-黄金の庭に告ぐ- <第一部>10話:岸辺に眠る神の歌 04.少女が夢見る未来 誰かの歌声が聞こえる。それを聞いて、昨日は歌の練習をしただろうかと思い巡らす。 例年執り行われる灯台島の拝送祭で、マリルは歌い手の大役を拝している。マリルが歌うのは、冥界に勤めを果たしにいく娘が母に贈る慰めの歌だ。その物悲しい歌は、マリル自身にとっても思い入れの深い曲であった。冥王に攫われ、闇夜の奥底に閉じ込められた女神と、悪夢に打ち捨てられた自分が重なって感じられたのだ。女神の母は、マリルの母とは違って娘思いの母であったが。 音は消えない。それにしても、いつまで歌っているのだろう。 歌は往々にして美しいが、時に耳障りとなることもある。 体が真の静寂を求めているとき、外界から耳に入り込むそれは、ただの雑音にしかなり得ない。 ――ちがう、とマリルは思った。 耳から入り込んで毒素のように体を侵すこの歌声は、生粋の悪意だ。 蜂蜜色の景色から粘液を滴らせる無数の手が、この身に向かって伸びてくる。 ああ、逃げられない。 「おはよう、姉さん」 意識が完全に覚醒する前に、声をかけられた。寝台に腰掛けたアリラムが、あの夜とは逆にこちらを見下ろしている。 あのとき、彼の首に刃を振り下ろしていたら、自分はこの悪夢から逃れることができたのだろうか。 少なくとも、師をあんな目に合わせることにはならなかった筈だ。大切な友人に、あんな顔をさせずに済んだ筈だ。 だが、全ては起きてしまった。それはもう、覆せない事実だ。マリルが母から捨てられたのと同じように。 恐ろしい弟を、拒むことも、受け入れることも出来ず、マリルは辛苦に心を締め付けられている。 再会できて、ようやく心のわだかまりが解けて、幸せな日々が戻ってくると思ったのに。 どうして。どうして。 「マリル姉さん。姉さんは僕が憎い?」 優しく髪を梳かれ、マリルは身を起こさぬまま答えた。 「ううん。憎んでない」 それは、理性が心よりも先に返した答えであった。人を憎んで生きる虚しさを、その身を以って知っているからこそ。そして目の前にいる少年が他ならぬ肉親であるからこそ、憎めない。憎んではいけない。 アリラムは、気に入らない様子で眉を僅かに寄せた。 「どうして? 僕は姉さんの大切な人に毒を盛ったよ? あの人、死んじゃったかもしれないのに」 「……」 黴臭い粗末な部屋は、過去の旅路を思い出させる。マリルは心を押し殺して、平坦に言う。そうでなければ。そうでなければ――。 「あなたは、わたしの弟だから。アリラム」 表情を消したアリラムは暫く黙っていた。不審に思ったとき、不意に彼は、マリルの頬に指を当てた。 「姉さんの声、母さまにそっくりだ」 次の瞬間、影が被さる。 「マリル姉さん。マリルーナ。姉さんが『選ばれて』から、母さまはどうなったと思う?」 灰色の瞳が、視界一杯に映りこむ。マリルはぞっとして硬直した。寝台が軋む。息がかかるほどに顔を寄せられているのだ。 「ぼろぼろだった。誰一人母さまを守る人なんていないんだもの。可愛そうにね、毎日毎日運命を呪って、世界を呪って、僕を呪っていた」 愉しげな話題を口にするかのように、アリラムは続ける。 「あれからも町から町へ旅は続いた。でも、どじな母さまは失敗してばかり。あるとき、男の人に襲われてね。泣いてる母さまを見て、あいつなんて死ねばいいのにと言ったんだ。そしたら母さまは突然起き上がって、その人を本当に殺しちゃった。もう三人は僕が食べ物に毒を混ぜて殺した。母さまが、殺しなさいって言うからさ」 垂れた前髪が、己の同じ色の髪に混じる。触れる鼻先の冷たさはまるで刃のよう。 「僕たちは追われる身になった。母さまは邪魔する人を誰彼構わず騙して、殺していった。面白いんだ、母さまはあれで美人だったから。みんな母さまの歌声に騙されて、殺されちゃうんだ。そして言うんだ、この悪魔ってね」 指先が動かない。臓腑が冷たくなり、背中にじっとりと汗をかく。 「みんな苦しんで死ねばいい。世界なんて終わればいい。それが母さまの口癖だったけど、僕は少し違ったかな。だって、人の世って愉しいじゃない。ちょっと手を加えるだけで、砂の城みたいに壊れるんだ。でも砂の城とはちょっと違う。壊れる瞬間、宝石みたいに輝くんだもの」 許されることなら、悲鳴をあげて耳を塞ぎたかった。マリルにとってあの物語の続きは優しい慈愛に満ちた話になる筈だった。母に選ばれた子供は、母の愛を一身に受けて育っていく――。 「でもね、母さまはどんどん壊れていった。ねえ、母さまのあの綺麗な顔が醜い老婆みたいになったなんて、想像できる? やせ細って、声はひび割れて、背中が曲がって。干物みたいな手で僕を殴ったら、自分の方が痛かったみたいでさ。悲鳴をあげて泣いてるんだ。姉さんに分かる? そんな母さまの姿が」 瞳に獰猛な捕食者の光が宿る。それは紛れもない憎悪の感情で、マリルはただ、涙を浮かべて嗚咽を押し殺すことしかできない。 するとアリラムは、満足げに微笑んだ。 「大丈夫。もう見れっこないよ。母さまは死んだんだから」 良かったね、とアリラムはマリルの唇に軽く口付けた。 呆然と開いた瞳から、涙が一筋伝った。 「姉さん。姉さんは知るべきだ。母さまが、どうしてあのとき、姉さんを選んだのか」 背中の手に力が込められて、前に押し出されたあの瞬間。 全ての運命が少女に敵対した。そう信じて疑わなかったあの一瞬。 だから弟を憎んだ。殺意を持って生きていた。そんな己の汚らしさに涙して、忘れようと決意し、明るく振舞った。 だというのに、どこまで現実は残酷なのか。 「母さまは姉さんを愛していたから、姉さんを選んで捨てたんだよ」 愛されていたのは、姉さんだった。 悲しみと混乱と恐怖が一気に流れ込んできて、マリルは顔を手で覆う。 アリラムはゆっくり身を離すと、草色の外衣を被り、錆び付いた部屋を後にする。その姿が見えなくなって、ようやくマリルは嗚咽を漏らすのだった。 *** 「遅いぞ」 神経質そうな声が地下室に反響する。下水道内に設けられた一室は、水道の臭気をもろに浴びることはないが、湿気て黒ずんだ壁は不潔な印象を受ける。一刻も早くそこを出たいという面持ちで、エウアネーモスはアリラムを睨んだ。 「ごめん。ちょっと取り込んでて」 アリラムは悪びれなく言うと、猫のように扉の隣に身を置いた。全体が見通せ、すぐに逃げられる位置だ。エウアネーモスは早速というように不満を言い立てた。 「あの娘は一体どういうことだ。灯台島の住民など、皆ベルナーデの手下のようなものではないか」 「そこは問題ないよ。僕が何をするか、ばかな姉さんには見当もつかないだろうし」 くす、とアリラムは狡猾な笑みを浮かべた。 「灯台島に薬を撒き終わったら、見せに行こうと思うんだ。どんな顔するか、もう楽しみでさ」 「……外道もここまで来ると頼もしいな」 エウアネーモスは憎々しげに言い捨ててから、表情を引き締めた。 「して、策は浮かんだのか」 「うん。とっくに浮かんでるよ。依頼の品は、今日の昼過ぎには届くんじゃないのかな」 「今日だと?」 エウアネーモスは眉を跳ね上げた。その道では優秀な運び屋とはいえ、いくらなんでも早すぎる。流れの無頼者たちを使う策に失敗してから、まだ数日と経っていないではないか。 「あのさ、おじさん」 小馬鹿にするようにアリラムは口角を吊り上げた。 「おじさんは慎重すぎるんだよ。この前の案、おじさんがそうしろっていうから合わせてあげたけど、結局余計な仕事が増えただけだったでしょ。今度は僕のやり方でやらせてもらうよ」 「待て。どのような策を講じたのだ」 エウアネーモスの焦りを見て、アリラムは幼い目を猫のように細めた。 「単純じゃない。ようは商品を都市の中に運び込めばいいんでしょう?」 「そうだが、一筋縄ではいかんぞ。都市に入る荷物は全て確認が入る。あれだけの荷物を奴らの目を掻い潜って運ぶには――」 「掻い潜る必要なんてないよ」 至極当然のように言われて、エウアネーモスが鼻白む。 「だってさ、どうせ死んじゃうんでしょ。この都市の人はみんな」 その言葉に、エウアネーモスは微かに呻き声を漏らした。この少年は、まさか。 「だったら一人や二人、死人が増えたところで変わらないじゃない」 アリラムは天使のように微笑む。その唇が紡ぐ言葉にエウアネーモスが抱いたのは、他ならぬ恐怖であった。 「荷物を確認する人なんて、いなくしちゃえばいいんだ」 「関所を破るつもりか。正気ではないな」 冷や汗を伝わせながら苦笑すると、同時に、部屋に低い笑い声が響いた。 アリラムが顔を向けると、闇の吹き溜まりになった部屋の奥に、獣じみた男の影が揺れている。それまで沈黙を守ってきた赤銅色の髪の男――ガルダ人を統べるバストルが、愉悦の笑みを浮かべたのである。 「外民めが、面白いことを弄する。貴様は同胞の血を見たいのか」 「同胞? なにそれ」 アリラムは無邪気に聞き返した。 「もしかして、国とか、血とかのこと? そんなもの。こだわるとか、意味がわからないよ。皮を剥げばみんな形も姿もほとんど変わらないじゃない。何の意味があって良いとか悪いとか、敵とか味方とか区別するのかな」 「おい、言葉を慎め」 エウアネーモスが忠告するが、バストルは古びた木台に腰掛けたまま哂うだけだ。 「ならば貴様は何を欲する」 その問いに、アリラムは美しい声で答えた。 「地獄かな」 続けて彼は、歌うように口ずさむ。 「野山に暮らす羊飼いたちよ。卑しく哀れなものたちよ。食らいの腹しか持たぬものたちよ。惑うがいい、狂うがいい。幾重の悲劇を織り成して、我が身を血で染め嘆くがいい」 少年の眼に宿る異常な恍惚を見て、エウアネーモスが皮肉げに唇の端を歪めた。 「今のは古い時代の人が作った詩だよ。面白いよね。人間はその気になればどこまでも悪趣味で残酷な歌が作れるし、実際に作ったんだ。つまり人間はそれを求めているってことだよね? 人は悲惨な光景が見たいんだよね?」 なら僕は普通の人間だ、とアリラムは言った。 「ただ人が人を殺すだけじゃ有りふれてる。だからこの話に乗ったんだ。大切な人を自らの手で殺すとき、人がどんな顔をするのか、見てみたくて」 アリラムはそこまで言うと、ふとエウアネーモスに問いかけた。 「ねえ、気になってたんだけど。おじさんは都市をひとつ潰してどうしたいの?」 見返すエウアネーモスに、アリラムは不思議そうに続ける。 「だって、ベルナーデ家が憎いなら家ごと燃せばいいでしょう。全部壊しちゃうなんて、ちょっと勿体無いと思うな」 エウアネーモスは暫く黙したまま、目を伏せていた。その口元が歪んだ笑みを形作り、瘴気のような言葉を生み出すまでは。 「栄えも平定も、私には必要ないからだ」 声は薄暗い部屋に放たれ、消えていく。エウアネーモスは相対する二人に鋭い眼差しを向けた。 「好きなだけ荒らし回るが良い、狂った殺戮者も亡国の死に損ない共も。貴様らが生み出した秘術で、私は死の商人になるだけだ」 「ああ、そっか。僕もあれにはびっくりしちゃった。高く売れるだろうねえ。だって都市中の人を――」 アリラムは笑みを浮かべたまま、続きを紡いだ。 「都市中の人を、動き回る死体に仕立て上げるんでしょう?」 ――その壁の向こう、聞き耳を立てていたマリルが呆然とするのにも、気付かずに。 *** 早朝のことである。昨晩はティレが妖精に連れられて戻るまで、灯台島は騒乱の只中にあった。ジャドも任務の合間に捜索に奔走し、ようやく眠ったのは夜半過ぎである。ガルダ人の件とマリルの失踪のどちらにも進展のない、焦燥ばかりが募る一日であった。 それでも無情に訪れる朝に辟易しつつ、家を出ると。 「あ、あのぅ!」 「あぁ?」 寝起きの凶悪な顔つきで視線を下方に向けると、ペペスと目が合った。妙に傷だらけで薄汚れており、表情は切迫している。ペペスは精一杯の勇気を振り絞った様子で声を張り上げた。 「博士がお呼びです。来ていただけませんか」 「ハァ?」 眉を潜めると、ペペスは「ひう」と怖気付いて一歩下がる。しかし、ペペスの説明がジャドの細い目を見開かせた。 「ダナラスの日記が解読できたんです!」 ポマス博士の住居を訪れると、ペペスは中へと促した。その顔色は妙に青褪めていたが、初めて入る研究室の惨状を見てジャドも素直に顔をしかめたものだった。 「どんだけ魔改造したらこうなる……?」 壁にメモと共に打ちつけられた動植物の数々、床に散乱した巻物によって寄りかかる場所もなければ足の踏み場もない。炉は常時焚かれているようで、ごぽごぽと謎の液体が沸騰しており、部屋には得体の知れない熱気と蒸気が渦巻いている。 「いらっしゃいましたな、ベルナーデのお方!」 「ひ!?」 ぬっと荷物の影から現れたポマス博士は、何日も寝ていないのだろうか、髪は乱れ、目の下に隈が浮き、神にでも呪われたのかと見紛う風体であった。しかし眼光だけは炯々と輝き、言葉にも生気が満ちていた。 「あの巻物は素晴らしい研究成果が難解な隠語によって記されてありました。書いたのはガルダ人といいましたか? 是非お会いしたかった! 亡くなったというのは遺憾の極みというものです」 顔を引きつらせたジャドなど構わず、濁流のように喋るポマス博士である。 「お、おう。んで、何が分かったんだよ?」 「これを見なされ」 ポマス博士は作業台を掻き分けて場所を確保すると、床の壷をとってひっくり返した。どちゃり、と出てきたのは頭ほどの大きさがある半透明のぶよぶよした塊だ。 「モモラの死体です」 帰りたい、とさしものジャドも考えた。 「ほら、見てください。確かに死んでいますね」 そう確認されても、カクカクと頷くしかない。ジャドもある程度の免疫があるとはいえ、嬉々として死体を突っつくポマス博士は狂気に犯されているとしか思えなかった。 「しかし、この薬をまぶしまして……」 ポマス博士は慎重な手つきで別の小壷から出した無色の液体をモモラにすり込んだ。 「これは灯台島で取れた薬草にレーメラの葉の煮汁を調合したものです。外の同じ種類の薬草で作っても、同じ結果にはなりませなんだ。そして――」 続いて皮袋から粉末を取り出し、一呼吸を置く。 「香として用いた方が効果が高いのですが、怪我の可能性があるので、まずはそのまま使います。よく見ていてください」 ふわっと粉末を振り掛ける。その瞬間、ジャドは目を見張った。 粉末の香りは、これまでに何度も嗅いだことがあった。あの、気分を害するほどに甘い香りだ。そして、それまでぐったりと横たわっていたモモラが突然ぴくりと反応する。 青褪めたジャドに、ポマス博士はニィ、と口元をゆがめた。 「これが伝説として伝わる死霊使いの術です」 「まっ、待てよ、じーさん。このやり方があの巻物に書いてあったっつーのか!?」 「さよう」 その時、モモラがぶるりと震え、口蓋を大きく開く。ジャドが身構えるより先に、ポマス博士は素早い動作で平らな棒を取り出し、モモラを叩き潰した。 「な!?」 「このように起き上がった死体はあらゆる生き物に攻撃的になります。知能は総じて低い上に攻撃性もまちまちですが。ちなみに通常の生き物にも興奮剤の効果がありました。生きた魔物に高密度の香を嗅がせたところ、発狂しましたでな」 だからポマス博士も助手のペペスも傷らだけなのか。あまりの出来事に、ジャドは頭をかき回した。 「まさか人も同じ具合で起き上がるってのか?」 「身近に死体がありませんでしたので実験はしておりませんが、日記によれば応用がきくそうです。流石に人の死体は手に入りにくいのです」 「そ、そうだ、日記だよ! こりゃガルダ人の手の内ってことだろ? ダナラスはそれを知って日記に書いてたってことか?」 「いいえ、それは違います」 無残に飛び散ったモモラを前に、ポマス博士は黒い瞳を光らせた。そして紡がれた事実に、ジャドは瞠目した。 「これを開発したのはダナラス自身です。更に日記にはまだ――」 言いながらポマス博士の体はみるみる傾いていく。声をかけるより前に、ポマス博士は後ろに倒れた。 「おい、じーさん!?」 「博士!」 傍で控えていたペペスが慌てて抱き起こす。次いで大きな鼾が聞こえてくると、安堵したように肩を下ろした。 「ここのところ寝ていなかったんです。あの、代わりにこれを……」 ペペスは作業台に転がっていた新しい巻物を差し出した。 「あの日記の解読文です。ベルナーデ家のご主人様に渡してください、腐った魔物の対処方法に役に立つと思います」 「わ、分かった」 ポマス博士の介抱をペペスに任せると、ジャドは急ぎ足で家を出るのだった。 *** 豊穣の巫女の付き人は、巫女の弱い心身を補うために、幼少時よりリュケイアの塔の中で共に育つ。 ティレの付き人であった少女は、己の職務を誇りとする、敬虔で真面目な女官であった。 ティレが本国の神殿の巫女になることが決まったとき、彼女は誰よりも喜び、そして身を案じてくれた。 寂しい本国の広い神殿でも、まるで母鳥が我が子を守るように、共にいてくれた。 真っ直ぐに垂れた髪の合間に、彼女の笑みがあり、労わりの言葉がある。 ティアル様。今日は良いお天気ですよ。 今日の朝食は昨日届いた無花果にしましょう。とても甘くておいしいですよ。 彼女が良い天気だと言うから、初めて空を見上げることができる。彼女がおいしいと言うから、初めて味を噛み締めることができる。何も言われなければ寝室から一歩も出ることもなかった自分に、それがどれほど眩く映ったか。 彼女の豊かな感情表現は、自分とはまるで正反対であった。 なんていうことです。この神殿に若い男を入れるですって? 上の者は何を考えているのですか。 フィランが神殿の内務官として就任したとき、唯一怒りを露にしたのが彼女だった。 我を忘れたようにティレの肩をがくがくと揺さぶって、彼女は何度も言い含めた。 いいですか、男なんてものを信じちゃいけません。あんな汚いものなんてありませんからね。あのようなけだものに内務室の椅子が与えられてるなんて考えるだけでおぞましい! 裏庭の倉庫で藁でもひいて仕事をしていればいいんです。――って、ティアル様!? あまりに肩を揺さぶられ続けて眩暈を起こした自分を、彼女が慌てて助け起こしてくれる。 おのれ、あの男! きやつがいるからティアル様のお心も穏やかではいられないのです! そうなんだろうかと思いながらも、何故か心は温かくなった。毎日のように彼女はティレの手を取って、機織や詩歌を教えてくれる。自分よりも何倍も賢く、強い人だった。 臥床から見上げた先に、彼女はいつも凛と背を伸ばして付き添ってくれる。起き上がらずとも、彼女がなんでも持ってきてくれる。 わたしはそんなにしてもらうような人間じゃない。 そう言っても、彼女は笑って髪を梳いてくれるのであった。 何を言ってるんですか、ティアル様。私は、あなたにお仕えすることが喜びなのです。 わたしには何ができるのだろう。 考えても考えても、無力な自分の中に答えはなく、一度思い切って直接聞いてみたことがある。 すると彼女は一旦驚いて、そして少しだけ考え込んで答えた。 優しく労わりに満ちた言葉は、涙が出るほどに穏やかに耳に染みた。 どうか、健やかに。体を大事にして、日々のお勤めをなさってください。ティアル様は首都の未来を占う巫女なんですから。そしてわたしを、いつまでもあなたの使い女でいさせてください。 頷いて、彼女の言う通りにした。 より正確な未来を視るために修行を重ねることこそ、己の使命だと信じるようにした。 結果、視えたものは、友人の死の光景であった。 ある日、神殿の階上の窓辺から中庭にいる彼女を見つけた。 その瞬間、何を願ったわけでもないのに、突如として白昼夢のように世界が弾けた。 それは、言うなれば数枚に連なった絵。抜けるような晴天の下。人々の怨嗟の声。友人の胸に飛来した矢が刺ささる。網膜に焼きついたその景色に、悲鳴をあげて後ずさる。 すぐに近くにいた女官が駆け寄ってくれたが、恐ろしさに声を出すことすら出来なかった。 駆けつけてくれた彼女を見た瞬間、絶望感が込み上げてきた。そんなことがあってはならない。だから今視た景色は夢だ。夢に違いない――。 しかしそれが紛れもない予言であったことは、すぐに証明された。 磨き上げられた具眼の力で予言された洪水に見舞われ、人々は自分を魔女と呼ばわった。やり場のない怒りは恨みとなって積み重なり、とうとう決壊して狂い咲いた。 それは澄み切った青空の下。妙に外が騒がしいと思っていたら、蒼白になった彼女が駆け込んできた。彼女の手に引かれ、裏口から逃げようとした。しかし、裏庭に至る回廊の途中で暴徒と鉢合わせてしまったのだ。 彼女は、ティレの前に両手を広げて立ちはだかった。人々の怨嗟を一身に受けて、自身の声を張り上げる。けれど怒りの感情は膨れ上がり、ついに矢が引かれ。 手を伸ばす。撒き散らされる赤い花を、その手で押さえ込もうとして。 しかし届かない。 目の前で、血の糸を引いて、彼女が倒れた。 何も出来ない。 自分には、何も出来ない。 守ることも、抗うことも。 何も出来なくては、生きている意味がない。 生きている意味がないのでは――。 「……おい」 いつからそこにいたのだろう。クロイスが床から不安げにこちらを見上げている。彼の四枚の羽根は、窓から差し込む陽光を浴びて物悲しく煌いていた。ぼんやりと眺めていると、クロイスは焦れたように眉を潜めた。 「膝抱えてる場合じゃないだろ。今日は探しに行かないのかよ」 体を小さくするように腕に力を込める。 昨晩ティレが灯台島に戻ったとき、事は思っていた以上に大きくなっていた。灯台島の住民が総出でティレを探し回っていたのだ。 フィランもその内の一人だったため、彼との再会には暫しの時を要した。勝手な行動を取った自分に、彼はさぞ立腹したことだろう。ようやく戻ってきた彼の顔は険しく引きつっていた。 手短に事実を確認した彼は、島民たちに頭を下げ、ティレの手を引いて自宅に戻った。叱責を覚悟していたが、彼はもう二度と勝手な行動は取らぬようにと言っただけだった。そんな彼の目には、初めて出会ったときと同じ、得体の知れない闇が被っていた。まるで、これから起きる悲劇を既に知っているかのような。 何かが壊れ始めている。なのに、ティレは無力だ。 ――さよなら、ティレ。 歪むように笑うマリルが、茨に捕らわれて闇に引きずり込まれていく。 どうやっても、自分がその茨を取り除くことはできない。 ただ、その絶望的な未来を『視る』ことしか。 「しっかりしろよ。友達助けるんだろ? 俺様がついてってやるからさ」 少女と闇を共にしたクロイスは、昨晩は外出を咎めたものだったが、今は少女の様子の方が気がかりらしい。言葉を尽くして励ますが、心を閉ざしたティレは首を横に振った。 「……マリルはもう、帰ってこない」 「決まったわけじゃないだろ。それにお前が言ったんじゃないか、友達が泣くのを見るのは嫌だって」 褐色の瞳を歪ませて、ティレは呟いた。 「わたしが何を言っても届かなかった。それに……」 そのまま、膝に顔を埋める。クロイスは眉を上げると、力が抜けたように息を吐いた。 「もしかして、お前さ」 クロイスは目を眇めて続ける。 「助けに行ったのに拒絶されたから落ち込んでるのか? だったらそれ、よっぽど馬鹿だぞ」 ティレは僅かに顔をあげた。 「お前さ、あいつがお前を殺すのは構わないって言った理由が分かるか」 羽根を揺らし、クロイスは力強く言った。 「お前を助けるためだよ。俺様はあのとき、あのいかれた奴がどんな風に襲ってくるか見当もつかなかった。でもあいつが、先に知らせてくれたんだ。何も知らずに突然短剣を投げられてでもいたら、本当に間に合わなかったかもしれない」 ――せめて苦しまずに、あなたの短剣で。 そう搾り出すように告げた彼女の横顔。ティレは鞭で打たれたように頬を歪ませた。 「いいか。あの吟遊詩人はいかれてやがる。でもな、きっとあのマリルって娘は、そいつが放っておけないからついていったんだろ。そんな奴を、お前は放っておくのかよ」 膝を抱える指に力が篭る。ティレは、唇を噛み締めた。 「……わたしには、何もできない」 「馬鹿」 打ち返すようにクロイスは言った。 「人間なんざみーんな無力だよ。図体でかいくせに、群れなきゃろくに生きていけない。魔法は下手くそだし、爪も牙もないし、目も鼻も耳も鈍いし。俺様が本気出せばこんな都市簡単にぶっ潰せるぜ。あ、女子供いるし面倒くさいから勿論やらないけどな」 クロイスは取り繕うように付け足すと、力強く告げた。 「だから、頼れ」 弾かれたように褐色の瞳が丸くなった。 「俺様は強いから誰にも頼らなくたって生きていける。でもお前ら人間は弱い。なら頼ったっていいじゃねーか。ちっとは人間らしくしてみろよ」 「にんげん」 ティレは戸惑ったように目を伏せる。 「にんげんは、弱い……」 呟いて、言葉を噛み締める。 「怖かったり、悲しかったり……とても一人じゃいられない。だから、町ができて、国ができた」 「へぇ。全くその通りじゃねーか」 「友達が、むかしそう言ってた」 「ま、それが人間の特徴ってところかね」 「人は支えあっているの? もたれあっているの?」 「さーな? そこまで人間のことちゃんと見たことねーし」 「わたし、もたれかかっていたくない……」 鈴が鳴るようなか細い声。けれどクロイスは不敵に笑ってみせた。 「じゃ、どーする?」 少女は目を一度だけ瞬いて、ゆっくりと膝に力を込める。 まるでようやく目の開いた子猫が、そろそろと親の腹の下から這い出るように。少女は立ち上がり、顔を向ける。 簾が風に揺れて音を立てている。恐る恐る歩いて外に出ると、強い風が唸った。外は、目が痛くなるほどの青空であった。 そして、そこに一人の若者が立っていた。 「ティレ」 少女は息を呑む。 「フィラン」 早朝に出ていった筈の若者は、真剣な眼差しでこちらを見つめている。連れ戻されると思ったが、それにしては様子がおかしかった。彼の表情はまるでティレの覚悟を試すかのようだ。 だからティレは問われる前に己の口を開いた。災禍しか紡ぐことのできなかった、その口を。 「わたし、行く。マリルを助ける」 足が震えて倒れてしまいそうだった。心を持つことは辛い。心を表現することは、もっと辛い。体が痺れ、涙が溢れそうになる。そんな感覚を通して、少女は己が人であることを知る。 潮騒が聞こえる。あちこちに残った水溜りが反射して肌を苛む。ティレは心細さに眩暈を覚えた。自分などより何倍も強いフィランに拒否されたなら、ティレに成す術はない。 しかし、フィランは。 ――彼は、ふっと肩から力を抜くと、まるで子供に対するように問うた。 「本当に行きたいかい?」 ティレは頷いた。 するとフィランは少しだけ迷った顔をしてから、決意したように頬を引き締める。 そして紡がれた言葉は、ティレの予想だにしなかったものだった。 「分かった。じゃあ、ティレの力を貸して欲しい」 「……」 頭がぼうっとして、暫く理解ができなかった。 やったじゃん、と後ろから肘でつついてくるクロイスの存在も忘れ、ティレはその場に立ち尽くした。 信じられなかったのだ。力を貸して欲しいと言われるなど。 しかし英知の女神は苦笑しながら、少女にこれが夢ではないと教えてくれるのだった。 大地を咬むサンダルの音。たった今歩いてきた偉丈夫が姿を現し、ティレに問いかけるのだ。 「久しいな、槍使いの許婚よ。以前に増して美しくなった」 風に揺れる長衣。櫛の通った灰色の髪。まるで巨岩のような存在感を放つ偉丈夫が、小さなティレを見下ろしている。 そして偉丈夫――ベルナーデ家当主ギルグランスは、愛嬌たっぷりに片目を閉じるのであった。 「どれ。ひとつ、昨晩の話を聞かせてもらっても良いかな?」 Back |