-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>9話:運命の悪戯への私的見解とその対策

10.そして彼らは走り出す



 秋の実りに華やぐヴェルスが、賑やかな午餐によって一層の歓びに包まれる。男たちが獲物を携えて戻ってくるたびに、往来の人々はそれが見事であるほど高らかな歓声をあげて狩人の武勇を祝福した。狩人らは月と狩猟を司る女神イェーナの神殿に赴き、女神の加護に感謝を捧げると、葦の頭飾りを受け取って獲物を家に持ち帰るのだ。
 ベルナーデ家の中庭でも、奴隷たちを集めての宴会が早くも執り行われていた。供されるのは無論、この家の当主がその腕で討ち取った巨大な魔物である。
 男が十人ほどでようやく引きずって運んだ魔物の威容は、都市の人々を仰天させ、この世の終わりだと天を仰ぐ老人や泣き出す子供をはじめ、暫しヴェルスを混乱に貶めるほどの威力を誇った。しかもイェーナの神殿へ続く道が細すぎて通ることが出来ず、神官を呼び出す羽目になる。尚、駆けつけた神官の内、無言で卒倒した奴二名、恐れをなして逃げた奴一名。
 無論ベルナーデ家の邸宅にも入らなかったため、当主が自ら門前で獲物を捌いた。それを女たちが持ってきた大釜で臭み抜きの薬草と共に一気に煮る。続いて山菜や芋を投げ込み、香料と塩で味を調えれば、誰もが唾を飲む香りが辺りに立ちこめた。

「全く。ちゃっかり一人で楽しんでるんですから」
 肉がたっぷりと入ったスープの椀を片手に、フィランは渋面でギルグランスを睨んだ。愛用の椅子に腰掛けたギルグランスは愉快そうに笑って見せる。
「何を弄しておる。ああやって早めに根城を潰しておかなければ逃亡者を出す恐れがあったろうが。狩りなど二の次に過ぎん」
「よく言うもんですよ」
「まあフィラン、まずはスープを飲んでみるといいよ」
 反対側でオーヴィンが珍しく小言に同意せず、苦笑しながら自分の椀をくいと持ち上げてみせる。
「そうだ。私が腕を揮ってこしらえた佳肴だ。心して口にするが良い」
 フィランは胡散臭そうに当主を一瞥し、匙を口に含んだ。
 ――彼の眉が、ピクリと固まった。
「……」
「ははは。たまには煮炊きも悪くはないな」
 そんな声すら遠くなるような香ばしさ。口の中でほろほろと崩れていく柔らかな肉は、脂をたっぷりと含んでいるのに嫌味がない。大味そうな外見から思いも寄らぬほど繊細な風味の汁は濃厚で、後には確かな満足感が残る。
 ぱああ、と天啓が降り注いだように素敵世界に旅立ったフィランを見て、女奴隷をまとめるノノは悲しげに首を振った。
「一度竈の前に立てばこれなんですから。これじゃあ女の立つ瀬がないってもんですよ」
 ちなみにギルグランスが軍の一般兵であった時代、彼が食事当番となった日にはお代わりを求める兵士たちによって長打の列ができ、別の食事が出されるはずの司令官までもが皿と匙片手に現れたらしい。
「叔父上! どうしたらこの味が出せるのです。作り方をお教えください」
 ギルグランスが首を回すと、空になった椀を手にしたレティオが必死の形相で駆け寄ってくる。こちらも見事に胃袋を篭絡されたようだ。
「うむ、知りたいか? ではこちらに来い。まず骨を縦に割って煮込むのがコツでな……」
 上機嫌そうにギルグランスは甥と共に大釜の方へ向かう。フィランは食い気の誘惑と己の誇りの合間を何度も往復し、悔しそうに歯噛みしていたが、ふとオーヴィンが立ち上がるのを見て眉をあげた。
「どうしたんです?」
「んん。ちっとお仕事」
 フィランは、はっと目を瞬いた。
「ガルダ人の調査ですか?」
 オーヴィンは頷いて、頬をひきしめた。彼は先日より毎日のように地下に潜り、ガルダ人の足取りを追っているのだ。
「……今日捕らえた盗賊から有効な情報が得られたら良かったんですが」
 ガルダ人の技を知る盗賊団の頭は早速尋問にかけられたものの、魔物を操る技は帝国人から習ったと言ったきり、それ以上は言えば殺されると黙ってしまったのだ。明日から更なる追求が始まるが、答えるかどうかは定かではない。話を漏れ聞いたライズも、頭領が話していた相手を具体的に見ていなかった。
 また、帳簿を盗んだ彼らが、モラルダ商会の商隊を装って運び込もうとしていたものも不明のままだ。それがあればヴェルスなど意のまま――ライズはそこまで聞くと、恐ろしさに逃げ出してしまったのだ。
「まあ、うまくいかないのはいつものことだよ。お前さんは今日くらいゆっくりしてな、じきにジャドも来るよ」
 隠密な行動が求められる地下での任務に、自分がついて行っても足を引っ張るだけであろう。眉を下げたフィランを見て、オーヴィンは気楽に笑った。
「構わんよ。お前さんはこれからが大変だし」
 大釜の前にしゃがんでいる叔父と甥の背中に、オーヴィンは顔を向ける。
「親父はアレでも神祇官長だ、秋は忙しいし、二人官の選挙もある。敵さんは恐らく――親父が二人官になる前に片をつけようとするだろうな」
「……確かにそうでしょうね」
 顎に手をやって、フィランは黙考の末頷いた。都市議会でも最高職である二人官に就けば、行使できる手段が今より格段に広がる。更にギルグランスは本国の状況を鑑み、二人官としてヴェルスの階級流動を活発化させるつもりだった。有能な者を要職に就かせ、ヴェルスの腐敗した部分を払拭するのが狙いだ。今やギルグランスとの敵対心を隠しようもなくなった商人エウアネーモスも、それだけは防ごうとするだろう。
「あの親父はやること無茶苦茶な化けもんだが、あれでも人間だ。――俺たちが守らないとな」
 肩を叩いて出て行くオーヴィンを見送って、フィランは拳を握り締めた。ベルナーデ家の者たちは、束の間の休息に賑わしく、屋敷には笑顔が溢れている。
『守る……か』
 灯台島で帰りを待つ少女が脳裏に浮かび、フィランは眼を伏せた。この家に対する愛着は確かにある。これからも日々ベルナーデ家の矛として、自分は槍を振るうだろう。しかしフィランはティレを守るためにベルナーデ家に仕えることを承諾した身なのだ。
 自分はたぶん、オーヴィンのように真っ直ぐに、この家を守ると言い切ることはできない。
 何よりも大切なのは、たった一人の恋人なのだから。
 そう思うと、不意に自らの足場が定まらない気分になって、フィランはかぶりを振った。心を揺らせてはならない。意思とは純粋であるほど強い輝きを放つものだ。
 自分が守るべきは恋人に他ならない。彼女のためにこそ、この腕はこの家で槍を振るうのだ。
 今はただ、恋人と主を天秤にかけるような不幸が起きないことを祈るばかりであった。


 ***


 祭りに賑わうヴェルスの大通りにある乗り合い馬車の受付で、ジャドはサナーの横顔をぼんやりと眺めている。
 帳簿を盗んだ実行犯であったサナーとライズだったが、盗賊団の情報を包み隠さず話したことで恩赦が齎されたのだ。二人は、その日の夕方にもすぐに次の都市へ向かうことにした。盗賊団は壊滅したが、未だ残党が残っているかもしれず、ヴェルスに留まるのは危険と判断したのであった。
「よし、と」
 てきぱきと荷物を馬車内に運んだサナーは、手を叩いて頷いた。後は馬車に乗り込むだけ。残り僅かな時間、夫のライズと並んで、サナーは凛と立つ。
「ベルナーデ家の当主さまには、ありがとうと伝えておいて。もう、ここに来ることはないと思うから」
「……ああ」
 気の強そうな双眸に見据えられ、ジャドは腰に手をやった。
「その、なんだ。……無理すんなよ」
 サナーはふと眼光を緩める。そして暫く考えた後、ライズに先に馬車に乗るよう告げた。
「すぐに行くわ」
「うん、分かったよ」
 包帯の痛々しいライズは、頷いて馬車の幌の中に消えていく。サナーは鼻から息を抜くと、もう一度ジャドを睨み上げた。
 夕刻であった。陽の御子は紅の門へと車駕を進め、道も屋根も人々の喧騒すら遠くなるような輝きに包まれる。実りを注ぐ禾穀の女神も心地良く微笑む風に吹かれ、ジャドは一瞬、呼吸を止める。
「ありがとう。あんたが生きていてくれて、――嬉しかった」
 豊かな髪を波打たせ、女は冴え冴えと笑う。
「あたしがそうしたみたいに、あんたもあんたらしく暮してね。そんなお守り、さっさと棄てちゃってさ」
「う」
 ジャドは気まずげに視線を下方にやる。彼の胸には、粗末な木彫りの神が揺れている。過去に思いを馳せるようにサナーはそれを瞳に映す。その昔、彼らは同じようにいつか会える日を夢見て約束をした。けれど今はそれも遠く。
「ようやく、ほんのちょっと強くなったんだからさ」
「――は、オレは昔からこうだっつーの」
 返す言葉のなんと弱々しいことか。情けなさを自覚してしまうジャドは、半端な溜息を吐き出すばかりだ。
「あはっ。その強がりなところは変わらないでよね」
 サナーはくすりと笑って、不意に手を伸ばした。
 軽く握った拳が、すっとジャドの額に向けられる。
 そして祈るような、優しく悲しい言葉が風に乗って告げられる。
「ありがとう、ジャドルーズ。そしてさよなら」
 その昔、未来を語り合った少年と少女はそこにはいない。彼らの隔てた時はあまりに長く、彼らは別の方向へと走り出す。
「ああ」
 ジャドは眩暈を覚えながらも目を閉じ、そして開いた。
 胸が痛い。唇が震えそうになる。今すぐにでも口を開きたい。けれどそれを閉ざし、離れていくサナーに、ジャドは笑って手をあげる。
 乗り合い馬車の主人が、鐘を鳴らして出発の合図をする。サナーは最後に振り向いて深々と頭を下げ、ぱっと踵を返した。幌の中に姿が消え、そして馬車は重たそうに車輪を回して走り出す。

 その姿が霞むまで見送って、ジャドは一人で石畳に立つ。手を伸ばしても届かない過去は薄れ、消えていく。あんなにも輝かしかった心のどこかが、削げて落ちてしまったようだ。
 残されたのはこの身ひとつ。無限の可能性から進んだ先にある、今の己自身。そう、過去は美しくも遠い。だからこそ魅惑的で、いくらでも追いかけてみたくもなるけれど。
「百倍にも千倍にもごきげんようだ、畜生め」
 一人毒づくと、ジャドもまた、背を向けて己の今ある場所へと歩き出した。
 主の屋敷では賑やかな宴が行われていることだろう。明日からの多忙に備え、今宵はいくつもの酒樽が封を切られるに違いない。
「ああ、くそ」
 ジャドは頭に手をやった。
 ――きっと、今日飲む酒は、それ以上ないほど不味いに違いない。


 ***


 都市の至る場所では肉を焼く芳ばしい香りが立ち上り、人々は束の間日常を忘れて酔いしれる。
 一日の最後の時間。陽の御子は晴れやかな茜を注ぎ、黄金色に染まる大地には人々の笑い声がさんざめく。
 そんな黄昏に、浮かない顔をした少女がひとり、軒先に佇んでいる。
 否。彼女はひとりではない。優しい笑みを浮かべた少年がひとり、彼女の前に立っている。鏡を合わせたような、瓜二つの少年が。
「やっぱり来てくれたんだね、姉さん」
 けれど少女はあたかも一人であるかのように、目を伏せたまま動かない。少年が言紡ぐ様は、まるで一人で芝居をするかのよう。
「姉さんなら来てくれると思ってた。ねえ、座ろうよ」
 促されるまま、少女はふらりと歩き出す。少年が行く先は宿の地上階に設けられた、素っ気無い酒場だ。
 少年は手早く注文を済ませ、人形のように座る少女を視界に納める。
 そして彼は、少女が相変わらず俯いてみるのを見て、初めて笑みを口元から消す。幾年もの歳月を隔て再会した姉の姿を、じっくりと推し量るように。
 少年は、やや間が悪そうに告げた。
「生きていてくれて、嬉しいよ」
「――」
 マリルは雷に打たれたように瞠目し、肩を狭めた。その姿を敏感に察し、少年は眉を下げる。
「……ごめん。僕がこんなことを言えた身じゃなかったね」
 マリルは、ゆっくりとかぶりを振る。そうして、初めて顔をあげ、少年を眼に映す。
「アリラム。久しぶりだね」
 ぎこちない口調で、硬い表情で。初めて少女は再会の挨拶を告げる。それでもアリラムは、ほっとしたように肩を撫で下ろした。
「うん。別れてからもう九年だ」
「……そんなに経ってたんだ」
 マリルは夢から醒めたように視線を自身の指に落とす。そのまま、ぽつりと空虚に問うた。
「母さまは?」
 アリラムはためらってから、悲しげに目を閉じた。
「四年前に、病気で」
 そう、と他人事のように相槌を打ち、マリルは暫く口を閉ざした。
 するとアリラムは薄闇を振り払うように首を振り、笑ってみせた。
「僕には母さまの竪琴があったから、これと歌でなんとか生きてこれた」
 ほら、と。アリラムは長衣の間から古びた竪琴を取り出す。マリルはそれを寂しそうに見つめる。母がその手に抱いて歌った歌。自分たちの通った道。記憶は彼女にとって、あまりに悲しすぎる。
「僕は姉さんに会えて嬉しい。母さまが死んでから、ずっと一人だったから……」
 アリラムは卓に手を差し出す。ぽっかりと開いた互いの合間を、必死で埋めようとするように。
「姉さん。僕は本当に嬉しいんだよ」
 少年の目の隅に、僅かに浮いた透明の涙。それは、二人を隔てた運命を憎み、二人を繋いだ運命に感謝し、そして何よりも目の前の奇跡に歓喜したもの。
 マリルはその手をじっと見つめ、そして、ゆっくりとだが、腕をもたげ、彼の手を握る。
「姉さん」
 アリラムは嬉しそうに破顔する。涙が一筋、頬を伝う。
「沢山話そう。姉さんと話したいことが、喉が枯れるほどにあるんだよ」
「……」
 マリルはこくりと頷いた。しかしその顔をもし灯台島の住人が見たとすれば、彼女の家族との再会を心より喜ぶことができただろうか。
 まるで手折られた花のように茫洋と、マリルは弟の話に耳を傾ける。


 夜がとっぷりと暮れると、都市の空気もようやく狂騒から解放されて寝静まる。ぎしり、と古い宿の木張りの床を、細い足が踏みしめる。
 弟との邂逅を終えて一旦帰路についた少女は、しかし灯台島には帰らず、宿の影で弟が眠るのを待ち伏せていた。彼はマリルと別れた後、宿を出て、随分経ってから戻ってきた。猫の鳴き声でさえ失せるほどに静まるのを待って、少女は中へ踏み入った。
 最も奥の部屋。流れの吟遊詩人に相応しい、寂れたそこに鍵などなく。少女は扉をそっと開き、闇を伺う。
 体が重い。意識が混濁する。闇は黒き御手の冥王の住処。ものみな乾く天狼星も息を潜め、悪知恵長けた時の神でさえその暗さには我を見失う。そんな闇に足が絡め取られそうになるのをこらえながら、少女はひたひたと隘路を進む。
 そしてゆらりと。少年の眠る粗末な臥床の前で立ち止まる。
 少女は音もなく、氷のような眼差しで眠る少年を見下ろしている。
 その瘴気を放つかのような怨嗟に、この暗闇で誰が気付くというのか。
 少女は憎悪を湛えたまま、すらりと手にしたものを鞘から引き抜く。窓から僅かに覗く月光が、一瞬だけ鈍色の肌を煌かせる。
 そして、マリルは。

 息を吸って意を決すると、その刃を振り上げた。




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