのを感じた。一斉に鬨の声があがり、団員は亡者に殺到した。
 周辺は腐肉が飛び散る地獄と化し、刃の打ち鳴らされる音が耳が痛くなるほどに鳴り響く。
 だが亡者たちは次から次へ終わりなく這い出で、レティオは休む間もなく剣を振るい続けねばならなかった。実際は既にガルダ人の長バストルの命はなく、ガルダ人は一点集中で亡者をぶつけて包囲網を破ろうとしていたのだが、無論レティオの知るところではなかった。
 やがて亡者の物量に、段々と押され始めてきた。剣の柄を握る指が痛み、地は腐肉で汚れて安定しない。だが背後には守るべき都市があり、同じように剣を振るうヴェルスの民がいる。ならばどうして退けようか。顔に飛び散った煩わしい腐肉を拭い、意志の力を込めなおしてレティオが前を向いたその時だった。
 馬蹄の轟きが鋭く闇を裂いて、闇夜に機影が躍り出た。
「レティオ。気が逸りすぎですよ」
 瞳が――弾けた。
 視界に黄金色の粉が舞う。血生臭い現実と美しい夢とが交じり合う。
 その粉は、騎乗した若者が手にした袋から振りまかれていた。
 それから起きた出来事は、魔法としか思えなかった。黄金色の粉に触れた途端、びくりと痙攣した亡者が剣を取り落とし、丸太のように地に倒れたのだ。
 しかしレティオにはそんな奇跡も些事でしかなかった。粉を撒き終えたその若者は、首を回して辺りの亡者が一斉に無力化されたことを注意深く確認する。杏色の柔らかい髪の下に、金の瞳を輝かせて。人好きのする顔つきは今や精悍に引き締まり、武人と呼ぶに相応しい頼もしさがある。胸の奥から込み上げた熱いものを、レティオは喉から迸らせた。
「フィラン……!」
 するとフィランはレティオを見返し、口早に告げた。
「よく聞きなさい。急いでいるので要点だけ話しますよ」
 それはレティオがあまりによく知る師の声と話し方であった。その事実に、どれほど力付けられることか。レティオは反射的に背を伸ばした。
「エウアネーモスは捕獲し、バストルは討ち取られました。残りは生き残ったガルダ人の討伐のみです。亡者を無力化する薬草を置いていきますから、皆に配り、包囲網を狭めてください。僕は次の地区にこれを届けに行きます」
「――分かった。お前も気をつけて行け」
 聞きたいことは沢山ある。しかし、今は目の前の事実だけで十分だ。そう頷くと、フィランは背にしていた大きな麻袋を一つ地に投げ置き、馬を駆る。足場の悪い地であったが、馬術の師に相応しい手綱捌きで瞬く間にその姿は闇へと消えていった。
 フィランに何があったのかは分からないが、戦況がこちらに大きく傾いているのは事実のようだ。しかも彼は亡者を滅ぼす手段を持って来てくれた。レティオにとっては、それだけで満ち足りた気分になれた。
 振り向くと、遠くでは未だ動く亡者がおり、兵たちが戦っている。レティオは剣を収めて重たい麻袋を担ぐと、そちらに急行した。


 ***


「今まで何処に行っていたのかと思えば……」
 ヴェルス二人官の片割れであるティニア家当主ガルモンテが呟いた一言は、場にいた全員の意見を代弁していた。長剣を担いで現れたベルナーデ家当主が次々と報告した戦果に、彼らははじめ、呆然としたものだった。それもすぐに狂喜にとって変わられたが――。
 ギルグランスは、次々に功績を褒め称える議員たちに皮肉げに笑って言った。
「いいえ。この場の功労者はトランヴェード殿でしょう。彼が包囲網を死守したからこそ、私は自由に動くことができたのです」
 衆目を集めたトランヴェードは忌々しげに眉を寄せた。雨に濡れた服を取り替える暇もなかったトランヴェードは、負傷した傷跡も生々しい。
「謙遜も使い方によっては見苦しいぞ。いらぬ気を回すでない」
「ふむ。私は事実を伸べたまでですが。それともトランヴェード殿は、私が貴方をわざわざ気遣ってやっているとでもお思いか?」
 飄々と答えるギルグランスに、トランヴェードの眉がびくりと上がる。二人の不仲をよく知るガルモンテは苦笑しながら、まあまあと取り成した。ギルグランスの齎した朗報は、そんな余裕すら彼らに与えていた。
 だが、とトランヴェードは鋭い眼差しを議会場の中央に縛られているエウアネーモスにやった。トランヴェードの息子の消息は未だ掴めていないのだ。
 妻子を殺され自身も捕縛されたことがよほど堪えたのか、エウアネーモスはろくに抵抗の様子も見せず、呆けたように座り込んでいる。かつて傲岸不遜に都市を席巻した色黒で恰幅の良い商人は、二周りも小さくなったように見えた。すぐにでも口を割らせてやりたかったが、今は私事を優先させる余裕はない。
 ギルグランスは中央の卓に使い古された巻物をいくつか取り出して広げた。そこにある地図を見て貴族たちは瞠目したが、トランヴェードが受けた衝撃はその比ではなかった。
「連中が潜伏地に残していったものを入手しました。ヴェルス全域に渡る下水道の地図です」
「ま、まさか。こんな精密なものが……!?」
 ガルモンテが卓上に手をついて、まじまじと顔を地図に寄せる。建立から増改築を繰り返したヴェルスの上下水道は、一部で管理が行き届かなくなり、その全貌は都市議会でさえも知るところではなかったのだ。それが今、美しい図面によって余すことなく表されている。ギルグランスは頬を歪めて続けた。
「どういう経路で手に入れたのか知りませんが、これが奴等の生命線となってヴェルスへの潜伏活動を支えたのでしょう。どちらにせよ奴等は追い詰められている。急ぎ地下にも包囲網を布き、奴等の脱出を食い止めねばなりません」
 図面を指し示しながら、今回の殲滅戦にあたっての策をギルグランスは提案した。次々と質問と確認が飛び交い、場にいた者は自らの役割を携えて次々と議会場を後にした。

 最後に残った面々は、今年の二人官二名とギルグランス、そしてトランヴェードであった。先ほどから物言いたげにこちらを見やっていたギルグランスが、とうとう口にした。
「どうした、トランヴェード殿。顔色が優れないようだが」
「――」
 舌が痺れて声が出ない。混乱に頭が破裂しそうであった。何故なら、何故なら――。
「それは驚くでしょうな、トランヴェード卿。あなたの家にあった図面がここにあるのですから」
 予期せぬ方向から、声は発せられた。一同は振り向いて、愕然とした。それまで放心していた筈のエウアネーモスが、その口元に卑屈な笑みを浮かべていたのだ。
「……どういうことだ」
 ギルグランスはエウアネーモスではなく、トランヴェードに向けて問うた。トランヴェードの脳裏に、ある仮定が生まれ始めていた。何よりも認めたくない、ある仮説が。
 しかし、語らねばならなかった。それが例え自ら地獄の釜へと歩いていくような行いだとしても。トランヴェードは脂汗をかきながら、乾いた喉を苦心して動かせた。
「これは……私が作ったものだ」
 予想通り、一同が息を呑む気配があった。
「十年ほど前から、私は自警団に調査させ、都市の下水道の正確な図面を作っていた」
「なんだと!?」
 二人官のザークルが思わずといったように声を張り上げた。
「議会に提案もせず、何の為だ。まさか貴様――っ」
「違う、地下に巣食う盗賊どもの殲滅のためだ! 議会に提案だと? あの時代、どれほどの貴族家が盗賊どもと影で繋がっていたと思っている。そんなことをすれば揉み潰されるのが関の山だろうが!」
 卓を拳で叩くトランヴェードの剣幕に、ザークルがたじろぐ。だが、トランヴェードの顔色も同じように蒼白であった。
「成程。ヴェルスの無頼の拠点が地下にないのはそのせいか」
 ギルグランスだけが冷静に呟き、無表情のまま腕を組んだ。彼の言う通り、トランヴェードは下水道の構造を一部の自警団幹部に調査させることで、多くの無頼の根城を壊滅させたのであった。当時は根城の建設のため下水路を勝手に増改築され、ヴェルスの都市衛生に支障をきたしつつあったからだ。
「して、何故それがガルダ人に渡った?」
「それは……」
 トランヴェードは卓に両手をついたまま、歯を食いしばった。するとエウアネーモスが、悪魔のように薄い笑い声をあげた。
「あなたの可愛い息子のメデスが、喜んで受け渡してくれたのですよ」
 告白は鈍器となって後頭部を殴打した。トランヴェードは暫し何も言えずに立ち尽くした。ギルグランスが思い出したように顎をあげ、憎々しげに呟く。
「――ルミニ教か」
 トランヴェードの長男メデスは、熱心なルミニ教の信者であったのだ。エウアネーモスは微笑んだ。
「左様でございます。何と言って提出させたかは忘れました、なにせ赤子の手を捻るようだったもので」
「貴様……!」
 腰の剣でエウアネーモスの首を今すぐ刎ねてやりたかった。衝動を抑えても、怒りの震えが止まらない。そんな様を愉しむように、エウアネーモスは淡々と話し続けた。
「彼もまさかガルダ人の手助けをしたとは思っていなかったんでしょうな。しかし、突然現れたガルダ人が地下水路を通ってきたのではないかと勘繰り、わざわざ私の元まで直接確認に来たのですよ」
 衝撃に目の前が暗くなった。あの時点でエウアネーモスから書状が来た意味を、ようやくトランヴェードは理解した。
「事実を伝えたところ、大変立腹されましてね。剣を抜いたので、始末させました。今ごろ何処かで亡者となっているのではないですかな」
「……下種が」
 底冷えするような眼差しでギルグランスが低く呟く。実際のところ、既に書状が届いた時点で、メデスは死んでいたのだ。するとエウアネーモスは声も高く哄笑した。
「強き者が弱き者を支配する。これはあなた方の理ではないですか。メデスは愚かな弱者であった。ただそれだけのことです」
「何故だ」
 卓に手を置いたまま、トランヴェードは声を張り上げた。
「何故、ガルダ人などに手を貸した。蛮族ごときに都市を蹂躙させて、一介の商人である貴様に何の利があるというのだ!?」
 エウアネーモスはトランヴェードの顔を面白そうに眺め、そして諭すように言った。
「あなたのような正義面をする人間が大嫌いだからですよ、トランヴェード卿」
 その穏やかな音色に、言葉が出てこなかった。エウアネーモスは歌うように続けた。
「正義を敷くのなら何故都市議会に内密で地図など作成したのです? それはあなたが何より人間の本性を知っていたからだ。狡猾で、野蛮で、身勝手。それが人間の本質と、あなたが何より知っていたからだ」
 まるで壊れた仕掛け人形のように商人の熱弁は止まらなかった。
「なのにあなた方は仮初の夢を見る。正義や良心を真顔で訴える。どうあがいたところで人の世が腐り落ちることは歴史が証明しているのに。邪魔だ? 腹立たしい? いいえ。そんな感情を抱く前に、あなた方は『気持ちが悪い』のですよ」
「なんだと……」
 唸るトランヴェードに、エウアネーモスは怖じた様子もない。
「私は混沌が見たいのです。魑魅魍魎が蔓延る以前のヴェルスは真に魅力的な都市でした。弱き者には略奪の恐怖が、強き者には繁栄の喜びがあったのです。亡者の国、大変結構ですとも。それらを御す者どもと渡り合うことこそ、我が喜びなのですよ」
「貴様は狂っている。ヴェルスの繁栄は法と努力によってのみ得られるものだ!」
 猛々しい主張は、嘲笑うかのような反論に叩き切られた。
「狂っているのは貴方です。その狂気があなたの息子を殺したのですよ」
「――」
 ぐらりと体が揺れる。衝動的に手が剣の柄に伸びた。
 その時、不意に腕を捕まれ、止められた。はっとして横を見ると、ギルグランスの鋭い眼差しがあった。
「追い詰めている者が追い詰められてどうする、馬鹿者」
 矢を射るかのようなギルグランスの小声は、脳内に冷水をかけるかのようだった。いからせていた肩を下ろすと、ギルグランスも腕を放してさりげなく懐から出した布で手を拭った。腹立たしいことこの上ない行為だったが、逆にトランヴェードは平静を取り戻した。
 ギルグランスが改めてエウアネーモスを見やると、堕ちた商人は残忍に口角を吊り上げた。
「これはヴェギルグランス殿。はて、何の言葉遊びをされるおつもりか。あなたのガルダ人の配下は、それは無様な最期を遂げたものですが、今考えると彼を亡者に仕立て上げれば良かった。そうすれば、あなたをあの時殺しておくことが出来たかもしれなかったのに」
 壊れたように笑い声を垂れ流しながらエウアネーモスはギルグランスを見上げる。ギルグランスは溜息を一つついて、淡々と返した。
「貴様の言うとおり、五年前のヴェルスは正しく腐敗しておったわ。私もこのハゲと同じ立場、同じ時代にいれば、水道路の調査は議会には内密に進めたであろう。いや、今の時点でも怪しい。なあ、二人官の方々」
 不意にギルグランスに視線を送られて、ガルモンテとザークルはぎくりと顔を引きつらせた。ヴェルスの腐敗は今でも全てが払拭されたわけではないのだ。エウアネーモスが平気で無頼を配下として使っていたように。
「だが腐敗する前には、必ず成熟の栄華があり、そして腐敗したものも種を残して土に還る。次なる生命を結ぶために。成程腐敗し壊れて行くのは歴史の理である。しかしそれは事象の一部でしかない」
 エウアネーモスは嗤った。
「ならば私が行っていることと貴方が行っていることは変わりませんな? ただ何の種を残すかというだけで」
「貴様は馬鹿か。全く違うわ」
 吐き捨てたギルグランスは、傲然と言い放った。
「この世の原初は四つの元素から成った。これらが交わり世界は成った。生と死を繰り返し、進化を続けた。だが貴様がやっていることは単純な破壊に過ぎん。ただ原初に戻すだけの行いだ」
 エウアネーモスの口元から笑い声が漏れる。しかし、返される言葉はなかった。
「我々は闇夜を越えて前へ進む。屍を背負って未来を目指す。それがこの地に生きる者の定めであり使命だ。貴様のふざけた妄想を他人に押し付けるな、狂人が」
 とうとう笑い声は爆笑に変わった。高い天井に、耳が痛いほどに響き渡る。
「これは傑作だ! ならばやってみるがいい。あなたの行く手に神の加護を祈りましょうぞ、やがて腐り落ちることを知りながら、無駄なあがきを続けるがよろしい。それで人々の悲鳴をどれほど救えるのか見物です。半ばで倒れた者にどう報いるか、楽しみでなりません。ああ、楽しみだ!」
 エウアネーモスは叫び続けた。ギルグランスは首を振って、溜息をついた。ザークルの指示でエウアネーモスには猿轡が咬まされた。全てが終われば、厳正な裁判の後に処刑されるだろう。
 腹の内にわだかまる闇を抱えながら、トランヴェードはギルグランスを見た。揺るがぬ意志が、その不遜な横顔を彩っている。
「トランヴェード」
 不意に、ギルグランスが呼び捨てでこちらを呼んだ。眉をあげると、ギルグランスは議会場の演説台を見上げながら告げた。
「貴様はまだ、戦えるか」
 一時は本国の元老院の議席すら噂された男である。元老院に比べれば地方都市の二人官の地位などまるで価値もなかろうに、何故かその横顔は本当に楽しそうで。
 もしかすると、この当主にとって、手をつける先が帝国全土だろうが一個の都市だろうが関係はないのかもしれない。ただ眼前の問題に全力を以って立ち向かう。それは恐ろしく愚かで盲目的で無鉄砲な行いで。しかし何故かそれは羨ましい生き方だと思ってしまう。
 ベルナーデ家の当主は疲れを知らぬ足取りで、議会場を後にした。それを見送って、トランヴェードは目を閉じた。息子の一人を失い、敵に付け入られる隙を与えてしまった自分の愚かしさを、あの男は嘲笑しなかった。それは既に過ぎてしまったことだからだろうか。
 違う、とトランヴェードは思った。トランヴェードは豊穣の都を心から愛し、朽ち行く繁栄を取り戻そうと全力を振るった。結果として災厄を呼び、家族を失ったとしても、その思いは真実であった。
 ならば踏み越えて行かねばならない。己の過ちを飲み込み、報いなければならない。それが生者に与えられた使命であり呪いだ。あるいはこの件で配下の一人を失ったギルグランスの胸中も、同じなのかもしれぬ。
 ならば、己を哀れむような真似はすまい。
 トランヴェードはゆっくりと顔をあげ、戦火も猛々しい豊穣の都へと歩き出した。




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