-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>11話:眼を開いて

05.嵐と血を呼び寄せた魔女の物語



 風に嬲られた大粒の雨が、視界を灰に曇らせる。
 雨の向こう、おぼろげな少女の姿がそこにある。
 刹那の雷鳴が輪郭を照らす。明滅する白と黒。濡れるままの頬に伝うは雨か涙か。
 何もかを失った自分にとって、まるでそれは鏡を見るかのようで。

 少女の姿がそこにある。
 その向こう、黄金の世界に、赤に染まって立つ己がある。
 濡れるままの頬に伝うは、血か、それとも。


 ***


 世界にある全てが汚らわしく、呪わしく、腹立たしかった。
 悪夢から悲鳴をあげて目を覚ます。起きた時刻など関係ない。止める奴隷を殴りつけて黙らせると、外に出る。金など軍時代の俸給が腐るほど余っていた。当時は使おうとも思わなかったのだ。金などなくても、幸福であったから。
 叫ぶ。不味い酒を路肩で煽る。気持ち悪い。体が汚れていく。
 店に入って女を呼ぶ。怯えた女に、笑ってみせる。女は未だ怯えている。腹が立つ。
 机を叩いて怒鳴ると奥から主人が現れたので、店を出る。居場所などいらない。このように汚い居場所など。
 賭博があれば顔を出して適当に賭ける。負けるとつまらない。だが、勝つと更につまらない。誰かがいかさまだと叫ぶ。それでいい。汚物は汚物らしく、唾を飛ばして吼えていろ。
 我を忘れるまで殴りあう。相手を殴る痛みが心地よく、頭を端から汚染する。汚れろ、汚れろ。こんな世界に付き合う必要などない。真っ黒に染めてしまえ。そして人々に気付かせろ。お前がどれほど不浄な世界に住んでいるのかと。
 苦しい時に誰かが笑って手を伸べてくれるなんて、そんな甘ったれた夢は、腐り落ちて悪臭を漂わせ、汚泥となって人を溺れさせるのだ。
 光などまやかしだ。
 世界の理は排斥だ。
 最後はいつだって一人なのだ。
 だってもう、そこには誰もいない。

 夢と現を彷徨い、目蓋を開くと、腐臭漂う路地裏に倒れている。
 体が動かない。陶器を頭からぶつけられた気がする。相手の鼻をへし折った気もする。怒声や悲鳴が、耳にこびりついている。誰かが焚いていた麻薬の香りが、服にまで染み付いている。
 誰かが立っていた。垂れ下がる長衣は場に似合わないほど手入れがされている。不意に、首根を掴まれる。抵抗する力は残っていなかった。暗い夜道を無造作に引きずられていく。
 水音がした。
「この、馬鹿者」
 何かと思えば、次の瞬間、川に放り込まれていた。
 世界は闇に包まれて、黒い水が口から鼻から体内に流れ込む。
 壮絶な不快感。助けて、助けて。
 手を伸ばしても、やはりそこには誰もいない。

 次に目を覚ますと、子供の奴隷に顔を覗き込まれていた。生きている、と奴隷は呟くと、つまらなそうに去っていった。周りは明るく、朝のようだった。
 そこは川縁の塵溜めだった。川に落とされて流れ着いたのだ。明るい日差しを背に受け、木片や草葉の中、寒さに凍えながら立とうとすると、頭の中で鐘が打ち鳴らされたようになり、全身が痛みに悲鳴をあげた。喉が引きつり、その場に嘔吐して、そして嗚咽した。
 泣き叫ぶ。熱い涙が冷たい手の甲に散る。壊れてしまいたいのに、死んでしまいたいのに。世界を否定し、滅ぼしてやりたいとさえ思っているのに。世界は回る。勝手に回る。日が昇る。人々は生きる。どれほど必死で生きても、どれほど穢れて生きても、世界は手を伸べてはくれない。
 走ることをやめれば、あとは置き去りにされるだけだ。
 ふらつく足取りで、家に戻る。奴隷が、怯えきった顔で待っている。彼は一巻きの書簡を手にしていた。とうとう家名でも取り上げられる日がきたか。それでもいいと思い、読めと命ずると、奴隷は震える唇で内容を読み上げた。
 それは、予想外の示達であった。
 任期は当日より。今すぐに豊穣の神殿へ向かえ。
 聞き終えると、笑いが込み上げた。狂ったように笑った。馬鹿馬鹿しい。本当に馬鹿馬鹿しい。それでも世界は人として生きることを強制するというのか。
 どうでもいい。
 頭痛を抱えたまま一睡もせずに、服だけを変えて神殿へと向かった。


 豊穣の神殿の職務は、投げやりな気持ちでやるには丁度良かった。
 単調な計算。つまらぬ管理手続き。右から左へ書類を流すだけの、退屈な日々。
 誰もが自分の経歴を知っている。だから、誰もが自分を見ると目を逸らす。人はいるのに、会話はあるのに、全てが心の表面を滑っていく。
 それでいい。心を許す相手などいらない。世界は勝手に回っている。自分がそこにいる必要はない。
 豊穣の神殿は静まり返っている。中庭を手入れする奴隷。供物を運ぶ女官。聖句を読み上げる司祭。誰も彼もが同じ顔に見える。自分は朽ちるまでここにいるのだろうか。それでもいいのかもしれない。何も考えたくない。何も感じたくない。
 抜け殻のように、そこにいるだけでいい。

 時折、豊穣の巫女を見かけることがあった。
 彼女もまた、人形のように日々の勤めを淡々とこなしていた。他人と目を合わせようとせず、俯きがちに回廊の向こうを歩いていく。遊びと恋に華やぐ年頃の娘の活発さは、そこにはない。
 見られていることに気付いたのだろうか。巫女はふと、こちらを向いた。透き通った琥珀色の瞳にどきりとして、顔を逸らした。巫女の表情の機微は、まるでなかった。ただ、苦もなく楽もなく視線を向けた。
 澄み切った湖を覗き込んだときに覚える恐怖と同じそれ。その瞳に湛えた、深い虚無。
 心に、焼きつくような印象が残った。
 そうしている内にも、世界は無音で流れ続く。昼は数多を視る光を携え、夜は万物の眠りを抱え、代わり映えのない日常が巡る。
 巫女は、相変わらず人形のように日々を過ごしている。

 ある晴れた日、中庭に機織の道具が出ており、女官と巫女が並んで布を織っていた。陽気の良さにつられたのだろうか。女官は甲斐甲斐しく世間話をしており、巫女は。
「……」
 思わず立ち止まってしまったのは、明らかに巫女が目蓋を閉じ、薄く口を開け、軽く身体を傾けて――有体に言えば居眠りをしていたからである。機織に勤しむ女官は気付いていないようで、楽しげに話を続けている。
 そして思わず駆け寄ってしまったのは、巫女の身体の角度がみるみる急になっていき――有体に言えば地面に頭を打ちそうだったからである。
「ちょっと!」
 巫女に触れることは禁じられていたため、走りながら自分の外衣を剥ぎ取り、敷物代わりにして椅子から落下した巫女の身体を受け止める。
「きゃあっ、ティアル様!」
 女官は慌てて立ち上がり、道具を放り出して巫女の傍に寄る。外衣に受け止められた巫女はずるずると地面に座り込んでしまう。
「あなた、一体何をしたのです!」
 女官には見事な勘違いをされていた。誤解を解こうと口を開くが、早口の糾弾で防がれる。そうしている内に、不思議そうに辺りを見回した巫女は、こちらを見上げた。その宝玉のような瞳に、はっとした。
 琥珀に色づいているのに、あまりに無垢な眼差しはむしろ純白の印象を受ける。穢れのない美しさ。それはいつか切望し、そして決して得られぬと気付いてしまったものだ。
 思わず凝視してしまい、不敬に気付いて顔を背ける。巫女を立たせた女官は、二度と近付くなと高圧的に告げた。言われなくともそうすると返し、去ろうとした。
 そのとき、巫女がそっと近寄ってきたのだから、女官も自分も、言葉を失ってしまった。巫女の瞳は、やはり精巧な細工物のようだった。大よそ感情のない、無機質な眼差し。けれど巫女は胸に当てていた手をそっともたげ、軽く握った拳を額に寄せてきた。そしてそっと目礼をし、腕を戻すと背を向ける。
 礼を言われたのだと。彼女らと別れてからようやく気付いた瞬間、不意に心が軋んだ。二度と巫女に近付いてはいけない。とっさにそう思った。
 このまま見つめていれば、きっと自分は。
 ――きっと自分は、また美しさに捕らわれて、手を伸ばしてしまう。

 不穏な気配を感じたのは、ある年の春、巫女の宣託の時期であった。漏れ伝わった噂で、巫女が『嵐』ではなく、『嵐と、その下に起こる洪水』を視たと聞いた。神殿内は飛び交う憶測に満たされ、事は皇帝の耳にも入ったそうだった。しかし遠征の失敗により無気力に侵された皇帝は、ここでも愚策を弄す。
 巫女の宣託は、嵐とそれが起きる日程のみ、通常の形態で発表された。首都の民は連日の皇帝の動きには敏感であったが、毎年行われる豊穣の神殿の宣託など歯牙にもかけなかった。
 かくして嵐は予言の通りに訪れる。

 不穏な風が、鈍色の空に草葉を巻き上げていた。大気が湿っている。じきに雨が降るに違いない。
 さして心が動くこともない事象。他の者たちは巫女の宣託を恐れて早々に帰ってしまったから、神殿の長方形の中庭には誰もいなかった。一人は心地よい。だから、暫しそこに留まることにした。
 臥床に腰掛け、息を抜く。軍を辞めて、幾年もの年月が経っていた。立つ気力もなく、絶えることも叶わず、自分はただここにある。
 闇の匂いに抱かれて、ただここにある。
 一体いつまでこうしているのだろう。
 疲れた身体を抱え、目を閉じて、後悔の予感に苛まれながら、意識を眠りに落とす。
 見たものは、やはり悪夢であった。
 黄金色に輝く大地。真紅に染まる剣。項垂れている男。
 ――息子がいるんだ。
 幸福の象徴であったそこから紡がれる絶望。もうその眼は自分を見ない。自分の居場所はそこにはない。
 ならば味わうがいい、裏切られたその痛みを。身に刻むがいい、切望した光に手を振り払われ、置き去りにされた者の慟哭を。
 顔のない兵士が命じるままに、翻した剣を、前に、突き出す。

 雷鳴の轟音が全身を打ち震わせた。瞬く間、ここが何処だか認識できなかった。どれほど眠っていたのだろう。空が夜のように暗くなり、礫のような雨が激しく風になぶられていた。
 しかし、それが未だ夢なのではないかと思ったのは、中庭の庇の外に、黄金の錫杖を持った少女が立ってこちらを見つめていたからだ。
 心を奪われて、少女と視線を通わせた。それは、身なりだけでいえばよく知った娘であった。神殿の最奥にいるべき、下々の者との会話などありえぬ清らかな身。だというのに、雨を全身に受け、か細い身体を闇に浸し、頬に張り付く髪を振り払うこともせず、こちらに視線を注いでいる。
「なぜ」
 凄まじい雨音が耳朶を叩いているというのに、少女の声ははっきりと耳に届いた。
「なぜ、泣いているのですか?」
 問われて、初めて目元が濡れていたことを知る。けれど狼狽する力すら沸かず、少女を見返す。本来であればすぐにでも雨風から守らねばならないのに、手を伸ばせなかった。どうしようもなく胸が苦しかった。何処に行くことも出来なかった。中庭の片隅、屋根に守られて呆然と座る自分と、雨風に吹き去らされる少女。雷霆が大地を打ち鳴らす。
 けぶる雨粒の中にあって、清らかな少女は確かに人の外貌をとり、慈悲も救いもなく、こちらを見つめている。
 なのに。
「巫女殿」
 か細い少女の肢体に、問いかける。
 潰えそうなのは自分の方なのに。
「あなたこそ。何故、泣いているのですか」
 まるで、少女こそが今にも崩れ去ってしまいそうに見えて。
 少女の睫がはじめて震えた。そのまま目蓋が、ゆっくりと伏せられる。
 それは紛れもない『人間』の仕草で、心がまた一つ、揺さぶられる。
「――人々が、波に呑まれる」
 初めて聞く少女の声は、まるでたった一輪だけ咲いた季節外れの花のよう。消え入りそうに儚く、それでいて確かに耳朶を叩く。
「もうだれにも止められない。黒い水がやってくる。あの声も、あの子も、助からない」
 闇に零れ落ちた孤独な慟哭が、再び雷鳴を呼び覚ます。少女は錫杖に縋るようにして、呻いた。
「どうして」
 背筋に稲妻が落ちたようであった。
 異なる世界の存在と思っていた。人を超えた、ただの光であると。その無垢な瞳の奥にある想いなど、存在しないものと思っていた。
 それがたった今、心の奥底に一つの印象として形を成す。
「わたしはここにいて、未来を読めば、それでいいはずなのに。なのに」
 何故今まで気付かなかったのだ。
「こんなもの、視たくない。視たくない……」
 遠い場所にいると思っていた巫女は、目の前で、一人の少女として嘆く。
 ただの、心優しい少女として。
 ああ、この人も同じだ。

 洪水が現実となる。首都の川沿いの地区は壊滅し、人々の間に絶望が蔓延する。
 しかし、そのような事実など目もくれずに、豊穣の巫女、そして彼女らが持つ具眼に関する文献を読み漁った。
 具眼、それは血統に関係なく、ある所に突然現れる奇跡の印。その力は女性にしか訪れず、幼少期に具眼に目覚めた瞬間、そして以後も未来を視るとき、女児の瞳は虹色に染まるのだという。
 帝国ではこの現象を豊穣の女神の祝福と位置づけ、具眼を持つ女児を魔術の都リュケイアに集める法を定めた。具眼の子を提供する者には多額の褒賞が与えられたため、親が隠そうと親族や近隣の住民によって多くの子供が差し出された。褒賞目当ての人狩りにも、具眼の子供を専門にする者がいるほどだ。
 回収された女児は、リュケイアの外れにある搭で十三歳まで俗世とは離れて暮らす。その間に修行を積むそうだが、詳細な修行の内容はどの文献を探しても見当たらなかった。
 女官に話を聞いたところ、不審の目を向けられながらも、こう回答された。
『無論、日々を豊穣の女神に捧げるのですわ。苦痛? 修行が苦しいものであるのは当たり前でしょう。だからこそ耐え抜いたティアル様はこの座におられるのです』
 更に問うても、みだりに一般人が知って良い内容ではないと戒められるだけだった。

 豊穣の巫女に会いたかった。
 巫女は暫く部屋に閉じこもっていた。ある日、巫女の最も近くで世話をしている女官が、泣き出しそうな顔で助けを求めてきた。私が一番お傍にいるのに、何も話してくれない。そう顔を覆う女官を伴い、巫女を訪ねた。
 巫女は小動物のように窓辺で蹲っていた。女官が必死で話しかけても、顔を膝に押し付けるばかりだった。美しい布で飾られた部屋には機織や小菓子が虚しく置かれている。黄金の錫杖は臥床の上に投げ出されたまま。錫杖を持たない巫女は、ただの小娘のようだった。
 否。――元から、ただの小娘だったのだ。
「お話をしてくれませんか」
 話しかけると、肩が揺れる。頼りない肩だ。ふわふわと波打つ長い髪が、力なく散らばっている。
「もう嵐は去りました。過ぎたことは仕方がありません、あなたは悪くない」
「ちがう」
 搾り出すように、少女は否定した。
「ちがう……」
 胸を針で刺された心地で、女官と共に訳を問う。しかし少女は答えない。女官がその身体を抱きしめ、髪をすいてやりながら慰めても、頑なな心を溶かすことは叶わない。
 どうすれば良いかと考えた。何が少女の心を苛むのだろう。思いを巡らせて、女官と相談し、書物を買ってきてやることにした。神殿に置いてある堅苦しい書物ではなく、明るい物語でも読み聞かせれば、僅かなりと気が紛れるだろうと。
 買出しを任されて、神殿を後にする。

 書店に入ると片っ端から書を取り出して立ち読みをする。店主の老婆に嫌味を言われながらも、有名な喜劇をいくつか買い取った。かさばる巻物を抱えて神殿に戻ろうとすると、偶然知り合いと鉢合わせた。
 彼は言った。戻らない方がいい、と。

 書物を取り落とし、そのまま走り出す。知り合いの言葉は現実味がなく、心の表面を滑っていくばかりだった。しかしそれが事実だということは、過去の経験で知っていた。真実とは、恐ろしく残酷であればあるほど平坦な文字の連なりとなり、身体はその理解を拒むのだ。
 遠くから鬨の声があがる。乱れた掛け声が重なり、底知れぬ混沌を生み出す。平穏が破られ、悪意の波が豊穣の神殿に流れ込む。

 魔女を殺せ。
 洪水を呼び寄せた、魔女を殺せ。
 人殺し。息子を返せ。妻を返せ。

 全身を風にして坂を上りきると、破壊された豊穣の女神の石像が飛び込んだ。
 足元が砕かれたような心地だった。悲劇がやってくる。日常の崩壊がやってくる。神々は鮮やかに笑いながら、大切なものをこうも簡単に奪っていく。
 また、「この日」が来たのだ。
 走る。祭事用の長槍を手にとり、回廊の奥へ。
 秩序を破壊された神殿は、冥界より昏い地獄であった。静かながらも荘厳な趣は見る影もなく、装飾は壊され、壁掛けは引き裂かれ、金目のものは残らず略奪の手に犯されていた。悲鳴と怒号が交差し、奴隷が部屋の隅で頭を抱えて震えている。司祭は全身を不規則な方向に曲げて事切れており、暴行に晒された女官が裸同然の格好で逃げ回っていた。
 肌を炙り、臓腑を灼く、人の悪意。歯を食いしばって進む。ようやく巫女を見つけたのは裏庭だった。女官が彼女の手を握り、必死で逃げようとしていた。
 しかし流れ込んだ人々がそこに追いつき、狂気を前にした女官は神の加護を信じるかのように前へ出て。
 放たれた矢が、その胸を貫く。
 魂が引き裂かれたかのような悲鳴が上がった。
 人形のように在り、人形のように口を閉ざし、人形のように茫洋としていた、豊穣の巫女が。

 ひとりの少女のように、女官に縋り付いて泣いていた。

 淡い藤色の長い髪は激情を表すかのように震えて揺れて。陶磁器のような白い手は絶望に戦慄いて女官の服を掴み。琥珀色の瞳に血のような涙を溢れさせて。
 ――ティアルティレジア、豊穣の巫女。十六歳の娘。生まれつき優れた具眼を持ち、幼くして家族から引き離され豊穣の巫女となるべく修行を積んだ稀代の読み手。己の意思とは関係なく、望まれるままに、責務を果たし、未来を読んだ。しかし、しかし。世界はそれでも刃を向ける。

 心が、怒りに震えていた。
 これが、世界の真の姿だというのか。
 怨嗟を狂気に変えて獣のように地を這う人間の、これが理だというのか。
 正しく生きた者に誰も手を差し伸べない、それが理だというのか。
 それは事実だ。紛れもない事実だ。
 けれど違う。こんなものは違う。
 自らの責務を全うしながら悲劇を唇に乗せ、苦しむその姿は、正しくない。
 惨たらしい運命を受け入れたその手に絶望しか抱けないなど、そんな世界は間違っている。
 背負う宿命そのものが罪だというなら、罪を裁こうとする世界こそが汚れているのだ。

 違う。こんなものは違う。
 自分は、「こんなものたち」とは違う。

「やめろ」
 次の矢が番えられる。少女の悲鳴に一度怯んだものの、殺せと人々が叫ぶ。熱狂した空気はまるで剣闘士競技のそれ。楽しげに、楽しげに。
「やめろッ!」
 備え付けの臥床を持ち上げ、放った。少女の目の前に落ちたそれは盾となり、矢を受ける。風のように走り、槍を構えると矢を放った男の胸を串刺しにした。
 それまで血に酔っていた烏合の衆が、一瞬の静寂に突き落とされる。力任せに槍を引き抜くと、一つ視線を巡らせて、唸るように告げた。
「次は、お前たちだ」
 弾けた恐怖が、蜘蛛の子を散らすように彼らを逃げ惑わせた。構わずに身を翻して少女の腰を抱き、亡骸から引き剥がす。少女が悲鳴とも呻きともつかぬ声をあげる。暴れられる前に首筋に手刀を振りおろし、ぐったりとした矮躯を抱えて走り出した。
 歯を食いしばって込み上げる涙を堪え、馬を見つけると飛び乗って手綱をとる。
 こんな運命を、受け入れてたまるものか。
 否定してやる。決して許すものか。手を差し伸べない者たちを。手を伸べておいて、裏切る者たちを。黒い闇を。襲い来る魔の手を。
 遠くへ。何処までも遠くへ。少女の体を抱いたまま、ひたすらに走らせた。


 ***


 風に嬲られた大粒の雨が、視界を灰に曇らせる。
 雨の向こう、おぼろげな少女の姿がそこにある。
 けれど、腕の中にある少女には命の温もりがある。彼女は生きている。人形などではない。
 自分がそうであるように。

 運命を受け入れて生きてきた彼女と自分は、全てを失ってしまった。
 疲れていた。このまま二人して潰えてしまうのも、良いのかもしれなかった。
 なのに、憎悪にすら近い渇望が、消えることなく胸で燃え盛っていた。
 世界がどれほど穢れていても、自分だけは歯向かってやろうと。
 彼女に刃を向ける世界を拒み、そして。

 朝霧が立ち込める冷たい街道を、疲弊した馬は惰性のままに歩いていた。道なりに行かせていると、少女が僅かに身じろいだ。次の瞬間、少女が身を強張らせたのは、己の居場所に驚いたからか、それとも腕に力を込めて抱き寄せたからか。
 けぶる少女の髪に顔を埋めた。
「やり直そう」
 優しい香りに心が引き裂かれそうになり、情けないほどに震えた声で、祈るように紡ぐ。
「遠くへ行こう。僕たちが静かに暮せる場所を探して、全てを一から始めよう」
 一人では、こんな真似などできなかった。誰に見られることもない闇の中を走るには、この体は脆すぎた。
 しかし――彼女の悲鳴が、耳の奥に未だ響いている。
 清廉な心に汚らしい傷をつけたこの世界は、憎悪に値する。
 だから、守らなければ。戦わなければ。
 彼女が胸の奥から笑ってくれる、自分が胸の奥から笑える、そんな世界を見るまでは、倒れるわけにはいかない。
「君がこんな間違った世界にいる必要なんてない。こんな世界に僕らは縋りはしない。僕たちが生きていける場所を探すんだ。そこに辿りつくんだ。それまで、僕は絶対に諦めたりしない」
 誰に助けてもらわなくても良い。正しくない世界で、自分だけは正しくあり続けるために。紡ぐ言葉を、力とする。
「君は僕が守る。誰でもない、僕のために。僕は裏切らない。僕が最後まで立っていられるために。君に僕の身を捧げる」
 呼気を詰まらせ、鼻を啜りながら。夜明け前の静寂に誓う。


「僕は君を、理想の場所へ連れていく」


 もう、二度と悲劇が起きぬ場所へ。
 黄金の瞳に力が宿り、嗚咽を飲み込んで彼はとうとう前を向く。
 誰にも拠らず、誰にも頼らず、誰にも心を寄せないことを決めた彼は。
 その胸に消えかけた理想を抱き、希望を求める。
 ――理想郷を、その眼で探し始める。




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