-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>11話:眼を開いて

06.交差



 目が覚めると、クロイスの姿は消えていた。
 眠る前の記憶が曖昧だ。何を話していただろうか。
 そう長い時間眠ったとも思えなかったが、もう進まなければ。
 フィランは立ち上がって槍を握りなおすと、眩暈を振り切って歩き出した。
 その瞳は未だ理想郷を求め、血に塗れながらも地を這いずる。
 若者の傷ついた背中は、更なる闇の中へと消えていった。


 ***


 同じ頃、目を覚ました者がもう一人いた。
 ただ若者と違ったのは、傍に人がおり、一触即発の言い争いが起きていたことだ。言い合っているのは、灰を混ぜた葡萄酒色の髪をした青年と、背の高い武人であった。
「そんな話は聞いていない。もう僕らのことは放っておいてくれないか」
「逃れてきた身で虫の良いことを言う。思いあがりも程々にすることだ、ここに来たのであれば、我らが長に従うのは当然であろう」
「思いあがっているのはお前たちだ。恩知らずの蛮族と呼ばれてもいいのか」
「権利ばかりを主張する外民が。貴様の首をここで狩ってもいいのだぞ」
 男は双剣に手をかけたが、ふと背後に立つ人影に気付いて、恭しく道をあけた。
 身を起こしたティレの瞳が、驚愕に弾けた。
 見知らぬ部屋の窓から、夜明けの光が差し込んでくる。ティレを庇うように、ディクルースが立っている。そして彼と対峙したのは、血を思わせる赤銅の長髪をもつガルダ人の長、蛇の頭を狩るバストルその人だった。
 同時に強い死の印象が頭の中で弾け、ティレは身震いする我が身を抱きしめた。底板が軋む音でディクルースがこちらに気付き、緊張を露にする。
「また会ったな、娘。どうした、怯えているのか」
 傲然とバストルはディクルースを無視して語りかけてきた。必死で記憶を手繰り寄せても、どうやってここまで来たのか覚えていない。最後はフィランと共にいたはずだった。彼は何処にいるのだ。
「どうした。また私の未来を見たか?」
「彼女に近付くな」
「クク。私の死を予言した者が死に怯えるか。哀れなことよ」
 ディクルースの制止も虚しく、バストルは近付いてきてティレの顎を指で持ち上げた。
「美しい目だ」
 互いの距離が近付き、バストルの猛々しい瞳が怪しく笑う。喉の奥が引きつり、ティレは蛇に睨まれたように硬直した。
「気に入ったぞ。そなたはだけ殺さずにおこう。行く行くは我が膝元で滅びを謳う歌姫となるがいい」
「待て。彼女は僕のものだ、渡すわけにはいかない」
 バストルはこちらから目を離さずに言った。
「そうか? ならば力ずくで奪うまでだ」
 ディクルースが歯噛みする気配があった。何が起きたか知らぬが、己が敵中にいることは変えられない事実のようだ。そして、己の力で戦わねばならぬということも。
 何故だか体調は回復しており、思考は明瞭であった。ティレは灯台島の民の顔を次々と思い出し、己の意志を確かなものとした。
「……あなたと一緒には行かない。フィランが何処にいるのか、教えて」
 自分でも驚くほどの強気な言葉が出ていた。しかしそれは紛れもない本心であった。フィランと共にあの島へ戻るのだ。そして、全てを話そう。あの人々だったら、きっと分かってくれる。ティレと同じように悩み苦しんでいる彼らなら。
 すると、バストルは突然弾けたように笑い出した。
「クク。それで良い。私は喋る人形に興味はない。楯突くが良い。抗うが良い。そして我が死が訪れるまで、我が元から離れることは許さぬ」
 美しい線を描く唇が、愉悦の笑みを形作る。ティレは思わず問うていた。
「あなたは死が怖くないの」
 バストルは目を細めた。胸に下がった柘榴の首飾りが揺れる。
「何故恐れる? 我らが悲願の成就を前にこの命にどれほどの価値がある。帝国の豚どもをこの地上から一掃し、我らが新たな覇権を打ち立てるまで、ガルダの民は何度でも蘇ろう」
 それはティレが始めて知る異種族の考え方であった。更にガルダ人の長は笑った。
「そして、もしも私が死を免れることがあれば、私は神に定められた運命すら切り拓いたことになるな?」
 瞳を獣のように輝かせ、おぞましいほどの生気を振りまくよう、バストルは告げた。
「その眼で見ているが良い。神に呪われた女よ。そなたの言葉は私のものだ」
 肩が震えだしそうになる。半ばバストルの眼差しに呑まれて、ティレはかろうじて紡いだ。
「……未来を、変えることはできない」
 クッとバストルは喉で笑うと、身体を離して背を向けた。
「ならばそなたは座して待つか?」
 今度こそ、ティレは即答していた。
「わたしは、戦う」
「それが答えだ」
 振り向いたバストルは満足げに笑った。呆然とするティレを面白げに眺めやり、彼は力強い足取りで去っていった。もう一人のガルダ人もこちらを忌々しげに見やったが、バストルに伴って背を向けた。
 バストルの消えた方向を見つめていると、ディクルースが腰が抜けたように膝をついた。彼としては、バストルとティレに面識があるなど夢にも思わずにガルダ人の根城を頼ってしまったのだ。自分を落ち着けるように暫く顔を手でさすっていたが、思いなおした風に改まってこちらを向いた。
「良かった……。ティレ、もう身体は大丈夫?」
「……フィランが何処にいるのか、教えて」
「彼は死んだよ」
「うそ」
 それは思考より心が先に出した返答だった。しかしディクルースはそれもティレの具眼の力と思ったのか、言い直した。
「……そうだね。生きている、かもしれない」
 ならばフィランは血眼で自分を探している筈だ。崩れそうな足で、それでも誰にも頼らずに。
「ティレ。突然のことで驚いていると思う。難しいかもしれないけど、落ち着いて聞いて」
 ディクルースの説明によると、この場所はヴェルスの都市内にあるガルダ人の潜伏地であるらしい。
「外では蜂起が始まってる。当初の予定とは大分狂ったけど、ガルダ人が必ず勝つ。まずはここにいれば安全だ。言ったよね、必ず迎えに来るって」
 どくりと心臓が音を立てる。ティレは目の前の男に、既に以前の弱々しさがないことに気付いた。――否、元からそれすら虚像だったのだ。
「……あなたは、だれ」
 ディクルースは遠矢を射る神がそうするように、思慮深く微笑んだ。
「君は、フィランのことを本当に愛してる?」
 不意打ちの問いを受けて、ティレは口を閉ざしてしまう。
「彼は確かに君を愛していたと思う。でも僕に言わせれば、その愛はただの押し付けだ。君は、ただ彼に流されて共に逃げてきた。違うかな」
 ディクルースの眼差しは真実を射抜いていた。神殿を襲撃された時、友の骸に縋っていたティレを、フィランは無理矢理引き剥がした。そして手をひかれるままに、ティレは黄金の庭へ足を踏み入れた。いつ消えてしまえるのだろうと、心の片隅で考えながら。
「彼は自分のことしか考えてない。君が本当に幸せになるために何が必要か、考えもしてない。そしてただ逃げることしか出来ない臆病者だ」
 槍使いをそう糾弾すると、ディクルースは手を差し伸べた。
「君の名はティアルティレジア。本国の豊穣の巫女だ。誰もから敬われ、崇められるべき存在だ」
 彼がいとも簡単に自分の正体を口にしたことに、ティレは慄然とした。
「僕の名はディクルセイエス。血筋は亡くなった皇帝の弟にあたる。僕は逃げない代わりに、君のための国を作る。それは今の悲惨な帝国でも、野蛮なガルダの国でもない」
 恐怖が肺腑の奥から込み上げた。
 この男は優しく笑いながら、何を言っているのだ。

「この手を取ってほしい。――僕は、新しき国の皇帝になる」


 ***


 一夜が明けたヴェルスは、時折霧雨が降る曇天模様であった。ガルダ人と自警団の戦線は膠着状態にあったが、混乱収拾にも走らねばならない自警団たちは、次第に劣勢を強いられていく。
 そんな中、来期の二人官を目されるベルナーデ家当主ギルグランスは、ヴェルス郊外の湖に面した草原に立っていた。無論、外衣で顔を隠している。名門の当主が都市外に脱出したなどと知れたら最後、ヴェルスの混乱は抑えようもなくなるであろう。彼がここにいることを知るのは、同じく来期の二人官であるトランヴェードのみであった。
「どうだ」
 ギルグランスが問うたと同時に、がこん、と錆びた金属の動く音が聞こえた。
「空いたぞ」
「ご苦労」
 人の丈ほどの崖の下から顔を出したのはトージだ。相変わらず表情はなく、瞳だけが猫のように抜け目なく辺りを探っている。
「安心しろ。こちらもまだ敵影は見えぬ」
「中にも人の気配はありませんぜ」
 トージの後ろから、モーレンが小声で告げた。ただ小心者の彼はトージと違い、何度も振り返っては背後を確認していた。
 間もなくして周辺の索敵に回っていたオーヴィンが戻ってくると、ギルグランスは用心深い足取りで崖を下り、二人の無頼に開錠させた鉄格子を観察した。ここには本来、数十年前に閉鎖された工業用水の水路がある筈だった。しかし水道管程度の太さであるはずのそこは、今や人二人が並んで通れる程度にまで掘り広げられていた。
「やれやれ。公共物の工事は都市議院での決議書がないと着工できない決まりであろうが」
 ギルグランスが軽口を叩くと、トージがぴくりとも表情を変えずに言った。
「鍵は最新式、中は広そうだ。むしろ礼を言った方がいいかもしれない」
「こりゃあ、一体何なんですかい?」
 モーレンの不安げな声には、オーヴィンが答えた。
「んん。敵さんの拠点であることには間違いなさそうだがねえ。やっこさんがいるかが賭けになる」
 彼らが追っているのは、今回の事件についてヴェルス側からの協力者と疑われるエウアネーモスの行方であった。仮にヴェルスがガルダ人の手に落ちたとして、エウアネーモスは都市の外に拠点を設けるとギルグランスは考えていた。自ら危険を冒すことを嫌うエウアネーモスは、亡者の徘徊するヴェルスに留まりはしない筈だ。
 そんな時、レティオがエウアネーモス商会の新しい納入経路を入手してきたのである。その納入先は、ヴェルスから街道を南に進んだところにある初めの宿営場となっていた。ギルグランスは都市周辺の隠れ処に詳しい無頼のトージに協力を要請し、宿営場近くを捜索させたのである。すると、明らかに最近手を加えたと思われる水路の入り口がほどなくして見つかったのだった。
「んで、モーレン。なんでお前さんがきたんだ?」
「へへ。ベルナーデ家は謝礼の気前がいいからなあ」
「……お前さん、早死にしちまうよ」
「貧乏のまま年取っても仕方ないってもんさ」
 モーレンは不敵に笑ってみせる。彼は表の顔は下町の串焼き屋だが、その裏で暗黒時代を強かに生きた運び屋でもあった。トージがギルグランスの供をすると何処から察知したのか、気がつけば調査団に加わっていたのだ。片手で扱える斧を持ってきているが、腕は最低限護身ができる程度。ただ酔狂な性格のためか経験が豊富なので、オーヴィンの口添えの元に同行が許可されたのであった。
「では、行くか」
 ギルグランスは知り合いの家に入るような気楽さで言うと、鞘走りの音とともに長剣を抜き払った。既にセーヴェはこの場所についての情報を知らせに都市へ戻らせてある。
 まずはオーヴィンが先頭に立ち、扉の裏にあった罠を解除した。暫く通路になっているようで、真新しい足跡や工事途中の形跡がある。床こそむき出しの地面に厚い布を敷いただけだが、地下水をせき止めるためか、壁はほとんど焼き固められた煉瓦で覆われていた。そのためか、内部は、思っていたより乾燥している。
「ここは隠し倉庫にしておいて、ヴェルス占拠が済んだら天井の土を崩して地上階を立てるつもりだったんですな。そうすればでかい倉庫になる。くーっ、いいアイディアだ。その発想力が欲しいぜ」
 通路の構造を見て商魂強かなモーレンが悔しげに顔に手をやる。
「元の排水路があったにせよ、よくここまで秘密裏に作ったものだな」
 殿を務めていたトージが呟くと、ギルグランスは薄く笑った。
「ガルダ人の力を借りたのだろう」
「んん? ガルダ人は森の一族だろ、土木工事に強いのはむしろ帝国の方だ」
 罠を警戒しながら進むため、自然と足は鈍くなる。目ざとく仕掛けを見つけて解除にかかるオーヴィンを待ちながら、ギルグランスは語った。
「バストルという男は、常に帝国に興味を持っておった。帝国の技術と知識を、多くのガルダ人は性に合わぬと疎んじたが、バストルにはそれらを取り入れる器量があった」
 抜き払った長剣の肌に、当主の皮肉げな笑みが映る。
「ガルダ人の叛乱の際は驚いたものだ。バストルの軍勢は武具、作戦、拠点の設営に関してまで、帝国の仕組みを取り入れていた。あれで文明まで取り入れていたなら、ガルダも滅びることはなかったろうに」
 ガルダ人は本能で帝国の文明化を拒んだが、その知恵と技術は略奪に値するとバストルは考えたのだ。故郷を追われながら彼だけが長きに渡って再起の準備を行うことができたのも、その能力があったからかもしれない。
「んん。だから封印魔法なんかにも手を出したのかねえ」
 傀儡師のような指使いで細い糸を外していたオーヴィンがぽつりと呟くと、ギルグランスは目を眇めた。その部分だけは、未だ答えが見つからない。
 ダナラスの日記によれば、灯台島の住民の一人が魔術に通じ、ダナラスの研究にも手を貸していたという。元々医師でもあったダナラスはヴェルスの植物を研究しており、ある時灯台島の住民と出会った。ダナラスは個人的にその住民に心酔していたが、ヴェルスに逃れてきたバストルたちに見つかってしまった。殺されかけた彼は、ヴェルスの植物によってガルダに伝わる死霊使いの技が蘇ると訴え、助命を乞うたのだ。
 更にエウアネーモスの助力を取り付けたのもダナラスであった。ただし彼はガルダ人よりも封印魔法の使い手に心を寄せており、日記には何度も使い手の賛美が繰り返されていた。
 その使い手はダナラスの死後も何故ガルダ人に手を貸し続けているのだろうか。エウアネーモスを捕らえるに辺り、ギルグランスはその魔術師を最も警戒していた。身動きを封じられてしまえば、それは全滅も同然だ。更に、その使い手が、もしも――。
 ギルグランスは、石像のように立ってオーヴィンの作業を見守る。
「油の臭いがまだ残ってる。ごくごく最近仕掛けたものだよ」
 罠の解除を終えたオーヴィンの言に、ギルグランスは細い通路の先を見据えた。立派な扉が一つ、薄闇の中にぼんやりと浮かんでいる。
 歩を進めた一同は、扉に仕掛けがされていないことを確認し、ギルグランスを先頭にして開いた。
 中は暗黒に包まれていたが、何かの気配があった。オーヴィンが手早く詠唱を唱えて光源を作る。
 オーヴィンの後ろからその先を覗きこんだモーレンが、喉を引きつらせた。
「……お、お前、ゴモドゥス」
「よせ、亡者だ」
 ギルグランスが手で制す。すると亡者はゆっくりとこちらに落ち窪んだ眼窩を向ける。顔の半分は肉が溶け、足からも骨が見えていた。そして、思い出したように短剣を持った右手をがくがくと掲げる。
 亡者に始めて相対したトージとモーレンは、その暴力的な臭気と禍々しい姿に武具を持つことも忘れて硬直した。亡者は破壊対象を見つけたと言わんばかりに激しく奇声をあげる。同時にこちらへ突進を開始するその動きは、明らかに人間のそれではない。
 ギルグランスが長剣を片手に足を踏み出した。
「進むぞ。援護は任せる」
 低く放たれた一言が、彼らを恐怖から解き放つ。オーヴィンは既に詠唱を始めており、トージとモーレンは得物を手に無防備になった彼の前に立った。
 至近距離に迫った亡者の右腕を、ギルグランスは一振りの元に肩から斬落とした。落ちた右腕を足で遠くに蹴り飛ばし、両手を添えた長剣で首を刎ねる。
 同時にオーヴィンが魔法を完成させ、室内の光源を増やす。すると室内は思っていたよりも狭く、更に奥に扉があることが分かった。扉の方からは、もう一体の亡者が接近しており、トージがとっさに腰から引き抜いた縄を投げた。両端に重りのついた縄は、見事な速度で亡者の両足に絡み、転倒させる。
「な、な、な」
 モーレンは斧を構えたものの、脂汗をかいて立ち竦んでいた。それが一般的な反応であろう。自警団の実力者であっても、亡者を前に恐怖で動けずに餌食となる者が後を絶たなかったのだ。しかし刃を振るわねば生き延びられない。ギルグランスが叩き斬った亡者に、オーヴィンは持ってきていた油の袋の一つを投げつけた。亡者と出会うようになってから欠かさず持ち歩いていたものだ。そして魔法で火を放つ。オーヴィンはあっという間に炎に包まれる亡者を見て微かに頬を歪めたが、すぐに新たな魔法の生成に入った。
 二体目は足に縄を絡ませ地面でもがいているため、対処は容易だった。ギルグランスは投げナイフで攻撃をしようとしたトージを手で制して止めた。
「地面に縫いとめるように放て」
 亡者は腕を落とされても生きたように動くため、下手をすれば足を掬われることがあるのだ。トージは慎重にナイフを投擲して亡者を固定していく。ナイフに縫いとめられて尚びちびちと動く腕を見て、モーレンは顔を蒼白にさせて口元に手をやった。
「ひでぇ……この世の地獄だ」
「後で埋葬してやろう」
 トージの肩を叩いて、オーヴィンが先へ進む。ギルグランスは始末が済むと、先へ続く扉の前に立った。膝をついて中を伺ったオーヴィンが頷くと、ギルグランスは扉を勢い良く開け放った。

「ほ」
 モーレンが短く声を発した。光源のある、広い空間に出たのだ。地上が近いのか、穴を開けた天井から外の光が差し込んでいた。壁も床も石造りで整備されているあたり、モーレンの予想通り、後日には倉庫にするつもりだったのだろう。壁には一面に木箱が積まれ、薬っぽい香り立ち込めている。更に雑多な物資も豊富で、一家族であれば十分に暮せる規模があった。
 ただ、そこは同時に血の海でもあった。
 さしものギルグランスも頬を歪める。エウアネーモスの家族と奴隷が、刃物で屠られ屍の山を築いていた。彼の妻と娘がその一番上に恐怖の形相で事切れている。娘は生まれたばかりの赤子を抱いていたが、その赤子の首から上はない。あまりの凄惨な光景にトージさえもが頬を引きつらせた。
 そこに無造作にもう一つ、死体が積みあがった。奴隷の死体だ。
「……そこで何をしている」
 当主の声は、死体の山の向こうにやられた。暗がりに、悲痛な呻き声と、剣士の姿がある。
「やめてくれ、もうやめてくれ……金が欲しいならそう言え。欲しいものは何だ? 用意するから、お願いだ……」
 涙を孕んだ男の呻き声が反響している。それは彼らが何度も耳にした、不遜な精神の持ち主エウアネーモスのものであった。かつてヴェルスに勢力を誇った大商人は、今、剣を持った男の膝元で座り込み、小鹿のように震えていた。
「エウアネーモス、そこにいるのか」
 ギルグランスが問うと、涙声に驚きが混じり、そして弾けたように声が大きくなった。
「助けてくれ! 全部話す、全部話すから、この男を殺してくれぇっ!」
 一瞬の出来事であった。剣士は、エウアネーモスに何かを振りかけた。そして彼の頭を子供が人形にするような手つきで持ち上げると、横薙ぎに剣を振り払おうとした。同時にトージの手によって鋭く投げ込まれた石礫を、剣士はエウアネーモスを盾にして防いだ。
 エウアネーモスは顔面に礫を受けて、意識を失ったようだった。すると剣士はエウアネーモスを一度放り捨て、そして冥界の化け物が立ち現れるように、闇から光へと姿を現した。
 刈り込んだ短い赤茶の髪を持つ面長の武人。均整のとれた体つきをしており、動きにも隙がない。状況から察するに、ガルダ人であるに違いない。
「おかしい。ガルダ人はエウアネーモスと協力して都市を占拠するのではなかったのか?」
 落ち着き払った声音で、しかし根底には殺戮者への警戒と威圧を込めて、ギルグランスが問いかける。
 その時、口を開いたのはオーヴィンであった。
「おいおい、よしてくれ。なんでお前さんがここにいるんだ?」
 全身に血の斑点模様をつけた剣士を前に、口元を隠すオーヴィンの指は戦慄に震えていた。

「死んだんじゃなかったのかよ、ダナラス……」




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