-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>11話:眼を開いて

08.助けてください



 扉が不規則な調子で叩かれた。猫のように顔をあげたディクルースは、扉を開けて外を伺った。話し方からして相手はガルダ人ではないようだったが、扉は僅かにしか空いておらず、顔は見えなかった。
 ティレは緊張に唇を引き縛っていた。何故か目覚めてから未来や過去の様子が見えないため、現実のみを捉えて判断するしかない。
「すぐに戻る。曲がった先にいるから、何かあったら大声をあげて」
 ディクルースは口早に言うと、外へ出ていった。僅かに焦っている様子だ。ティレが頷くと、部屋には静寂が落ちた。
 暫く何も起きないことを確認して、ゆっくりと辺りを見回す。窓がないため、外の様子は見えなかったが、丈夫な造りをした建物であった。燭台を手に通って動き回ったが、脱出経路になりそうな穴やひびは見当たらない。八方塞がりの状態に、ティレは俯いた。まるで出口のない迷路に迷い込んでしまったかのようだった。
「フィラン……」
 彼はどうしているだろうか。呪われた力を持った自分に、理想郷を探そうと手を伸べてくれた彼は、まだ生きていてくれているだろうか。
 ディクルースの醒めた笑いが脳裏に浮かんだ。彼の言う通り、ティレがフィランに抱く感情を愛というとそれは違う気がする。ティレは初め、フィランの手に引かれるままでいた。自分など消えてしまえばいいと思っていた。
 しかし今はそう思っていない。自分を肯定できたわけではないが、それよりも大切なものが出来た。それは灯台島の住民であり、そこにある家であり、そしてそこに戻ってくるフィランの穏やかな顔であった。ただそれらを守りたいと思うのだ。もう何かが欠けていくのをこの眼で見たくないのだ。
 もう一度、部屋の中をくまなく探してみようと立ち上がると同時に、扉が開いた。ディクルースが、緊張した面持ちで立っていた。
 その後ろから、騒ぎの音が聞こえてくる。戦が起きているのだろうか。
「ティレ、今の内に行こう。それから、いいものを見せてあげるよ」
 ティレは拳を握り締めた。ディクルースは安心させるように微笑んだ。
「僕は理解してもらえるまで何度も説明するつもりだ。でも今は時間がない。従ってもらえないなら――」
「一緒に行く」
 きっぱりとした答えに、ディクルースは面食らったようだった。
 ここで逆らえばディクルースはティレの自由を奪って連れていくだろう。ならば従順なふりをして、逃げ出す機会を伺うべきだ。――フィランなら、きっとそうする。
 心臓が甲高く鳴っている。誰も頼れる人はいない。自分の頭で考えねば、ただ運命に流されて溺れるだけだ。
 ――諦めない。あの人たちの元へ帰るまでは。
 ティレは怪訝そうにするディクルースに連れられて、自らの足で部屋を出た。


 ***


 頭が痛い。体中の痛覚が痺れているのに、その痛みだけが明確だ。
 もう何人を斬っただろう。耳鳴りが酷く、視界もぼけている。いけない。少し休まないと、次は勝てないかもしれない。勝てぬ戦に臨むのは愚者の所業。かつて師にそう教わったから。
 呼吸を整える。少し見えるようになった。斜め前から獣が腐った肉を振りまきながら、牙を剥いて近付いてくる。敵だ。
 槍を一閃させる。身体が勝手に動く。一日たりとも欠かすことのなかった訓練の動きが、指先にまで染み付いている。

 ――お前、剣はやめて槍にしろ。
 ――お前の剣は、なんだろうな、危なっかしいんだよ。

 そんなことを言われたのはいつだったか。あの時は幼かったから、反発して剣を持ち続けた。しかし、今なら分かる気がする。気持ちの良いように振るえば勝てる剣と違って、槍は頭を使って振るわねばならない。
 ほら。今だって、別のことを考えていたから、獣の爪が身体のどこかを切り裂いた。良くない。焦点を絞らねば。弱点は何処だろう。
 ようやく辺りが静かになって、先へ進む。道の先が明るい。外なのだろうか。進まなくては。そこが地獄であっても天国であっても構わない。今ここにあるまやかしではなく、本物の約束の地を見つけて、見返してやるまでは進むのだ。誰を見返す? それは、これまでに手を伸べてくれなかった全てをだ。
 何も怖くない。何の痛みも感じない。冷静に頭を動かせばいい。誰かがこちらを見つけた。声をあげられる前に飛び出した。階段を飛び上がるように駆け抜け、槍を突き出したが、瞬きの差で躱された。もう一度だ。狙って、突く。そう難しいことではない。
 一つ打ち合うたびに、勝手に喉が吼える。そちらの方が力が入るからだ。合理的なことだ。例えそれが悲鳴のような音になったとしても。

 見ていてくれていますか。
 ねえ、僕はこんなに強くなりました。
 もう何もできない新米の兵卒じゃないんです。
 もう何もできない世間知らずの貴族でもないんです。
 強くなるためだったら、何だってやりました。
 見て欲しくて。認めて欲しくて。

 認めてくれますよね。
 もうあなたが僕を見捨てていかないような。
 そんな理想郷は、きっとどこかににありますよね。

 どうしてこんなに、涙が止まらないのか。


 バストルの前に現れたその侵入者は、極限まで飢えた母狼のようであった。
 杏色の髪が、血飛沫を浴びて頬に張り付いている。ヒューヒューと不気味な呼吸を繰り返しつつも、槍を握る掌の力は淀みない。全身に斬撃を受け、あと一撃でも受ければ崩れそうなものを。その足は強く大地を咬んで揺らがない。黄金の瞳は壊れたように見開かれたままだ。
 その周囲には惨殺されたガルダ人の死体が四つ。他の戦士たちも、流石に手を出しあぐねている様子だ。
「下がっていろ」
 バストルは前へ出た。この若者は、一度相対したことがある。裏切り者を処分したときに、たった一人で数十体の亡者を残らず屠った男だ。あの時、バストルは遠くに逃れながら夕日に舞う狂戦士の姿を見ていた。目の前の世界を否定することしか知らぬ、哀れなほど強く、脆い剣士であった。
「ティレは、何処だ」
 俯いた若者は、不意に問うた。バストルは腕を組んだまま笑った。本来であれば包囲網に対し、総攻撃を始める時刻であった。しかし予期せぬ豪雨が降り注ぎ、亡者の動きが鈍ったため、止むまで動けないところであったのだ。そこに、その若者は地下水路から本物の亡者のごとく現れた。ディクルースが連れてきた具眼の娘を追ってきたのだろう。
「私のものにした」
 自然に答えた。刹那、バストルは長剣で槍の刺突を受け流していた。


 出口は何処にあるのだろう。この闇夜を抜け出す出口は。
 突き、持ち替えて振るう。一歩踏み込み、素早く引き下がる。止められた時の手ごたえが、今までよりも固い。少し分厚い壁だ。越えないと。
 大丈夫、と心に言い聞かせた。越えられる。今までどんな苦難だって乗り越えてきた。そしてどんな悲劇にも立ち向かった。何を失っても、生き続けた。戦った。だから今回だって。
 まだ戦える。まだ、戦える。
 敵刃が閃き、首元に叩き込まれる。それを柄で受け、引きながら流そうとした。しかし奇妙にその一撃は重たかった。押される。喉から咆哮が迸り、渾身の力で振り払う。身体が傾ぐ。踏み止まらねば。なのに刃は振り下ろされる。まるで世界がそうであるように。
 避けようと足が動き、重心が浮いた。次の瞬間には蹴り倒されていた。身体が転がる。立たなければ。
 おかしい。
 立つことが、できない。
 何度でも立ち上がらないといけないのに――。
 上体を起こし、同時に槍を振り上げる。虚しく剣戟に飛ばされ、血が舞う。穂先はどちらを向いている。視界が白い。槍が手にない。探さなくては。手を、伸ばして――。

「フィラン」
 豪雨が屋根を打ち叩く音が反響する、神殿の祭壇前であった。
 視線があがる。離れた階段の踊り場に、藤色の髪の少女がこちらを見下ろしている。
「フィラン――!」
 愕然とした少女は今にも落ちそうなほどに身を乗り出し、後ろから押し留められている。押し留めているのは、世界で最も憎い青年だった。
「あれが君に理想を押し付けた男の成れの果てだ」
 冷酷な眼差しがこちらを哀れむように眺めている。遠い。何処までも遠い。そして少女は彼に引かれ、階段の奥へと消えていく。消えていく。
 赤く染まった。自らの血で、自らの身体が。
 立ち上がれない。身体が動かない。
 どうして。
「他愛もない。適当に始末しておけ」
「は」
 何が起きたのだろう。何か、大切なものがまた消えていった。
 立ち上がらないと。しかし感覚がない。
 同時に、怒りも悲しみも、どこかに消えていってしまった。
 何にも負けない力が、そこにあった筈なのに。
 誰に裏切られても一人で立つ力が、そこにあった筈なのに。
 意識が闇に引きずられていく。

 ――息子がいるんだ。

 ああ。あの人と同じように。


 聞こえたのは扉が閉ざされた音ではなく、開いた音であった。


 ***


 その場にいる誰もが振り返った。普段は奴隷三人がかりで開ける中央門が、一人の男の力で開いていた。背景に空が瞬き、雷霆が高らかに打ち落とされる。
 偉丈夫が立っていた。広い肩から流れる長衣は気品を湛え、一方その傍らに覗く首や腕は力強く、手には輝く長剣を自らの一部であるかのように持つ。彼が歩くたびに灰色の髪が流れ、長衣が翼のように広がる。
 そうして偉丈夫は、広い祭壇の間へ堂々たる姿を現にした。
 雲を集める天神トロイゼが、下界の戦いを囃すように雷鳴を打ち鳴らす。
「豊穣の都ヴェルスに続くアウル一門ベルナーデ家当主ヴェギルグランス」
 人が真の名を名乗るとき、それは神が傍で聞いている。朗々と名乗るそれは天にも届くとばかりに響き渡った。そして、続けた言葉もまた――。
「私の配下を返してもらおう」
 剣を横に構え、祭壇へと前進する。ベルナーデ家のギルグランス。ガルダ戦役の英雄であるその名はガルダ人にとって憎悪の対象に等しい。同じように名乗りをあげながら、一人のガルダ人が双剣を手に壇上から斬りかかった。
 老練の当主は剣を横に一閃した。素早く短剣で受けたガルダ人は、しかし驚愕の表情を浮かべた。当主が腕を振り抜くと同時に、体ごと恐ろしい速度で吹き飛ばされていた。背中から落ちて剣を手放し、拾う余裕もなく激痛に痙攣する。
「配下を返せ、と言っているのだ。聞こえぬのか」
 甚だ不愉快そうに、当主は祭壇を見上げた。下方にいるその様ですら神の祝福を受けて輝くようで、ガルダ人たちを圧倒する。かつて並み居る帝国軍を率い、森を焼いて進軍し、次々とガルダの地を蹂躙した武将である。例えその背後に巨万の兵がいなくとも、鮮烈な存在感がそこにはある。
 前へ出たのは、バストルただ一人であった。
「先ほど害虫が侵入したので駆除したが、その話か。老犬よ」
「ガルダ人には人と虫の区別もつかぬか。相変わらず素晴らしい認識力だな」
 数年来の挨拶は、それで十分であった。お互いに長剣を構え、片方は階段を駆け上がり、片方は飛び降りていた。
 戦を生業とするガルダ人といえど目を向けずにはいられぬ金属音が、甲高く鳴り響く。老練の帝国人と、猛々しいガルダ人の視線が間近に交差した。
「全く、折角貴様らの根城を見つけ殴りこみにきてやったのに。もう少し驚いてもらわぬと困るぞ」
「剣を帯びて訪れるのなら、例え外民であろうが歓迎するまでだ」
 剛の動きで当主の剣が空を裂き、柔の動きでバストルが合わせて飛び退る。
 ギルグランスは笑いながら剣を構えなおした。
「愚かだな。こうまで追い詰められておきながら、よくも殺戮を楽しもうと思えるものだ」
「当たり前だ」
 柄に絡む蛇の紋を象ったバストルの剣が、さながら蛇のような勢いで当主を襲う。
「ガルダは思うまま、望むままに奪い殺す。強き者があるなら弑することこそ我らが本懐だ」
 踊るような足さばきで連続する打ち込みに、さしものギルグランスも後退を余儀なくされる。ギルグランスは哀れむように頬を歪めた。
「そうやって大地を焦土と変えるか。恐怖と憎悪を撒き散らして、後に何が残る!」
「この大地に我が名が刻まれよう。力によって名を残さずして何故生きる価値がある!」
 体重を乗せた両者の剣戟が激突した。力押しで敵わず弾かれつつも、バストルは哄笑した。
「貴様らは安楽な暮らしを望み、能天気に生かされるがままに生きている。軟弱な外民どもめ。檻に飼われた鳥も同様の腰抜けどもめ! 真の力とは何か、思い知るが良い!」
「抜かせ!! その結果が辺境を彷徨う亡者とは笑わせる! その名は至上の痴れ者として刻まれようぞ」
「好きに吼えろ。その間にも一人でも多くの外民を屠ろうぞ! そしていくら貴様らに切り刻まれようと、狼の雄叫びが別の闘争を引き起こすよう、何度でも我らは息を吹き返そう!」
「――馬鹿め」
 ギルグランスは口元に酷薄な笑みを浮かべた。これだから帝国にとってガルダは滅ぼすしか道がなかったのだ。ただ文化が異なるだけであれば帝国は受け入れることができた。しかし、根本的な生き方の違いは、二つの国をどうしても埋めることができなかった。平和と友愛を叫ぶことは容易い。しかし途方もない凶暴性もまた、人間の本質だ。
 だからバストルの言うことは正しい。例えここでガルダ人を殲滅したところで、血に飢えた民はいつか再び現れるだろう。人間の歴史に紅い染みを残すかのごとく。人間の本性を物語るかのごとく。そしてその度に人間は血を流してそれを滅することしか出来ないのかもしれない。
「貴様の言い分はよく分かった。成程貴様らはある意味で完成された人種だ。だが一点のみ、聞き捨てならぬ」
 刃が離れ、二人の間が開く。巌のごとく長剣を中段に構え、ギルグランスはガルダ人の長を眼前に睨み据えた。仕掛けぬ当主を嘲笑うかのように、バストルが突きの動作で切り込んでくる。カッと目を開いたギルグランスは、剣戟と共に猛々しく吼えた。
「我々が生かされるがままに生きているとは笑止もいいところだ!!」
 叫び声と共に、ギルグランスの胸元が光り輝いた。懐に飛び込んできたバストルは、その眩い光を直視し、視力を失った。渾身の突きはギルグランスの首元から紙一重の宙に吸い込まれる。
「悪いがさっさと配下を助けねばならぬ。眠れ、夜の亡者よ」
 ギルグランスは翻した剣でバストルの背中を貫いた。びくりと硬直したバストルは、数秒遅れて剣を取り落としながら大量の血を吐き出した。
「……っふ、私は眠らぬ。何度でも蘇るぞ」
 バストルの刃のような眼光は消えずにギルグランスを睨みあげる。
「そうだろうな」
 忌々しげにギルグランスは返した。
「だが変わらぬままでは結果も変わらぬぞ。貴様も、我々もな」
 剣を引き抜くと、傷口から大量の鮮血を噴き出させてバストルの亡骸が地に転がった。
 真の黄金の庭がこの地に訪れるまで、あと一体どれほどの血が必要であろう。ギルグランスに考える暇は与えられなかった。残りのガルダ人が五名ほど、怒りの鬨をあげながら飛び掛ってくる。
「くそ、一々面倒だ……っ」
 憎々しげに言ったのはギルグランスではなく、彼の胸元に潜んでいたクロイスであった。しかしギルグランスが飛び引くと、彼らはバストルの遺体と倒れた仲間を担いで一目散に逃げ出した。ここは一人でも多くの生存が一族のためと見なしたのだろう。バストルの死に対する動揺もあったのかもしれない。
 裏手からオーヴィンを潜入させているため、彼らの脱出経路もすぐに判明するだろう。奥の間へ逃げ去ったガルダ人を追う気もなく、祭壇へと歩を進めようとすると、クロイスが先に飛び出していった。
 祭壇には、血塗れの槍使いが伏している。


 ***


 遠くで音が聞こえている。とても遠くで。手も届かないほど遠くで。
「便利だな、妖精族の力は」
「うるせーっ! 気が散るから黙ってろ!」
「失礼した」
「……ん、目ぇ覚ましたか? おい、フィラン、フィラン!」
 ここは何処だろう。全身が鉛のように重い。
 ああ、そうだ。立ち上がらなければいけないんだった。
 もう失ってしまったかもしれないけれど、最後まで諦めてはいけないから。
 だから、立たないと。
 指を曲げて地を掴み、肘を曲げて上体を起こす。しかしそれ以上、身体が言うことをきかなかった。
 これは本当に駄目かもしれない。そう思った時だった。

「私の声が聞こえるか、フィラン」

 心に杭を刺すような声が降り注いだ。自然と見上げていた。もう何日も見上げていなかった上方を。
 偉丈夫が立ち、こちらを無表情に見下ろしている。彼は暫くの沈黙を挟んで、重たく口を開いた。
「なんという様だ」
 言葉が形作るは糾弾の刃。ああ、と理解した。これはまさか。そう思って、喉を動かす。掠れてはいるが、声にはなってくれた。
「……僕を、殺しに来たんですか」
「おいっ……」
 何かが下方で喚いているが、よく聞き取れない。ただ偉丈夫の眼光に縫いとめられて、運命を待つことしかできない。
 口元に、自嘲の笑みが浮かんだ。
「なら、早くしてくださいよ」
 薄汚い裏切り者として、この人に殺されるのであれば、納得が行くような気がした。この人が終わらせてくれるのなら、静かに眠らせてくれるなら。
「駄目だったんです、僕は」
 早く殺されてしまいたくて、この場から消え去りたくて。言葉を押し出す。
「結局僕は、いつだって何も守れない。そうしている内に、ひとりで置いていかれてしまうんだ」
 頭の中に記憶が無数に蘇っては明滅した。けれど、どれも最後は一人だ。
「世界を敵に回したって勝てると思ったんです。僕が正しいと思った。だって、どうせ誰も守ってくれないんですから、自分を自分で守るのは正しいことです。でも結局のところ、僕に力なんてなかった。力がなかったから、何も守れないし、何も残らなかった」
 感情の波を塞き止めていた大切な壁に、ひびが入る。
 もう嫌だった。欲しいもののために手を伸ばして、奪われ続けるのは。違う。そんな風に考えてはいけない。戦うのだ、いくらでも。けれどやはり、そんなのは嫌だ。
「殺してください。あなたには、その力もその資格もある」
「――それが貴様に出来た全てか?」
 天は淡々と問う。いつもと同じように、冷酷に。
 壁が砕ける音がした。必死に支えていた柱が打ち倒され、こらえていた言葉が悲鳴のように迸った。
「だって、誰も助けてくれないじゃないですか」
 涙が吹き零れる。それが世界の理であると諦めた筈なのに。受け入れた筈なのに。次から次へと言葉が溢れる。
「当たり前なんです。誰だって自分のために生きてるんですよ。僕を助ける義理なんて何処にもないんです、仕方がないんです」
 そう何度も言い聞かせた。歯を食いしばって現実を飲み込んだ。
「だから欲しいものは自分で手に入れないと。守らないと」
 声が上ずる。言えば言うほど惨めになるのはどうしてだ。絶対に手に入らないと思い始めてしまうのはどうしてだ。
「……貴様が過去に出会った者たちは、貴様を助けなかったのか」
 心臓がひとつ鳴った。見上げた先に屹立する、その静かな眼差し。
「助けてくれると思っていました。でも、まやかしでしたよ?」
 糾弾する口調になった。心の奥底から込み上げる言葉は、もう止められなかった。
「本国生まれの世間知らずで甘えた貴族の子供だなんて笑う奴等ばかりで。見返してやりたくて、出来ることは何だってやりましたよ。力をつけて成果をあげて、ようやく信頼を得て、仲間と居場所が出来て……っ」
 視界が黄金色に染まった。もう帰れない場所。武具を持って歩いた帰り道。馬を駆った荒野。さざめく冗談と笑い声。
「全部、幻みたいに消えていきました」
 終わりの日。夕暮れに染まるそこには、誰ひとりいなかった。
「僕は不要だったそうです。だから置いていかれたそうです。僕に下された指令は、奴等の討伐でしたよ。でもそんなこと言われなくたって、」
 殺してやりたかった。
「だから」
 殺してやった。
「僕は」
 誰か、誰か。
「ひとりで」
 置いていかないで。

「ならば貴様に聞こう」
 それは大地が口を開いたかのごとく、低く耳朶を叩いた。
「我々が同じように貴様を見捨てるとでも思ったのか」
 否。それは人の声だ。神でも悪魔でもない。人の声だ。
 胸が詰まる。気遣いを向けられる度に目を背けていた。上辺の優しさなどいらなかったからだ。自分の身は自分で守ると決めていたからだ。
 顔のない剣士が、哄笑している。それで良いと。
「――腹立たしい」
 剣が首筋へ差し出される。ああ、殺してくれるのか。それでいい。血まみれの自分には、この最期が相応しい。
 しかし、期待した白刃は届かなかった。代わりに届くは醒めた声。
「真に腹立たしい。貴様にその程度の器量の主と思われていたとはな」
「やめてください!」
 悲鳴のように叫んでいた。
 主は悪くない。ただ、自分に出来なかっただけだ。無様に他者に期待することも。他人を信じて寄りかかるのも。他者に命運を委ねて、最後に待ち受ける孤独に耐えられないのだ。
「もう、人に縋って生きるのはこりごりなんですよ! 殺す気がないなら僕のことは放っておいてください――っ!?」
 胸倉を捕まれ、引っ張り上げられた。全身が悲鳴をあげるような痛みに、一瞬我を忘れる。そして視界が戻った瞬間、憤怒に瞳を燃やしたギルグランスの眼光に貫かれた。
「貴様は他者に裏切られたくないのだな。誰にも、たったの一度も」
 やめてくれ。その先を、どうか言わないで。

「だが人の世に、そのような理想郷は何処にもないぞ」

「――」
 脳裏が白く灼かれる。それは何度も心のどこかで呟き続けていた答えだ。しかし言葉の連なりとして放たれたそれは、巨大な刃となって胸を引きちぎった。
 体から力が抜けた。もう、何処にも行く気力が沸かなかった。
「……希望は、何処にもないんですね」
「最後まで聞かんか馬鹿者。良いか、その耳で私の言葉をしっかりと聞け。そして自らの頭で考えろ」
 それは天に挑むかのような語勢だ。鮮烈な命の輝きを振りまいて、自らの眼を開き、自らの足で進む者の強靭な意志だ。
 老練の当主は堂々と告げた。
「私は、この地に再び理想郷を作り上げる」
 音律豊かな声は雨音を切り裂いて響き渡った。紡がれた誓いを力にするかのごとく、当主は続ける。
「かつて詩人は正邪相克の地とヴェルスを謳った。黄金の庭と呼ばれたかの地の栄華。神の丘ですら霞む美しき都。だがそれは、貴様の求める光の聖地でもなければ、数年前のような地獄の様相でもない」
 ざり、とサンダルが大地を咬んだ。その覚悟を示すように。
「喜びも苦しみも全てがある。全ての者がより高みを望む、それは人間が限りなく人間たりえる黄金の庭だ。必ずやこの手で実現させると、私はこの地に戻った折に我が心に決めたのだ」
 どうして絶望を語る唇で、同時に光を指し示すのか。
 ギルグランスの瞳には、理想郷の姿がくっきりと映っている。
 そして、その瞳がこちらを覗き込む。
 ――輝きに、呑まれる。
「貴様が私の理想へ共に道を行く限り、例え何があろうと私は貴様を裏切らない」
 遠くに置いてきた理想郷が霞み、当主の眼に浮かんだそれが代わりに映る。フィランは眼を瞬いた。
「選択を他者に委ねるな。世界なんぞに縋るな。期待などもっての他だ。いいか、貴様が選べ。私と共に理想郷を作るか否か。貴様とその許婚が生き続く地をその手で作るか否か!」
 胸倉が放される。身体は崩れ落ち、地面に手がつく。その冷たさが、地を這いずる恐ろしさとなって心に食い込む。
「選べ、フィラン」
 名を呼ばれる。それはひとりでは出来ないことだ。そして、誓いを望むように首元に剣が差し出される。
「あ……」
 自分の手が視界に入った。
 いつか、周りに認めてほしくて力を望んだことがあった。
 誰かに手を伸べてほしくて。そして伸べられるままに手を差し出し、最後は振り払われた。
 また今も、手が伸べられている。違う。
 ここまで来い、と彼は言っている。
 そこで待っていてくれる。

「……ティレは本国の豊穣の巫女です。それでも受け入れてくれますか」
 ギルグランスは、なんだというように眉をあげた。
「既にそこの妖精から聞いたわ。他愛もない、たかが天候が読める読めないの違いではないか」
「彼女は天候だけではなく、未来を読みます」
「そうか。ならば守ってやらねばならんな」
 唇が震えた。頬を伝うそれは、既に血ではなかった。
 凍てついて、何度も壊れてその破片を集めて作られた心が、奥底に封じていた言葉を呟いた。それは血となって巡り、身体を隅々まで行き交い、そして最後に搾り出すように喉から紡がれた。
 顔のない剣士の影が、薄れて消えていく。

「助けてください」

 ぽたぽたと、水滴が地面に落ちる。その瞳に落ちていた煉獄の闇を取り払うように。
「ティレが攫われました。必ず幸せにすると誓ったのに。僕一人の力では救い出すことができませんでした」
 心に渦を巻く激情が、静かに胸の奥に落ちていく。青く静謐に、誰よりも強く輝く炎となるために。フィランは眼を開き、自らの足で立つために、その誓いを口にした。
「僕たちが生き続く地が、あなたの理想にあるなら。あなたの理想にこの非才の身を捧げます。――だから」
 それは無様で、悲愴で、絶望にまみれ、それでいて、とめどない渇望を秘めて迸った。
「助けてください」
 フィランが顔をあげる。その眼が天を見る。ギルグランスは、心から愉しげに頬を緩めた。神ですら真似のできぬ、力強い笑みが口元を飾る。
「当然だ。その言葉に違わず、天界と冥界の境なく我が供をせよ、槍使い!」
 雷鳴が高らかにヴェルスに鳴り響く。雨脚はいよいよ強さを増す。それはまるで大地に生きる者どもを鼓舞するかのようであった。あるいは、かつて黄金の庭と呼ばれた都市に現れた亡国の殺戮者の最後の雄叫びであるようでも。
 決着の時は近い。槍使いの若者は、とうとうその眼を開いた。




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