-黄金の庭に告ぐ- <第一部>11話:眼を開いて 02.そして闇へ堕ちてゆく 来期の二人官の秘密裏の会談が行われた数刻後、旧市街からは腐った魔物と亡者が次々と現れ、包囲網へと襲い掛かった。 腐った魔物は駆逐に慣れた自警団によって問題なく片付けられたが、亡者の方は悪夢のごとく彼らの前に立ち塞がった。昨晩調査に入って戻らなかった者たちが、四肢を腐らせた死者となって、同じ服装と同じ武具で襲い掛かってきたのである。 亡者の禍々しい姿と、切り刻まれて尚生者に取り付こうとする執念が、自警団を恐怖と絶望に落とし込んだ。亡者は自警団と同じ衣服であったため、陰惨な同士討ちも多数発生した。 二人官の呼びかけも虚しく都市は一時恐慌状態に陥りかけたが、そんな時に人々の前に現れたのは豊穣の巫女ナディアであった。 「皆さん、落ち着いてください。化け物が現れたのは旧市街のみです。戸締りをして、化け物が退治されるのを待ってください。旅の方や旧市街近辺に住む方は、どうか豊穣の神殿へ」 ナディアは自ら神殿を出で、怒号と悲鳴の交錯する通りで呼びかけた。 「わたしは広場で皆さんの安全を祈念して香を焚きます。わたしは逃げずに、皆さんに見える場所にいます。わたしの焚く香の煙が消えない限りは、市街は安全です」 彼女の発言は滞りなく実行された。神殿の奥で守られているはずの豊穣の巫女が、黄金の錫杖を携えてヴェルスの中心街に立ったのだ。広場は旧市街の目と鼻の先にあるため、包囲網が破られた場合、真っ先に標的にされるだろう。 巫女の体を張った行いにより、多くの暴動が未然に防がれた。無論、民の流出を全て止められはしなかったが――。 「仕方がありません。平和が戻れば彼らも戻りましょう。今はベルナーデ家や、他の貴族の皆さんを信じなくては」 ダリアはそうナディアを慰めた。家財を満載した荷車を押す人々が広場を通り過ぎていくのを、ナディアは唇を噛み締めて見つめることしかできなかった。 恐れをなした人々に、向かう当てなどあるのだろうか。 ナディアとは異なる場所で人々の流出を眺めていたフィランは、あることに気付いて冷笑した。一目散に都市を脱出する者の多くは、荷物の量からして富裕層だ。彼らは別の都市に縁者がいたり、別荘を持っているが故に、こうして逃げ出すことができるのだろう。 どれほどの人が公正と平等を叫ぼうと、世界の理はそうはならないのだ。 フィランとしても、ここまで事態が急変したのは予想外であった。ガルダ人は都市征服のための切り札をマリルに燃されたため、都市の民をじわじわと亡者に変えて内側から一気に崩す策をとったのだろう。 国境から遥か離れたヴェルスは今、滅亡の危機に瀕している。そのような時に主君に背いた己のあり様に、後悔はなかった。否。後悔をしてはいけなかった。自分は自分の信念に基づき、取り得る最良を選んでここにいるのだ。 去来する当主や仲間の顔を押し込め、込み上げる痛みを飲み込んだ。この痛みは慣れているはずだし、そもそも無様に被害者面をして良い身分でないことは自覚している。 だから頭は怜悧に働かせ、体は力を漲らせておかなければいけない。 クロイスとは夕刻に都市の港に近い倉庫裏で落ち合うことになっていたが、陽が傾いても彼は現れなかった。顔を上衣で隠したフィランはじりじりと落ちていく陽を見つめていたが、ティレが目を覚ましたのを見て、はっとした。 「ティレ。僕が分かるかい」 「フィラン……」 ティレは暫く半眼で夢と現を彷徨っていたが、状況に気付くと目を見開き、フィランの腕を掴んで切迫した表情を向けてきた。 「マリルは、どこ……?」 クロイスに処理してもらったのが功を奏したのか、記憶の混濁はないようだ。フィランは安心させるため、これまでの出来事をかいつまんで伝えた。ただ、それは別の衝撃をティレに与えたようだった。 「わたしのせいで、フィランはここを出ることになった……?」 その問いにフィランは驚嘆を隠せなかった。攫うも同然に首都を逃げ出してから数ヶ月。人形のように諾々と従うままだったティレは、ここまで自らの頭で物事を考えるようになったのだ。巫女の呪いが解けたためか、それとも――。 どちらにせよ、今はティレに余計な負担をかけたくなかった。 「僕がうまくやれなかったせいだよ。せっかく慣れてきたところだったのに、ごめん」 それがフィランの違わぬ本心であったことは確かだ。彼の最上の願い。それは二人で静かに暮していける場所に辿り着くことだ。 外界と切り離された灯台島の暮らしは好条件と考えていたが、とうとう彼女の力に疑念を持たれる事態となってしまった。 もっと早くティレの変化に気付いていれば。己の過ちに歯噛みしたい気持ちだが、今は気を沈ませている場合ではない。 「またしばらく旅をすることになると思う。でもその前に、あの妖精と落ち合うことになってるから、もう少し休んでいて」 ティレは宝石のような瞳を伏せ、微かに眉を寄せた。 「フィラン、島に戻って」 何を言われているのか、一瞬理解できなかった。 苦しげに息を吐いて、もう一度吸うと、ティレはしっかりとフィランを見上げた。 「私の正体が分かってしまってもいい。それで私が捕まっても、死ぬことになっても、フィランは関係ないって言うから」 「ティレ、やめるんだ」 顔が強張るのを堪えきれなかった。フィランは声を強くした。 「言ったよね。僕は僕たち二人が確かに生きていける場所を探すまで、絶対に諦めないって」 しかしティレは目を逸らさずに見返す。それが何よりも鋭い刃であることを知っているかのように。 「わたしは、島の皆ならわたしのことを知っても、変わらないでいてくれると思う」 鈴が鳴るような小さな声が、しかし深く心を穿つ。同時に胸の奥底が、闇を噴き出すように告げる。それは嘘だと。優しい人々が一つの事実を元に変貌する様が、まざまざと思い起こされて。 信用してはいけない。心を預けてはいけない。他者に委ねてはいけない。 なのに少女は微笑み、突き刺すように続ける。 「もしここで生きていけなければ、きっとわたしたちは何処でだって生きていけない」 愕然とする思いで、ティレを見下ろした。 「そんなことはないよ。諦めずに探せば、この世界のどこかに僕たちの理想はあるはずだ」 「わたしは、ここでいい」 ティレは掠れた声で呟いて、ゆるりと目蓋を閉じた。 「もしわたしが死んでしまうとしても、わたしはここの人たちを信じたい。フィランだって――」 最後まで言葉は続かず、ティレは再び深い眠りへと落ちていった。しかしその苦しげな表情が途切れた先を何よりも雄弁に語り、フィランを重く打った。 「……信じられないよ」 聞こえないと分かっていて、それでもフィランは言葉にせずにはいられなかった。 「人との関係には利害がある。だから無条件に味方でいてくれるなんて、そんなのは甘ったれた幻想なんだ」 だが言葉にすればするほど息が詰まる。前を向いていることは辛くとも、その先にしか理想がないことを知っているから、フィランは前を向く。なのに、どうしてここまで息苦しいのだ。 不意に足音がして、フィランは注意深く気配を探った。彼は建物の影で浮浪者を装っており、この騒ぎの中で他人から興味をもたれることはまずない筈だが――。 足音はすぐ傍で止まった。心臓の音が警鐘となって、内側から体中を強く打つ。 だが、反射的に槍を突きつけるに至らなかったのは、それが思いも寄らない人物だったからだ。 「君は……」 「やっぱりここにいた。会えて良かった」 夕闇の中、人影が外衣を下ろすと、灰を混ぜた葡萄酒の色をした髪が露になった。片耳につけられた耳飾が、鈍い光を宿している。灯台島の住人ディクルースの頬を、最後の陽光が仄かに染めた。 その表情からは普段の弱々しさが消え、代わりに覚悟を決めた者の揺るがぬ意志がある。 混乱を一呼吸で鎮めると、フィランは腰を浮かせつつ問うた。 「――僕は誰にもこの居場所を知らせていないんだけれど?」 ディクルースは微笑んだ。 「そうだと思います。だって、この場所を絶好の隠れ処だってあの妖精に教えたのは、僕だから」 背筋に冷たいものが走る。そうだ、クロイスに場所を指定されたとき、妙に都市の地理に詳しいとは感じたのだ。 何が起きているか分からない。ただ途方もなく悪い方向に事態が転がっていく予感を覚え、体が先に動いていた。 まずはこの場の主導権を握らねばならない。槍を掴んでディクルースを制圧しようと足腰に力を入れた瞬間だった。ぱん、と音がして、世界が凍りついた。 「な……」 「……やはりあなたは野蛮です。そんな本性を隠して彼女の騎士を名乗るあなたが、僕は嫌いでした」 体が、指先の一本に至るまで動かなかった。そして、それは既に知った感覚であった。夢見の石碑前でバストルと対峙したときと同じ術だ。 ディクルースは、禍々しい笑みを浮かべた。鳩尾に掲げた指に、魔力の残滓が散っている。 強烈な眩暈と共に、これまでのいくつものことが頭に浮かんだ。 当主が一人で灯台島を訪れた途端に暗殺者に襲われたこと。 一部の者以外に素性を隠していたエルの存在がガルダ人に知れたこと。 本来であればエルと共に殺されておかしくなかったカリィが、ティレと共にあったことで無事だったこと。 そして、灯台島の薬草を使わねば生成のできなかった死霊使いの技を、ガルダ人が完成させたこと――。 ディクルースはフィランを嘲笑うかのように至近距離まで近付いて、ティレの矮躯を持ち上げた。視界が赤く染まるほどの怒りに、しかし指先を震わすこともできない。 「彼女は僕が預かります。僕はあなたみたいに、彼女がこんなことになるまで放っておきはしません」 ディクルースの眼には、冷たい憎悪の炎が滾っていた。だが、フィランの怒りはそれ以上であった。 「……ぉ……まえに、なにが……!」 「彼女が具眼であることは知っていますよ。豊穣の巫女であったことも」 戦慄が全身を駆け抜けた。今や毒牙を隠そうともしないディクルースは、大事そうにティレを抱えたまま、静かに告げた。 「あなたのやり方は間違っている。あなたは自分のことしか考えていないんだ。そうやってティレを前と同じ汚れた野に置き去りにしただけです」 それはただの言葉の羅列に過ぎなかったが、確かにフィランの心を切り裂いた。 「彼女が本当に必要とする世界。誰もが平等な権利を与える世界。僕がそれを彼女に与えます。僕がそれを作ってみせます」 ディクルースは凄絶な覇気と共に告げると、背を向けた。 「あなたにはもう少し踊ってもらいますので、まだ殺しはしません。最期まであがくといい。一人で、誰の助けも得られずに」 その時沸いたのは純粋な殺意だった。それをディクルースは汚らわしいものでも見るように一瞥した。 「――あなたはただの自分勝手な狂犬だ」 その姿が消えた方向を、眼に焼き付ける。余裕そうに話していたが、実際に魔術が解けたのは、ディクルースが消えてから間もなかった。 痺れた足をもつれさせながら獣のように後を追ったフィランは、角を曲がったところで思わぬ人物と鉢合わせになった。 「な、フィラン!? テメェ本当にここにいやがったのか!」 息を切らせて飛び出してきたのはジャドと、彼が振り向いた先にいる――。 「助かったぜ、ディクルース!」 ジャドがここにいる理由を瞬時に悟ったフィランは、無言で抜き身のままディクルースに飛び掛った。 「おい!?」 怯えた様子で後ずさるディクルースとの間に、ジャドが鞘に入ったままの剣を突き出す。甲高い衝撃音を受けて、ジャドは悲鳴のように叫んだ。 「どうしたんだよ!? フィラン、しっかりしろ!」 「そこをどいてください!!」 獣のように牙を剥くフィランにはジャドなど見えていなかった。たまらず剣を抜き放ったジャドが正面から刃をかち合わせる。 「落ち着け、バカ! オレが分からねぇのか!?」 一合ごとに押されながら、ジャドが痛切に訴えている。しかし耳鳴りの中、それは雑音でしかない。 「戻ってこいよフィラン! オヤジにはオレから言って――」 言葉は最後まで続かなかった。フィランが見たのは、ディクルースが不意に見せた禍々しい笑みであった。 刹那、時が止まったようであった。 ジャドの目が見開かれ、その身体が硬直した。口から、ごふ、と血の塊が吐き出される。 背後からジャドに肉薄していたディクルースが体を離すと、体がこちらに流れてきた。 「――ジャド?」 思わず、名前を呼ぶ。 そして、眼前の短剣を見た。ジャドの背に突き立てられたそれ。柄を見ただけで分かる。フィランが愛用していた短剣であった。 声が出ない。時が無情に流れる。微笑みながら駆けていくディクルース。抱きとめる形になったジャドの微かな呻き。その背から、どくどくと流れる鮮血。それは過去の記憶と重なってはぶれ、フィランを硬直させた。 「う、うぁ、あ」 明滅する過去と現在。死んでいく仲間たち。己の刃によって、殺された者たち。そんなのは嫌だ。そうしてしまえ。二つの意志が激しく暴れまわる。痺れた思考の先で、フィランは衝動的にジャドの体を担ぎ上げ、通りへ駆け出していた。既に宵闇に包まれる中にあっては人通りも少なかったが、哨戒中の自警団はすぐに見つけることができた。三人一組で固まっていた彼らは、血塗れのジャドを肩にかついだフィランに気付くと、剣の柄に手をやった。 「何者だ!」 息が詰まる。何かを言わねばならない。なのに、口が動かない。自分は今どのような顔をしているのだろう。団員たちは、怯えた顔をしている気がする。何故なのだか、よく分からない。 ジャドをその場に降ろすと、フィランは制止を振り払って逃げ出した。 「ま、待て。この者は――」 走りながらフィランは、ディクルースの策に思い至った。 灯台島を訪れた当主を襲わせる。ガルダ人と通じてエルの情報を伝える。死霊使いの薬を生成するため、灯台島の薬草を提供する。それは灯台島の住人でなければ出来ないことだ。そして、たった今最もその被疑者として相応しいのは。 『僕じゃないか』 だからディクルースはジャドの背をフィランの短剣で刺した。ガルダ人との戦闘中に投げつけた短剣を、影で拾っていたのだろう。そうして全ての罪をフィランに着せたのだ。 血がかっと沸き立ち、黒く不快な感覚が全身を巡る。 しかし同時に理解は、心に諦観と平静を取り戻させた。 暗闇を走り、辺りから気配が消えると、フィランは一人で立ち止まった。 槍を壁に立てかけ、手の平で自らの顔に触れる。手からは血の臭いがした。歯を食いしばってその感覚を遮断し、思考を進める。あの時、ジャドをその場に置き去りにしていれば、ディクルースを追うことができたのだ。だが、それが出来なかった。まだ助かるのではないかと、そんな幻想に身を委ね、自分は悪手を打ってしまった。 呼吸を一つ。当主がこのことを知れば、彼はこう断ずるであろう。エルに続いてジャドまで失い、その全ての糸を引いていたのは同じ配下であったと。 違う。自分は何もしていない。今からでも釈明に行けば、当主も信じてくれるのではないか――。 フィランは両手で思い切り頬を叩いた。 「甘ったれるな……!」 何事にも合理的な判断を下す当主である。自分の行いはその場で斬り捨てられても文句は言えない上、良くて真相が判明するまで投獄されることだろう。それではティレを救いに行けない。 「考えろ」 ぎり、と歯を鳴らす。思考をやめた瞬間が死だ。感情など役に立たない。感情があるから、事態を悪くさせてしまう。心を凍らせろ。事実を冷静に見渡せ。裏切り者の汚名を被ることなど、これが始めてではないのだ。 そう、あの時と同じ孤独な闘いが再び始まるのだ。全て自分の無力が引き起こしたことだ。だから何一つ悲しむことなどない。 フィランは立てかけた槍を再び手にとった。 その眼が前を向く。戦うのだ。この命がある限り。 Back |