-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>10話:岸辺に眠る神の歌

01.蝕む闇



 闇立ち込める地下に君臨する黒き御手の冥王が、ある晴れた日に恋をした。
 暗闇の深きより、彼は美しく輝く風の娘、その歌声と朗らかな舞に心を奪われた。
 彼は己の手が死者を抱くためにあるものと知っていて
 己の存在が災禍と絶望を司るものと知っていて
 それで尚、想いを留めることが出来ずに
 冥府より立ち居で、風の娘をその手に抱くと、闇夜の世界に連れ去ってしまった。

 娘の母、結髪美々しき豊饒の女神は怒りに狂い
 実りを止め、地を荒らし、恐るべき災厄で世を覆った。


 -黄金の庭に告ぐ-
 10話:海辺に眠る神の歌


 ***


 古びた竪琴を爪弾くは細い指先。繊細な和音が心をほぐすように流れるまどろみの世界。
 耳に染むのは、心を労わりで包み込むような歌声だ。
 同じ箇所を何度も繰り返し、時々それを途切れさせ、また思い出したように歌いだす。

 母は、ある街の歌姫だった。
 街が明るい内は、母は白い窓辺で歌の稽古に励む。稽古であるから、一曲を通して聞くことは滅多にできない。しかし娘である少女は、それを傍で聞くのが好きだった。
 今は遠い、蜂蜜色の記憶だ。母は空に翳りが見え始める頃に、竪琴を手に家を出ていく。帰りは遅く、夜明けになることもある。物心ついた頃から、少女は弟の世話をして待つのが常であった。
 けれどそれが世界の全てあった子供たちにとって、何ら疑問を抱く余地はなく。
 ――父がいなかったことでさえ、母から聞かされるまで、疑問に思うことすらなかった。

 月日が巡り、母はぽつぽつと娘に漏らすようになる。
 ほとんど覚えていないが、父は身分の高い者だったのだと思う。母は心を尽くして父を賛美し、父との約束を何度も語り聞かせた。
 涙ながらに母は語る。
 いつかきっと迎えに来てくれる。
 いつかきっと皆で暮せるときがくる。
 もっと広く、大理石の壁の、暖かい家で。数多の奴隷に囲まれて、陽の当たる場所で歌を歌える、そんなときがくる。
 その話を娘である自分だけに聞かせたのは、同姓であるが故に自らの姿を鏡として映し出していたのだろうか。
 そう、母はまるで楽園を語ることで、自らが生きる糧を得るように、悲しい祈りを娘にだけ物語ったのだ。
 弟は、何も知らず、無邪気に遊んでいた。

 そしてあくる日、見知らぬ男が連れ立って母を訪ねる。
 後ろから見た母の背中は、支えを失ったかのようにふらりと揺れて、あとは悪夢だった。


 逃亡時代の出来事は、全てが灰色だ。
 故郷を追い出され、泣きながら歩く母は見ているだけで悲しくて。元気付けようと、明るい言葉をかけて、母に教わった歌を歌い、旅の瑣事を自ら進んでこなした。
 知能の発達が遅れた幼い弟は状況を理解しておらず、ちょっとした冒険に出かけた気分でけらけらと笑っている。
 都市から都市へ。母は酒場で歌を歌い、ようやく日々の糧を得る。自分は弟の世話や、酒場の手伝いをして母を助ける。しかし心が不安定な母は、長年の疲れから癇癪を起こしやすくなり、ひとつの場所にいられる期間は長くなかった。
 悪い噂が広まれば、別の都市へ。灯火を紡ぐように、親子は終わりのない旅を続ける。
 徒労感に膿み始める心から必死で目を背け、少女は己を強く持って母を助ける。病んだ母と無知な弟。自分が守らねば、誰がその弱い者たちを守るのか。
 しかし広き天に君臨する神々は、まるで少女の運命を蝕んで嘲笑うかのよう。
 広き帝国の西方の小さな農村。そこで男に騙された母は、その身で購うことの出来ぬ借金を負わされた。少女が気付いた時には、全てが遅かった。泣き崩れる母を抱きしめて、呆然とする。
 縋るものを求める母の心は知っていたのに、何故気付けなかったのか。
 ただ生きる金を稼ぐために必死で働いているだけでは、大切なものを守ることにならないのだと――気付いたときには、悪魔はもうそこで微笑んでいる。
 ぎしぎしと心が軋む。
 貧しい生活に晒され、発育の遅れた弟は、道化師めいた無機質な眼差しでこちらを見ている。
 恐怖と、絶望と、そして言葉にしてはいけない、けれど耐え難い感情が、少女の心を満たそうとしたその瞬間。
 隠れていた倉庫の扉が開き、男が姿を現す。
 男は言う。借金はなかったことにしてあげよう、ただし――。


 子供のどちらかを、ここに置いていけ、と。


 母は呆然と目を見開いている。子供の奴隷には良い値がつくのだ。貴族の子供に与えれば遊び相手になるし、美しく着飾らせれば観賞用に、教育を施せば労働用に。そして同じくらいにおぞましい仕事も、この世界にはいくつだってある。
 心臓が激しく波打ち、喉が引きつって、母を呼ぶ声ですら出なかった。そして縋るように母を見た。子を奪われかけた母が憤怒に燃え、男に喰ってかかるその姿を――それは破滅的な光景ではあったが、少女はそれを確かに期待した。

 しかし母は、まるで空洞のような眼差しで。
 自らの子供たちを、交互に見る。

 そして、竪琴を爪弾く白く細く美しい手が、自分の背にやられて。
 弟は母の反対側の腕に隠されていて、正しく生きたはずの自分が虚空に投げやられた。
 どうして、と掠れたそれは声にすらならず。
 振り向いたそのとき、弟と目が合った。
 無邪気にきょとんとこちらを見つめている弟の瞳。
 寄るべき柱を失い、鋼の心を弾け飛ばせた少女は狂乱に心を黒く染め上げる。
 少女は自問する。少女は自覚する。少女は自責する。
 わたしが――。

「いや」

 わたしがこんな愚鈍な者に劣っているというのか。
 だから母に見放されたのか。
 そこで何もせずとも母に守られている、ああ、誰よりも狂おしく汚らわしく憎たらしい――。
 そんなもののために、わたしは。

「この子を」
「嫌、嫌ぁあっ!」


 どうして。
 どうして。


 ***


 振り上げた憎しみの刃は、月光に浮かぶ少年の首元へ。
 この少年があの時突き出されていれば、母は自分だけを見てくれた。地獄を彷徨わずに住んだ。母と一緒にいられた。あんな恐ろしい思いをせずに済んだ。――わたしの愛は報われた。
 意図的に忘れ、封じていた憎悪は、まるで黒い茨のように少女の腕を操った。震える右手を左手で握りしめ、心の命ずるままに腕を振り下ろす。
 翼持つ復讐の女神が哄笑する。その笑い声に誘われるように、否、違う。その笑い声はきっと自分のもので――。

「ねえさん」

 はっと、息を呑む。
 月光を浴びて浮かび上がる無垢な瞳。
 全身が凍りつき、少女は、同じ顔の少年と見つめあう。
「……」
 何もかもが停止している。
 けれど少年は目前の刃にさして驚いた風もなく。
 ――まるでそうなると知っていたように、目蓋を閉じた。
「いいよ。当然の報いだ」
 顎をあげ、美しい喉を月夜に差し出す。
「姉さんは、僕が憎いんだよね」
 囁く甘い声。母に似ている。強く握り締めていた刃の切っ先が、震えだす。掌の痛みが感覚として戻ってくる。
 少年は、涙を浮かべながら、ふんわりと笑う。
「わかってる。だから、いいよ」
「……ぁ」
 ぽたぽたと涙が薄い掛布に落ちた。
 何をすることも出来なかった弟だった。知能の発育が遅れ、まともに喋ることも――己の喜怒哀楽すら表現できない弟だった。けれど、自分の代わりに全てを得た。そう思っていた。
 それが、長旅の風雨に吹き晒された顔をして、古びた衣服をまとい、疲れた四肢を粗末な臥床に横たえ、そして唯一の持ち物である命を、笑って差し出すのだ。
「……う、あ」
 悲鳴にならない呻き声が、喉の奥から搾り出される。
「め……な、さ」
 木の葉に隠されていた陽光が不意に一筋、森の深くに差し込むように。少女の胸に去来する、柔らかい掌の感触。二度と得られないと思っていた温もり。笑って手を差し伸べてくれた人が、少女にはいる。なのに、どうして、こんなことをしているのだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
 溢れる涙を両手で覆う。恐ろしい夢から醒めた童女のように背を丸め、震えながら謝罪の言葉を口にする。
「マリルーナ、マリル姉さん」
 アリラムは体を起こすと、泣きじゃくる姉の指からそっと刃を抜き取り、そして姉を包み込むように抱きしめた。マリルは崩れ落ちるように弟に縋りつく。
「ごめんなさい……あなたは何も悪くないのに、こんな酷いこと……!」
「いいんだよ」
 一度腕に力を込め、体を離すと、濡れたマリルの頬を指で拭ってやり、アリラムはその額に口付けをする。まるで、母が娘にするように。
「僕は姉さんにまた会えた。それだけで幸せなんだ。満足なんだよ。姉さんはずっと大変だったんだよね。姉さんの方が苦しかったはずだ。そうでしょう?」
 マリルは否定することが出来なかった。その己の心の弱さに、そして弟の優しさに、マリルはただ嗚咽する。
 アリラムは慈愛の微笑みを浮かべ、やわらかく姉の髪を撫でた。
「姉さん、これからは、ずっと一緒だ」
「アリラム……」
 弟の服の裾を掴んだまま、マリルはぎゅっと目を閉じた。熱い感情が、滾々と胸から湧き出してくる。けれど、それはもう憎悪ではなかった。
 母さま、とマリルは口の中で呟いた。記憶の中の母は、竪琴の調べに乗せて優しい歌声を紡いでいる。
 神々の加護は、マリルの手の平には下りてこなかった。母がどうして弟ではなく自分を捨てたのか、今となっては闇の中。けれど、代わりに残った一筋の光はこんなにも温かい。
 この光を二度と手放すものかと、マリルは嗚咽の中で胸に誓うのだった。


 ***


 ベルナーデ家当主ギルグランスは、早朝から巻物にしたためられた内容を真剣な眼差しで検めていた。
 それは本国首都ファルダの、ギルグランスの娘が留め置かれている貴族家より齎された書簡である。ギルグランスはこの貴族家へ、縁者であるティシュメの貴族テリウスの口添えで、娘を故郷に返すよう嘆願したのだ。その返答文に頻出する単語を繋ぎ合わせると、こんな感じであった。

『至急』『一刻も早く』『可及的速やかに』『この恐ろ……いや、淑やかな』『令嬢を』『御許へお返しします』『返させてください』

「……娘は一体何をしたのだ?」
 怪訝そうに呟くギルグランスの後ろで、セーヴェは力なく首を振るのであった。
 ともあれ、娘はすぐにでも本国を発つとのことだ。年内には間に合わないだろうが、春になる前にはヴェルスに到着できるだろう。ギルグランスを田舎に押し込めるために連れ去られ、長年に渡って手紙すら送ることの出来なかった娘である。行動の自由を取り戻せたのは勿論、唯一血の繋がった娘に数年ぶりに再会できると思うと、――ギルグランスはそっと目頭を押さえた。
「ギルグランス様、お取り込み中恐縮ですが」
「なんだ。私は感傷に浸っているのだ、放っておけ」
「そうも言っていられませぬゆえ」
「うむ?」
 どかっ、と巻物が目の前の卓にうず高く積まれ、ギルグランスはぎくりと肩を跳ね上げた。
「執務の方も進めていただかなくては」
 にこやかに蝋版と木筆を手にするセーヴェと、積まれた巻物の圧倒的な威容に、名望高きベルナーデ家当主は宿題を突きつけられた子供のようにいやいやと首を振った。
「こ、これを全て片付けろと!?」
「いいえ。これで半分です」
「半分!?」
 祭事の多い秋は神祇官長を務めるギルグランスにとって多忙を極める上、とうとう来年の二人官として正式にギルグランスが推薦されたのである。都市の最高決定権を持つ二人官は都市議会の審議の上で推薦されるため、来年の就任は確定も同然だが、便宜上選挙も存在するため気が抜けない。昨晩もギルグランスは宴のあと深夜までセーヴェに愚痴りながら書類処理に明け暮れ、今朝も朝食を取りがてらようやく本国からの手紙に目を通したところなのだ。
「冗談ではないぞ! 貴様は私を殺す気か?」
「滅相もございません。旦那様におかれては昨日の狩猟祭で十分羽根を伸ばされましたでしょう、それに仕事を放り出してトランヴェード様に弱みを付け込まれても面白くありますまい」
「ええい、奴の名前を出すな。忌々しいッ」
 ギルグランスはぷいと顔を背けた。二人官とは文字通り二人の人間が指名される役職であるが、来年の二人官でギルグランスと共に推挙されたのは禿頭の当主トランヴェードであったのだ。
 二人の仲の悪さはヴェルスでも有名であり、四丁目の床屋のオヤジは二人についてこう語る。
『二人は伴侶、三人は仲間割れっていうけどさ、ありゃあ二人でも仲間割れだね。どっちも盗賊団の頭領みたいな顔して我が強いからなァ』
 ギルグランスの予定では二人官の相方にはもう少し御しやすい貴族をつけるつもりだったのだ。だが、破竹の勢いで改革を進めるギルグランスに不信感を抱く一部の貴族によって、あの堅苦しい当主を推挙されてしまったのだ。ギルグランスにとっては誤算もいいところなのであった。


「やれやれ、朝から賑やかだねえ」
 ベルナーデ家の中庭に配下たちが姿を見せると、ギルグランスは頬杖をついて面倒そうに彼らを眺めやった。
「全く。こうむさ苦しい顔ばかりではやる気が起きん。何処かに見目麗しい配下はおらぬものか」
「なんです、一仕事終えてきた配下に向かって随分な言い様じゃないですか」
 呆れたようにフィランが口を尖らせる。フィランとオーヴィンは、近くの中継所までレティオの護衛と見送りを兼ねて付き添っていたのだ。神祇官長として公務や選挙に忙しいギルグランスの代わりに、レティオが近隣都市へ視察に回ることになったのだった。
 急遽決まったこの視察は、ジャドが昨日盗賊の頭領から聞いた不穏な話に端を発する。無頼があぶれるほどに波及している帝国の波乱が、各都市にどの程度の影響を与えているのか、情報を収集しておく必要があるとギルグランスが踏んだのである。更に、ギルグランスの二人官への推薦が決まった今、甥であり跡継ぎであるレティオの顔を各地に売っておきたい思惑もあった。
「それにしても思い切りましたね。レティオを一人で放り出すなんて」
 フィランの指摘に、ギルグランスは眉をあげた。この当主は甥に仰々しい従者をつけず、熟練の文官奴隷を一人つけただけで行かせたのだ。他に付き添ったのはセーヴェの息子である奴隷のピートと、同じく若い文官奴隷が一名だけだ。すると、ギルグランスは含み笑いをして槍使いを見返した。
「書物から教わるだけでは何も学べぬ。物事を自らの頭で考えるのにこれほど良い機会はないだろう。――それに」
 ふっとギルグランスは老獪な獣のように目を細めた。
「レティオは行く行く本国に出て行けるだけの広い視野を持つ必要があるのだ。そのためにこのヴェルスは狭すぎる」
 思いがけずどきりとして、フィランは顎を引いた。そう、兄の謀反により故郷に押し込められたこの当主は、ベルナーデ家をこのまま地方貴族として永らえさせるつもりなど毛頭ないのだ。
 フィランは不思議だった。ヴェルスの統率者への道を進みながら、一方で甥を帝国人として育てる当主の姿は、誰から見ても偉大である。だが本来あるべき場所にいられなかった彼は、何故、こうも冷静に前を向いていられるのか。
「うむ? 文句があるのか?」
 心底面倒そうに巻物をつまみあげながら、ギルグランスがフィランに質したそのとき、ベルナーデ家に悲鳴のような呼び声が響き渡った。
「オヤジ、いるか!?」
 声の方向に全員が顔を向けると、ジャドが中庭にまろび出てくる。相当に走ったのだろう、余裕を失った頬に汗が伝っている。
「何事だ」
 ジャドは立ち上がるギルグランスに蒼白な顔を向けた。
「昨日捕まえた盗賊が殺された。皆殺しだ」
「なんだって?」
 一気に高まった緊張の中でオーヴィンが聞き返す。昨日ベルナーデ家が捕まえた盗賊団の者は、ヴェルスの自警団によって牢屋に入れられ、今日から本格的な尋問が始まる予定だったのだ。
 ギルグランスは僅かに瞠目したものの、すぐに表情を消して低く声を出した。
「詳細を話せ」
 呼吸を落ち着けながら、ジャドは頷く。
「ここに来る前に連中の様子を見に行ったんだが……」
 フィランとオーヴィンがレティオの見送りに行っている間、ジャドは自警団の管理する拘留所を尋ねたのだ。だがそこは、早朝にも関わらず人だかりが出来ており――。
「酷ぇ有様だった」
 ジャドは吐き気を抑えるように口元に手をやりながら続けた。門番は毒殺されており、中の盗賊たちは皆、急所を切り裂かれて惨たらしい死に様を晒していたのだ。拘留所は今や、悪意の神が大鎌を振り回しながら通り抜けたような地獄であった。
「……口封じ、でしょうね」
 薄ら寒そうに眉を潜めながら、フィランが呟く。ギルグランスは是とも非とも言わず、オーヴィンに視線を向けた。長年当主に付き添ったオーヴィンはその意図を察し、目礼してから現場へと向かうために背を向ける。
「フィランは港、ジャドは城壁を見張りながら聞き込みを続けろ。ガルダ人に限らず些細な話でも良い。気が付いたことがあれば迅速に報告しろ」
 フィランとジャドも引き締まった表情で踵を返す。セーヴェと二人だけになると、ギルグランスは立ったまま短く尋ねた。
「都市に入る荷の確認はどうなっておる?」
「徹底させるよう通達が二人官の名義で昨日の夕鐘の刻に」
 連中は危険なものをヴェルスに運びこ込もうとしていた、そうライズから聞き及んでいたギルグランスは、関所での荷検めを懇意の二人官に掛け合ったのである。普段でも簡易的な検めはあるが、祭りの多い秋は、大荷物を抱えていても不審がられないため、中身の確認を徹底させる必要があった。
「北の門が危険だな。あの辺りは往来も激しい」
「トランヴェード様に助力を求めては」
「――ふん、この際贅沢は言ってられんな」
 ギルグランスが告げると、セーヴェはすぐに通りがかりの奴隷に外出の支度をするよう指示を出す。書類の処理はまた深夜の仕事になりそうだ。ギルグランスは苦々しく鼻から息を抜いた。
「レティオを外に逃したのは正解だったかもしれんな」
 妙な胸騒ぎがしている。昨夜、レティオに突然の外出を命じたのも、実のところその予感に因るところが大きい。幼く未熟な甥を守ることは、兄の遺言でもあり、ベルナーデ家の当主であるギルグランスの最たる使命なのだ。
 ガルダ人が根城にしていたらしきルミニ教を活動停止に追いやり、ギルグランス自身が二人官に推挙され、敵を確実に追い詰めている筈だった。だが、胸の予感は焦げ付いて晴れなかった。彼らは必ず、ベルナーデ家に牙を剥いて食らいつく。ギルグランスは自らの首筋に指を当てて、唇を引き縛る。
 未来を紡ぐ甥が――そして娘が帰る頃には、この都市から不穏な影を払拭せねばならない。
 張り詰めたベルナーデ家の屋敷の外では人々が秋の実りに酔いしれ、度重なる祭りに華やいでいる。ヴェルスの深まる秋に忍び寄る残忍な闇に気付かず、人々は今日も明るく過ごす。外衣を翻したギルグランスはセーヴェを伴うと、混沌へ向け、狩人のような眼差しで足を踏み出すのだった。




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