-黄金の庭に告ぐ- <第一部>11話:眼を開いて 07.ダナラス ダナラスは堅実な闘いぶりで有名な剣闘士であった。そして、その時も彼は夜の泉のように静まり返ったまま、ベルナーデ家の男たちを見返していた。 「ダナラスか。このところよく聞く名だな」 ギルグランスが嘯くと、ダナラスは少し考えるように首を曲げた。彼もまた、ベルナーデ家が乱入してくる事態は想定外だったのだろうか。 「貴様が本当にガルダ人のダナラスであれば、礼を言わねばならぬ。貴様の残した記録は大変に役立ったぞ」 ダナラスは微かに驚いたようだった。 「……あれを解読したのか」 ギルグランスはその返答で、目の前の剣士が本物のダナラスであると判断した。暗号が使われていることを知るとすれば、解読した者の他に著者しかありえない。 「単刀直入に聞こう。貴様の名はダナラス、ガルダ人として死霊使いの技を生み出し、バストルへ提供した。私の認識に相違はあるか?」 「私がガルダ人であることに意味はない」 一瞬、何を言い出したのかと思う返答であった。ダナラスは薄笑いを唇に浮かべた。 「お前たちはいつもそうだ。どの民族の出かで簡単に他人を判断する。同じ人間として生まれた者に、そうやって身勝手な区分けをするのだ」 「では、貴様は自分をどう説明する?」 「解放者たる主の元で戦う戦士だ」 「……頭の医者を紹介してやりたいところだが、そう悠長にもやってられんな」 ギルグランスがちらと死体の山に眼をやると、ダナラスは答えた。 「残念だが必要な犠牲だ」 その冷静な返答に、ギルグランスは唾棄したくなった。ギルグランスは自らを正当化して殺戮を善しとする考え方が大嫌いだった。必要があろうがなかろうが、殺戮は殺戮だ。手を下す者は一生その重荷を背負う覚悟を決めなくてはならぬ。屠る理由を正当化して平然としているなら、それは血に飢えた獣と何も変わらない。 「お前たちが驚くのも頷けよう。確かにエウアネーモスはバストルの補給線だ。ヴェルスを占領した後、バストルは帝国全土へと進軍する予定だった。愚かな夢だ。故に斬った。ヴェルス占領は為されようが、次の都市は落とせずヴェルスに篭城することになろう」 「……おいおい。ガルダ人同士で仲間割れか?」 オーヴィンが問うと、ダナラスは失笑した。 「人種など関係はない。我が主は、亡者を用いて国土を無闇に荒らすなど、真に馬鹿げていると考えた。私もそれに同調しただけだ」 ダナラスは一呼吸をおくと、老練の当主を見据えた。 「ここまで調べ、辿り付いたことに敬意を表し、一度だけ問う。我が主に下る気はないか」 「いっ……?」 あまりの問いかけにモーレンが素っ頓狂な声をあげる。ギルグランスは馬鹿にするように笑った。 「ほう、主。どのような主だ? そいつはバストルより偉大か?」 「バストルなど亡国の亡者に過ぎん。我が主は全ての人間に平等な世界を作るべく、神がこの地に使わした救世主だ。既に何人も彼の元へ猛者が馳せ参じている」 「その者を王とする所以は?」 「皇帝の血統。そしてこれからの時代を統べる魔術の力」 「封印魔法か」 「然り」 ギルグランスは頬を強張らせた。ようやく話が見えてきた。真偽は定かではないが、今回の件の黒幕には、皇帝の血統を持つ者がいる。彼は自ら英雄となるため、ガルダ人に力を貸すふりをして、ヴェルスを襲わせたのだ。それを鎮圧して、自らが王者を名乗るために。 「私は確かにガルダ人に脅され死霊使いの研究を始めた。しかしあの方への忠誠は変わらない。あの方は真にこの世界のあるべき姿を考えている」 「その者を新たな皇帝として擁立し、篭城したガルダ人を討伐して名を挙げ、挙兵するつもりか」 「その通りだ。北方防衛の要であったあなたが参集したと知れば、多くの将兵が集まるだろう。あなたであれば司令官として迎えることもできる」 「と、トージ。こいつ、何言ってやがる?」 「……何にしろ、ヴェルスを犠牲にすることが全ての前提のようだな」 いつでも仕掛けられるよう後ろ手に投げナイフを構えたまま、トージが低く答える。まだ動くな、と小さく手で示してから、当主は鼻を鳴らして笑ってみせた。 「面白い。では、そなたの主は皇帝となって何を為す」 「ご当主どの……!?」 モーレンがぎょっとした声をあげる。ダナラスは手を広げるようにして言った。 それは、神の声より高らかに洞窟内に響き渡った。 「帝国の変革だ。市民権の解放と奴隷制の廃止。更には本国と属州の敷居を排し、税率の不平等を撤廃し、ガルダ人も帝国人も関係のない、真に平等なる人の社会を形成する」 声が切れた後も、まるで呪詛のようにその宣言は反響し、男たちは沈黙した。ダナラスの発言は、帝国の仕組みを根本から破壊するものだった。同時に、鼻面に光り輝く理想をいきなり突きつけられたようなものだった。 半眼になったギルグランスが、不意に口を開いた。 「よく分かった。貴様の主には、こう伝えるが良い」 風が唸る。ダナラスは眼を見開くと同時に、剣を斜め上に振り上げた。鋭い金属音と共に、二つの剣が交わった。そして、理想を求める剣士と現実を見定める老練の当主の視線とも。 「たわけ。やれるものならやってみろ」 褪せて尚意志を失わぬ瞳に冴え冴えとした眼光を放ち、燦然と告げる。受け流された剣戟をそのまま反対側に振りぬいたギルグランスに、ダナラスは飛びのいた。 ギルグランスは悠然と笑った。 「貴様が言っていることは狂気の理想だ。そして真にその世界を為し得るというのなら、どれほどの血を布いても貫き通すべき道であろう。だが、そのために我が配下を屠り、我が都市の民を犠牲にするというのなら、私は我が名と誇りにかけて抗うぞ!」 「甘言を!」 今度はダナラスが仕掛け、疾風を巻き起こすような激しい打ち合いとなった。打ち込みの勢いが風となり、ギルグランスの頬を撫でる。ギルグランスが鋭く繰り出した払いに、ダナラスの上腕に赤い筋が入った。しかし同時に、ギルグランスの上衣が切れて破片が舞う。トージもモーレンも、ギルグランスが刃をまともに受けるところを見るのは始めてだった。 「ちっ……」 オーヴィンが魔法を生成しながら隙を伺っているが、あまりに打ち合いが速過ぎて機会を見極めきれない。ヴェルスの闘技場で長きを戦い抜いた剣闘士は、もしかすると表では手を抜いていたのかもしれない。 同時に、更に恐ろしいことが起きた。 ダナラスは刀身の長い剣を左手で軽々と扱っていたが、不意に空いていた右手を腰元にやり、巾着を開いて投げ打った。噎せ返るような甘い香りが一杯に広がり、死体の山の一部が動き出す。 「モーレン、トージ、下がれっ!」 オーヴィンが鋭く警鐘を鳴らした。ダナラスは殺した者たちにも亡者となる処置を施していたのだ。死んで間もないのが幸いしたのか、動き出したのは数体だけであったが、十分な脅威であることは明らかであった。 「無理矢理倒す必要はない。親父にだけ近づけるなっ!」 「分かっている!」 「ひ、ひぃ!!」 トージが素早くナイフを投げ、動き出した死体のいくつかを山に縫いとめる。オーヴィンがその間に腰元から油の入った袋を取り出し、それを投げつけた。 「ごめんな」 短く呟き、小指ほどの火の玉を放つ。あっという間に大炎が巻き起こった。亡者たちが炎の中で激しくのたうち、叫びまわる。 だが、四体ほどが炎から逃れていた。その内の一体はエウアネーモスその人だ。生きながらにして亡者となる薬をかけられていた彼は、気がふれたような叫び声をあげて暴れだした。配下たちが緊張に身構える。この男だけは生け捕りにせねばならない。 トージは武の力でこそベルナーデの配下に遠く及ばないが、異常な環境でも冷静に力を振るうことのできる男だ。故に起き上がった遺体に対する恐怖に竦み上がることなく斬りかかることができたはずだった。しかし髪の長い娘がゆらりと立ち塞がった瞬間、彼の目に迷いが走った。オーヴィンが走りこんできて体当たりで女を引き倒さねば、掴みかかられていただろう。びくびくと震える女に歯軋りをしたトージは、一度だけ怒りを剥き出しにした視線をダナラスに向け、剣を引き抜いてうつ伏せになった背中に突き立てた。 「うぁああ!」 亡者に襲い掛かられたモーレンが悲鳴をあげる。一体目を斧で肩から切り裂いたが、痛みを感じぬ亡者は身体を奇妙な方向に傾かせて尚掴みかかってくる。得物を持っていないのが救いであった。悲鳴をあげながらも必死で腕や足を落とそうとするが、致命的な一撃が与えられない。 更に背後には、エウアネーモスが近付いてきていた。護身用に持っていたのか、片手には短剣が煌いていた。 「モーレン! 後ろだ!」 トージが叫び、オーヴィンが風の礫でモーレンの正面の亡者の足を打ち砕いた。モーレンは背後の脅威に気付き、生け捕りの余裕もなく斧を思い切り振りぬいた。 だが、直撃まで僅かに早かった。鋭い刃の一閃はエウアネーモスの胸を薄く薙ぎ、そのまま積荷の木箱に深く食い込んだ。青くなったモーレンは渾身の力でそれを引き抜く。すると箱の中身が盛れ出たのか、ぱっと黄金色の粉が舞った。 瞬間、ふくらはぎに熱い衝撃が走る。体勢を崩したエウアネーモスの腕がモーレンの足を掴み、剣を突き刺しているのだ。それが引き抜かれ、切っ先が腹の方を向いた。殺される。オーヴィンとトージは最後の一体と交戦しており、助けは望めない。モーレンは視界が赤く染まるのを感じながら、斧を振り上げた。 「……お?」 僅かな違和感に、腕が止まる。そしてモーレンは暫し停止した。何故かエウアネーモスの動きが急に止まり、ぱたりと刃を落としてその場に伏したのだ。更に足を失って暴れていた亡者までが、時を止めたように沈黙していた。 よく見ると、先ほど漏れた黄金の粉が舞い上がって煌いている。モーレンは、しげしげと詰まれた荷物を見つめた。 その間も、ギルグランスとダナラスは互いに血を滲ませつつ決定打に持ち込めずにいた。一際甲高い音で刃が打ち合わされると、初めから決められていたように一度引く。 深く息を吐き出して、ギルグランスは長剣を垂直に構えた。 「まだやるか?」 挑発的な笑いに、ダナラスは無言で地を蹴った。ギルグランスはゆるりと剣の切っ先を下げた。ダナラスが始めて不可解そうに眉を動かしたが、次の瞬間、当主は懐に踏み込むように足を出して剣を跳ね上げた。斬撃は下から受ける方が圧倒的に不利だ。しかし神とも見紛う膂力が後押しし、ダナラスの力を僅差で破った。常人であれば剣を手放さずにはいられなかったろうが、ダナラスは剣を離さなかった。しかし代わりに刀身が耐えられず、ダナラスの剣は根元近くでへし折れた。 体勢を崩しつつも着地したダナラスは、鼻先に突きつけられた剣に動きを止めた。 「手こずらせおって。オーヴィン、皆はまだ生きているか!?」 「ああもう、生きてるのが不思議だよ!」 背後からの声に当主は満足げに笑う。際どいところではあるが、制圧は完了したようだ。 死体の山があげる炎が煉獄の炎のように当主の横顔を照らしている。早く脱出せねば互いの命に関わるだろう。しかしダナラスは無表情に当主を見つめていた。ギルグランスは目を細めた。 「良いか、聞け。今から私が尋ねることに正直に答えれば、このまま去ることを許す」 ダナラスは動じなかったが、背後から驚いた気配があった。ギルグランスは続けた。 「先ほども言ったとおり、貴様の主の理想は狂っている。だが、面白くもある。私の意見は変わらぬ。自由と平等の国、本当に出来るものならやってみるがいい。ことによって、あるいは主を受け入れるかもしれぬぞ」 「ちょっと待ってください! こんな最低な野郎に力を貸すなんて冗談じゃないですぜ!」 「そうだ。俺は絶対に許さん」 モーレンとトージが口々に言うが、ギルグランスは軽く手を挙げて制した。 「ああそうだ。今は口で理想をほざきながら殺戮を繰り返し我が故郷を焦土にしようとする豚より低脳で虫けらより有害な連中だ。故に私は心を寄せぬし、力も貸さぬ」 冷たく言い放つ老練の当主の口元に、嘲弄の笑みが浮かんだ。 「今度会う時までには人心の扱い方を最低限学んでおくことだな。理想を得るために犠牲は必要でも、犠牲を強要するばかりでは歴代の悪帝と何ら変わらんぞ」 「……」 ダナラスの瞳に浮かぶ光は僅かに揺らいだように見えた。ギルグランスは仕切りなおすように突きつけた剣を僅かに近づけた。 「さて、時間もない。質問に移ろう。まずひとつ、バストルは今どこにいる?」 逡巡するようにダナラスの目が閉じる。無情に刃は動いた。つ、と喉元から血の筋が落ちたところで、ダナラスは口を開いた。 「ルミニ教の元神殿だ」 これにはギルグランスも瞠目した。 「あの神殿は旧市街から離れているが?」 「今は地下通路で繋がっている。補給物資もそちらから運んでいるだろう」 ギルグランスは小さく舌打ちをした。ルミニ教の神殿は徹底的に調査を行ったが、それ以後はほぼ放置されていたのだ。まさか再び根城として使われていようとは思っていなかった。 「ヴェルスに潜伏したガルダ人の人数は」 「生き残りは四十八名だ」 神経質な性質のせいか、正確な数字が出てくる。しかも想定通り少ない。逆に言えば、それだけ修羅場を潜った戦士が揃っているということであろうが。 「それでは最後の問いだ。――貴様がエウアネーモスと共に殺した中に、アメストラ家の貴族はいたか」 ダナラスはこれまでと同様に即答した。 「斬った者の顔など覚えていない」 「そうか」 ギルグランスは短く答えると、ダナラスの顎を鋭く蹴り上げた。激しく地面に叩き付けられたダナラスは、口から血を垂らし激しく咽た。 「これ以上は目障りだ。何処となり消えろ」 よろめきながら立ち上がったダナラスは、途切れ途切れに答えた。 「我が主の名は問わぬか」 「無名の皇帝など覚えても仕方ないわ」 「……」 ダナラスは背を向けた。その時、微かにダナラスの視線が荷の方へ動いた。すると彼は、燃え盛る山に折れた剣を突っ込んで首の一つをとった。更に積んであった木箱を足がかりにして、瞬く間に天窓へと取り付く。追っ手を防ぐためだろうか。彼は木箱の一つに油の袋を置いて、燃える首を使って火をつけ、去っていった。 「あっ……」 煙が室内に充満してきている。すぐに退避せねばならぬ状況であったが、モーレンが突如目を見張って叫んだ。 「火を、火を消してくだせえ!!」 「どうした?」 当主の問いに答える前に、モーレンは走り出していた。ダナラスに比べると悲しいほど不器用な動きであったが、木箱に取り付き、天井へと向かう。 「モーレン!?」 「この木箱の中身は――っ!」 ダナラスが消えた箇所で焚かれた炎は既に複数の箱に飛び火していた。モーレンは燃え盛る火ごと木箱を抱え上げ、離れたところへ放り投げた。 尋常ではない行為に、オーヴィンがとっさに水を精製してモーレンに浴びせかける。鎮火できる量ではないが、モーレンの服に引火させないためだ。 すると濡れた上衣を剥ぎ取り、モーレンは火がついて間もない木箱に多い被せ、更にもう一つを斧で宙に抜き払った。 ギルグランスはモーレンが投げた木箱の一つを見た。中からは黄金色の粉がぶちまけられている。 モーレンは火傷を負いつつも木箱の山の火を収め、荷物の焼失を防いだ。そして、ぐったりとその場に座り込む彼を見るギルグランスの瞳が、ゆるゆると見開かれた。 「まさか……!」 *** 目を閉じれば、その光景はいつだって思い出せる。 まるで悪夢のように、同じ影絵が何度も何度も頭を巡る。 崩れ落ちた双剣使いを貫く、巨大な剣。 違う。何かを忘れている。 とても大切なことを、忘れてしまっている――。 「リアラ」 名を呼ばれ、奴隷のリアラは驚いて顔をあげた。奴隷女ノノが怒りと心配を交えて見下ろしてきていた。後ろにはもう一名、荷運びの奴隷もいる。 「何をしてるんだい。一人になるなとセーヴェ様からのお申し付けだっていうのに」 「……ごめんなさい」 エルの一件があってから、リアラは以前のように無邪気に笑うことがなくなった。相変わらず仕事には熱心だが、伏見がちになり、言葉数も格段に減った。それは彼女の顔を不思議と大人びさせ、見る者に複雑な感慨を与えたものだったが、リアラ本人の知るところではない。 冬も近い空に、雲の絨毯は渦を巻きながら流れていく。エルが殺された日と同じ。不吉な風だ。結い紐で一つに縛った髪が、大きく煽られる。今にもさらわれてしまいそうだった。 「アンタはいつもここにいるね」 ノノは溜息交じりに言った。そこはエルが最後にガルダ人と戦った裏庭だ。あの時、もしも自分が大人の言いつけに従って外に出なかったら、もしかするとエルが命を落とすことはなかったのではないか。その思いが、今も幼い少女の胸を捕らえて離さないのだ。 「セーヴェ様にお願いして、来年の春になったらここも菜園にしてもらおうかね」 こちらを気遣ったのか、ノノはぽつりと呟いた。 「そしたらアンタの仕事も増えるよ。だから今の内から、もっときびきび働きな」 「うん」 「ほら、戻りな。厨房で夕食の仕込みだ」 「……うん」 背に手をやられて促される。リアラは屋敷に向かいかけ、一度だけ振り向いた。 何かを忘れている気がするのだ。とても大切な何かを。 ノノは倉庫に用事があるそうで、荷運びの奴隷を連れて行った。リアラは足早に中庭を抜けて厨房へ入ろうとして、不意に立ち止まった。 唇が驚きに震え、悲鳴のように声をあげる。 「ジャド!」 中庭に面した部屋の一つから、戸柱に身体を預けたジャドが俯いて荒く息を吐いていた。昨晩、重症を負ってベルナーデ家に担ぎ込まれたのだ。いつ目が覚めたのだろう。どちらにせよ、身体を起こしてはいけないことは幼いリアラにも分かった。 「駄目だよ、ちゃんと寝てて!」 駆け寄って支えようとすると、逆にジャドはその場に倒れこんだ。ジャドの腹ほどまでしか背丈のないリアラは共倒れになってしまう。慌てて起き上がると、ジャドの背の包帯からは血が滲んでいた。彼が寝ていた部屋には誰もいない。交代で看病するはずだったが、何かと忙しい中で誰かが目を離したのだろう。 とにかく、人を呼ばなくては。しかし、人を呼んでいる間に死んでしまったらどうしよう。 混乱が、リアラの瞳に大粒の涙を浮かせた。 「ジャド、やだよ、ジャドまで死んじゃやだよ、嫌だ……っ!」 その時、ジャドの唇が微かに動いた。力なく地に投げ出されていた指が砂を掴むように折り曲げられ、目蓋が開く。 中庭に一際大きな風が吹きこむ。 あの時も、風が吹いた。 「あ……」 ジャドが何かを言っている。伝えようとしている。 そう、あれは夏の終わりだというのに妙に暑かった日。腐った魔物が屋敷内に放たれた。そしてガルダ人も侵入した。 同じように雲が立ち込めて。雨の匂いがしていた。エルはあのガルダ人を倒すことができたはずなのだ。なのに、突然動かなくなった。風が吹いて、全てが影絵となった。動いて、と祈った。ガルダ人が剣を振り上げる。影が。エルは、ただされるがままに。 違う。 ジャドは必死で声を振り絞ろうとして、しかし顔を歪める。荒い呼気の音が、風の音に重なる。 こんな風に、最後の一瞬まで声を出そうとしていた人がいた。 「うぁ……」 自然と涙が浮いた。あの時。エルに凶刃が降り注いだとき。動いて、と叫んだ。すると、エルは口を開いた。既にそのとき、剣は彼の腹に食い込んでいた。 「エル……」 その唇が、動いていた。動いていたのではない。喋っていたのだ。既に意識はなかったろう。彼の瞳はみるみる光を失い、口から血の塊を吐いて、最後はどさりと地に伏して。それでも彼は最後まで伝えてくれたのだ。 みんなに伝えて。ガルダ人に手を貸しているのは――。 エルとジャドが、声もなく、同じ名前を搾り出す。 悲鳴をあげたリアラに、奴隷たちが飛び出してきた。セーヴェですら瞠目して立ちすくみ、駆け寄ってジャドの容態を確かめる。ジャドはうわ言のように口を動かしているが、何を言っているかは聞き取れない。 瞳を見開いたまま、リアラは呟いた。 「ごめんなさい……」 雨が、ぽつりと石畳を濡らした。 「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」 「リアラ、どうしたの!?」 女奴隷に抱きしめられて、リアラは泣き叫んだ。遠雷と共に雨が降り出す。エルは死の間際、あんなにも必死に伝えてくれた。なのにリアラは恐ろしさに忘れようとした。悲鳴をあげて彼の言葉をかき消し、その恐怖から逃げ出したのだ。 「しっかりなさい!」 頬に鋭い痛みが走った。平手打ちを受けたのだ。それで大人たちがいることを思い出して、リアラは逆に彼らに掴みかかった。 「旦那さまに……旦那さまに、伝えなきゃっ!」 鈍重な南風が大手を振るって豪雨を運ぶ。その音に負けぬ勢いでリアラが叫んだとき、奴隷のピートが駆け込んできた。 「セーヴェ様、旦那様がお戻りになられました!」 「っ!」 セーヴェより先に走り出していた。制止の声を無視して、玄関に至ると、当主が入ってきたところだった。戦場から戻ったかのように服を汚して至るところに血が滲んでおり、普段であれば足が竦んでしまうような出で立ちだ。しかしリアラはその足に取りすがっていた。 当主の顔が、こちらへ向く。 「ディクルースです」 言葉が、涙と共に溢れた。 「エルが言ったんです、最後に、ディクルースがいたって……! なのにリアラは怖くて、忘れちゃって、エルがリアラに教えてくれたのに、せっかく教えてくれたのに、旦那さまに伝えなきゃいけなかったのにっ! あとジャドも、ジャドも同じでっ!」 「リアラ、離れなさい!」 足早にやってきたセーヴェが鋭く言う。知っている。旦那さまの歩みを止めるなど、奴隷の身でやってはいけないことだ。あと少しで引き剥がされる。だから、伝えなくては。エルだって、そうやって伝えてくれた。 「旦那さま、リアラは――」 「リアラ!!」 「良い、セーヴェ」 不意に頭が大きく暖かなものに包まれた。リアラは、目の前にベルナーデ家を背負う当主の強く逞しく、何より優しい顔があるのを見た。膝を折った当主は、もう一度リアラの頭を撫でた。 「ディクルース。エルもジャドも、そう言ったのだな」 光を宿した灰色の瞳が、こちらを捉えている。強い光だ。 リアラは、こくりと頷いた。 ギルグランスは力強く頷いて笑った。 「――よく伝えてくれた、リアラ。もう大丈夫だ」 握られた拳が、額にあてられる。かっと目の奥が熱くなり、新しい涙が溢れてくる。 ギルグランスは立ち上がった。慌てて駆け出してきた女奴隷の腕に引っ張られて、リアラは脇にやられた。そしてリアラは見た。木箱をいくつも載せた荷車を引いた人相の悪い男たちが、屋敷の外で息を切らせている。よほど急いで運んできたようだ。 「すぐに出るぞ。伝令!」 「は」 セーヴェがぬかりなく所持していた蝋版と鉄筆を手する。雨はますます勢いを増していく。老練の当主は煤と血に塗れて尚、戦場の狼のごとくその眼光を輝かせていた。 「二人官ならびにトランヴェードに告げよ。エウアネーモスは捕虜にした。また亡者を浄化する秘薬も入手している。雨が上がり次第旧市街への散布を開始するため議会場へ取りに来い」 当主の言葉に、奴隷たちの顔がみるみる驚きに変わった。清書する間も惜しんで三枚の蝋版に同様のことを書きつけたセーヴェは、そこにベルナーデ家の印を押して若い奴隷に渡した。奴隷は力強く頷いて雨の中へと飛び出していった。 「トージ、モーレン! 貴様らは議会場へ荷物とエウアネーモスを運べ。これを見せれば入れよう」 ギルグランスはそう言って、待ちわびていたトージにベルナーデ家の家紋を首から外して投げ渡した。当主の証を投げ渡すなどギルグランスくらいなものだったが、トージもまた当然のように受け取って走り出した。 「っしゃあ! 運び屋の出番だぜ!」 全身火傷だらけのモーレンが興奮した様子で供につき、荷車はあっという間に坂道へ消えていく。 「エウアネーモスが小心者で救われたな。まさかあれほどの量を用意しているとは」 そう呟くと、オーヴィンが同意して深く頷いた。 「んん、全くだ。モーレンのやつ、あとでどんな謝礼を要求してくるやら」 「与えてやるさ、土地でも城でも。あの者の働きはそれだけの価値がある」 荷車を見送りながら、ギルグランスは苦笑したものだった。エウアネーモスは護身の目的で亡者を浄化する薬を大量に精製し、保管しておいたのだ。念のため発見した場所の手前の部屋にナイフで縫いとめておいた亡者で試したところ、効果は覿面であった。四人が見守る中、びくびくと震えていた亡者の四肢は粉をかけられた途端に動きを止め、静かなる死の眠りについたのだ。 すると確認に行っていたセーヴェが、当主に耳打ちをした。灯台島の民は残らずベルナーデ家に集められていたが、ディクルースだけが昨晩から姿を消しているとのことだった。ギルグランスは眉をしかめた。 「……して、どういった男だ、そいつは?」 「親父も会ったことあると思うよ、パンデモ爺さんとこの手伝いやってる奴だ」 「男の名前など一々覚えていられるか」 当然のように言う当主に、オーヴィンは遠い目をした。 「しかし、裏切り者がこんなに身近にいたとはな。しかも皇帝の縁者など、あまり信じられる話ではないな」 「んん。あんまり目立たない奴だったし、魔法使いだとも聞かなかったんだけどなあ」 そこまでオーヴィンは言ってから、つとギルグランスを横目で見た。 「良かったな。あそこにあいつがいなくて」 「ふん、予想はついていたわ」 ギルグランスは短く言い捨てて、そして微かに眼を伏せた。 「――全く、何処をほっつき歩いているのだ、あの馬鹿者は」 ギルグランスはベルナーデ家にディクルースが戻ってきた場合の対応についてセーヴェに指示を出すと、上衣だけを取り替えて再び門に立った。供はオーヴィンのみだ。 そのとき、天が落ちてきた大粒の雨の中に光の筋が走った。 「見つけた!!」 七色の羽根をはばたかせて妖精が降りてくる。クロイスであった。 「どうした、そのように慌てて」 全身を豪雨に嬲られながらクロイスはギルグランスの眼を見つめ、意を決したように口を開いた。 Back |