-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>10話:岸辺に眠る神の歌

02.大切なもの



 切り立った崖を積み重ねたような外貌の灯台島は、連日の祭りに忙しい都市とは違い、ゆったりとした時間が流れる中にある。
 ぽてぽてと丸い体を揺らせて粗末な家屋の前に辿り付いた少年は、やや不安げに呼び鈴代わりの紐を引っ張った。すると上部に取り付けられた金属がカラカラと音を立て、暫くすると簾が開く。
 ごくりと息を呑む少年の前に現れたのは、医女の卵であるマリルであった。
「ペペス君じゃないですか。今日はどうしました?」
「――あ」
 ポマス博士の助手を務める奴隷ペペスは、ほっとしたように胸を撫で下ろす。ここの診療所でマリルが出迎えてくれるのは『当たり』なのである。もう一名が出てきた場合、――ペペスは死を覚悟せねばならない。
「良かったぁ」
「なにが良かったのさね?」
「ひう!?」
 ペペスはマリルの背後からぬっと顔を出した背の高い女性を見て悲鳴をあげた。日に焼けた肌にそっけなく垂れる長い髪――この診療所の主である医女ミモルザである。その氷のような眼差したるや、見つめるだけで人を石に変えたという怪女ドルドラを思わせる。
 卒倒寸前の助手を見かねたのか、マリルが苦笑しながら頭を撫でてくれた。
「入ってください。ちょうど休憩してたとこなんですよ」
 島に一つしかない診療所は、壁の一面が棚になっており、それぞれ薬剤がぎっしりと詰まっている。煉瓦作りの炉ではやかんが滾っており、室内は医院特有の不思議な香りが立ち込めていた。
 そしてそこにいた面々を見て、ペペスは目を丸くした。
「おお、博士んとこのチビさんか。ようきた、ようきた」
 木箱に腰掛け、薬湯を片手に何故か涙を拭いている島長ダールと、その隣にちょこんと座るティレ。きっと島長は腰の薬を貰いに来たのだろう。ティレは近頃診療所やクレーゼの邸宅をよく訪れている。けれど、彼らの反対側に座って会釈する吟遊詩人の風貌をした少年は、見たことがなかった。ペペスは、その顔がマリルにそっくりなのを見てどきりとした。
 すると、すぐにマリルが察して、はにかみながら紹介してくれる。
「弟のアリラムーンです。ヴェルスに来ていたところに偶然会ったんですよ」
「何年も生き別れだったんじゃろう、なんと痛ましい話だろうて」
 アリラムの身の上を聞いていたらしい島長は、わっと咽び泣いた。ティレがよしよしとその背をさすっている。
「そんな風に思ってもらえて嬉しいな。はじめまして、アリラムです」
 丁寧に頭を下げるアリラムに、姉であるマリルの方が面映そうに俯きながら紹介を続ける。
「え、えっと。この子は灯台島に住んでる博士の、えーと、ポパペパラメラス博士の助手で、ペペペラペラス」
「マリルよ、少し違うぞ。あーっと、ポペラパプパペ博士の助手の、ペルペル……」
「あのぅ、ポペラユプポピュポマルス博士の弟子のパルペラパスペペスです」
「ポマス博士のとこのペペス、それでいいよ。全く、騒がしいったらありゃしない」
 不毛な会話に嫌気が差した様子でミモルザが髪をかきあげる。
「それで、用件は?」
 さっさと出て行け、といわんばかりの眼光を向けられて、ペペスは飛び上がった。
「あ、は、はい! そのぅ、薬草を分けて貰いたいのですが」
 恐る恐る差し出した紙片をぱっと取り上げると、ミモルザは眉を不穏に吊り上げる。
「レーメラの葉……? 切らしているかもしれないね」
 ふとアリラムが顔をあげる。薬棚を探し始めるミモルザの横で、マリルも薬湯をペペスに差し出してやりながら首を傾げた。
「奥の方にちょっと残ってたと思いますけど。珍しいものが入用なんですね?」
「珍しいんですか?」
 ありがたく薬湯を貰いながら、ペペスは不安げに尋ねた。
「はい。北の方の草ですから、この辺じゃとれないですし。そういえば最近は市場でも見ませんね」
「薬草が買えないって……姉さんは困っていないのかい?」
 アリラムが問うと、マリルは首を横に振った。
「レーメラの葉は傷口に塗ると治りが早くなる薬草ですが、他の薬草で代用できますし。それにしても、ポマス博士は怪我でもされたんですか?」
「いえ、研究に使うとかで……」
「そういや、妙に島が静かになったと思ったら、近頃とんと見かけなくなったもんじゃな、あの博士」
「ええ。槍使いのお兄さんに変な巻物を渡されてから、ずっと研究室に篭りっぱなしなんです」
 ペペスは溜息をつきながら薬湯をすすった。先日まで妖精を追い回していた博士だが、今や食事も睡眠も忘れて謎の実験に明け暮れているのである。
 そのとき、小さな麻袋が横面にぶち当たってペペスは鞠玉のように転がった。
「一束だけ残ってたよ、さっさと出ていきな」
「う、うぅ、ありがとうございます」
 涙ながらに代金を渡すペペスである。ミモルザはギロリと島長をも睨み付けた。
「あんたらもいつまで居座るつもりだい。ここは集会場じゃないんだ、その腰二度と使えないようにしてやろうか」
 薬湯を飲んでいた島長は悠長に笑った。
「爺はお主のそういう冷たいところが好きじゃ」
「出てけ」
 一同は診療所から蹴り出された。
「……なんだか不思議なところだね、姉さん」
「呑気に言ってる場合じゃないです! 大丈夫ですかー!?」
 マリルが慌てて外に出ると、カラカラと笑う島長と、何事もなかったかのようにむくりと起き上がるティレ、転がって岩に激突しながらも苦笑して起き上がるペペス。なんというか、皆強かであった。
「あ、あのぅ」
「うん?」
 マリルに伴って外に出たアリラムに、ペペスはもじもじしながら話しかけた。
「えっと、そのぅ。……その格好、詩人さんですよね」
 ペペスはそこまで言うと、意を決したように鼻を膨らませた。
「あの! い、一曲歌ってもらえませんか!? ボク、歌を聴くのが好きで……」
 アリラムは瞬いた目を細めて笑った。
「なんだ、お安い御用だよ。姉さんの知り合いなら特にね」
 そう言って竪琴を取り出してみせる。すると島長も嬉しそうに手を叩いて同意した。
「良いぞ! マリルの弟だったらまた素晴らしい歌声じゃろうて!」
 アリラムは、驚いたようにマリルを見た。
「姉さんも歌ってるの?」
「えっ」
 ぼん、と頬を赤く染めるマリルである。島長は杖を振りながら何度も頷いた。
「そうとも。毎年の拝送祭もマリルに歌ってもらっているのじゃ」
「はいそうさい」
 それまで黙っていたティレが繰り返す。拝送祭とは、数日後に行われる豊穣の女神ヴェーラメーラに関わり深い祭事であるのだ。
 ヴェーラメーラの娘である輝く風の女神ウェルセネラは冥界の神に見初められ、冥界に連れ去られたことがある。だが母なる豊穣の女神ヴェーラメーラが怒り狂い、地上の実りを止めてしまった。この怒りを鎮めるため、ウェルセネラは冥王の妃となりながら、一年の内の四分の三を母の元で過ごすよう天神が取り成したのだ。ウェルセネラが冥界に下りる期間はヴェーラメーラが悲しみに沈むため、実りが止まる冬になったのである。
 拝送祭とは一年に一度、風の女神が冥界に下るとされる日に執り行われる祭事である。この日の人々は、しめやかにウェルセネラを地下に送り、嘆くヴェーラメーラを慰め、冬の厳しさが和らぐよう祈るのだ。その為、拝送祭は他の祭りとは違って厳粛に執り行われる。
「なにを歌うの?」
「都市の方で式典の最後に、鐘が三度鳴らされるんじゃがの。その後、この島ではマリルに慰めの歌を歌って貰って、式典の代わりとするんじゃ。こんな島じゃ、ちゃんとした儀式はできんからな」
「だから岬であんなに歌の練習をしてるんですね、ボク、いつも聞き入っちゃってます」
「きっ、聞こえてたんですか!?」
 マリルは頬に手をやってあわあわと後ずさる。嬉しそうに破顔したのはアリラムだ。
「そうか……姉さんが」
 目蓋を閉じて、軽くその目尻を指で拭う。そしてアリラムは、弦に指をかけながら、声を明るくした。
「じゃあ姉さん、一緒に歌おうよ」
「え、えっ!?」
 ぽろぽろと、竪琴から繊細な音が紡がれる。慌てるマリルの隣に立って、アリラムは優しく微笑んだ。
「大丈夫、姉さんも知ってる歌だよ」
 単音が和音に変わり、流れるような音の連なりとなる。マリルはその旋律を耳にして、雷に打たれたように硬直した。
『母さまの、歌だ……』
 窓辺で母が繰り返し練習していた、光溢れる天界を優美に歌う歌。母が最も得意とした歌でもある。そして、その歌によって母は父の心を虜にしたのだと――。
 アリラムは詩人の作法に則り、七人の詩歌女神たちの賛歌を前奏に合わせて歌い加護を乞う。子供の面影を残した、優しく胸に残る歌声だ。それは過去の記憶に被って心の底を震わせて、マリルは胸に手を当てた。自然と旋律が唇をついて流れ出す。
 それまで一度たりとも共に歌ったことのない二人の歌い出しは、まさに同時。まるで運命の双子が出会ったかのように重なった。二人の歌声は自然と調和し、流れるごとに高みへと紡ぎ上げられていく。


 風と共に来たりし者よ 楽園に足を踏み入れし者よ

 テオと共に踊り給え
 ルナと共に踊り給え
 テオと共に踊り給え
 ルナと共に踊り給え

 神と共に踊り給え
 我が膝に来たりて踊り給え


『……気持ちいい』
 歌いながら、マリルは恐ろしいほどの一体感に身を震わせていた。重ねて欲しいところで音は重なり、追ってほしいところで歌声は追いかけてくる。まるで弟と体まで共有してしまったかのようだ。
 不思議な気分だった。母に棄てられて、奴隷となった後、マリルは運良くクレーゼに助けられた。反抗的なマリルを鞭打つ奴隷商人の姿を見たクレーゼは、あまりのマリルの泣きように見かねて奴隷商人から買い取ってくれたのだ。それからは島の人々に囲まれて、マリルはゆっくりと人の心を取り戻していった。けれど、今日のような、同化するほどの調和を得たことはない。
 先ほどまではしゃいでいたペペスは今や心を奪われ呆然と聞き入っており、島長もその神さびた歌の素晴らしさに声も出ない。室内のミモルザでさえ、手を止めてそっと耳を傾ける。風の女神すら恥じらう見事な旋律を目の当たりにして――。
「ティレっ?」
 歌が終わろうとするそのとき、突然視界が暗く覆われた。最後の旋律が途切れる。ティレが飛び込んできたのだと気付いた頃には、マリルは後ろに尻餅をついていた。驚いて立ち上がろうとしても、ティレはマリルの背に手を回してしがみついてくる。
「ティレ、どう――」
「行っちゃ駄目」
 それは、マリルにしか聞こえないほどに小さな囁きだった。しかしまるで胸に太い針を刺されたようで、マリルは目を見開いた。
 触れた部分からティレの体温が伝わってくる。その肩が僅かに震えていることに気付いて、言いようのない困惑と不安が胸にせり上がった。たった今、自分は途方もない幸福感の内にあった――否。自分はただ弟と共に歌っただけだ。なのに、どうして。
 どうして今になって、この腕はティレの体を抱きしめ返しているのだろう。
「姉さん、大丈夫?」
 振り仰ぐと、そこに弟の心配げな顔。心臓がどくりと鳴って、しかしその意味が分からず、マリルは何度も目を瞬いた。
「うん……」
 何も恐れることなどないはず。自分は十分に幸せだ。
 必死でそう言い聞かせようとする自身に気付き、しかしマリルはまだその意味を理解できなかった。


 ***


 マリルは夕餉の後も、炉の火を消さずに部屋を暖めていた。日に日に気温が下がっていく季節なのだ。それに、何よりも、そうしなければ震えが止まらない気がしていた。怖いような、嬉しいような、入り混じった感情を持て余し、マリルは揺らめく炎を瞳に映している。もしかすると、こんなにも全てがうまく進んで良いのかと、心が怯えているのかもしれない。
 と、肩に柔らかい布が被さった。
「姉さん、寒いでしょう」
 振り向くと、アリラムの慈愛に満ちた眼差しがある。被せてもらったアリラムの外衣は風の香りを吸い込んでおり、マリルは目を伏せる。そして反省した。こんな風に接してくれる弟を、どうして怖がる必要があるのだろうか。
「うん。ありがとう」
 くす、とアリラムは悪戯っぽく笑った。
「姉さんたら、二人きりのときだけその口調になってくれるんだね」
「えっ」
「他の人たちの前だと、とっても丁寧に話すんだ。姉さんは」
 動揺するマリルの隣に腰掛け、アリラムは診療所の天井を見上げる。二人の影が大きく映り、ゆらゆらと揺らめいている。
「……姉さんはどうして医女を目指しているの?」
 今日の朝、アリラムを診療所に連れてきたとき、ミモルザも驚いていたが、アリラムの驚きようはそれ以上であった。尤もな反応だろうとマリルは思う。母と一緒にいた頃の自分にこの未来を教えたら、きっとアリラムと同じ反応を示すだろうから。
 マリルは息をついて、被せられた外衣を胸に寄せた。理由を言うのは、多少の恥じらいを伴った。
「この島に来て、暫くは島長さんの家に住んでいたんだけど。ある日、別の子が居候しに来てね。……その子と喧嘩して、家出したの」
「姉さんが?」
 アリラムの声が初めて引っくり返る。マリルは思わず笑ってしまった。
「そう。でもね、段々空が暗くなって、島長さんの呼ぶ声が何度も聞こえて、でも返事をしたくなくて。そしたら、土砂降りになってね。だから一番近い家の勝手口の影で蹲って、眠ってしまった。あのままだったら、酷い風邪を引いていたと思う。でも、朝起きてみたら、――この診療所の中だった」
「拾ってもらったんだ。あのミモルザという医女は恩人なんだね」
「……うん」
 マリルはこくんと頷いた。
「こんなところで女の人が一人で働いていて、すごいなって。こんな風に強くなれたらなって……」
 不意に切なさを覚えて、マリルは僅かに頬を歪める。その意味は自覚される前に、アリラムの唇から紡がれた。
「姉さん。姉さんは僕と一緒には来られない?」
 隣に顔を向けると、真剣な眼差しとぶつかる。長い旅を続けた者特有の、土と風の香りがする。無性に、泣き出してしまいたくなる。
 それは、心のどこかで予期していた問いであった。弟に再会し、胸につかえていた最後の淀みを取り払うことができたことは神に感謝したい。けれど、とマリルは眉を下げる。
「うん。……ここには、大切なものがあるから」
 壊れた心を抱えて迷い込んだ少女を、この島とこの診療所は、何も言わずに受け止めてくれた。ミモルザも、島長夫妻も、他の人々も、傷を慰めるわけでなく、ただ傍にいてくれた。それがどれほどの慰めになったか。だからマリルは彼らに恩を返したいと思う。
「アリラム。あなたは旅を続けて。マリルは、……わたしは、ここで待ってるから」
「姉さん」
 アリラムは寂しげに姉を呼ぶ。はぜる火が、その影を深く落としている。
「姉さん、僕はね……」
 そのとき、木戸が軋む音がした。顔を向けると、ミモルザが外界の闇から戻ってきたところであった。
「おかえりなさい、ミモさん」
 マリルは立ち上がってミモルザが脱いだ外衣を受け取る。そして、言いにくそうに眉を下げた。
「その、どうでしたか」
 ミモルザは首を横に振る。彼女は夕暮れ時からカリィの家に行っていたのだ。
 ミモルザは、あの日から毎日のようにカリィの家に通っていた。マリルも初めの頃は付き添ったが、エルを失った直後のカリィは、目も当てられない様子であった。勝気で男勝りであった顔は見る影もなく、激しく慟哭したかと思えば、生気を失ったように呆然とし、仲の良かったマリルやミモルザに心ない言葉をわめき散らした。エルの後を追おうとして、ミモルザに止められたことも一度や二度ではない。
 しかしミモルザはカリィを見捨てなかった。日々欠かさず彼女の元へ通うその胆力は驚嘆に値するとマリルは思う。ミモルザにとって唯一の友人であったカリィの変貌は、きっとミモルザの胸を酷く痛めつけただろうに。カリィも心配だったが、ミモルザの心も同じくらいに心配だった。
 だがミモルザは普段と変わらぬ不機嫌そうな顔つきを薬剤置き場に向ける。
「今日干した分の仕分けは?」
「あっ!」
 頼まれていた仕事を失念していたことにマリルは飛び上がる。慌てて土間に向かう少女を一瞥して鼻を鳴らすと、ミモルザは薬湯をこしらえようと炉に足を向けた。
「手伝います」
 すぐにアリラムが如才なく立ち上がり、壷の蓋を開いて中身を確認する。
「少し水を足した方がいいですね」
 脇の布を取っ手に絡ませ、水桶まで運ぶ弟の甲斐甲斐しさがくすぐったくて、マリルは作業に取り掛かりながら口元を緩ませた。ミモルザは手持ち無沙汰になってしまったようで、マリルが腰掛けていたところで炎を眺めている。
 からからに乾いた薬草を一束ずつ紐で結わえながら、マリルはこんな日々も悪くないかもしれないと思った。ミモルザと、自分と、偶に帰ってくるアリラムと――。
 流れる時間に身を任せ、蕩けるような思考に沈んでいたマリルに、異変は突然襲い掛かった。
 陶器の器が割れる音。二人に背を向けて仕分けに勤しんでいたマリルは、それをアリラムが壷か何かを落としてしまったのかと思った。振り向いた彼女は、反射的にのけぞることになる。ミモルザが髪を振り乱して掴みかかってきたのだ。否。彼女の手が狙ったのはマリルの向こうにある薬棚だ。
 いくつもの引き出しが弾けるように落ちて、掴み取ったものにミモルザは獣のように噛み付いた。途端、雷に打たれたように停止し、どさりと崩れ落ちる。
「――」
 何が起きているのか分からなかった。口の端から泡を吹き、四肢を痙攣させるミモルザの顔がみるみる青褪めていく。無意識に、悲鳴のように師の名前を呼んでいた。
「ミモさん!!」
 縋りつくと、ミモルザは焦点の定まらない瞳を、一度だけ悔しそうに細めた。その手足が萎え、みるみる生気を失っていく。嘘だ嘘だ嘘だ。狂乱の内にもう一度名を呼ぼうとしたとき、軽口のような声音が背後から聞こえた。
「ふうん。トランの葉か。解毒剤をすぐに当てるなんて、さすがお医者さんだね。でも間に合ったのかな?」
 世界が、ぷつりと途切れる音を――マリルは耳にした。
 それはあまりに平素と変わらぬ、我が血を分けた少年の声。
 滲んで歪む視界を、マリルは後ろに向ける。
 少年は天使のように微笑んでいる。その足元に、薬湯の器が割れて中身が散乱している。何が起きた? 何故彼は笑っている? 頭では分かっている。けれど理解を拒む。炉で壷が滾り、湯気を上げている。ゆらゆら、ゆらゆら。
「……ぁ、あ」
 少年は充足感に満ちた表情で手を差し伸べた。
「ほら、姉さんの大事な人はもういなくなったよ」
 体が熱いのに冷たい。血のように涙が溢れる。どう感情を表現していいのか分からない。
「素敵な顔だ。姉さん」
 少年は笑う。絶望を喰らい、嬉しそうに笑う。
「僕と一緒に行こう」
 手を差し伸べたまま、一歩、更に一歩と近付くその恐怖を、どうして受け入れることが出来ようか。
 数秒の制止は、まるで永遠。
 マリルは、俯き、唇を噛み締めた。激しい眩暈と吐き気に、全身が痺れたようだった。
 マリルは悟ってしまう。否、心の何処かでは悟っていた。自分が負ってしまった歪み、怒り、嘆き。それはきっと、自分だけのものではなかった。弟の慈愛の違和感。そこに予感があったから、自分はこんなにも震えていたのだ。
 これは、紛れもなくあの物語の続きだ。そう、病んだ母と無知な弟。そこから『逃げ出すことのできた』自分に罰として与えられた――。


 ああ。
 わたしは、逃げ出せない。


 溢れた涙が、ぱたりと床に落ちた。


 ***


 自らが覚醒したことにすら気付かずに、ティレは呆然としている。
 人形のように上体を起こして、窓の向こうを見つめたまま静止する。風の音しかない夜闇の世界に、さわさわと耳元で声がする。ぼんやりと燐光が浮かび、世界が飴細工のように形を変えていく。耳元の声は次第に無数の虫が羽ばたく音に変わり、少女の細腕は恐怖によだつ。しかし彼女を苛む音は止まない。――いつだって、世界は待ってくれない。
「……嫌」
 唇が呟く。風に揺らめく窓の簾の向こう。闇の奥底にあるものが視るな視てはいけない駄目だ駄目だ駄目だ――!

 褐色の瞳がみるみる虹色の光彩を放ち、輝く銀板に未来を視る。
 瞬きをするたびに変化する世界はまるで万華鏡。果てない蒼穹、疾駆する世界。凄まじい速度で駆け抜ける、馬の嘶き、乱れる馬脚、投げ出される細い四肢、飛び散る血潮、古い煉瓦色をした髪が散らばって、世界が回る回る壊れて回る。

 胸を矢に貫かれた友が、目の前にどさりと倒れて。
 それが、ゆるゆると医女の卵であった少女の姿へ変容していく。

 ――喉の奥から絶叫が迸る。

「ティレ!?」
 異変に気付いて目覚めた恋人は、すぐにその意味を知って掻き抱こうとする。その手をすり抜けて、裸足のままで外へ飛び出す。視界が暗いのに、世界が視える。ざわざわと鳴動する風に乗って、灯りの消えた島の診療所へ。

 手を伸ばすのに届かない。行っては駄目。叫ぶのに届かない。
 ああ、分かっている。彼女はもう小船に乗った。はらはらと泣きながら、悲劇に向けて歩き出してしまった。
 世界は、それをもう『決めてしまった』。

「――ぁ、」
 嘘だ、と唇が呟いて。
 開いた簾の向こう。消えかけた炉の微かな灯に、散乱した陶器と倒れた医女の影。
 しかし太陽のように笑う少女の姿は、残り香さえも残っていなかった。




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