-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>11話:眼を開いて

01.悪夢を惑う



 荒野で馬を駆っている。
 一人で走るのはあまりないことだ。
 そう、確かあの時は、急ぎの命を受けたから一人で走っていたのだ。
 しかし、そこに覚えた微かな違和感は楽観視された。
 仲間に信頼されていると、信じていたから。

 帰路を急ぎ、いつもの場所に到着する。
 何かがおかしかった。
 人がいない。外にも、幕屋にも。馬の気配さえもない。
 誰もいない。誰も。誰も。誰も。誰も。
 何度も走り回って、嘘だと呟いて。呆然と佇んでいると、声があった。

 ――貴様は用済みということだ。

 闇の中で、宣告が木霊する。

 ――知らされていなかったのは貴様一人。どうだ、裏切られた気分は。

 嘘だ。何処へ行くにも共にあるはずだ。
 置き去りにされるなんて、そんなことは。

 ――所詮は他人だ。愚かな者は利用される。そして貴様は利用された。

 どうして。

 ――復讐をしたくないか。

 どうして。どうして。

 ――貴様の怒りを思い知らせてやれ。

 瞳を閉じる。泣いても喚いても、現実は変わらない。
 世界は、敵だ。こうも簡単に、大切な光景を奪っていく。
 敵は、倒さねばならない。
 殺してやる。抹殺してやる。
 はじめに裏切ったのは、世界の方だ。

 視界が理想郷にも似た黄金に染まる。
 世界そのものであった男が、剣を振るう力も、立ち上がる力をも失って、眼前に項垂れている。
 裏切ったのはお前だ。
 顔のない兵士に命じられ、剣を振るう。
 飛び散る血潮の一滴ずつが嘲笑う。
 何故笑う。やめろ。裏切ったのは、置いていったのはお前だろう。

 しかし笑い声は止むことなく、事実を残酷に告げている。

 ――違う。我々にとっては。
 ――我々にとっては、お前こそが汚い裏切り者だ。


 -黄金の庭に告ぐ-
 11話:眼を開いて


 ***


「っ!!」
 自分の不規則な呼吸音で目が覚めた。噴き出す汗が外気に触れて、不快な寒気が走る。身体を動かすと節々が痛んだ。寝台横の台に突っ伏して寝ていたためだ。
 外は未だ夜明け前であった。酷い頭痛に、フィランは額と目を指で覆った。その合間から、寝台で死んだように眠る少女を見る。目蓋を閉じた少女は、ぴくりとも動かない。
 不意に不安になって、腕を伸ばして彼女の手を取った。感じられる僅かな体温が、彼女にまだ命が宿っていることを教えてくれて、フィランは思わず顔を歪めた。
 己のためにすべきことを確認するように、その手に額をつける。島民にはティレが倒れた原因を過労のせいと説明したものの、目を覚ます気配はない。このままいれば、更なる不審を買うに違いなかった。隠し通すのも、限界かもしれない。
 悲劇とは起きた時点で既に両足を絡めとられているものだ。もしもその気配がしたならば、すぐに行動を起こさねばなない。
 そのためなら、仲間からの信頼を失う程度、造作もない。

「ん、もう起きてんのかよ」
 灯台島のフィランの自宅に音を殺して入ってきたのはクロイスであった。彼はフィランを見てぎくりと硬直したが、ティレに気付くと深刻そうに枕元に寄ってきた。そしてティレの頬に触れ、難しげに眉を寄せる。
「何が起きているんだ」
「――俺様のせいだ」
「質問に答えろ」
 クロイスは暫くの沈黙の後、羽根を揺らして俯いた。
「こいつの具眼は、ただの具眼じゃなかった。あまりに力が強すぎて、未来や過去の出来事までが見えちまうんだ。そもそも人間にとっちゃ、空模様一つ見るのでもひっくり返るくらいの負担がかかるんだよ。なのにそれ以上のものを連続して見たら、……体がもたねえ。死んじまう」
「ティレが出来事まで言い当てたのはこれが初めてじゃない。なのに急に衰弱したのはお前の魔法のせいか」
 フィランは事務的に問うた。激情を露にしてどうにもならないことを知っていたからだ。
 対するクロイスの返答は震えていた。
「そうだと……思う。こいつにかかってた魔法は、力を内側に閉じ込めるものだったから、今まではほとんど見えなかったんだ。それを俺様が解いちまったから」
「過去や未来が次々と視えるようになって、結果的にティレを蝕んだ」
 感情のないフィランの声は、逆にクロイスを叩き斬るようでもある。
「助かる方法は?」
「もう一度魔法をかけるにしても、こんなに弱っちまってたら耐えられねえ。他の方法があるにはあるが、試してる途中だからもう少し待ってくれ。これ以上弱らないように対処はしてく」
 鉛のような現実を、フィランはゆっくりと胸に落とした。
「分かった」
 答えは単純にして、凍えるような冷たさを持っていた。
「お前に復讐するのは、お前が方法を見つけてきてからにする」
 しかしフィランは、クロイスの喉を振り絞るような返答に、思わず口を閉ざした。
「分かってるよ」
 ぽたぽたと敷布に小さな水滴が落ちる。ティレの枕元に俯いて立つ妖精。その小さな頬が、哀れなほどに濡れていた。
「俺様のせいだ。ルシェトの言うとおりだったよ。俺様が無知なばっかりに、こいつを逆に苦しませちまった……。絶対に助ける。絶対だ」
 しゃくりあげながら頬を何度も拭って、妖精は決意を口にする。きつく閉じた目の端から、煌きが散る。
 思わずフィランは顔を背け、息を吐き出した、利用できれば、構う必要はない。そう自分に言い聞かせながら。
 それより、今後のことを考えなければならない。フィランはティレの手を置いて立ち上がった。
「次に落ち合う場所を決めておこう。僕たちはこの島を出る」
 それを口にするのは、僅かな苦痛が伴った。しかし、そろそろ潮時であった。ティレの力が知られてしまうのも時間の問題だろう。そして、未来を言い当てる娘に人々が向ける眼差しがどう変わるか――。島の民の変貌を、フィラン自身は耐えられようと、ティレに見せるわけにはいかない。
 クロイスは物言いたげだったが、時間と場所を指定すると、ティレへの施術を始めた。
 フィランは荷造りのため、来たときに持ってきた袋を取り上げ、ふと止まった。
 おもむろに、奥から麻布に包まれた小さな袋を取り出す。
 当主に配下の誓いを立てたことを思い出した。これで自分は、「また」裏切り者だ。
 そう思うと笑いが込み上げ、フィランは麻布の包みを床に放り捨てた。


 ***


 あの野郎、楽をしやがって。
 ジャドは明け方まで旧市街の警護の手伝いをして、着替えと仮眠のために灯台島へ戻ってきた。フィランが自宅待機を命じられているため、彼の分まで働かなければならないのだ。状況は状況とはいえ、毒づきたくなるというものであった。なんだかんだで頼りになる槍使いの顔を思い浮かべ、ジャドは彼の家の方に顔を向けた。
 そして、立ち止まった。
「ん?」
 開け放たれた門戸の前に、島長夫妻の姿があった。ティレの様子を見に来たのだろうか。しかし様子がおかしい。島長は忙しなく辺りを見回しており、クレーゼは逆に佇立している。
 湧き上がった予感が暗い現実となる様を、走ってそちらに向かったジャドは心から味わうことになった。ジャドは開いたままの戸から中を見て、殴られたように立ち竦んだ。
 元から散らかった家ではなかった。しかし、目の前にあるのは、人の住む気配すら消え去った空虚な空間だ。昔から誰も住んでいなかったのではないか。そう思うくらいに――。
「残っていたのは、これだけよ」
 深刻そうに目を伏せていたクレーゼは、持っていた板きれを見せてくれた。ジャドは視界が暗闇に閉ざされる気分で、それを読んだ。

『お世話になりました。 フィラルディーン・ティムス・フォルトス』


 ***


 トランヴェードを当主に戴くアメストラ家は、ベルナーデ家と並ぶヴェルスの名門である。智謀に富むベルナーデ家とは対照的に、武を重んずる一族であり、子弟を何人も帝国軍に送っている。都市の自警団も、団長は代々アメストラ家の当主が担うこととなっていた。
 このため、若かりし頃のトランヴェードは、ベルナーデ家の兄弟が帝国兵になると告げて都市を出たと聞くや、やれやれと頭を振ったものだった。
『誰一人軍人を出していないベルナーデ家の男に軍生活が勤まるものか。跡取りを二人も失うなど、父君も哀れなことだ。戦死する前に厳しさに耐え切れずに逃げ帰ってきた方が、いっそましかもしれない』
 トランヴェード自身は軍人ではなかったが、退役兵である父によって軍人同然に武術を叩き込まれた身であった。故に都市で女遊びに興じる放埓者のベルナーデ兄弟が、まさか赤獅子の異名で諸国に恐れられ元老院に引き上げられたり、まさか北方防衛の要と呼ばれガルダ戦役の英雄になるなど想像できなかったのである。それらの事実を聞いたとき、トランヴェードは理不尽さに腹を立てたものであった。この世界の神々は、真に裁量を間違えている。
 しかし「神よ、話が違います」と祈りを捧げる余裕はトランヴェードにはなかった。今思えば、あれは読書好きで穏健な割に妙に根回しのうまかったギルグランスの父が老衰で亡くなった辺りからだ。都市議会内に蔓延していた利権意識が増大し、汚職が公然と横行するようになった。通りにはならず者が増え、遠方から商品を買い付けにくる商人の足が遠のき、ヴェルスの繁栄に影が差していったのである。
 トランヴェードは自警団の団員を増やして対処にあたったが、成果は思うようにあがらなかった。逆に自警団の詰め所が無頼に燃され、一時は壊滅状態にまで追いやられた。
 トランヴェードは傷ついた自警団を励まし、激を飛ばして、腐り落ちていくヴェルスを救おうとした。彼はそれが名門に生まれた己の使命であると疑わなかったのだ。
 しかし彼に共鳴する気概を持つ者も僅かとなり、次第に身も心も磨耗させていった。そんな時、ひょっこりとギルグランスが帰ってきたのである。
 はじめは、憎悪すら沸いたものだった。身一つで地位を上り詰めたはずが、それを兄が戦没した程度で放り投げ、また身一つで彼はヴェルスに戻ってきたのだ。
 何がしたいのだ、この男は。前々からトランヴェードは、太陽のように明るい兄よりも、何を考えているのか分からぬ弟の方が苦手であった。ギルグランスの人生はあまりに刹那的だ。ちなみに彼には跡を継がせるべき嫡子もいない。どうするのだ、全く。
 故にギルグランスが始めたヴェルスの改革についても、瞬間の衝動に任せた無責任な道楽であるとトランヴェードは断じた。何せ彼がまず初めに行ったのは、無頼との意思疎通であったのだ。貴族の身で滅するべき相手と通ずるなど、冗談ではなかった。
 しかし気がつけばヴェルスの無頼は一人の元締めにまとめられ、市民が襲われる事件がぱったりと止み、治安が飛躍的に回復した。
 更に傍から見れば無茶としか思えない投資を次々と行って泥臭い仕事も躊躇わず手を出し、更に更に何処から何をしたのかさっぱり不明であるが都市中の貴族から娼婦まで、多数の女性と懇意になった。トランヴェードは妹が突然「ギルグランス様って素敵よね」と言い出した日には口に含んだ葡萄酒を水平噴射したものだった。
 こうして足場を固めていくギルグランスであったが、トランヴェードにとっては、遊び半分で都市を救われることが最も我慢がならなかった。自分のように都市に尽くした人間が出来なかったことを、こうも簡単にやってみせて、彼は一体何処へ行こうとしているのか。
 そんな鬱屈を、一度だけ本人に投げかけたことがあった。
 ――貴様の行いは結局何も生まぬ。貴様の死後、墓に刻まれる文字を考えたことがあるか。全てが半端な愚か者と断じられても構わぬのか。
 するとギルグランスは、振り向いて淀みなく答えた。即答であった。
 その言葉は、未だに忌々しく憎々しく、そして燦然と輝きながら耳の奥に残っている。

 夜を徹して旧市街包囲網の体制を審議したトランヴェードは、現場へ向かう途中でその手紙を受け取った。馬上で一読すると、寝不足の頭が一気に覚醒するのを感じた。
 すぐに奴隷を呼びつけ、確認を行う。そして返答を耳にした瞬間、彼は背筋が凍る思いを、歯を食いしばって押し留めねばならなかった。
 そして、その時頭に浮かんだのも、都市で最も憎い男の顔であった。
 彼はあの弾劾に、こう答えたのだ。
 ――私は他人に自分の人生の価値を計ってもらうつもりはない。
 ――私の価値を決めるのは、私のみだ。
 ぶれなく真っ直ぐに立つ巌のような姿。長衣を流麗に着こなし、大地を強く踏みしめる歩き方。そして数多の無名の民を従え、明朗に語るその言葉。
 その時、不本意にも気付いてしまった。彼は刹那的に生きているのではない。
 彼は途方もない時間を、己の正義だけを貫いて生きている。
 握った拳を眉間につけ、トランヴェードは低く告げた。
「ベルナーデ家へ向かう」


 ***


「トランヴェードのハゲが来た? セーヴェ、それは見間違えではないのか」
 こちらも睡眠をとることのできなかったギルグランスが、刺々しさを露にして言う。
「はい、私が直接確認しました。ご本人です」
「前線に行くといって、今更怖気ついたか? 馬鹿め」
 手早く着替えだけを済ませたギルグランスは、これからすぐに議会場に戻るつもりであったのだ。出口に向かおうとしていた爪先の方向を変えて、彼は足早に応接間に向かった。
「聞こえていたぞ」
 立ったまま神経質そうに待っていたトランヴェードに睨まれたギルグランスは、鼻で笑って返した。
「なんだ、最近はそういう挨拶が流行っているのか?」
「いいから座れ。貴様の下らぬ冗談に付き合っている場合ではないのだ」
 トランヴェードの瞳に浮かぶ張り詰めた光に気付いたギルグランスは、つと軽薄な笑みを消した。最低限の動作で席を勧め、自分も腰を下ろす。
「して、このクソ忙しい時分に何用だ」
「今朝、私宛にエウアネーモス卿より書簡が届いた」
 頬杖をつきかけていた腕が、停止した。
「――今、何と?」
「見るが良い。追い詰められたネズミの最後の一噛みだ」
 トランヴェードが手をあげると、付き添いの奴隷が書簡の筒をセーヴェに渡し、セーヴェが中の羊皮紙をギルグランスに受け渡した。すぐにギルグランスは中身に目を通した。流石に商人が作成した書面は、無駄なく要点が絞られていた。
 エウアネーモスのアメストラ家に対する要求は、自警団の解体と、これからヴェルスに起きるあらゆる事件に対する静観、およびベルナーデ家、二人官への協力拒否。見返りは、ヴェルス壊滅後に興される新帝国の執政官の地位。応じなかった場合には、相応の報復がある。
 一読するだに馬鹿げた要求であった。文末には理想の国を共に作ろうと熱っぽく訴えてあるが、新帝国など聞いて呆れる。一商人の身で亡者の国を作ってどう統治するつもりなのか。しかし、笑って済まされない部分があるのも確かだった。
 書面に目を落としたまま、ギルグランスは静かに問うた。
「貴様、妻子は」
「昨晩から長男の行方が知れぬ」
 トランヴェードの声は冷静であった。面をあげたギルグランスの眼からは、先ほどの軽薄さが完全に消えていた。
「何故ここへ来た」
「貴様に伝える必要があると考えたからだ」
 トランヴェードは両手を組んで続けた。
「この書簡にはエウアネーモスの印がある、公的に奴を捕らえる最良の証拠となろう。自警団は包囲のために手が裂けぬ。小回りのきく貴様の腹心どもで、早急に奴を捕らえていただきたい」
 ギルグランスは目の前の貴族を推し量るように、注意深く口を開いた。
「貴様――」
「言うな。あれもアメストラ家の男。切り捨てられたとて見苦しい行いはすまい」
 このような書状を受け取った以上、ベルナーデ家に駆け込んだ時点で交渉決裂と断ぜられて当然だ。トランヴェードは息子を見殺しにすることを覚悟で、都市の実力者の下へ告発を行ったのである。その眼光には怒りと憎悪が輝き、組んだ上に爪が深く食い込んでいる。
「酷薄な父と思うなら勝手に思うがいい。長くヴェルスを離れた貴様には分かるまい。私はヴェルスを守るべく戦ってきた。このような片田舎といえど、この地が我が故郷であり、この地にこそ守るべき民がいるのだ。愚息一人の命と、都市の万民の命。どちらが正しいかなど明白だ」
 暫く沈黙が落ちた。ギルグランスはその決意を推し量るようにトランヴェードの顔を見据えていたが、折れたように溜息をついた。
「貴様の決断であればとやかくは言わぬ。エウアネーモスは昨日から追わせているが、姿を隠している。だが手は尽くそう」
「かたじけない」
「しおらしくするな、気持ち悪い。それより、この家を訪れた以上、貴様の身も危ないぞ。護衛をつかせるか」
「貴様こそ余計な気を回すな、気持ち悪い。自分の身を守る程度、心得ておるわ」
 トランヴェードは立ち上がると、用件は終わりとばかりに背を向けた。彼こそヴェルスを心から憂い、ヴェルスの為に長年を戦い続けてきた男なのだ。保守的で気の合わない相手ではあったが、ギルグランスは十分敬意を払うべきと心得て声をかけた。
「エウアネーモスに伝言があれば伝えるが?」
 トランヴェードは僅かに振り向いて告げた。禿頭の当主の頬は、滾る感情に震えていた。

「――何も言うことはない。命を以て償わせろ」




Back