-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>10話:岸辺に眠る神の歌

06.未来を視る瞳、現実を視る瞳



「……私が死ぬと。そう言ったか、娘」

 バストルの鋭い視線が射掛けられるようにティレに向く。現実に引き戻されたティレは口元を手で覆った。全身から汗が噴き、足が震えだす。フィランが支えていなかったらその場に崩れ落ちていただろう。
「ティレ!」
 呼びかけられる声が遠い。身が捩れるような眩暈と頭痛に襲われ、涙が浮いた。
 ――こんなものを、もう見たくないのに。
 しかし世界は嘲笑うかのように時を紡ぎ続ける。目の前の脅威は、哄笑したようだった。
「そなた、予言者か。呪われし目を持つ娘。我が森に生まれていれば満月の晩に生贄にされたものだ」
「黙れ、下種が」
 ティレの耳を塞ぐように、フィランが前へ出る。バストルもまた、一歩を踏み出した。
「面白い。それでは私の死に様を話してみるが良い」
 どくりと心臓が鳴る音がした。ティレは視てしまっている。目の前の男が命を落とす瞬間を、まざまざと。その瞬間に彼が浮かべる表情、弾ける血潮、肉を刃が貫くその音まで。
 頭が割れそうに痛い。今までも未来を視るたびに意識を失うほどの苦痛に襲われていたのだ。それが、未来を視る頻度とその精度が上がるにつれて、痛みの度合いを増している。
 しかし、逆に聞きたいことがあった。
「この眼は、あなたの世界でも死を望まれるの?」
 猛々しいバストルの表情に焦点を合わせようとする。友を失った時から己に問いかけてきた命題に、答えが欲しくて。
「わたしは、死ななければならない?」
 バストルの眼が戦神のごとく輝いた。破裂する笑い声。
「そなたは死にたいのか、娘」
「っ!」
 フィランが槍の切っ先を前方へ跳ね上げる。甲高い音を立ててバストルの刃が上方からぶつかった。頬を歪めたのはフィランの方であった。舌打ちをしながら勢いをつけて槍を横に振り切り、バストルの体ごと薙ぎ倒そうとする。
「遅い、外民」
 地を蹴ったバストルが合間をすり抜けてフィランに肉迫する。しかしその行く手にあるのはフィランではなく。
「ティレ、下がって!」
 見開かれたバストルの瞳に、射竦められて一歩も動けない己が映っている。次の瞬間、フィランの右手に弾き飛ばされた。背中から大地に叩き付けられて呼気が詰まったが、視界の端に得物を振るうフィランを視て寒気が走った。
「だめ」
 みるみる白む世界に、彼の行くその先が。
 変えられない未来が、その姿を。
 絶望的な無力感に意識さえも放棄しかけたそのとき、背後から馬蹄が大地を叩く音が現実を引き戻した。
「二人とも、生きてるか!」
 馬に曳かれた荷馬車から、オーヴィンが頭を出している。気付いたフィランの判断は素早かった。腰元から愛用の短剣を引き抜いてバストルの足めがけて放つ。バストルが足を止める間隙を縫って、フィランはティレを抱くと荷車に飛び込んだ。ほぼ同時にオーヴィンが分厚い木の蓋を頭上に翳して矢避けを作る。
「モーレン、突っ切ってくれ!」
「ああもう、無茶を言うよ!?」
 前方から悲鳴のような応答が返ってきたのも束の間、疾風のように荷車が大地を駆けはじめた。

「あー、追ってこないつもりか。余裕だねえ」
「ティレ!」
 狭い荷台の中、フィランはティレの矮躯を揺さぶるが、荒い息遣いがあるだけで反応がない。ティレの身体はあの妖精によって呪いから解き放たれたはずなのだ。なのに、どうして――フィランは音が鳴るほどに歯を食いしばる。
「どうした、怪我でもしたか」
「一体何が起きてるんです?」
 フィランは気遣いに問いで返した。オーヴィンにティレの力を悟らせるわけにはいかないからだ。
「んん。この一帯がガルダ人の巣窟になってるみたいだ。俺たちはずっと見張られてた」
「まさか」
 恐ろしい事実に血の気が吹き飛んでいくのを感じながら、フィランは聞き返した。
「そんなことなら、流石に都市の誰かが気付いていたはずでしょう」
「うん、妙な連中が住み着いてるって噂はあったみたいだ。だがガルダ人が都市に紛れてる話は一部の貴族しか知らないし、噂が立って日も浅かった。新参の盗賊団が現れたくらいにしか思われてなかったんだよ。モーレンと鉢合わせなけりゃ俺たちも駄目だったかもしれない」
 聞けばモーレンもトージの指示で荷の運搬を装って偵察にきていたところだったらしい。オーヴィンは薄暗い荷車の中で、親指で唇をなぞりながら目を眇めた。
「それにしても、こうまで堂々と正体を現すっていうのは不可解ですね」
「自暴自棄か、よほど自信があるか」
「どっちにしろ冗談じゃありませんよ。奴ら、何をしでかすつもりです」
 言いながら、ティレの頬に手の平を当てる。汗にじっとりと濡れ、熱が出ているようだ。一刻も早く、安全な場所へ連れていく必要があった。例え、当主の命令に逆らうとしても。しかし、何処へ――?
 その瞬間に荷車の進行が止まったため、フィランとオーヴィンは強かに背中を壁に打ちつけた。一瞬、手綱を握るモーレンがやられたのかと肝を冷やしたが、矢避けの板をあげるとモーレンの無事な後姿が確認できた。
「どうした」
 既に旧市街は抜けたようで、露店の並ぶ広い道には民の姿があった。彼らは皆、モーレンと同じ方向を見つめていた。青々とした空に、汚い黒煙があがるその様を。
「火事か」
「……ありゃあ、北門のほうだ」
 モーレンが汗を拭いながら告げる。その隣まで頭を突き出したオーヴィンは、ぐっと目を細めた。北門にはギルグランスとジャドが向かっているのだ。
「馬を借りてもいいかい」
「そういうと思ったよ」
 モーレンは事態の深刻さに頬を引きつらせながらも、笑みを浮かべた。
「ベルナーデ家に一つ貸しな。今度串焼き食べにこいよ」
「んん。助かる」
 荷車に戻ってきたオーヴィンを見て、フィランは唇を噛み締めた。オーヴィンが何を言うか、察しがついていたからだ。
「フィラン、悪いが一人で報告に行ってくれ。親父は北門に張り付いてるはずだ。ティレは俺が見とくよ」
「……」
 フィランは一呼吸置いてから、立ち上がった。その腕にティレを抱きかかえたまま。
「フィラン?」
「ティレも連れていきます」
「……おいおい」
 眉を下げるオーヴィンを無視して荷車を降り、馬具を付け替えるモーレンに会釈をするとティレを押し上げ、自分も騎乗する。
「安心してください、二人乗りは慣れてますから」
 感情を押し殺したつもりだったが、次の瞬間、無様に肩が揺れるのを自覚した。
「あのなあ。俺が心配なのはティレの方だよ」
 フィランは押し黙った。分かっている。四肢をぐったりと垂らすティレに、これ以上の負担は避けるべきだ。振動の激しい馬上などもっての他である。
 しかし、先ほどのバストルの哄笑が目蓋の裏に浮かんだ瞬間、フィランは前にティレを抱きかかて顎を引くと、馬の腹を蹴った。愚かなことをしている自覚はあった。けれど、それでも。
『ティレは僕が守らなきゃ、僕の生きている意味がない』
 全てを失って人形のように生きていたフィランに、生きる理由をくれたのがティレだ。一筋の光を、どうして人に託すことができようか。
「おい、フィラン!」
 ティレを抱き寄せることで、フィランは背後の制止を頭から追い払った。
 黄金の瞳は無慈悲に輝きながら、前だけを見つめている。


 ***


 北門で当主に侍っていたジャドにとって、それは瞬く間の出来事だった。この門はヴェルスの中でも最も道幅が広く、今は監視強化のため全ての馬車を止めて荷を改めている。自警団の怒声にジャドが振り向いたそのとき、巨大な荷を積んだ馬車が門を突破していた。道行く人を構わず轢き殺して進撃する馬車はまるで黒い疾風だ。
 関所内で話をしていたギルグランスが飛び出してきて、状況に瞠目しつつもジャドを見つけて鋭く声をあげた。
「ジャド、追え!」
「ってんだ!」
 衝撃に固まっていたジャドは主の叱咤に我を取り戻し、馬に飛び乗ろうとした。その時、上方から鞭のような声が放たれた。
「放てッ」
 城壁の上からだと気付いたときには、油袋が次々と投げられ馬車の幌で弾ける。同時に火矢が風を切って突き刺さり、馬車は火達磨と貸した。指示をしたのは都市の関所管理に強い権限を持つアメストラセス家の当主トランヴェードである。ギルグランスとは犬猿の仲だが、今日は都市の危機と聞いてベルナーデの要請に答えて自警団を派遣したのだ。トランヴェードは基本的に何事も中立の立場を取るが、一方でヴェルスの暗黒時代も強かに続いた名門の出である。自警団の団長である彼が一度火を噴けば、都市の一角は廃墟になるとも言われていた。
「っしゃあ、中々やるぜあのハゲ!」
 禿頭の当主に無礼な賛辞を送り、速度の落ちた馬車に馬で肉薄する。そして御者を生け捕りにしようとしたジャドは、はっとした。次の瞬間、馬車は積んであった穀物袋の山に突っ込み、ばらばらに弾けとんだ。同時に荷が激しく燃え出し、ジャドはたまらず馬首を返した。
 中に油でも積んでいたのだろうか、たちまち火柱が巻き起こる。ジャドは火を恐れる馬をいなしながら、目に焼きついた御者台の光景に思いを巡らせた。
 その間にも人々が浮き足立ち、辺りは一斉に怒号と悲鳴で満たされる。
「うろたえるな! 手筈通り消火だ。怪我をした者は女子供を優先して室内へ運べ!」
 ベルナーデ家当主に負けぬ大声をあげたのはトランヴェードだ。一歩間違えれば大火となる状況で、次々と指示を飛ばしていく。
「あやつめ。私に手柄を取られたくない一心だな」
 このような時でも口の減らないギルグランスは、報告のため下馬したジャドに疑念を向けてきた。
「ジャド。なぜ御者を救わなかった?」
 もしもあの時御者を捕らえていれば、今回の首謀者の名や計画を吐かせることができたかもしれないのだ。だが、とジャドは眉間にしわを寄せて当主を見返した。
「死んでたんだよ」
「なんだと?」
 ジャドは確かに見たのだ。あの時御者台に乗っていた男は、間違いなく背に剣を突き立てられ、絶命していた――。
「危ない、下がれ!」
 トランヴェートの警鐘に身体が先に反応して、ジャドは当主と共に飛び退った。そこに、都市側から馬車が猛然と現れ、関所を突破して街道へと飛び出ていった。
 更にジャドは目を見張った。続いて騎乗したフィランが目の前を駆け、その後を追っていたのである。彼はこちらに目もくれず、砂煙をあげて街道へと消えていった。
 当主は舌打ちと共に身体を起こした。
「あやつめ、私を無視していきおって。ジャド!」
「追えやいいんだろ!?」
 当主に呼ばれたとき、既にジャドは馬に足をかけていた。何が起きているのか皆目分からない。だが、この状況で仲間を一人にしておくわけにもいかなかった。
「頼んだぞ」
 ギルグランスはトランヴェートと話すために足早に踵を返した。ジャドは街道に出ると、思い切り馬を加速させた。本気で走るフィランに馬術で追いつける自信はなかったが、出来る限りは尽くさなければならない。


 ***


 その日、夕刻が近付いてもミモルザは現れなかった。とうとう見捨てられたのだ。胸を暗い気分に浸し、カリィは一人嗤ったものだった。
 もう生きている意味などないのだから、他者などいらない。愛する者のいない世界に、どうして生き続けねばならないのか。
 陽が昇り、陽が暮れ、また陽が昇る。あれから何日経ったのか、感覚がない。水しか口にしていないためか、手足が痺れている。いつもなら、ミモルザが無理にでも食べさせてきたものだったが。きっと最後に会った日に酷いことを言ったから、腹を立てたのだろう。暗がりに身を置いて、カリィは一人で死を待っている。
「――」
 今はもういない人の名を呟こうとして、しかし声が出なかった。扉を眺めていれば、いつか帰ってくるような気がしていた。あの顔を崩すような笑みを、もう一度で良いから見たくて。だが、分かっている。それは、二度と訪れはしない。もう二度と。
『寂しいよ、エル……』
 開かない扉を見続けて、どれほどの時が経ったろう。彼の帰りをずっと待っている。なのに扉が開くときは決まってミモルザが立っていて、期待を裏切られて。
『寂しいよ……』
 ミモルザは訪れるたびに、無言で食事の支度をしていた。最後に会ったときにも、言葉のないままに麦粥が差し出された。いつまでこんな日が続くのだろう。ただ生かされているのは、苦しいだけだ。
 だから、椀を床に叩き付けた。粥が飛び散って、こちらを見るミモルザに激情を振り絞った。
 ――もうやめて。あなたに何が分かるの。
 あのとき、自分は何を言ったのだろう。
 ――失くしたことなんか、ないくせに。同情されたって困るのは私の方なの。
 ミモルザの瞳は、灯火の光に微かに揺らいでいた。
 ――大切な人を亡くしたことなんかないくせに、善人ぶらないでよ!
 それまで下を向いていた目線が、ふとミモルザが座っていた場所にやられた。
 あの時ミモルザは何をしたか。そうだ。ただ唇を引き結び、何も言わずに椀を片付け始めた。
 ――帰って。帰ってよ。
 粥が散乱した床を丁寧に拭いて、ミモルザはぽつりと言った。
『自暴自棄になるのは簡単だ。死ねばどんなに楽か、そんなことを考えていた時期がアタシにもある』
 ――嘘だ。こんな気持ち、あなたに分かりっこない。
『だがアタシは死ななかった。死ねなかった。アタシは世界に問いかけて、その答えをまだ貰ってない』
 紫紺の髪に頬を隠し、ミモルザは椀に新しい粥を注いだ。もう残り僅かだったのか、椀の半分ほどまでしか量がなかった。
 ミモルザは言った。

『アタシも亡くしたんだ。アタシは答えが欲しい。どうして、アタシの夫と娘は死ななければならなかったのか』

「ミモルザ……」
 あれから彼女は姿を見せなくなった。どれほど経ったのだろう。もう誰も来ないと思うと、とうに枯れた筈の涙が浮いた。
 あの時、薄暗い室内でミモルザの瞳に浮かんだ途方もない悲しみ。もう二度と現れることはないだろう。
 そんなのは嫌だ。世界との繋がりが途切れてしまうのは、恐ろしい。
「ミモルザ、ミモルザ……っ」
 置いていかないで。一人にしないで。
 その時、微かに扉から光が差し込んだ。立ち上がろうとして無様に転び、棚が倒れて物が散らばる。それらを必死で押しのけ、半ば這いずるようにして扉を開いた。
「ミモルザ……!」
 果たしてそこに立っていたのは、親しかった医女ではなかった。
 数ヶ月ぶりに出た外の明るさに視力は使い物にならなかったが、代わりに耳朶を叩く声は明らかにミモルザのそれとは異なっていた。
「カリィ! ああ、生きていてくれたのね……」
 クレーゼの安堵に満ちた声に喉を引きつらせ、カリィは老女に縋りついた。
「み、ミモ……ルザは……」
 クレーゼは膝を折ると、カリィの身体を力を込めて抱き寄せてくれた。
「ごめんなさい。あなたのことを失念していたのは私の責任だわ。カリィ、これから言うことを、落ち着いて聞いてちょうだい」
 穏やかな声音で語られる凶事は、まるで夢の世界の出来事のようだった。
「ミモルザがうわ言であなたの名を言ったから気付けたの。間に合って本当に良かった……」
 胸が一杯になる。ミモルザは、あれほど惨い言葉で罵ったカリィを見捨てないでくれたのだ。自分にまだこんな体温が残っていたのかと驚くほどの温かい涙が、次から次へと頬を伝った。クレーゼはそんなカリィの頭を長いこと撫でていてくれた。
 ミモルザに謝らなければならない。力の入らない四肢を持て余しながらも顔をあげると、クレーゼは頷いた。
「いらっしゃい、ミモルザに会わせてあげるわ」


「オイっ。この腕輪、貰ってっていいか!?」
 クレーゼに肩を貸してもらいながら彼女の屋敷へ入ると、カリィは目を丸くした。人間用の腕輪をいくつも抱えた妖精族の少年が切迫した顔で詰め寄ってきたのだ。
「あら、さっきも持っていったじゃない」
「うっ。た、足りねーんだよっ。さっきもらったやつは、その、……失敗しちまった」
 物に魔力を吹き込むのは難しいんだよ、とぶつぶつ呟く妖精を、カリィは唖然と見つめる他ない。人間以外の知性を持つ生き物など、見るのは初めてだったのだ。
 すると、奥から島長のダールが埃まみれになって現れた。
「うーん、うちにある腕輪はそれで全部じゃぞ」
 クレーゼは妖精を真っ直ぐに見つめた。
「あといくつ必要なの?」
「え、えっと……本当は十個はあると助かる。できでば銀製で」
「あなた、買ってきてくださるかしら」
「いいのか!?」
「その代わり、またミモルザを診に来て頂戴ね」
 喜色を浮かべた妖精はそれを聞くと、羽根をぴんと伸ばして真剣な表情になった。
「あいつはしばらく動かすなよ。毒は俺様の魔法でも吸い出せねーんだ。ただ痛みは抑えてやったから苦しみはしねーよ。寝ながら自然に毒が出ていくのを待つといい」
「分かったわ。ありがとう、助かるわ」
 妖精は頷くと、重たそうな腕輪に手こずりながらも去っていった。
「い、いまのは……?」
「とても頼りになる子なの。いらっしゃい、こっちよ」
 財布を手に奴隷の名を呼んでいるダールとすれ違って、カリィは客間へと入った。古びた部屋の臥床に、ミモルザが石像のように横たわっていた。
「ミモルザ……!」
 駆け寄ろうとしたが、身体が言うことをきかなかった。クレーゼの助けでようやく枕元に辿りつき、カリィは取ったミモルザの手の熱の高さに愕然とした。ミモルザの顔は死人のように青ざめている。
 ぽたぽたと、手の上に涙が散った。このまま目覚めなければ、もう謝罪の言葉さえも届かないのだ。
 カリィはミモルザの手の甲に額をこすりつけた。
「ごめんなさい。私、身勝手で……苦しいときはあなたが来てくれたのに、私は気付いてすらいなくて、自分のことばっかりで」
 もう外の世界で起きることなど、どうでも良いと思っていた。深い穴倉に閉じこもる自分に、ミモルザはわざわざ穴倉まで手を伸べにきてくれたのだ。
「カリィ……」
 弱々しい声に顔をあげると、滲んだ視界の先に、ミモルザの微かに開いた瞳があった。
「ミモルザ、目が覚めたの」
 クレーゼが身を乗り出すと、ミモルザは小さく目礼し、もう一度カリィを見上げた。
「なんだ。飯は、ちゃんと食べたのか」
 掠れた言葉が耳朶を叩くたび、熱い涙が次々と溢れ出す。
「ごめんなさい、ごめんなさい、わたし……」
「謝るくらいなら食べてからきな。酷い顔だ」
「ミモルザ。起きては駄目よ」
 上体を起こそうとしたミモルザがやんわりと止める。
「大丈夫さね。あの妖精の術、悔しいくらいに良く効く……。いつかとっ捕まえて商売道具にしてやる」
 物騒なことを口走りつつ、ミモルザはクレーゼの手を払いのけた。しかし顔をしかめ、再び臥床に伏してしまう。
「そんな身体で何処へ行くの」
「……ひっぱたかなきゃ気が済まないのさね」
「それはマリルのこと?」
 ミモルザは微かに唇の端を歪めた。クレーゼは乱れた髪を払ってやりながら眉を下げる。
「マリルはベルナーデ家が探してくれてるけど、まだ見つかっていないわ。お願いだから、あなたはここで休んでいて。あの子の帰ってくる場所は、あなたがいてこそ帰る場所になるのよ」
「そ、そうよ。ミモルザ、無茶しないで」
「病人は黙ってな」
 まるで瀕死の毒を負ったなど嘘のような口ぶりで撥ね付けると、ミモルザはクレーゼを見上げた。
「マリルをアンタから預かって何年経つと思ってるんだい。あいつのやることなんざ、どんな患者の症状より分かりやすいさ」
「いいえ。マリルは攫われてしまったのよ。だから、何処にいるのか分からないわ」
「違う。あの馬鹿は、自分からついていった」
 クレーゼの目元が驚きに強張る。
「トチ狂った使命感を背負って、一人で行きやがった。ひっぱたいてやる……」
 自由のきかぬ身を歯噛みするように、ミモルザは額に手をやった。




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