-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>10話:岸辺に眠る神の歌

08.何処にも、救いはない



 冥界の奥深くに幽閉された風の女神の涙はとうとう枯れ果てた。
 吹き荒ぶ風の中、風の女神は藹々たる常闇の国に君臨する冥王の姿を見た。

 冥王は地上の災禍を見上げていた。
 その暗く深き胸裏が、見る者を恐怖させる禍々しい面立ちに上ることはない。
 しかし風の女神はその眼に映す。
 身を切り刻む氷の風に吹かれ、冥王は涙を流していた。
 そして低く恐るべき声音で、冥王は風の女神に告げた。
 そなたを地上に戻す、と。

 風の女神は死者を抱く冥王の傍らに広がる虚無を知る。
 茫漠たる死の大地。絶え間ない風の音。
 何処までも深い闇にあり、地上を見上げる冥王の黒く凍えた瞳。
 決して触れられることのなかった、冥王の黒く無骨な手。

 女神は、冥王の孤独を知る。


 ***


 痛みに顔を歪めるアリラムの顔を覗き込み、マリルは凄絶な笑みを浮かべた。
「そんな顔もできるんだね、アリラム」
 ぽたぽたと血が滴る。どちらの血であろう。どちらでも良い。二つの同じ顔が、お互いを見詰め合う。
「姉さん、どいてくれる?」
 アリラムを離さず、マリルは告げた。
「あなたの言うとおりだった、アリラム」
 眼を閉じれば、先ほどの友の姿が鮮明に浮かぶ。あの切望の瞳が、胸に灯火となって静かに輝いている。マリルにとって、全ての答えがそこにあった。もう何も怖くはない。だから、静かな声でマリルは告げた。
「マリルは――わたしは、あなたを憎んでいる」
 灰色の瞳が、ふっと見開かれた。
「あなたはいつだって守られるだけで、何もしなかった。母さまはわたしに頼るばかりで、遊んでいるだけのあなたがわたしは嫌いだった。なのにあなたが母さまに選ばれた。あなたさえいなければと、何度思ったか分からない。わたしはあなたを殺したいほど憎んでる」
 アリラムの網膜の向こう、ぽっかりと空いたそこに喜色が宿る。まるで花が開くように、彼は。
「姉さん」
「――くだらない」
 一層顔を近づけて吐き捨てた途端、彼は停止した。
 マリルはその瞳の奥に見た。この弟は空っぽだ。その空虚に注ぎ込むように、マリルはふんわりと笑ってみせた。
「くだらないと言ったの。その程度の気持ちで生きていくなんて」
 理解し得ぬものを前にしたように、アリラムの唇が震える。
「ねえ、アリラム。この世界にあるのは、ただの愛と憎しみではないの。そんなに簡単ではないの。私の周りにいる人たちは、私を愛しているかもしれないし、憎んでいるかもしれない。でもそこにいて、わたしの名を呼んでくれるだけで、それで十分守りたいと思えるの。わたしはそれだけで、馬鹿げた妄想を捨てられなくても、蓋をするくらいはできるの」
 そして、それで良い。消せない苦しみはある。どれほどあがいても、過去は変えられない。ならば、抱えて生きれば良いのだ。その腕に抱えるものが光だけである必要も、闇だけである必要もない。誰もがきっとそうだから。そして、そんな誰かが傍にいてくれるから。
「なに、それ」
 アリラムは裏切られたようにこちらを見つめている。マリルは母が子にするように、血塗られた指でその頬を撫でた。
「でもね、アリラム。あなたとわたしは対の存在だった。あなたはわたしだったかもしれないし、わたしはあなただったかもしれない。だから」
 それは、アリラムが初めて見せる恐怖の表情であった。
 マリルは笑う。アリラムと同じ顔で。

「わたしが、一緒に地獄に落ちてあげる」


 ***


 陽光が、残酷なまでに明るく降り注ぐ。
 ティレは視る。疾走する馬の吐く荒い呼気。風にはためく馬車の幌。みるみる流れる大地の色。
 いくら手を伸ばしても世界は止まらない。煉瓦色の髪を振り乱した少女が、同じ色の髪を持つ少年の身体を掴んだまま、上体を捻って宙に身を投げ出そうとする。
「だめ」
 届け。さもなくば世界よ、止まれ。もう、この手から何も奪うな。少女の見開いた瞳に、七色の輝きが生まれる。未来が、その瞳に――。
 それから、複数のことが同時に起きた。
 アリラムは身を押し留めようと、馬車の縁を掴んだ。街道が右方へゆるやかに曲がる地点で、車体が石を咬んだ。浮き上がった荷台は、重心の傾きに耐え切れなかった。
 長い煉瓦色の髪が太陽の下に大きくたなびく。
「マリル!!」
 飛び降りようとしたところをフィランに押し留められ、激しい音を立てて横転する馬車は遥か後方へ流れていく。土煙の合間に木片が飛び散るのが見えた。
「くっ……」
 フィランが顔を歪め、一瞬迷った後に馬首をきって返した。
 そして、ティレは見た。大いなる理に従い、具眼に映った光景が現実となるその様を。
 明るい街道に、血まみれの少女が倒れ伏している。
 大地に膝をつく。また、助けられなかった。
 大切なものが壊れていく様を、傍観していることしかできなかった。
 それは、自分が視てしまったからだろうか。この呪われた眼が、こんな自分に笑顔を向けてくれた尊い人を――。
「ティレ、下がって!!」
 フィランが槍を抜き払ったまま、馬車へ走りこんだ。次の瞬間、飛び出してきた人影と刃を交わす。
 鋭い剣戟を打ち放ったのは、小剣を持つ煉瓦色の髪の少年。幌が衝撃を和らげたのだろうか。服は破れ、無残な様子だったが、足取りは確かであった。
「お前たちか」
 額から血を流すその表情は、強烈な怒りに染まっていた。
「姉さんを誑かせたのは、お前たちかッ!」
「っ!」
 フィランが身を引くと、逃げ遅れた髪が数本宙を舞う。少年はただの吟遊詩人ではない。これまでに幾人もの人間を愉悦の為に殺した悪魔なのだ。そして悪魔に相応しい憎しみの形相で、剣を鋭く打ち振るう。
「姉さんを見つけて、僕の世界はようやく完成したのに。たった一人の、大切な姉さんなのに。姉さんは、お前たちばかりを見るッ」
「フィラン、一旦下がれ!」
 追いついてきたジャドが叫ぶ。態勢を立て直し、二人で突撃を仕掛ければ、確実に討ち取れる手合いと見切ったのだ。
 しかし、フィランに反応する様子はなかった。
「おい、フィランっ!?」
 ティレは白む世界に、フィランがみるみる闇に引き込まれていく姿を幻視した。否、これは幻視なのだろうか。彼の感情が流れ込んでくる。守らねばならない、でも決して守れない。諦められない、でも諦めねばならない。凶暴に暴れまわる本能と自制と諦念が、彼の心を壊しかけている。何故こんなものが突然見えるのだろう。しかしフィランが、取り返しのつかない領域に踏み込んでいるのは確かだ。
 彼は少年の剣戟を無言で裁き続ける。まるで少年の心を覗き込むように。
「僕には姉さんがいればいいのに、姉さんはどうでもいいなんて、ずるいよ。母さまの呪いは僕と姉さんの二人で分け合うものだ。だから」
「二人だけで生きていけばいい」
 フィランの呟きに、アリラムの目が見開かれた。
 交差する二人の視線は、次の一撃に取って代わられる。
「馬鹿野郎! いい加減にしろっ!」
 ジャドの制止はまるでフィランには届かない。取り憑かれたように、彼は槍を振るう。
「そう、理想を追って、どこまでも己に正しくあればいい。必要なものは多くない。たったそれだけを守れたら、あとはどうでもいい」
「そうだ。僕は姉さんと完璧な世界を作るんだ。ずっと二人で愛し合って憎み合って生きればいい。お前らなんか、いらない」
 フィランの唇の端から、笑みが零れた。黒い瘴気を吹き出すような笑い方だった。
「そうだね。でも……」
「フィラン」
 思わず名を呼ぶ。しかし、既に彼の耳には届いていない。ジャドも異常に感付いたのだろう、切迫した表情で走りこんでくる。
 フィランはまるで自ら刃に飛び込むようにして、アリラムに身体を近づけた。
「僕は知っている」
 本来の槍の間合いを無視した行為に、ジャドが悲鳴のように名を呼ぶ。
「フィラン!」
「――そんな風に考えてしまった時点で、もう救いなんてないんだ」
 耳の間近で言葉を放たれ、アリラムは一瞬の間、呆けたように停止した。
 フィランは表情の剥がれ落ちた顔で、嘆息した。
「僕もお前も同じだ」
 アリラムの剣の切っ先がフィランの胸の下にあたる。振りかぶるジャドの剣戟も間に合わない。
 全てが悪夢のように闇に閉ざされようとしたその時、アリラムは手を止めていた。
 その背後に、ふわりと煉瓦色の髪が広がった。
 ジャドがアリラムの横面を柄で殴り飛ばし、そこに立つ者の姿を露にする。地にへたりこんだまま、ティレは両眼にその姿を映した。
 抱きしめる者を失ったマリルが、微かに腕を広げたまま、そこに立っていた。
 すかさずジャドがアリラムに飛び掛り、少年の体躯を地に組み伏せる。
 彼は状況を理解していない瞳を何度も瞬かせ、立ち尽くす姉を首を曲げて見上げた。目を覆いたくなるほど全身を傷つけたまま、マリルはアリラムを見下ろした。
「もうあなたには誰も殺させない。あなたはそうやって、十分に罪を償うといい。わたしは先に地獄で待ってる」
 気が付けば、ティレは立ち上がっていた。
 全身が異様な痛みに痺れていた。自分の身体が大理石のような重さに思える。動けば砕けてしまうかもしれない。
 それでも構わない。一歩踏み出す。
 血にまみれて大地に伏したマリルは、しかし起き上がってくれた。具眼は彼女の死を明確に告げていなかったのだ。その奇跡を、手の平から逃してたまるものか。
「オイ馬鹿、やめ……っ!」
 ジャドがマリルを見て叫ぶ。マリルは短剣を自らの首元に当てようとした。
 だが、伸ばした手が届いていた。
 手首を掴んで、そのまま二人して地に倒れこんだ。
「っつぅ……!」
 衝撃にマリルの悲痛な声があがる。身体を丸めて痛みに耐えるマリルを目に映した瞬間、何かが途切れた。
「マリルの馬鹿ッ」
 頬に血が昇り、涙が溢れ、拳が震えた。喉を振り絞った絶叫に、残った嗚咽は顔を覆った指の間から途切れながら漏れた。
「どうして、生きようとしてくれないの」
 どうしてマリルは。どうしてフィランは。どうして自分は。そこまで身勝手に苦悩するのか。人の気も知らずに、こうまで折れないのか。こんなにも苦しんで、血に塗れて、たった一人で前を向こうとするのか。
「生きていてはいけないの? 罪を為したなら、もう壊れるしかないの? どうして、どうして……」
 それは何度も世界に問うたことだ。望まぬ境遇を与え、当たり前のように牙を剥く世界に、振り絞るように何度も問うたことだ。
「なら、どうして生まれてきたの」
 決して答えなど得られない。出口は何処にもない。それでいいと諦めることはできよう。歪みながら戦い続け、生き続けることはできるだろう。
 しかし救われないではないか。報われないではないか。誰もがこんなに傷ついているのに。
「そうだ。救いなんてないんだ」
 歌うように、アリラムが呟いた。ジャドが憎悪を込めて手刀を振り下ろす。それで彼は完全に意識を失ったようだった。
「おいフィラン、ぼさっと突っ立てんじゃねぇ! とにかくこいつをヴェルスに連れて行かねぇと」
 佇立していたフィランは、ようやく我に返ったようにのろのろと動き始める。
 ジャドはアリラムの手足を拘束すると、マリルに近付いた。マリルは手折られた花のように消沈している。
「あのなあ。マリル、ティレの言うとおりだぜ。テメェはこいつを止めようとしただけだろ。テメェまで一緒にそっち側に行く必要なんてねぇんだよ、バカ」
 ジャドは自分の外衣をとると、マリルに被せた。
「馬鹿野郎、心配かけんじゃねぇ。ミモルザは、ちゃんと生きてるよ」
 かけられた外衣を握り締めて、マリルは暫くこらえていたが、ぐずぐずと泣き出した。ティレは手を伸ばし、その頭を抱きしめる。ジャドは鼻を鳴らして馬車の方へ向かい、御者を救出した。足の骨を折っているものの、幸い命はあるようだった。
 ティレは何よりもマリルが生きていることに感謝した。答えは未だ見つからない。失ったものは戻らない。マリルを話をしよう。罪が償えないなら、どうやったら救われるのか。生きていることを許されるのか――。
 甘美な夢を想像した瞬間、ぶつりと意識が途切れた。


 とさり、と。まるで羽根のように。滲む視界の先、座っていた少女が地に伏す様を見たマリルは、みるみる目を見開いた。
「ティレ……?」
 先ほどまで激情を露にしていた少女は、死んだようにぴくりとも動かない。
 振り向いた槍使いがそれに気付く。しかし彼は取りすがりも、その名を呼びもせず、呆然と事実を見下ろしている。
 その時、彼の表情に浮かんだものは、それまであった透徹な意思ではなく。

 それは、壊れていく運命にある細工物を見る諦観の念であった。




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