-黄金の庭に告ぐ- <第一部>10話:岸辺に眠る神の歌 07.蒼穹 風が汗ばんだ首筋を冷たく乾かしていく。全ての行動が筒抜けなのではないか。そんな恐ろしい予感が、前進をためらわせる。だが、それを意思の力で押さえつけ、マリルはようやく厨房まで辿り付いた。丁度ベルナーデ家の者たちがバストルとの邂逅を果たしたのと同刻であったが、無論マリルの知るところではない。 厨房に誰もいないことを確認して、そっと忍び込む。弟の隠れ処の一帯は浮浪者の溜り場らしく、その厨房も悪鬼のような老婆が日々入り、金さえ払えばどのような輩にでも食事を振舞っている。 老婆は先ほど眠りに行ったのを確認したし、弟は暫く姿が見えない。 マリルは炉まで行くと、火掻き棒で灰の奥から慎重に火種を掻き出した。ほのかに赤い炭が顔を出すと、干草をよって作った火口を近づける。火がつくと、ごくりと喉を鳴らしてから道端で拾った朽ちかけの蝋燭に燃え移らせた。 あとは時間との勝負だ。用意しておいた壷を脇に抱え、心もとない蝋燭を手で風から庇いながら、足早に厨房を出る。 目的の馬車は道端に止まっており、御者台に男が一人、暇そうに腰掛けている。エウアネーモス商会の者だ。弟と供にいるときに顔を見たことがあるから、向こうもこちらを知っているだろう。 裏から回って蝋燭を車輪の陰に隠すと、マリルは無理矢理笑みを作ってひょっこりと顔を出した。 「あの、ちょっといいですか」 間を空けて、男が胡乱げな目を向けてくる。 「あなたにお願いしたいことがあるんです。来てもらってもいいですか」 男の眼に微かに不審げな色が揺らめいたが、それはすぐに下卑げた笑みにとって変わられた。彼にとって自分は、アリラムの下にいる無力な小娘でしかない。欲望のはけ口として認識するのも早いはずだ。 「――いいぜ」 ねっとりとした視線に怖気が走り、足が震えそうになる。それを必死に押し込めて、マリルは小さな声で「こちらへ」と促した。男が荷台を降りて、後を追ってくる。 「足元に気をつけてください」 マリルは薄暗い横道に入り、開きっぱなしになっている下水口をまたいだ。 もういつ肩を捕まれて引き倒されてもおかしくない。心臓が口から飛び出そうなほど高鳴っている。今すぐに駆け出してしまいたい。でも、駄目だ。ミモルザの顔を思い出せ――。 男が下水口をまたいで、まさに手を伸ばしかけたその時だった。マリルは振り向き様に全力を込めて地を蹴った。肩から男にぶつかり、逆に押し倒してやる。背後の下水口に足を滑らせた男は慌てて縁を掴んだが、マリルは歯を食いしばってそれを蹴りつけた。汚い裏道のぬめりも手伝って、男は暗闇に落ちていった。 何か言われたかもしれない。このアマとか、畜生とか。しかし用意しておいた廃材を使って無我夢中で出口を塞いで、ようやくマリルは自分の乱れた呼吸音に気付いた。 全身に汗が噴き出し、震えが止まらない。下水とはいえ、点検用のものなので、落ちても悪くて骨を折る程度だろうと自分を落ち着かせていると、中から逆上した声が聞こえてきた。大きくはないが、近くを通れば気付くかもしれない。マリルは急いで次の作業に取り掛かった。 馬車の元へ戻ると、幌をまくりあげる。中に入っているものは、弟の姦計によってヴェルスに運び込まれたものだ。都市を脅かす危険物を前に緊張していたマリルは、積んであったものを見て愕然とした。一瞬で正体を看破できたのは、それをマリルがよく知っていたためであった。 「……レーメラの葉だ」 北の方で採れる特徴のない形をした葉が、馬車一杯にうず高く積まれているのだ。最近市場で見ることがなかったのは、片っ端から買い占められていたということか。 しかし強壮薬であるレーメラの葉は毒薬にはならない筈だ。まして都市中の人々を亡者にするなど考えられない。 もしかすると、弟が手配した都市を脅かす荷物は別のところにあるのではないか。じわじわと焦燥が脳裏を灼く。 その時、不意にミモルザとの思い出が蘇った。薬草の効能を説明するとき、彼女は決まって通常の用法の他に産地での用途を語ってくれたものだった。 ――レーメラは北方の国境沿いに群生している多年草だ。 ――本当かどうかは知らないが、ガルダ人はこの葉を忌み、手を出せば呪われると信じていた。 ――レーメラとはガルダの古い言葉で、「蘇る」という意味だ。 マリルは決意すると、壷の中身を葉に向けてぶちまけた。古い油の不快な臭いが立ち上る。放火は死罪。そんな帝国の常識が、今更のように頭の中に浮かぶ。唇を強く噛み過ぎたのか、口の中に血の味が広がった。そこに蝋燭を近づけて、それで終わりの筈だった。 火はつかなかった。厨房で見繕った油が古過ぎて変質していたのだ。慌てて馬車の四方を回り、乾いた部分に地道に火をつけていく。 一周して、初めに火をつけた場所を見て愕然とした。何枚かの葉を焦がしたものの、火は消えていたのだ。レーメラの葉は一夜しか干さないため、燃えにくいのかもしれない。再び火をつけて、他の箇所も確認するが、どれも心許ない。 「お前。何をしている」 心臓を鷲掴みにされた心地であった。振り向くと、自警団の団章をつけた二人の騎士がマリルの行為を見咎めたところであった。貴族家の要請で巡回を強化していたのであろう。彼らは煙をあげる馬車を見て、目の色を変えた。 「おいっ!?」 一人が剣の柄に手をかけ、もう一人が飛び掛ってくる。 「だ、だめ……っ!」 蝋燭を馬車の中に突っ込むのと、突き飛ばされるのは同時であった。脱いだ上衣ではたいて火を消そうとする騎士に掴みかかるが、もう一人に薙ぎ倒され、剣を突きつけられる。しかし、怯えなどそれ以上の使命感に吹き飛んでいた。 「なんだ、こいつっ。早く火を消せ!」 「駄目です! これは危険なものです。燃さないと、ヴェルスが……」 「ただの干草ではないか! 自分が何をしているか分かっているのか!?」 揉み合いになったが、力では敵わず組み伏せられる。手を伸ばしても届かず、絶望感に目の前が真っ暗になった。 これが罰だというのか。呪われた運命は、もう何を守ることも許されないのか。 「ミモさん……」 涙が零れ落ちた、その瞬間だった。どんっ、と衝撃音と共に、火を消そうとしていた騎士が後ろに倒れた。見上げた先に、火のついたレーメラの葉が舞う。その中央、火柱を上げて馬車が激しく燃え盛っていた。先ほどマリルが撒いた油に、ようやく火がついたのだ。 「くそっ、油が積んであったのか!?」 尻餅をついた騎士は自身に燃え移った火を必死の形相で払っている。自分を組み伏せている騎士がそれに気を取られている隙に逃げ出そうとすると、不意にのしかかる体重が重たくなった。 「え……?」 皮袋を勢い良く裂いたように噴き出した血が顔面に浴びせられる。見上げると、絶命した騎士の首からナイフが生えていた。 ふわりと外衣を美しくなびかせて、アリラムが降り立っていた。彼は混乱に動けないでいるもう一人の騎士に、挨拶するように手を差し出し、その手に握っていた短剣で胸を一刺しにした。地に伏して痙攣する騎士に目もくれず、アリラムはこちらを見て優しく微笑んだ。 「危ないところだったね。姉さん、大丈夫?」 覆いかぶさった男をどけて起こしてくれたが、マリルには立ち上がる力もなかった。アリラムの声は平素とまるで変わらず、天使のように愛らしく。 「これ、姉さんがやったの?」 濛々と煙を上げる馬車を見上げて、アリラムは問う。マリルは無残に殺された二人の騎士に視線を落とし、ごめんなさい、と口の中で呟いた。彼らには何の罪もなかった。罪人はアリラムと、そして。 「うん。マリルがやったよ」 喋ると口の中に血が入ってくる。生温いそれは首を伝って服の中へ。汚れていく己を自覚する。もしかすると、アリラムも同じだったのかもしれない。おぞましい感触に慣れるために、彼はその感触と同化してしまうしかなかったのだ。自分は確かに、母から捨てられた身であり、同時に母の狂気から逃げ出せた身であった。ならば、どちらが幸福であったろう。 しかし、どちらにせよ運命の女神は微笑まない。代わりに、アリラムの大笑いが耳朶を鈍重に打った。 「すごいや。やるじゃない、姉さん!」 腹を抱えてひとしきり笑ったアリラムは、狂喜を露にマリルの腕を掴むと無理に立ち上がらせた。 「今回は姉さんの勝ち。さ、次へ行こう?」 何を言っているのか分からなかった。突如あがった火炎に人々が集まり始めている。アリラムはマリルの手を引き、当然のように進む。すれ違う人々が、血まみれのマリルに気付いて息を飲む。そして、その手を引く瓜二つの美しい少年が浮かべた愉悦の笑みにも。 *** 道行く人の少なさに、その日が拝送祭であったことにフィランは気付いた。拝送祭の晩は、豊穣の神殿に都市中の子を持つ女性が集まって女神ヴェーラメーラの心をなだめる儀式を行い、他の民はその間、家に閉じこもるしきたりになっている。儀式の開始は日没後だが、日中から外出を控える者が多いのだろう。 思っていたより楽に馬を進められることを意識しながら、北門へ進路を向けていると、妙な轟音が聞こえてきてフィランは慌てて手綱を引いた。 間一髪で直角に曲がってきた馬車を、馬の鼻面の先でやりすごす。北門へと向かうその速度は、とても馬車が出して良いものではない。今にも車輪は弾け飛びそうになり、道すがら災厄を振りまいている。 呆然と見つめていると、それまで半ば意識を失っていたティレが突然声をあげた。 「追いかけて、フィラン」 その白い指がもたげられ、真っ直ぐ前を指す。 「マリルが、あそこにいる」 驚きはしたが、その説明だけでフィランには十分だった。荒い息遣いに胸を引き裂かれる思いだったが、彼は頷いた。ティレの望みは、何に代えても叶えてやらねばならない。脳裏を横切る人々の顔を、フィランは無理矢理打ち消した。 「分かった。ティレは頭を下げていて。何か伝えたかったら合図を。いきなり喋ると舌を噛むから」 馬の腹を蹴るフィランの焦点は、ぴたりと目の前に定められた。馬を巧みに御しながら、フィランは全速力で北門を目指した。 それにしても、ティレの能力はここまで鋭敏であったろうか。彼女は馬車を一目見ただけでその過去を視たのだ。あの妖精も、ティレを思いつめた眼差しで見つめていた。ティレに何が起きているのか――。 騒乱の只中にある北門を無視して通り抜け、街道に入る。広い道に出て、馬車は更に加速したようだ。辺境の街道であの速度を出しては、中の揺れはとても常人が耐えられるものではなかろうに。 フィランの馬は二人乗りとはいえ、遮蔽物のない都市の外に出てしまえば追いつくのは難しくない。一気に距離を詰めようとしたその時だった。 地響きと共に、それは思いもかけない方向から脅威となって現れた。馬が突然立ち上がり、街道を外れて湖と直角に走り始める。 とっさにティレを抱えて踏ん張り、フィランはかろうじて落馬を免れた。 「なっ……!?」 何事かと振り向いたフィランは、目を剥いた。 神がその手で持ち上げたかのごとく、湖面が建物よりも高く盛り上がっている。それが沈みこむと共に津波が押し寄せ、轟音と共に湖沿いの街道はあっという間に水浸しになってしまう。流されてくる岩や枝を避けながら湖を凝視していると、最後に、信じられないものが湖面に現れた。――恐ろしく巨大な、生き物の尾であった。 「フィラン!」 あまりの出来事に呆然としていると、ジャドが追いついてきた。 「なんだ、今のは!?」 「ぼ、僕が聞きたいです。それより――」 フィランはジャドを直視することができず、街道の先へ目を向けた。既にそこに追っていた馬車の姿はない。あの地鳴りにも構わず先へ言ったか、津波に巻き込まれて流されたか。 手がかりを探すため湖畔に近付こうとしたとき、フィランは腕の中の違和感に気付いた。 俯いたままのティレの身体が、氷のように冷たくなっている。ぞっとして顔を覗き込むと、薄く開いた瞳が怖気を覚えるほど鮮やかな七色に染まっていた。 「ティレ!」 「ど、どうしたんだよ」 ジャドへの返答に窮する間もなく、ティレは林のある一方向を指差した。そして、フィランの服の裾を掴んだ。 「あっちにいる。お願い。急いで」 「――」 歯を食いしばる。様々な事象が立て続けに起き、頭は冷静に動いてくれない。何が最善なのか、判断ができない。 だが、ティレがここまで何かを強く望んだことがあっただろうか。 「……ティレ。無理だけはしないで」 それしか言えない自分の無力が呪わしかったが、それが彼に出来る唯一のことであった。 「僕がついているから。道を教えて」 こくりとティレは頷いた。フィランは振り向かずにジャドへ告げた。 「ジャド、あの馬車にはマリルと例の吟遊詩人が乗っています。彼らは今回の件の重要参考人ですので、これから追います」 ジャドは状況を奇妙に思いながらも彼なりに飲み込んだのか、馬を進ませながら言った。 「馬鹿。マリルを助けるために行くんだろ。馬車の中は二人だけか」 「分かりません」 「上等だぜ。ところで、なんでティレが――」 フィランは無視して発進した。後ろから小さな舌打ちが聞こえ、それが心に小さく刺さった。 上天には抜けるような蒼穹が人々を睥睨している。 *** 「あのレーメラの葉はね、昨日から何度かに分けて運ばせてたんだ。何回も運んだから不審に思われたろうけど、どうせ報告されるのは今日になってからだから。囮の馬車を突っ込ませれば、そっちが当たりだったと思わせられる。ま、結局姉さんに滅茶苦茶にされちゃったけど」 アリラムは馬車の持ち主に御者台を任せると、そう語った。都市内で奪取した馬車の中には死体が一つ転がっている。同じ目に遭いたくないであろう御者台の男は、言われた通り全速力で馬を駆るのであった。 「……どこへ行くの?」 激震のために縁に捕まりながらマリルが問うと、アリラムはくすりと笑った。 「言ったでしょ。今回は姉さんの勝ちだって。お陰で僕は逃げるしかなくなっちゃった」 ――やはり、レーメラの葉を燃すことによって、彼らの企みは失敗したのだ。自分は間違っていなかった。最後の救いに胸を撫で下ろしたマリルは、アリラムの次の言葉にぴくりと反応した。 「でも、姉さんが嘘つきだって気付けて良かったよ」 視線が交差する。こちらを見るアリラムの瞳は、肉食動物のように底光りしていた。 「姉さん、やっぱり僕のことが嫌いなんでしょう。だから邪魔したんだよね」 背筋が凍りつくのを感じながら、マリルは抗った。 「ち、違う。マリルは、都市の皆を助けるために……」 「本当に?」 アリラムの声は優しく、冷たい。 「姉さんは母さまに捨てられて、一人で苦しんで生きてきた。ずっと母さまと一緒だった僕を、本当は殺したいほど憎んでいるんだよね。だから僕の邪魔をしたんでしょう」 「ちがう……もうやめて」 「姉さんはずるいよ。いつもそうやって、明るくて綺麗で、誰にでも優しい女神様を装ってるんだ」 アリラムは、ふっと目を細めた。 「母さまと旅をしているときも、ずっとそう。自分を一番傷つけて、にこにこしながら僕と母さんを守る姉さんは、怖いくらいに眩しかった。ねえ、僕はずっと考えてる。母さんは姉さんを選んだのか、捨てたのか。僕は選ばれたのか、捨てられたのか」 遠い記憶に残る母の腕の感触。前に押しやられたその時、込められていたのは愛か憎悪か。 「だから僕たちは二つとも持ってるんだ。僕らは互いに愛し合い、憎み合えばいい。姉さん、大好きで大嫌いな姉さん、僕たちは二人でどこまでも行こう」 耳を塞ぎたくても、塞ぐことができない。狂っていると思いながらも、アリラムの解釈はどこかで正しい。ならば、自分は。 アリラムが背後に目を向けた。 「追っ手だ。誰だろ」 誰でもいいけど、と荷物を漁りはじめるアリラムの横で、マリルは幌をまくりあげた。このままでは追っ手は殺されてしまう。もう自分のせいで誰かが死ぬのは沢山だ。逃げろと叫ばなければ。 そして、停止した。 併走する馬上、風に短髪をなびかせて、若者に抱きかかえられた少女がひとり。 溢れる涙を吹き散らせながら、はっきりとこちらをその眼に捉えている。 「――ティレ」 引いてやらねば何処へ行くこともできなかった腕を一杯にこちらへ差し伸べて。 「行かないで」 唇が、そう動いていた。 「行かないで」 視界が滲む。闇から見る光の眩しさは身を灼くようで、狂おしく、煩わしく、そして何よりも愛おしい。 だからこそ、欲しくなる。この手に守りたいと思う。その手を繋いでいたいと思う。 マリルは唾を飲み込むと、思い切り幌を下ろした。狭い馬車を足をもつれさせながら渡り、御者台の男の後ろ襟を掴む。 「な、何をっ!?」 「止めてください」 体重をかけて男の上体をのけぞらせると、手綱に手を伸ばす。地面が恐ろしい速度で後方へと流れていくが、恐怖は消し飛んでいた。 手が届く寸前で、ぐんと視界が下がった。気がついたときには馬車の中で仰向けになっている。 「だめだよ姉さん、イタズラしちゃ」 アリラムだった。彼はマリルの腕をとって、骨組みに捕まらせると、不敵に笑って再度幌をめくりあげた。 「姉さん、しっかり捕まっててね」 そう言うと、アリラムはフィランに向けて大仰な礼の姿勢をとった。フィランはティレの腰を片手で支え、もう片手に持った槍をこちらに向けた。 「あははっ。二人乗りで勝負なんて、無茶するね」 瞬間、じゃっとアリラムの指の間から片手に四本ずつの長い小刀が現れた。曲芸師のように腕を振り抜くと、小刀は水平に放たれた凶刃となってフィランに襲い掛かる。たまらずフィランは馬を加速してかわし、後方の刃は槍で叩き落した。 「お上手」 アリラムは続けて左腕を振り抜く。今度は一本ずつに時間差があった。フィランもこれには馬首を返して離脱するしかなかった。 「おい馬鹿ッ! 何離れてやがる!?」 後方から罵声を飛ばすジャドも、実際のところ手を出しあぐねている。剣を車輪に打ち込めば馬車を止められるが、横転すればマリルと御者台の男がただでは済まない。しかもフィランの馬は長時間の疾走で口の端から泡を吹き、速度が落ち始めている。状況は、ゆっくりとだがアリラムの方へ傾きつつあった。 だが、アリラムが再び小刀を取り出したその瞬間、マリルが彼に飛び掛っていた。激動する車内で一緒くたに転がる。自分に刃が掠めるのも構わず、マリルは全身でアリラムを押さえようと揉み合う。不意に馬車が揺れた衝撃でアリラムが背から荷にぶつかり、苦渋の表情を浮かべた。その隙にマリルは上を取った。 二つの同じ顔が、至近距離で見詰め合った。 Back |