-黄金の庭に告ぐ- <第一部>11話:眼を開いて 04.正しさの在り処 「叔父上。ジャドの容態は如何ですか」 ベルナーデ家で奴隷たちに指示を下していたギルグランスを見つけると、レティオは帰宅の挨拶も忘れて問うた。 見上げた当主は、連発する非常事態のためか、石像のごとく表情が消えていた。代わりに、伴っていたセーヴェが答えた。 「かろうじて命は取り留めましたが、意識は戻りません。まだなんとも言えぬ状況です」 それはつまり、このまま二度と目を覚まさない可能性もあるということだ。 都市に残る医者は自警団や民衆の負傷者にあてられており、ベルナーデ家といえど私兵のために無理に彼らを連れてくることができないのが現状であった。 レティオはすぐにでも面会したい思いを飲み込んで、自ら携えた書状を差し出した。 「――失礼しました。叔父上の命に背いて戻ったことはお詫びいたします。しかし、早急にお伝えせねばならぬことがあります」 「手短に話せ」 「はい」 レティオは叔父の顔を見上げて話し出した。 ヴェルスの周辺都市の視察のため旅を続けていたレティオは、ある集落で一泊の宿を借りた。そこで一部の薬草が暴騰して困っていると村長から話を聞いたのが事の発端であった。 近くの都市の市場で調査をしたところ、村長の言葉通り、ほとんどが入荷と同時に買い占められていたことが分かった。渋る商人を説得して帳簿を見せてもらったところ、注文者の多くはエウアネーモス協会であった。薬草の取引を始めたにしては種類が限定的で、しかも買い付け金が相場の倍である。更に付き添いの文官奴隷の勧めで商人に注文書を提出させると、奇妙な事実が浮かんできた。 「エウアネーモスは商品を倍額で買う代わりに、今後の納入経路を変えるようにさせていました。変更された経路の特徴は、本国にも州都にも直接繋がっていない街道であること、また帝国軍の駐屯地からも大きく迂回していることです」 これは叔父がつけてくれた文官奴隷の受け売りであったが、ギルグランスは重々しく頷いて返した。 「して、お前の推論は?」 「はい。オーヴィンに概況を聞いて確信しました。これはエウアネーモスとガルダ人がこの地を乗っ取り帝国に反旗を翻す企てを裏付けるものです。エウアネーモスは極めて現実的なところまで話を進めているようです」 本来ならばこれらをガルダ人が行動を始める前に叔父に届けたかったのだが、運命の女神は微笑まなかった。悔しさに俯くレティオの前で、証拠品として渡された注文書に目を通していたギルグランスが眉をあげた。しかしその場で口にすることはなく、一度巻物を脇の卓に置いた。 「ともあれ、レティオ。よく見つけてくれた。今夜からは自警団へ入って力を尽くせ。トランヴェードが指揮をしているが、苦戦を強いられている」 「分かりました。それから叔父上、フィランのことですが――」 その名を口にした途端、ギルグランスの眼光が鷹のように鋭くなった。 体を硬くしながらも、その目を見上げたまま、レティオは叔父の返答を待った。 「見つけることがあれば、捕らえて連れてこい」 「……!」 来る途中に過ぎった予感が実像を結ぶ現実を前に、レティオは言葉が出てこなかった。馬術を教えてくれたベルナーデ家の配下は、もはや敵であると当主から告げられたのだ。 オーヴィンが悩ましげな顔のまま、理由を引き継いだ。 「ポマス博士の解読によれば、ヴェルスの闘技場に潜伏してたダナラスっていうガルダ人が、バストルの指示で亡者の研究をしてたらしい。その時、灯台島には協力者がいたと、日記にははっきり書かれてる」 レティオが顔を向けると、オーヴィンは橙色の瞳の色を暗くした。 「曰く、そいつは本国の出身者で――封印魔法の使い手だ」 杏色の髪をした騎士の穏やかな顔が、闇に消えていく。そんな幻想を、レティオは大地を踏みしめる足を意識することで振り払った。 「嘘だ。馬鹿げている」 口の中で呟き、レティオは叔父を睨みあげた。 「何かの間違いです。フィランが裏切るはずがありません! あの者を誰より見てきたのは叔父上ではないですか。叔父上は己の配下を信用なさらないのですか!」 苛烈な糾弾に、しかしオーヴィンが静かな声で反論した。 「なら、どうしてジャドを刺したんだ? 刺さってたのは確かにフィランの短剣で、ついでに本人が自警団の前でジャドを放り捨てていったんだよ」 「誰か刺したところを見たというのか」 「どっちにしろ、フィランは釈明せずに逃げた。自分が犯人じゃなけりゃ、説明くらいするだろう」 劣勢に目元を歪めるレティオに、とうとうギルグランスが口を開いた。 「後は私たちに任せ、お前は早く行け。じきにお前の言葉の正否も明らかになるであろう」 それは言外に、これ以上は聞く耳持たぬと告げている。怒りと歯がゆさに全身の血が沸騰しそうだった。レティオはぎりぎりと拳に爪を食い込ませ、その場にいる者たちを睨み周し、低く言った。 「私はフィランを信じます。叔父上の命といえど、フィランを見つけることがあっても捕らえなどいたしません。――全力で連れ戻すだけです」 聞き間違えようもない反抗の決意を聞いて真っ青になった奴隷ピートを伴い、レティオは中庭を辞した。 レティオの後姿が見えなくなると、オーヴィンが意味ありげな視線を送り、当のギルグランスは鼻から息を抜いた。 「嬉しそうだねえ」 「そう見えるか?」 「何年こき使われてると思ってるんだよ」 椅子から立ち上がりながら、ギルグランスは苦笑した。 「……兄上に似てきおったわ、血は争えぬ」 過去を懐かしむようにギルグランスは呟いて目を閉じ、そして次に開いたときには冷徹な武人に戻っていた。 「してオーヴィン。島の住民は集められたか」 「ほとんどは。ただ、パンデモ爺さんだけがてこでも動かなくてよ、マダム・クレーゼとディクルースがまだ説得してるよ」 灯台島の薬草が亡者の生成の材料と分かった以上、居住は危険と判断したギルグランスの指示により、灯台島の住民は今日からベルナーデ邸内に集められていた。 「分かった。説得はやめ、食料のみを置いて引き下がらせよ。灯台守の翁にとってあの炎は誇りだ、何を言っても通じぬであろう。そのまま貴様には私に随行してもらう」 「その注文書、何か書いてあったのか?」 目ざとくオーヴィンが問うと、ギルグランスは短く息を吐き出した。 「賭けにはなるがな、探ってみる価値はある。全く、この時期に手駒が貴様だけとは、神々も気前が悪い」 「女に手を出しすぎたツケじゃないのか」 「男の責務を果たした上で何故罰を受ける必要があるのだ」 軽口を叩きながらも、二人は行動を開始している。セーヴェに差し出された長剣を携えたギルグランスは、いくつかの伝令を走らせた。 この騒乱の中でレティオが戻ってきたのは幸いとも言えた。危険に晒すことになるが、甥子を自警団に出すことで、公的にもベルナーデ家の面目が立つのだ。二人官からはギルグランス本人の参戦が求められていたが、彼にはそれにも増してやらねばならぬことがあった。 *** 饐えた臭いの蔓延する地下水道で注意深く足跡を調べていたフィランは、ふと手を止めると、冷たく言い放った。 「少しじっとしていてもらえるかな。光がちらつくんだ」 「う、悪い」 彼の後ろで物珍しげにうろついていた妖精クロイスは、七色の煌きを持つ羽根を下げて止まる。 「そうだ。俺様が魔法で光らせてやるよ。そっちのがよく見えるだろ」 「駄目だ。照らしすぎては敵に見つかる」 すげなく返されて、クロイスは流石にムッとしたが、沈黙が落ちると、再び眉を下げた。 ルシェトの元から逃げ出したクロイスは、まずはディクルースの隠れ処を目指したのだが、既にそこはもぬけの殻であった。代わりにフィランと鉢合わせしたのである。 フィランはティレを奪われた後、クロイスが行使した魔法の光を見つけて近くまで来ていたのだ。クロイスの話を聞いたフィランは、ディクルースの隠れ処に通じる地下水路から、別の方向へ向かった真新しい足跡を見つけた。それから彼は憑かれたようにそれを追って歩を進めている。 この世の全てを拒むような後姿に、クロイスは胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。彼はこのまま途中で力尽きてしまうのではないかと。 「おい。お前、飯喰ったか? まさかとは思うが、いざってときに倒れて俺様に丸投げされても困るぜ。いや、俺様にできねーことはねーけどさ、それだって限度ってものが」 「黙っててもらえるかな」 僅かに振り向いた金の瞳の冷たさに、クロイスは口を噤んだ。ティレの正体を暴いた日と同じ――否、それ以上に輝く狂気じみた意志が、彼の後姿を余さず覆っていた。 フィランは立ち上がると、進行方向を決めてさっさと歩き出した。 クロイスはこれまで人間の世界の仕組みをよく知らずに生きてきた。人と個々に関わることがあっても、彼らの社会での地位や、他の人間との繋がりなどに思いを巡らしたことはなかった。 だからクロイスには、何が彼をここまで追い詰めているのか分からなかった。 そして憂慮を含んだ疑念は次第に彼に対する興味に変わりつつあった。ティレが気がかりなこともあり、クロイスはフィランの後を黙って追った。 ヴェルスの地下水路は複雑に曲がりくねっており、クロイスの方向感覚は既に失せている。現在地は何処だろうとフィランに話しかける機会を伺っていた彼は、ふと耳を跳ね上げた。声を出しそうになって思い止まり、フィランの前に回りこんで人差し指を立てる。 フィランは怪訝そうにしたが、すぐに全身を強張らせた。曲がり角の先から話し声が耳に入ったのだ。妖精は人の数倍の聴覚をもつため、クロイスが先に気付いたのであった。 しばらく様子を見て気配が動かないことを確認すると、フィランは松明をその場に置き、注意深く進んでいった。 そして角から先を覗いた途端、フィランは凍りついた。背の高い男が二人で向き合っている。口論をしているようであった。赤茶の髪に、独特の毛皮の衣服。腰に携えた双剣。ガルダ人であった。 「やはりバストル様に申し上げよう。あの振る舞いには到底我慢がならぬ」 「やめた方がいい。貴様にも分かるだろう、あの者は我々の計画にはなくてはならぬ存在だ」 「呪われた力を使う外民だぞ。見るも汚らわしい!」 「大きい声を出すな。バストル様にそのようなことを聞かれたら、誅されるのは貴様だぞ」 「何を軟弱な。下手に外民どもの力など借りるからこのような窮地に陥ったのだ!」 フィランはひとつ目を瞬いた。会話の焦燥感を見るに、蜂起を起こしたガルダ人は、やはりその実で追い詰められているのだ。彼らが潜伏していたと思われるルミニ教が潰され、彼らは活動の拠点を旧市街へ移した。しかし布施として多量の物資が運べる教会と違い、旧市街では調達にも限度がある。彼らにとってこれは背水の闘いなのだ。 「ならば一層奴等の力を借りねばならぬ。大儀を為し終えれば奴等も好きに始末できるさ。話はそれだけか? さっさと戻るぞ」 一人が踵を返しかけたところを、もう一人が肩を掴んで引き止めた。 「待て。幸い奴は女連れだったろう。今なら妙な術も使えまい、この騒乱に乗じて――」 「馬鹿なことを言うな!」 「貴様、それでもガルダの男か。それとも臆病風に吹かれて刃を鈍らせたが故に貴様はあの戦乱を生き延びたのか」 「なんだと……!」 「そう思われたくないのなら、我らの誇りを思い出せ。我々から全てを奪った帝国から、我々は全てを取り戻すのだぞ!」 「だからそれとは話が――」 言い合いに熱が入るごとに、ガルダ人は互いの弁舌に気をとられていく。 突然飛び出してきた槍使いに一人が気付いたとき、もう一人の心臓部分から穂先が生えていた。 「――!」 絶命した男の名を呼びながら双剣を引き抜いたガルダ人に、槍使いは足の裏で得物を引き抜き、勢いのまま旋回させた。柄で強かにこめかみを殴られたガルダ人は際どいところで踏ん張ったが、それで限界であった。石突が鳩尾に突き刺さり、壁に背から叩きつけられて刃を取り落とす。 そして顔を上げた先に、死神のごとく暗い光を瞳に湛えた若者を見た。 若者は、冷然と言った。 「正直に答えれば楽に殺しましょう。あなたたちが先ほど見た『外民』はどちらへ行きましたか?」 外民の部分を吐き捨てるように問う。必死で腕を動かそうとしたガルダ人は、石突に更に深く食い込まれて苦悶の呻きをあげた。 「僕はあまり辛抱強くないんです。さっさと答えていただけますか」 フィランの声は闇に染み入るかのように冷たい。しかし、ガルダ人は憤怒に口元を歪ませ、激情を宿した目で彼を睨み返した。 「外民の分際でよくも同胞を……!」 「能書きは結構。答えないなら答えないで良いですよ。僕も急いでいるので」 フィランはそのまま数秒停止していたが、埒が明かないことを悟ったのか、反対の刃で一薙ぎにしようとした。 「待て」 苦痛に顔を蒼白にさせたガルダ人は、突然唇に笑みを浮かべた。 「このままでは先祖に申し訳が立たんでな」 瞬間の出来事であった。萎えた両手が別の生き物になったように口に運ばれた。その精神力を現すのには強靭などという言葉でもまだ足りない。唇に差し込まれた人差し指が強襲を知らせる口笛となって地下に轟こうとしたとき、見えない風の塊がガルダ人の横腹を打った。 ガルダ人は吹き飛ばされ、地に打ちつけられる。姿勢を低くして転倒を免れたフィランが鋭く床を蹴り、起き上がれずにいるガルダ人の首を素早く刎ねた。 大量の血潮が通路を汚し、強烈な悪臭が漂う。 「うぇ……」 魔法での援護を終えたクロイスは顔を歪めて目を逸らす。フィランも気分が悪そうに口元を押さえたが、すぐに汗をぬぐって歩き出した。 クロイスはたじろいだが、この凄惨な場に置いていかれるのだけは耐えられなかったのだろう。固く目を瞑って、フィランを追いかけた。 「……殺すことはなかったんじゃねーのか」 そう問いかけられたのは、かなりの時間が経ってからだ。普段のクロイスであれば助けた手柄を主張していたところだが、今はとてもそんな気になれなかった。 「ガルダ人が僕らを外民と呼ぶ意味が分かりますか」 「はあ? 突然なんだよ。知らなねーけどさ」 「ガルダ人にとって外界の民は人間ではないんです。だから赤子の頭を地に叩きつけることも厭わない」 フィランの声は乾いてひび割れていた。 「死体を動かせて罪もないヴェルスの都市を襲わせた連中を、あなたは殺さずとも良いと言いますか?」 「そ、それは……でも」 冷たいフィランの言葉は珍しくそこで途切れず、そして思いがけない内容で続いた。 「ええ。そうやって殺されるべきと判断して片っ端から殺してしまうから、この世界は何も変わらないんです」 クロイスは胸を突かれて顔をあげた。若者の歩みと言葉は止まらなかった。 「僕たちはどうあがいたところで薄汚れた人間だ。だから僕は奴等が許せない。自らの誇りが絶対で、自らが絶対的に正しいなんて。こんな汚れた世界に絶対なんてあってたまりますか。正義があってたまりますか。そんなものがあったら、誰も泣かなくて良かったはずなんです」 クロイスからフィランの表情は見えなった。その言葉はクロイスに向けているのか、自分に向けているのか。クロイスは彼の背を見つめる。 「でも結局皆同じだ。彼らは僕らを敵と見なして攻撃する。僕らはこうして邪魔者を排して前へ進む。その先に本当に救いがあるかも分からないのに。それでも前に進まなければ、欲しいものは手に入らないから」 「お前……」 クロイスが言いかけたとき、若者はふらついて壁に手をついた。平素であれば触れるのをためらうほど清潔から程遠い水路の壁であったが、構う余裕もないようだった。クロイスはフィランの前に回りこんだ。 「いいから、ちょっと休もーぜ。そんなんじゃ持たねーだろ。えっと……」 迷宮のような水路でクロイスは辺りを飛び回り、使われていない小部屋を見つけた。倉庫にされていたようで、廃材が高く積んである。この裏であれば、たとえ敵が表の通路を通ったところで気付かれまい。 「こっちに来いよ」 説得には時間がかかるという予想は裏切られた。フィランは自らの体力の限界を悟ったようで、クロイスの誘導に従って小部屋に進み、物影に腰を下ろした。その顔色は蒼白で、目の下にはくっきりと隈が浮き、唇に色はない。 「大丈夫か? 何か食い物持ってるか」 フィランは無言のまま服の裾で手を拭うと、荷物から食料を取り出した。 「あ、俺様にも分けてくれ。さっきの貸しの分な」 こういう時に図々しい要求を出せるのがクロイスの長所なのかもしれなかった。フィランは暫しの沈黙の後、乾燥させたパンを割ってくれた。 「ししし。まあ、味は勘弁してやるか」 これは流石にクロイスの強がりであった。先ほどの光景を思い出すだに、とてもではないが肉を食べる気分ではなかったのだ。 暫く互いに胃を膨らませる作業に没頭していたが、それも済むと、クロイスは口を開いた。 「お前、ティレを取り戻したらどーすんだ?」 「……旅に戻るだけだ」 フィランは俯きがちに虚空をじっと見つめている。 「行く当てはあるのかよ」 「お前の知ったことじゃない」 「ふーん」 ないんじゃないか、とは口に出さずに、クロイスは相槌を打った。言葉を捜していると、次の話題はフィランから齎された。 「……お前たちは海を越えてきたんだろう」 思いがけない発言に、クロイスは眉を潜めた。 「お前の連れは、海の向こうはエルフの支配下と言っていたな。あれは事実か」 「ん……」 まさか海を渡る気なのだろうか。ならば嘘をついても仕方ないと、クロイスは正直に肯定した。 「そうだ、ルシェトの言う通りだよ」 「エルフとはなんだ」 「見てくれは人間とあんま変わんねーよ。でも人間より長生きで、魔法がうまい。だから、あっちの人間はみんなエルフの奴隷にされる」 「一人残らず?」 「人間だって黙っちゃいねーよ。何度も叛乱が起きたさ。人間の国が出来たことだってある。どれも長続きしてねーけど」 クロイスは溜息をついて、膝を抱えた。 「だから俺様は嫌になってあの大陸を出たんだよ。こっちは平和でいい」 「平和だって?」 フィランの視線が初めて動いた。 クロイスは言わねばならないと思った。届かない理想を求めて消えてしまいそうな若者を、引き留めるために。 「そうだよ。こんな平和な国は初めて見たよ。店は毎日出てるし、街の間は道があるし、人間は一杯いるし」 「そんな平和、表面的なものだ」 「違えって。この国は、なんていうのかな」 クロイスは暫く考えて、答えを見つけた。 「そう、笑ってる――。人間どもが、ちゃんと笑えてる。お前だって、面白けりゃ笑うだろ。それってさ、すげーことなんだよ」 フィランは答えず、ただじっと前を見つめていた。 「だから俺様はこの国が好きだ。人間が笑っているところ見るの、嫌いじゃねーし」 クロイスは七色に煌く羽を誇らしげに揺らせた。 「だから――」 フィランはその先を聞きたくないと言わんばかりに顔に手を被せ、遮るように言い放った。 「そんなのは紛い物だ」 クロイスは、思わず口を噤んだ。今にも泣き出してしまいそうな、その声に。 「笑っていられる場所があったって、それは一瞬のものだ。何度も何度も奪われるんだ。いくら悲鳴をあげたって、誰も助けてくれない」 老人のように干からびているのに、子供の上げる悲痛な泣き声のように、フィランの言葉は途方もない痛みを残して虚空へと吸い込まれていく。 「今回も、帰る場所はまたなくなった。僕は裏切り者だ」 「裏切り者って、あのベルナーデとかいう家の話か?」 「仕方ない、僕の力が足りなかったから……誰も助けてくれなくて、当然だ。いつかはこうなるって、分かってたんだ」 既に会話をしている自覚がないのだろうか。立てた膝に顔をつけ、フィランは呻く。 「探さなきゃ」 呟きは、やがて嘆きに変わる。 「探さなきゃ。もう奪われない場所を。だから途中で倒れたら駄目だ。探さなきゃ……」 「おい、フィラン……」 初めて直接名を呼んだことも忘れて言葉を続けようとしたクロイスは、はっとした。 槍を抱えたまま、既にフィランの意識は深い眠りの中にあった。 蹲るその姿は元の明るさとは程遠く、ただ痛ましい。 クロイスは知らない。人間の世界の仕組みも。彼らが何を思って生きているのかも。目の前の若者が何を見てここまで歩いてきたのかも。 しかし目の前の悲しみだけは、紛れもない事実だ。 クロイスはひとり、頬を歪めた。 「……お前、見てらんねーよ」 小さく呟いたクロイスは、一度目を閉じて、開いた。そうして彼は、ゆっくりと飛び上がった。 Back |