-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>10話:岸辺に眠る神の歌

03.闇を彷徨う



 娘を奪われた女神ヴェーラメーラの怒りは大地を死で覆い、
 天高く舞い上がった嘆きは、この世に血の雨を齎した。

 喰らいの身である地上の者々は僅かな食料を求めて剣と槍で争いはじめ、
 子を売った親の、親を殺した子の、悲嘆の叫びは地の隅々まで響き渡る。
 けれどどれほど悲痛な叫びであろうと、娘までは届かない。
 大地の底の冥界に隠され、母を想って涙する娘には届かない。


 ***


 連日続くヴェルスの祭りは日中も賑わいの様を呈す。特に今日は葉杖持つ酒神デュオに捧げられた祝祭である。朝からいくつもの酒樽が持ち出され、広場で割られては人々に配られる。デュオの神殿の祭司たちは笛を奏でながら獣や子供を引き連れて都市中を練り歩き、最後尾にはデュオを象った像が雅な輿に乗せられて進み行く。今日だけは大人も子供も大声を上げたり踊ることを咎められはしない。狂乱と陶酔を司る神の祭りとだけあって、羽目を外すにはもってこいの一日なのであった。
「あれ、アンタ」
 者皆が花の冠を被る祭りの最中、取っておきの織物をヴェールにしていたベラは、脇を通る者を呼び止めた。はた、と立ち止まって振り向く少女の姿を上から下まで検分し、眉を潜める。華やかな町並みの中で花飾りの一つもつけない普段着で、しかも山羊の毛を織って作った分厚い灰色の外衣を羽織っている。少年のように短い髪が印象的な、か細い少女であった。
「どうしたんだい、今日は雲ひとつない晴れだってのに。良かったらアタシの若い頃着てた服を貸してあげようか?」
 持ち前の世話好きを発揮して、ベラは手招きをする。
 しかし少女はけぶる表情のまま、ベラを見上げ、そして首を横に振った。
「今日は、夜から雨。冷たい風が吹く」
「え?」
 目を瞬く内に、少女は小道に入っていってしまう。ベラはその後姿を不思議そうに見送るのであった。

 ティレは祭りに賑々しいヴェルスを子鼠のように彷徨っている。
 灯台島は朝から騒ぎの渦に包まれていた。客人であったアリラムはマリルと共に姿を消し、ミモルザはクレーゼの家に運び込まれて今だ目を覚まさない。
 フィランは、絶対に灯台島を出ないようにとティレに言い含めた。きっと灯台島と懇意にするベルナーデ家が捜索にあたり、探し出されるだろうから、と。
 しかしティレはクレーゼの家での手伝いを済ませると、こっそりと抜け出してひとりで都市に出た。フィランにすら言えなかった、この眼が映し出した未来。それを思い出す度に、ティレは自らの体を抱きしめたくなる。
『ティアル様』
 恐ろしさに震えていれば、昔は一人の少女が肩を掴んで現世に引き戻してくれたものだった。静けさに満ちた神殿で、たったひとり気を許すことのできた無二の親友。けれど、ティレが視たものは。
「っ」
 眼を閉じ、耳を塞いで外界から自らを絶つ。あの妖精の術を受けてから、確かに頭痛や眩暈は軽減した。しかし代わりに、世界のざわめきは更に鮮明に聞こえてくる。このような都市の只中でさえ、時折耳元で羽虫が羽ばたくような異音に支配される。
 聞こえくるのは破滅の音。
 あのときと同じ。決して触れることの出来ない定められた未来。
 抜けるような蒼穹の下に倒れ落ちた、それは言葉にするのも恐ろしい――。
 だから手の甲で目尻を拭って足を踏み出した。
 ティレは一度、親友を救うことが出来なかった。その悲しみに溺れて、彼女は己の破滅を願った。だがフィランに手を差し伸べられ、旅を続け、灯台島の人々と出会い、そして今ティレはここにいる。迷いながらも、今、ここにいる。
 呪わしい力を持つ己の在り様に、未だに答えはない。けれど――。
「マリル」
 呟いた。彼女の笑顔を思い出した。そう、笑ってくれたのだ。ぼんやりと屍のように生きる自分に、まるで姉のように接してくれた。
 失ってはいけない。失いたくない。その想いが、細い足を動かしている。
 ティレは都市の広さにほう、と息をつく。首都よりも広くはないだろうと高をくくっていたのだが、そもそもティレは首都でさえまともに歩いたことがない。
 マリルの足取りの手がかりは皆無だ。彼女が行きそうな場所を回っても、人でごった返していてろくに調べることができなかった。次第に足が疲れてきて、ティレは情けなさに顔を伏せた。フィランやマリルは、この程度で音を上げたりしないのに。
 都市をうろつくのに思いがけず時間を使ってしまったようで、空はみるみる翳っていく。雲が増え、気温が下がってきた。酒場の軒先には次々と明かりが灯る。このまま戻るわけにはいかないが、いらぬ心配をかけぬよう、フィランに一言でも伝えるべきかもしれない。
 そのとき、はた、とティレは立ち止まった。
 顔を横に向ける。反対側にも。そして後ろに、空に。
「……」
 ティレは思った。

 ――そういえば、ここは何処だろう、と。


 ***


 有体に言えばティレは迷子であった。しかも哀れな少女を、夜の帳がみるみる覆ってしまう。小雨が降り出して視界がきかなくなり、朝から飲み騒ぐ者どもの興奮が最高潮となる時間帯と相成っては、彼女の存在など雨粒よりも微少だ。
 尚もティレはマリルの姿を追い求めて、人々の合間を彷徨い歩く。厚手の外衣で頭まで覆っているため、寒さはなかったが、徒労感は足をじわじわと締め付けていた。
 こんなことをしていても、マリルは見つからない。
 焦燥が、ティレの目線を忙しなくさせる。酒場は雨にも関わらず庇を広げて酒を振舞う。光と闇の乱舞は、おかしな夢に迷い込んでしまったかのよう。
「おっと」
 足早に抜けようとした交差路で、見知らぬ男とぶつかる。小柄なティレは尻餅をついてしまい、フードが後ろに外れてしまった。
「大丈夫かい?」
 頭に飾り輪を付けた男は、立ち上がるティレを見て口笛を吹いた。
「こりゃあ、可愛い子じゃないか。一人か?」
 酒臭い顔を近づけられ、身を引こうとしたティレは腕を捕まれてしまう。
「な。一杯だけ一緒に飲もう。アンタも遊びに来たんだろ」
「……」
 ティレは捕まれた腕を眺めて、一度だけ瞬きをする。
「はなして」
「あん?」

 男は、酩酊した表情のまま少女を見下ろす。
 すると世闇に散乱する光の中、異様に白い少女の顔が、ゆっくりと男を見上げた。
「……はなして」
 風が、僅かに騒いだ気がした。囀るように動く唇、開かれた瞳。その内容は拒絶だというのに、魅入られたように男は動きを停止する。琥珀色の瞳の表面には虹色の光彩が散らばり、その奥は闇に包まれて揺らめいている――。

 ティレは男の力が緩んだ瞬間、ぱっと駆け出した。
「お?」
 しかし今宵は酒の神の力が満ちた祭りの日。男は一瞬きょとんとして、少女の後姿に現実を取り戻すと、笑いながら少女を追い始めた。
「よっし、捕まえられたら一杯だな!?」
 小鹿のように逃げる少女と追う男。祭りの人手では悪ふざけとしか捉えられず、止める者など誰もいない。
 ティレはとっさに脇の小路を曲がり、そして眼を見開いた。道が途中で途切れている。袋小路に入ってしまったのだ。
「何処まで逃げるんだい、子猫ちゃん」
 後ろから男の声が聞こえ、ティレはとっさに横の酒場に飛び込んだ。酒場の階上は大体宿場になっている。驚く店主に目もくれず、ティレは階上へと足を伸ばす。そこしか逃げられる場所がなかったのだ。上れるだけ上ると、雨がさっと頬を濡らした。屋根の上に出たのだ。
「おっ、いたいた!」
 赤ら顔の男が階段を上ってくると、ティレは屋根を伝って距離をとった。しかし隣の家の屋根までとてもティレの脚力では飛び越えらない。胸の上で両手を握って、ティレは男と対峙する。
「なんだぁ、危ないぜ。そんなにオレと飲むのは嫌か?」
「……」
「いいからこっちにおいで。別に怖いことしねぇって。そんなとこにいると神様に攫われちまうぜ」
 雨を冴え冴えと全身に受けて、ティレは佇立している。
 そのとき、不意にティレは、ざわりと肌が沸き立つのを感じた。
 鼓動が高鳴り、震える空気が耳元にある筈のない声を運んでくる――。

 ――飛べっ!

 ティレは、即座に判断した。
「――」
「おいっ!?」
 男の裏返った声が、虚しく響き渡る。
 それは、とても幻想的な光景だった。
 少女のサンダルが、羽根のような軽さで屋根を蹴る。
 華奢な体はそのまま後ろの虚空へ。広がる外衣が美しくたなびき、燐光がそれらを彩る。
 凍れる世界に舞う姫神のごとく、闇の中に身を投げ出した少女に、次の瞬間、ありえないことが起きた。
 無情なる落下から矮躯を救い上げるは優しい風。まるで巨大な手が現れてその体を抱きかかえたように、少女はふわりと浮かび、足から軽やかに大地に降り立つ。
 あんぐりと口を空けたまま動けぬ男の視線の先、少女は何事もなかったかのように走り出していく。


 ようやく人通りの少ない小道に入って、荒い息をついていると、ついっと淡い光が目の前に下りてきた。
「おいバカ、何やってんだよ!?」
 クロイスであった。半透明の羽根を翻して浮いたまま、彼は眉を吊り上げた。
「お前みたいな生っちょろい奴が何一人でほっつき歩いてんだよ!? つーか屋根なんて上るなっての、危ねえだろーが!? うっかり足でも滑らせたらどーすんだよ!? 全く、俺様が来てやらなかったらどうなってたか……」
 最後はぶつぶつ言いながら腕を組むクロイスである。ようやく息の落ち着いてきたティレは、ぼんやりと妖精を見つめた。男につきまとわれたことへの恐怖はなかった。ただ、今までにないほど走ったためか、頭がうまく働かなかった。
「どうしてここにいるの」
「はっ、分かれよそのくらい!? お前までいなくなったってんで、島は大騒ぎだっての! だからな」
 クロイスは停止すると、猛烈に首を横に振った。
「ちっ、違う! 断じて違うぞ。あ、あれだ。あのイカレ博士が最近静かだからな。ちょっと俺様も都市見物に行こうと思ってだな、そしたら偶然、偶然だぞ!? つまりお前がだな、えーと」
 ティレは忙しない妖精を暫く見つめ、そしてようやく納得したように告げた。
「ありがとう」
「っ」
 ぼん、と湯気が立つ勢いで赤面する妖精に踵を返し、ティレは歩き出そうとした。

 当然のように去ろうとするティレを見て、クロイスは慌てて前に立ちはだかった。
「何処行くんだよ。島は反対だぞ」
 ティレはふるふると首を横に振る。
「探さなきゃ」
「探すって、あの医者の娘をか? やめとけ、都市がどんだけ広いと思ってんだよ。風邪引くっつーの」
「あなたはわたしを探せた」
「そ、そりゃー当たり前だ! 俺様は人間とは違うんだよ。それに心配なのは分かるけどな。お前がわざわざ探す必要なんかないだろ」
 ここは危ないから、帰ろう、と。クロイスは帰り道を指し示す。
 ティレは悩ましげに眉根を寄せて、首を横に振った。
「だめ」
 はっきりとした拒絶に、クロイスは胸騒ぎと苛立ちが混ざった、妙な不快感を覚える。前からこんなにも己の意思を表に出す娘だったろうか。
 ぼんやりとしていた少女の眼差しは今や闇を見通すように光を放ち――。
 とある仮定に思い当たり、全身が産毛立つ衝撃に襲われた。
「お前、まさか、『視た』のか」
「……」
 ティレは口ごもった。そして苦悩するように俯いて目を伏せ、返事の代わりにこくりと頷いた。
「何を視た」
 ティレは顔をあげない。
「ちゃんと言え。何を視たんだ」
「……真っ青な空と」
 言葉が掠れて途切れる。それだけで、クロイスは理解した。このとき、クロイスの頬に浮かんだのは紛れもない恐怖であった。
「嘘だろ。そんなもの、視えるわけがない。よ、妖精にだって視えないんだぞ、空の下に起きる出来事なんて――!」
 ティレは眩暈を覚えたように手を額にやる。殴られたような衝撃が、クロイスの頭を鈍重にしている。未来の空ならまだいい。吉や凶の卦を察するならまだ許せる。
 だが。
「みえる」
 視えてしまう。
「これから起きることが、視える」
 少女の意とはまるで関係なく。
「ひとのざわめき」
 それぞれの今を生きる人々、彼らが生きるが故に世界は成り立つ。
「笑う声。泣く声。ぜんぶが、一緒になって」
 あらゆる出来事を内包して意思を失った、まるで怪物のような世界が。
 少女には、視えている。

「まえにも、わたしは、大事なひとを失う未来を視た」

 少女は紡ぐ。
 悲劇や悪夢、災厄をも紡いだ、呪われたその唇で。

「ほんとうなら、わたしはあのとき、死んでしまうべきだった」

 馬鹿、と叫びたかった。己の命の尊さを、自ら死を望むことの愚かさを、耳を引っ張って言い聞かせてやりたかった。
 なのに、それが出来ない。
 一己の命としての領分を踏み越え、神に等しい力を得た命に、ただの命でしかない己が何を言えるのか。
「けれど死ぬのは、怖い。わたしは、死にたくなかった。わたしは、死ぬこともできなかった」
「やめろ」
 搾り出すような懇願に、けれど少女を救う力はない。
 だというのに少女は、顔をあげる。ぽつぽつと点された松明に、俯いていた白い顔が照らされる。
「頭がはっきりするようになって、なんども、なんども考えた。たぶん、未来は変わらない」
 唇に絶望を乗せながら、少女は己の足で立つ。
 雨を弾く細い四肢。今やけぶる瞳はしかと現実を見据えている。
「でも、もう、そんなのはいや。マリルが死んでしまうのは、いや」
 ただ、己の願いを毅然と告げた。
 立ち竦むクロイスから視線を外し、ティレは尚も祭りの混沌に足を踏み出そうとして、つと止まった。そして、敵の接近を察した小動物のように顔を向け、反対方向にぱっと走り出した。
「お、おい!?」
 ――また『視た』のか。
 クロイスは空恐ろしくなった。精霊は深い自然の中に現れるもので、クロイスでさえこんな街中で彼らの声を聞くなど不可能だ。しかも未来の断片を視ているのだとすれば、どれほど彼女の精神に負荷が掛かっているだろうか。
 もしかすると、彼女の身体に掛けられた呪いを解いたのは、過ちだったかもしれない。少なくとも、こんなに頻繁に未来の出来事が視えてしまうようにはならなかった筈だ。もう一人の妖精のせせら笑う声が聞こえる気がして、クロイスは唇を噛んだ。
「待て、もうよせ!」
 先に曲がり角を折れた少女を追って、妖精は危うく彼女の背中に追突しそうになった。
 夜雨が降り注ぐ裏道は見通しが悪い。そこに、小さな明かりがある。松明だ。
 少女の肩ごしに、松明の下から鼠が散るように黒い影たちが八方に消えていくのが微かに見えた。残された松明の元には、背の高くない、二人の――。
「あれ?」
 雨粒の混じる風にやわらかい神の歌声が響く様は、ただただ、おぞましさを想起させる。
「ねえ、姉さん。あれ、姉さんの友達じゃないかい?」
 初めにこちらに気付いたのは、吟遊詩人の風貌をした少年であった。彼は無邪気に隣の影に話しかける。
 そして、松明を手に光源を作っていた少女が――こちらを、向いた。

「マリル」

 編んで左右に垂らしていた髪が解けて雨に濡れている様が、普段よりひどく大人びた印象を持たせたる。
 それは、ティレのよく知る医女の見習いだ。
 けれど――深海を映し込んだような暗い眼差しに、ティレは一瞬、言葉を失った。
 生気を失った瞳はティレを捉えると僅かに揺れて、驚愕を形作る。そして、怯えたように一歩下がった。ティレに恐怖を感じたのではない。ティレが目の前にいる事実に、少女は怯えているのだ。
「マリル」
 もう一度、ティレはその名を呼ぶ。マリルは反応せず、身を強張らせている。
「びっくりした。こんなところに人がいるなんて。あれ、姉さんの大切なもの?」
 アリラムが軽やかに問うと、マリルは懸命に首を横に振った。
「ちがう、から……」
 憔悴したその声は、答え以上にティレに衝撃を与えた。太陽の下で笑っていた少女とは、まるで別人のようだった。
「ふうん。大切じゃないんだ。じゃあ、いなくなってもいいよね?」
「お、おい」
 クロイスが前に出ようとした瞬間、獣じみた悲鳴があがってそれを留めさせた。
「違う! やめて、お願い。やめて……」
 それがマリルの悲鳴だったのだと、初めは気付かなかった。松明を取り落としたマリルはアリラムの腕に縋りつくようにしてすすり泣く。
「かわいそうに。姉さん、泣いたらだめだよ」
 アリラムは歳長けき女神メデアのように優しくマリルの頭を撫でた。一方、それはまるで死神が鎌の腹で幼子の頬を撫でる様を想起させ、――ティレは、思わず声を張った。
「マリル。そっちはだめ。戻ってきて」
 全身を使っているのに、か細い声にしかならないのがもどかしい。眩暈がして、足がもつれそうになる。昔であれば錫杖で身体を支えていたところだ。だが、今は何もない。ティレは、何も持っていない。それでも、倒れてしまうわけにはいかなかった。
「みんな、待ってるから。マリルを、待ってる」
 しかしマリルは首を振る。落ちた松明がその姿を下から悲愴に照らしている。
「……帰ることは、できません」
「そうだよ。僕たちは姉弟だ、一緒にいて当然じゃないか。姉さん、可愛い姉さん。僕がずっと傍にいるからね」
 微笑みながらマリルを抱くアリラムの眼には捕食者の光が浮いている。その異常な空間に、ティレは身震いする。
「どうして」
 それは悄然と拒絶を告げたマリルと、そして悪魔のように掌を返すこの世界に向けた問いだ。
「マリルはそっちに行きたいって、思ってない」
 マリルは僅かにたじろいだ。しかし、赤く泣きはらした頬に、もう一筋の涙を伝わせて、マリルは笑う。笑って、血を吐くように言う。
「……それでも、この子はマリルの弟なんですよ」
 雨脚が強くなる。心を闇で覆っていく。
「だから、マリルが傍にいてあげないといけないんです」
 嘘だ。それは嘘だ。胸に沸いた思いを、ティレは言葉にしようとした。しかしそれより前に、マリルは告げた。
「さよなら、ティレ」
 その微笑に、もう一つのよく似た影が被る。そのとき、淀んだ光景がぐにゃりと曲がり、何度も目の前が瞬く。
 窓辺で竪琴を手に歌う女。
 甲斐甲斐しく家事を手伝う娘。道化師のように笑う息子。
 その凄絶な旅路。母から引き剥がされた少女。そして、その先に少年が見た――。
 そんな光景が、眩暈がするほどに瞬いて。
「ぁ……」
 彼らの過去を一瞬にして見せられたティレは、剣で貫かれたように制止した。幾万の言葉を尽くしても表せない真実が、彼女の目の前に横たわっていた。マリルの思いも、アリラムの思いも。全てを知ってしまったティレに、どんな言葉が紡げるだろう。
 もしも、ひとつだけ言えるなら。
「……ひどい」
 ぽつりと呟かれた少女の言葉に、アリラムが不思議そうに唇を尖らせた。
「なにがひどいの? なんだか面倒だな。もう、始末しよう」
 墨を噴いたように膨れ上がる殺気が、アリラムを包み込む。マリルが息を呑んで一歩下がる。
「てめぇ――」
 クロイスが怒りを露にした刹那、弾かれたようにマリルが叫んだ。
「待って、アリラム!」
「なに?」
 マリルは一瞬、言葉に詰まった。そして顔を苦渋に歪ませると、擦り切れるような声で続けた。
「……殺すのは、構わないから」
「お、おい!?」
 クロイスが顔色を変えてうろたえる。
「何言ってんだよ、お前、こいつの友達だったんだろ!? なんなんだよそれ、本気でそんなこと――」
 言葉が途中で途切れる。マリルが、クロイスの顔をじっと見つめたのだ。憔悴した瞳の奥に爛々と光るものを見て、クロイスは、怪訝そうに黙り込んだ。
 マリルは悲しげに眼を伏せて、アリラムに顔を向ける。
「でも、せめて苦しまずに。あなたの短剣で、お願い。アリラム」
 ティレは、呆然と立ち尽くしている。
 ひとつひとつの言葉が耳に染む。
 己が願う死を、すぐ傍に感じながら。
「仕方ないな。姉さんの望みなら」
 アリラムは短剣を抜く。闇夜に一瞬だけ光る銀の肌。禍々しい笑みが、アリラムの口角を彩る。
「八つ裂きで許してあげるよ」
 冥府の底から闇が噴き出すように、風がおぞましい唸り声をあげた。短剣を下向きに持ったアリラムが、つかつかと歩を詰めてくる。クロイスが慌てて詠唱を始めたその時、刃と少女の間に駆け込む影があった。
「っ!?」
 全てを薙ぐ風の刃を作り出していたクロイスが、慌ててそれを引っ込める。駆け込んできた影の動きが明らかに素人めいていたからだ。
「こっち!」
 影は素早くティレの手首を掴むと、脱兎のように駆け出した。クロイスはそれを見て留めかけた魔力を全て光として打ち放つ。ろくに制御されていない魔力は、強烈な光を生み出して瞬時に散った。攻撃力は一切ないが、暗い夜道にいたアリラムの目を暫く眩ます程度の効果はある筈だ。その間に、影は何度も都市の横道を曲がり、人気の少ない路地にうち捨てられた台車の影まで来て、ようやく足を止めた。
 影もティレも、暫く呼吸を落ち着かせることに専念しなければならなかった。その間に、クロイスは、まじまじと影の姿を見る。形から男だということは分かったが、顔は暗くてよく分からない。
 ふと、風に乗って聞こえてくる細波の音に気付いた。湖畔の近くまで来ているのだ。

「大丈夫?」
 へたりこんだまま顔をあげないティレに、影は痛ましそうに手を差し伸べる。だが、それまで黙っていたクロイスが割り込んで威嚇するように手をかざした。
「触るな。てめぇ、何者なんだよ」
 男は渋々手を下ろす。瞬時に魔力を放つ妖精族の力を知っているらしい。
「おい。なんとか言えよ」
 クロイスは羽根をぴんと張って凄んだ。背後のティレは一連の出来事に相当の衝撃を受けている筈だ。早く様子を確かめてやりたいのに、正体の知れない男がいることで、それが出来ないのがもどかしい。
「……この都市には、もうすぐ、とても悪いことが起きる」
 男はまるでクロイスなど眼中にないかのように言った。
「でも、君だけは僕が守る。あいつらの好きにはさせない。だから安心していて」
 その穏やかな声音を、クロイスはどこかで聞いたことがある気がした。しかし口元を外衣で覆っているのか、篭った声はその正体を隠してしまう。
「もう少し待っていて。きっと迎えに来るから」
 男は愛おしげに告げると、踵を返して行ってしまう。
「待てよ!」
 相手にされなかったことが悔しくて、クロイスは男の背中に呼びかけた。しかし座り込んだティレを夜道に置いて追うこともできない。
「――誰もが強い者じゃないんだ。だから僕は君を守る」
 男の後姿は、そう呟くと沈み込むように闇の中へと消えていった。

 少女は、頬に涙を伝わせ、ただ呆然としている。




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