-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>9話:運命の悪戯への私的見解とその対策

07.野郎共の憂鬱



 夜を率いる時の女神キュテラが、その長い腕を広げてヴェルスを闇の帳に包み込む。
 一日ごとに空気の温度が冷たく移ろう秋の季節。流石に風に吹かれたままでは肌寒い。
「――う」
 だるさと痛みが全身の感覚を鈍くしている。ここは何処だろう。
 薄っすらと目を開いたジャドは、神々も眠れる夜の静けさに、二つの人影を見つけた。
 一人は杯を手に星月夜を眺めており、もう一人はその後ろに静かに付き従っている。
 その闇に光を灯すような存在感。音がなくとも畏怖を思わせる、揺れのないその姿。

 それは、自分が拾われた頃のことを想起させる。
 あのときも、身に染み入るような冷たい風が吹いていたものだった。
 軍を飛び出して、闇雲に走っていた頃のことだ。
 己の行く道がこんなにも簡単に途切れてしまったことが、ただ信じられなかった。
 何処にも行き先がないことが、こんなにも恐ろしいとは思わなかった。
 自分が何をしたというのだ。何度も胸に問うた。
 決して高望みをしたわけではない。ありふれた夢を見て村を飛び出した。軍人として過ごし、任期を満了して幼馴染を娶り、蓄えた金で良い土地を買い取って楽しく暮らそうと。ただそれだけを求めていたのに。
 なのに、どうして。
 どうして、自分だけがこのような目に合うのだ。
 誰よりも早く走れた足が、逃亡の惨めさに拍車をかけた。
 帝国軍から逃げ切れてしまえたその足を、そのとき生まれて初めて心から呪った。

 けれど逃げる兎に世界はその手を緩めない。
 定職に就かない愚か者を、逃しはしないのが奴隷商人どもだ。
 道端で眠ってなどいれば最後、彼らは闇より出で、手枷をはめにくる。
 何度襲われたか分からない。けれど、帝国軍の軍人の最後の誇りが、自身の足に力を与えた。
 彼らに捕まり奴隷となれば、培ってきた大切なものの、最後の一片が失われてしまいそうで。
 逃げ惑う日々に体と心を磨耗させ、もはや走ることに何の意味があるのかも分からなくなり。

 このまま死すれば良いのかと思っていたところに、――ある日、偉丈夫が立っていた。
 まるで矮小な己の姿を嘲るような、威風堂々としたその男が。

「起きたか」
 ベルナーデ家当主ギルグランスは、こちらを見て薄く笑う。
 これまでの記憶がおぼろげだ。槍使いの若者と殴りあったところまでは覚えているのだが――オーヴィン辺りに運ばれたのだろうか。けれど見慣れたベルナーデ家の中庭には、オーヴィンもフィランも姿がない。
「――つ」
 起き上がると、体の節々に痛みが走る。思わず顔を歪めたジャドを見て、ギルグランスは眉を持ち上げた。
「水でもいるか?」
「……いらねぇよ」
 意地を張って突っぱねるジャドに、しかしギルグランスは機嫌を損ねた風もなかった。クク、と肩を揺らして笑うと、ゆらりと歩いて椅子に腰掛ける。そんな余裕と、こめかみに疼く痛みが忌々しい。
「チッ、あんにゃろう、手加減なしでやりやがって……」
 己の劣等感を口に出すことは流石に阻まれて、故にジャドの毒は槍使いの若者へと向けられる。
「そこまで派手にやったのは久々だな?」
「――んなことあっかよ、この程度の傷なんざいくらでもやったろーが」
「戦いでならな」
 ベルナーデ家の美しい中庭はひっそりと静まり、樹木の葉は眠るように垂れ下がっている。ギルグランスは歌うような軽やかさでジャドに問うた。
「だが喧嘩をしたのはいつぶりだ?」
 ジャドはつとギルグランスを見上げた。
「オーヴィンは真っ向から来る手合いではない、エルは何のかんの言って付き合いを遠慮するところがあったからな」
 ギルグランスは優雅に杯に口をつけ、上物の酒を堪能するように横顔のまま目を閉じる。
「うだうだと悩む貴様に一発食らわせる気概を持つ男を家に引き入れてやったこの私に、存分に感謝して貰って良いぞ」
「意味分かんねぇよ」
「どれ」
 ギルグランスは杯を置くと大儀そうに立ち上がった。月夜の元に、銀色の輪郭が際立っている。
「来い。少し歩くぞ」
「……」
 恭順することも、反発することも出来ず、ジャドは舌打ちをして立ち上がった。
 こうやって周りの世界に振り回されて、ジャドは今、ここにある。


 屋敷を出たギルグランスは松明を持ったセーヴェに先導させて、ヴェルスの夜景を楽しみながら進んでいく。五年前は夜に出歩くなど自殺行為と言われたヴェルスだが、今はすっかり灯火の光が行き届き、酒場から人々の笑い声が零れてくる。詩人たちが遠い異国の歌を紡げば人々が集まり、艶かしい娼婦が身をくねらせて行きずりの男を誘う。広場では広告書きの職人たちが人通りの少ない時間帯を狙い、こぞって梯子を立てて壁に筆を走らせている。ギルグランスはそれらを見ては、満足げな笑みを浮かべるのであった。
「うむ、まだ起きておったか」
 湖岸に着くと、岩に腰掛け焚き火に当たっていた老人がこちらに気付いて立ち上がる。
「オーヴィンから言付かっとりますよ。ワシにゃ夜はちっとキツいんだけどなぁ」
「感謝する。今日は生憎付き合いがあってな。明日に酒でも届けさせよう」
「おっ、本当ですかァ」
 もやい綱を解きながら、渡し守の爺は嬉しそうに笑った。ジャドは怪訝そうにギルグランスを見る。こんな夜半に、島に何の用だろうか。炎の耐えぬ島の灯台を目指し、小舟は静かに闇の湖を進みだす。
 灯台島に着くと、ギルグランスは優雅な足取りで丘を登り、集落を避けて外れの道に入った。その先にあるものは一つしか思いつかず、とうとうジャドは疑問を投げた。
「オイ、灯台に行く気か?」
「そうだ」
 ギルグランスは上機嫌に返して先へ進む。都市と変わって人の気配の薄い灯台島には、波が打ち寄せる音が途絶えることなく続いている。ジャドは当主の思惑が掴めず、灯台の灯を見上げた。この灯台はパンデモ爺さんと呼ばれる気難しい老人が管理しており、島の住人であろうが、易々と中に入れて貰えないのだ。唯一立ち入りを許されているのは、気弱な島の青年ディクルースくらいであった。それも薪を上に運ぶ仕事のためだけだ。
 ディクルースは灯台の麓の古びた小屋に一人で住んでいる。もう寝ているのだろうか。小屋に人の動く気配はなく、ジャドはいよいよ焦り始める。パンデモ爺さんは恐ろしい人物だと聞いている。なんでも灯台に勝手に入れば最後、命の保障はされないとかなんとか。
「お、オイ、ちょっと待てよオヤジ」
「なんだ、情けない声をだしおって」
 ギルグランスはジャドの制止を聞き入れず、まるで己が家に帰るように、灯台の内部に足を踏み入れる。
「……本当に入りやがった」
 ジャドはぼそりと呟いた。パンデモ爺さんの人嫌いは島でも有名で、島に長く住んだジャドでさえ、まともに顔を見たことがないのだ。
 灯台の中は空気が篭って生暖かく、壁沿いに螺旋の階段が続いている。長年船頭たちの導となった灯台の建立は百年以上も前と言われ、燭台の炎の揺れるそこは微かに黴の匂いがした。
 ギルグランスは気軽な様子で階段に足をかけ、階上へと進んでいく。一体何のつもりなのだろう。ジャドは追従しながら恐る恐る声をかけた。
「オイ、大丈夫か? ボケて徘徊の気でも出たんじゃ――ボッ!!」
 硬いサンダルの底を顔面に頂戴するジャドである。
「黙ってついてこい」
 氷点下の眼差しで告げたギルグランスは先にひょいひょいと上っていった。これでも結構老いを気にしているのである。
「――いてぇ……」
 激痛に顔をさするジャドである。衝撃で螺旋階段からも落ちたため、体の節々が痛い。フィランとの喧嘩といい、今日はまさに踏んだり蹴ったりの日である。
「大丈夫ですか」
 地上に残って松明の始末をしていたセーヴェが気遣ってくれる。
「ったく、機嫌がコロコロ変わりやがる」
 毒づくと、セーヴェは深く頷いて同意した。
「仕方のないことでございます。年寄りになると気が短くなるものかと――」
「何か言ったか!?」
 頭上から怒声が降り注ぎ、ジャドとセーヴェはこれ以上刺激するのはやめようと目線で頷きあった。
「……つぅかセーヴェ。テメェ、よくオヤジの外出認めたな?」
 ジャドは渋面のままセーヴェに問う。セーヴェは日ごろより好き勝手に出歩く当主に苦言ばかり呈しているのだ。
 するとセーヴェは淀みない口調で返答した。
「私を同伴して外出なさる分には口出しいたしませぬ。何かあれば対処できますゆえ」
 対処ってなんだ、対処って。
 普段は影のように存在感のないセーヴェの薄笑いに、ジャドはギルグランスが一人で外出したがる理由をちょっぴり理解するのであった。
「それにしたって、気ままなもんだぜ。振り回される身にもなってみろっつーの」
 小さく毒づいたジャドに、セーヴェはふと考え込むように視線を地に向けた。
「……気まま、ですか」
「あ?」
 何故その言葉を拾われたのか分からず、ジャドは不躾に聞き返す。セーヴェは目を閉じて暫く考え込んだ後、ぽつりと呟いた。
「あの方は、本当に自由に生きているのでしょうか」
「ハァ?」
 ジャドは凝然とセーヴェを見た。この奴隷は突然何を言い出すのだろう。あの当主ほど自由気ままな人間などいないではないか。
 目を瞬くジャドに、セーヴェは珍しく人間めいた仕草で笑い、首を振った。
「申し訳御座いません、戯言を申しました」
 先に立ち上がり、腕を胸に添えて頭を下げる。
「私はこちらで待ちます。どうぞお進みください」
 その口調は普段と変わらないのに、眼差しには深い思慮があるようで、ジャドは胸につかえるものを覚えた。しかしそれ以上語ることはないと、セーヴェは伏せた目で告げている。
 その場にいるのも居心地が悪かったので、ジャドは当主を追うことにした。

 光明を以って船頭たちの導となる灯台の灯は、間近で見ると圧倒されるほどの輝きを放つ。階上に至ったジャドは、飛び込んできた眩さと熱に、思わず顔をしかめた。
「遅かったな」
 ギルグランスは壁に背をつけて待っていた。ジャドはそちらを見て、はっとした。
 中央に炉を据えた小さな円形の部屋の当主の横。灯の光に照らされて、小椅子に腰掛ける浅黒い老人がひとり。
 ジャドはその老人の姿に目を奪われた。頭髪はほぼなくなっており、皺くちゃの顔は炎に焙られ黒ずんでいる。白濁した瞳は、しかし厳しい眉の下では鷹のように鋭く、侵入者であるジャドではなく、ただ前を見続けている。杖を持つ腕は胴に比べてひょろりと細く、まるで悪鬼のような風体であった。
 ――豊穣の都ヴェルスの灯台を一人で守る老人、パンデモウス。
 パンデモ爺さんと呼ばれるこの老人は、十年以上この部屋から出たことがないのだと、ジャドはディクルースに聞いたことがあった。その目が、炎を見すぎたためにほとんど見えていないことも。
「やかましいと思えば、二匹目か。燃料にでもなりにきたのか?」
 しわがれた声に、ジャドはどきりとした。唇をほとんど動かさないため、一瞬老人が喋ったように思えなかったのだ。
「そう言われるな、ご老体。天神の眠りも穏やかな夜だ」
 ギルグランスは言いながら、懐から酒を取り出し、見せびらかすように掲げてみせる。老人は暫く動じなかったが、ややあって僅かに肩を下げた。それを是と取ったギルグランスは、椅子の隣の棚から杯を出して注いでやる。手際の良さからして、頻繁に来ているのかもしれない。この当主は暇を見つけては屋敷を抜け出しているようだから。
 ギルグランスはそつなく杯を老人に渡すと、二つを手に持ってジャドの方へ戻ってきた。勧められるままに杯を受け取ったジャドは、当主に倣って石造りの小さな窓辺から暗闇を見つめた。冷たい外気が流れ込んでくるため、灯に向き合っているよりもそちらの方が楽だった。
「チッ、なんなんだよ。ここがオヤジの行き付けとか抜かすのかよ?」
「うむ。そこのご老体とは旧知の仲でな」
「――ふん。ガキの頃に火にくべておけば良かった」
 パンデモ爺が忌々しげに言い放つ。ギルグランスはしてやったりの顔でジャドに経緯を教えてくれた。
「その昔、私と兄上はどちらが先にこの塔を上りきるか競争したことがあってな」
 窓縁に頬杖をついたジャドは、小さく相槌を打った。子供であればよくやりそうな遊びだ。
「だがそこのご老体に片っ端から撃退されてな。いやあ、あの攻略戦は熱かった。上から焼けた灰を注がれるのが一番の脅威だったな。兄上と揃って大火傷をしたのも懐かしい」
「ぶっ」
 ジャドは酒を噴いた。それは下手をすれば死んでもおかしくないのではなかろうか。
「全く。諦めることだけは知らぬ連中よ。上へ入れてやったのはほとほと嫌気が差したからに過ぎん」
「はは。ご老体を撃破したときは競争していたことも忘れてな。兄上共々、拳を突き合せて喜んだものだ」
「だというのに、上にあがった貴様らときたら」
 からん。パンデモ爺は薪を火に投じる。百年の間、火の絶えたことのない炉で、紅蓮の炎が燃え盛っている。
 ギルグランスは、その音を愉しむようにニヤリと笑う。
「元々計画していたのだ。この景観を楽しみながら、酒を酌み交わそうと」
「酒の味も分からんガキ共が。杯を勧められた時は正気を疑ったぞ」

 ――おい、オッサン。オッサンも飲むか。
 ――酒は大勢で交わした方が賑わうもの。よろしければ一杯でも?

 ジャドはふと目を瞬いた。年端も行かない二人の兄弟が、今ジャドが立つ場所と同じところで笑っている姿を幻視して。
「本当に。あの時薪と一緒にくべておくべきであったわ」
 忌々しそうにパンデモ爺は言ったが、ギルグランスの隣を見て目を薄っすらと細めた。既にほとんど見えないであろうけれど、その目には今は亡き片割れが映っているのかもしれない。
 力強く育った兄弟は、後に都市を飛び出し、剛の道を極めて人々から羨望を集める存在となる。
 ジャドは杯を飲み干して、暗がりに視線をやった。子供時代の逸話だけで、これだけ格が違うのだ。ジャドは村で一番足が速かった程度。武勇伝といえば、せいぜい大人に悪戯をして俊足で逃げ果せた程度でしかない。
「見えるか? 都市の光だ」
 そんな声に、ジャドは意識を引き戻された。当主は同じように窓の外を愉しげに眺めている。
 ジャドは不思議に思って目をこらした。すると、炎に焼かれた目では暫く闇しか見えなかったが、次第にぽつぽつと星のような煌きが地に広がっていることに気付く。先ほど見た人々の暮らしの光だ。
「美しいだろう」
「……まあな」
「遥かなる古の時代、ヴェルスは夜も眠らぬ華やぎを誇ったと詠われている。しかし私がこの都市に戻ってきた頃、ここから見たヴェルスの夜は常闇の国であった」
 ジャドは小さく頷いた。帝国の元に下って早百年。帝国の内政が荒れ始めると同時に、腐敗が進んだヴェルスの財政は一気に落ち込み、特に五年前は酷い有様だったという話は、何度となく聞いている。そして――。
「アンタの働きで、ここまで生き返った。そりゃあ邪神だの呼ばれてる割に失脚しねぇわけだよ」
 嘯いたジャドに、ギルグランスはくつくつと笑った。初めはただ優越感に笑っているだけと思ったが、不意に当主はこんなことを言った。
「私は一人でこの業を成し遂げたつもりではないのだがな」
 ジャドは、思わず真顔で当主の横顔を凝視した。
「……あ、あんだよ。珍しく殊勝じゃねぇか」
 明日は雪でも降るかな。そんなことを考えている内にも、当主は静かな声で続けた。
「まだここから見える景色が闇でしかなかった五年前、退役した私は、他の貴族家との親交は薄く、民の支持もなかった。そもそも何十年と見なかった故郷の内情に、私はすっかり疎くなっておった」
 ジャドはそう語るギルグランスの横顔に憂いに似たものが過ぎるのを見る。その人生の多くを北方の戦場で過ごした彼は、故郷の有様について、帰ってから初めて気付いたのだ。
「しかし、オーヴィンにエルにレティオ。マダム・クレーゼを始めとする島の民。家の奴隷たちに、父の友人だった貴族たち――。彼らが私に力を貸してくれたからこそ、こうして夜にも僅かな明かりが灯るようになったのだ」
「な、なんだよ、気色悪ぃな」
 傲岸不遜を常とする当主の変貌に顔をしかめると、本人は軽く笑い、ジャドに顔を向けた。ぱちぱちと、背後の炉で炎がはぜっている。
「私が言いたいのは、ジャド。この街の明かりを齎したのは、貴様でもあるいうことだ」
「……ハァ?」
 ジャドは橙色の炎に照らされながら、眉間にしわを寄せる。
「別に大したこたしてねぇよ。テメェが仕事ふっかけるから仕方なくやってるだけだ」
 言葉尻が弱々しくなる。本当は。そんな気持ちが、ジャドの心に燻っているからだ。
 本当はこんなところではなく、帝国軍の中で。
 華々しく敵と戦い、旨い酒を飲み、そして女房を貰って家族が出来て。
 そんな風に、陽の元を歩みたかった。
 ジャドが黙り込むと、暫く無人のような静けさが落ちた。灯がぱちぱちと爆ぜる音、吹き込む風の泣くような音。世界は勝手に回る。声を出そうが出すまいが関係なく。
「なあ、ジャド」
 うるさい。
 そんな声で、自分の名を呼ぶな。
「貴様にとって、今の生活は苦痛か?」
 そんなこと知るものか。
 けれど、ここより光に溢れた地はきっとあったはずだ。
 今となっては辿り付けないけれど。
 運命に負けてしまった今となっては。
「ならば質問を変えよう」
 何の質問をされたところで同じだ。
 自分は敗者だ。だから、届かない夢を見続けることしかできない。
「貴様の人生の舵取りは、一体誰なのだ?」
「……うるせぇ」
 震える感情が口の端から零れる。石縁を拳で叩く。鈍い音。ジャドは当主を睨みつける。
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねぇよ。なんだ、オレが何したってんだよ。誰も舵なんか握らしちゃくれなかっただろうが!」
 当主はじっとジャドを見据えている。その様が気に入らなくて、ジャドは当主の胸倉を掴んだ。
「どうすりゃいいんだよ!? どうしようもねぇだろ!? オレはこうなるしかなかった。運命の女神はオレに微笑んじゃくれなかった――」
 駄目だ。言葉を途切れさせたら、今度は涙が止まらなくなる。だからジャドは悲鳴のように叫ぶしかない。
「だからしょうがなくテメェに仕えてんだよ! ありがたいことにこんな負け犬でもテメェには利用価値があるらしいからな!? もうとっくにオレの人生は終わってんだよ、だから一々、」
 傷を掘り返してくれるな。
 攻撃するな。
 そっとしておいてくれ。
 牙を剥く運命に、立ち向かうことのできなかったこの自分を。
「……冗談、じゃねぇよ」
 涙が浮かぶ。子供ではあるまいし、何をしているのだ。顔を伏せたジャドは、当主の胸倉を掴む指が震えるのを自覚する。
「――っ」
 ここにいることはできない。ジャドは手を放すと、踵を返して逃げようとする。いつかの日、軍から逃げ出したのと同じように。
 どっ、と、腰に衝撃が走った。
「っ!?」
 体が宙に浮き、前へ進もうとする勢いだけが上体を流させる。みるみる床が近付き――。

 有体に言えば、ジャドは当主の蹴りをくらって地に伏した。

「馬鹿者。主の胸倉掴んで勝手に喚き散らして逃げる奴があるか」

 ああ、今日はなんという夜だ。
 立ち上がる気力も失せたジャドは、ぼんやりとそんなことを思った。


「まあ良い。たまには冷たい床も気持ち良かろう」
 当主は無茶苦茶なことを言うと、自分もどっこいしょとその場に胡坐をかいた。
「ジャド、貴様もまあ散々な人生だな。神々も深く哀れむことだろう」
「うるせー……」
 消え入りそうな抵抗の声をあげる。とくとくと酒を杯に注ぎ足し、当主は旨そうに呷った。
「ふむ、貴様の不幸はまず正規軍に入れなかった点にあるだろうな」
「……?」
 ジャドはうつ伏せに伏したまま、ちらりと当主を見る。ジャドの不幸はあの事件に巻き込まれてしまったことの筈なのに。
 すると当主は何を今更といった顔でジャドを見下ろした。
「属州軍の補助部隊と違い、正規軍では若者に新兵の面倒など見させん。やるのはもっぱら脂の乗った中堅だ。知力と判断力は勿論、組織内部へのツテがなければ、いざというときに貴様のような『事故』が起きかねんからな」
 貴様の上官はその辺りの思慮が欠けていたのだろう、と結論付ける。
「更にだ。上官の身辺を調査したのだったな? そんなことをしていれば、絶対に気付いた奴がいた筈だぞ。なのに誰も貴様に協力も忠告もしなかった。貴様のところは第七軍団の補助軍だったな。あの地方は割と平穏であるから、ある程度組織の一体感が欠けるのも仕方がないが」
 ジャドはじっと耳を傾けていた。そんな風にあの事件を冷静に分析したことなどなかったのだ。
「そもそも私が部隊長ならば、そのような話は事件ごともみ消して貴様を軍に残すがな。むしろ着服した馬鹿を消してくれた礼をしよう」
 この当主なら本当にやりそうなのが恐ろしいところだった。
 ギルグランスは息を深く吐き出して、眼を瞑った。
「何か一つでも欠けていなければ、貴様は本来歩むべきであった道を歩んでいたであろう。だから貴様の意思は乖離した。本来あるべき己と、今ここにある己。二つの己が、別の道を歩み始めた」
「……」
 ジャドは、ゆっくりと上体を起こす。当主は葡萄酒の揺らめく様を見つめながら続けた。
「故に自身が定まらなくなる。ありえぬ未来を幻視しすぎれば現実を見失い、今を生きる気力がみるみる奪われていく」
「……けっ。分かったように言いやがる」
「分かるさ。私も同じ心地を味わうことがある」
「ハア?」
 ジャドは信じられない気分で当主を見やった。地方貴族でありながら、軍で功を立て、本国の元老院入りまで噂されるほどに上り詰めた傑物。その力強き足取りで生きてきた当主が、そんな情けない思いに捕らわれるわけがないではないか。
 けれど、数秒の間にジャドはセーヴェの言葉を思い出した。

 ――あの方は、本当に自由に生きているのでしょうか。

 そして、当主の甥が何度も苦しげに繰り返していた言葉も。

 ――あの男さえいなければ。
 ――あの男が、あんなことを起こさねば、叔父上は――。

「……オヤジ、テメェ」
「やりきれぬ思いは、ある。恐らくは誰にでもな」
 当主は杯を空ける。その動作の静けさに、感情の起伏はない。――けれど。
「後悔に捕らわれて酒に溺れる日もある。仲間内と喧嘩をする日もある。腹の内に痛いものをわだかまらせ、一人で呻く日もある」
 それは、誰にも縋ることのできない当主の、感情を押し殺した慟哭であった。
 ジャドは当主がここに来た理由が分かった気がした。あの屋敷は、当主に一切の弱音を許さない。配下の、奴隷の、そして民の支柱として彼が立つ、あの屋敷は。
 当主はそんな己の嘆きを、他人事のような冷静さで語る。
「そうしていると、気が付けばな、私という船の舵を取られそうになっておる。大洋に出ていれば嵐に遭おう。雷も落ちよう。しかし最も恐ろしいのは、ぼんやりと夢想に捕らわれる内に、その舵を手放してしまうことだ。その途端に、私の船は世界が流れるままに進んでしまう。私の人生が私のものではなくなってしまう」
「……」
「そうなっては、生きている価値などないと思うのだ」
 運命の女神たちの加護から外れた二人の男を、炎が揺らめきながら照らしている。
「……だがよ、どうやって舵を取るんだよ」
 押し出すように問う。見知らぬ海に放り出されて、舵を取るほど自分は強くあれない。誰よりも早く走れたところで、ただそれだけの自分は。
 当主は暫く黙っていた。その口元に、薄い笑みが刻まれる。
「あの槍使いは、中々良いことを言っていたな」
 記憶を思い返すように、当主は視線を横に流す。
「――自分が弱いままであることを許してどうする、だったか」
「参考になるかよ。あん野郎、頭のネジが飛んでやがる」
「自身に厳しすぎるきらいがあるのは事実だ」
 はて、どんな過去があったものやら。当主は厄介そうにかぶりを振る。
「だが、結局のところ己の舵を取るのは己の意志なのだろう。だから私は時折ここを訪ねるのだ」
 当主の音律豊かな声が、その深みを増す。背後の窓を仰ぎ見て、偉丈夫は自らに語り聞かせるように紡ぐのであった。
「あの都市の明かりが私の導となる。この光を消してしまうな。もっと強い光を灯せ、と。ここに来る度に私は思うのだ。ご老体には迷惑かもしれんがな」
 当主はパンデモ爺に悪戯っぽく目配せする。猛々しくも、人間の形を成し、そして人間の心を持つ姿で。
「フン。迷惑と分かっているなら二度と来るな」
 パンデモ爺がすげなく言い放つと、当主は心外そうに眉を上げた。
「これは手厳しい。今宵の酒は口に合わなかったか」
「貴様の趣味は苦味が強すぎるのだ。香りが台無しだ」
「ふむ……」
 当主は顎に手をやって葡萄酒の壷を眺めやる。ジャドは、その壷をとって自分の杯に注ぎ、口をつけた。
「確かに。苦ぇよ、これ。舌鈍ってんじゃねぇの――ゴッ!?」
「貴様なんぞに酒の味が分かるか」
 配下に拳骨をくらわせた当主はぷいと顔を背ける。こういうところは子供じみているのだ。ジャドは思わず苦笑してしまう。
「ま、これしかねぇならしゃーねーな」
 ぐい、と顎をあげて杯を空ける。水で割っていない酒は濃厚に喉に絡みつき、胃がかっと熱くなる。当主好みの、強い酒だ。
 当主は暫く無言で拗ねていたが、深い溜息をつくと、自分の杯を酒で満たした。そうして壷をジャドに差し向ける。
 ジャドは、やれやれと眉を下げた。
 胎の中では、酷く苦しいものがわだかまる。それは届かなかった未来を見すぎたために溜まりこんだ膿。ジャドは、未だに歩く力を得られずにいる。
「ジャド、飲むぞ」
 ジャドは片頬をあげて皮肉げに笑い、杯を差し出す。
「……あいよ」

 過去の栄光も過ぎ去って久しい豊穣の都ヴェルス。
 時の女神の優しい眼差しに見守られ、灯台には炎が輝き、長い夜は静かに更けていく。




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