-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>9話:運命の悪戯への私的見解とその対策

06.女は強かに、けれど未だ闇の中



 雲雀亭の扉を開くと、既にオーヴィンが先に来ていて、主人と話し込んでいた。オーヴィンはこちらに気付いて目を丸くしたが、何も言わずに背を向けた。込み入った話なのだと敏感に察してくれたのだろう。
 仲間の気遣いに感謝しながら、ジャドは入り口近くの目立たない席にサナーを座らせた。
「で、なんだよ?」
「……お礼を言っておかなきゃと思って」
「はァ?」
「な、なによ。そんなに驚くことないじゃない」
 サナーは髪をいじりながら、つっかえた調子で言う。
「朝はありがと。助かったわ」
 思わぬ言葉に、ジャドは戸惑うより前に呆れてしまった。
「あんだよ。そんなこと言いに来たのか」
「そ、そんなことって何よ」
 サナーはむっと唇を突き出す。子供の頃からの癖が、今でも直っていない。
 そんなことに気付く自分に苛立って、ジャドは顔を背けた。そもそも、自分と違う男を選んだ癖に白々しく会いに来るふてぶてしさに腹が立った。ジャドへの当て付けのつもりなのだろうか。自分はジャドがいなくとも、こんなにも強く生きているのだと。そう言いたいのだろうか。
「何考えてんだか知らねぇが、庇ってやるのはあれが最後だかんな」
 顔を背けたまま、突き放すようにジャドは言い放った。
「旦那連れてさっさとヴェルスを出ていけ。チョロチョロされると目障りなんだよ」
 唇は冷たい言葉を強気に紡いでくれるのに、何故か込み上げるのは惨めな思いばかりであった。サナーは強かな女だ。後ろ暗い仕事をしているようだが、彼女の器量を持ってすれば、十分にやっていけるのだろう。
 世界に置いていかれたのはただ一人、ジャドだけなのだ。
 サナーは暫く黙っていた。彼女の姿を視界から外していたジャドは、本当にそこにいるのかと不安になって顔を向ける。
 そして、胸を刺されたような心地を味わった。
 そこには、怒られて意気消沈した子供のような顔をした女が座っている。
 ――何故、そんな顔をするのだ。
 自分と違って、己の道を好きなように生きてきたのだろうに。
 酒場の中央では賭博が始まっており、誰もジャドたちの姿に気をとめる者はいない。サナーは手元に視線を落としたまま、ぽつりと呟く。
「……あんたからの便りが途絶えて、それでもあたしは手紙を送って。そしたら軍を辞めたって他の人から便りを貰ってさ」
 諦観と非難の混じった女の声。その独白はまるで、錆びたナイフを胸にこすりつけられるようだった。仄暗い視界に、人々の喧騒が遠くなる。
「嘘だって思って、アンタのいる駐屯地に行こうと思って。飛び出した都市で、あたし、ライズに出会ったの」
 何が過ちであったのか分からぬまま、時は静かに流れていく。
「あたしだって、何度も迷ったわよ。でも、放っておけなかったの。ライズは親が残した借金を返すために、危なっかしいことを沢山やらされてて――」
 決して彼らは物語の恋人たちのように、未来の契りを約束したのではなかった。ただ、言葉はなくともお互いに信じきっていたのだ。夢見た先にある未来を、疑うこともなく。
 しかし割れた運命を繋ぎ合わせるには、彼らにとって時間が経ち過ぎていた。
 サナーはひとり、片手で顔を覆う。
「……ごめん。アンタなんかにこんな話、全然関係ないわよね」
 吐き捨てるように。サナーは小声で言って、手を膝の上に戻す。そうして、鮮やかな色の瞳でジャドを真っ直ぐに睨む。
 それは揺るがぬ決別を表し、放たれた言葉は心に太い杭を打ち込むようであった。
「あたし、ライズを守るわ。あの人が罪人だとしても、世界を全て敵に回しても、あたしは構わない。守ってみせるわ、必ず」
「――」
 ジャドは言い返してやりたくなって、しかし言葉を見つけられず、その目を見返すことしかできない。
 胸が痺れていた。憎まれ口ではなく、何か別のことを言わなければいけないのは分かっていた。しかし何を言っても、心が引き裂かれるほどに惨めなこの思いは救われないと、分かっていたから。

「だから、さよなら」

 サナーは毅然と言うと、席を立った。豊かな髪を翻し、背筋を伸ばして歩いていく。
 風のように走れた頃、後ろから必死で追いすがってきた少女は、もうそこにはいない。
 ジャドはああ、と結論付ける。彼女は自分に、最後の別れを告げに来たのだ。

「おっと」
 酒場を出ようとしたところで、サナーは丁度入店しようとした若者にぶつかりそうになる。サナーは若者の顔を見た瞬間、弾けるように走り出した。
「あ、ちょっと――!?」
 若者――フィランは追いかけようとして、外に顔を出した。しかし反応が遅すぎたことを悟って頭を振ると、酒場に入り、ジャドを見咎める。
「……何を話していたんです?」
 一日中ほっつき歩いていた自分と違い、フィランは林中で起きたことを当主に報告し、指示を受けて動いていたのだろう。健康的な顔立ちをしたその様子があまりに明るすぎて、ジャドは彼を直視することが出来なかった。
「ジャド」
 フィランは呆れた様子で、サナーが座っていた席に腰掛ける。女中に注文をつけてから、フィランは渋面で頬杖をついた。
「僕に今日の仕事全部押し付けてくれたんですから。話してくれたっていいんじゃないですか?」
 当然の糾弾による居心地の悪さに腕を組んだまま、ジャドは暫く店の黒ずんだ壁の隅を見つめていた。しかし、若者は一向にその場を離れようとせず、気まずい空気は積もっていくばかり。
 フィランの気持ちも分かる。サナーの夫は窃盗犯だ。そんな中、サナーがジャドに接触したのなら、内容に興味を持つのは当然である。
 ジャドはハッと息を吐き出して、フィランを睨んだ。もう、どうにでもなれという気分だった。
「ふん。大した話はしてねぇよ」
 投げやりな気持ちで、サナーとの会話の内容を教えてやる。好きなだけ笑えばいい。そんな思いを込めて。目の前の若者のように、恋人を攫って逃げるような真似は、自分などには出来はしないのだ。
 フィランは暫く相槌を打ちながらジャドの話を聞いていた。ごく簡単な事実確認で終わると思ったジャドは、話し終えると酒を一気に呷った。馴染みの女中が用意してくれた好みの酒だったが、今日は味がよく分からなかった。
「これで全部だ。当てつけに来やがっただけって分かったろ。文句あるか?」
「……」
 肩透かしを食らったように思ったのだろうか。フィランは、僅かの間、真顔で停止していた。そして考え込むように口元を隠し、黙ってしまう。
「あんだよ、何か言いたいことでも――」
「ジャド」
 口元を隠したまま、フィランはジャドの言葉を遮った。その声音と視線が妙に醒めていることに、ジャドは微細な違和感を覚える。
 そしてフィランは、静かな声でジャドに問う。
「なぜ今すぐ彼女を追いかけないんです?」
 不意に心を直接まさぐられた感触があった。その意味が分からず、ジャドは眦を吊り上げる。
「アァ? なんでそんなことすんだよ」
 年下相手に凄んだつもりだったが、フィランは表情を消したまま、がたりと立ち上がり、卓を回り込んだ。
 そのまま自分の胸倉を掴むまで、流れるような動作に、ジャド自身ですら反応できず――。

 腕が凄まじい速度で翻り、ジャドの頬に拳が打ちつけられた。

「きゃあ!?」
 衝撃で椅子がひっくり返り、女中が悲鳴をあげる。何が起きたか認識する前に、再度引っ張り上げられた。見上げた先に、凍えるような黄金の瞳。
「当てつけに来た? どれだけお目出度い頭してるんです。あなたに助けを求めに来たに決まってるでしょうか!」
「……」
 丸々三秒、ジャドは見開いた目でフィランの顔を見つめていた。そして打たれた痛みを思い出し、ぎっと眉を吊り上げた。
「ふざけんじゃねぇ!!」
 若者の体を押し返し、逆に胸倉を掴んでやる。
「んなこた一言も言ってねぇよ! 勝手に勘違いするんじゃねぇッ!」
 お返しとばかりに突き飛ばしてやると、卓に受け止められたフィランは苦悶に顔を歪めた。しかし引き下がるつもりはないようで、怒りに目をぎらつかせながら掴みかかってくる。
「勘違い野郎はあなたでしょうが!? どこに耳つけてんですかッ、いっそ脳みその出来の問題ですか!?」
「アァ、やんのかテメェ!?」
 突然騒ぎ始めたベルナーデ家の配下たちに、賭博に興じていた者たちが一斉に好奇の視線をやる。しかし、殴り合いを始める寸前で、二人の肩をそれぞれ叩く者があった。
「あのなあ」
「テメェら」
 それまで静観に徹していた、オーヴィンと酒場の主人ベーカーであった。何時の間にやら背後に回っていた彼らは、にこやかに言った。
「いいから」
「喧嘩は」


「「外でやれッ!!」」


 フィランとジャドは場外に蹴り出された。

 すっかり暗くなった夜道で、フィランが咳をしながら立ち上がる。ジャドも収まりがつかず、腕を鳴らせる。フィランはこちらを見て、吐き捨てるように言った。
「見損ないましたよ、ジャド。まさか一人で被害者ぶるほど愚かな人だとは思っていませんでした」
「ハァ? 何言ってんだテメェ。つーか前々から思ってたんだが、テメェのその知ったかぶりが気に入らねぇんだよ、――ガキが!」
 逞しい足が力を漲らせて大地を蹴る。眼前に迫った拳を、フィランは両腕を前に重ねて防いだ。しかし勢いを殺すことが出来ず、店の前に積んであった資材に体ごと突っ込んでしまう。
 だが、フィランは唇の端を僅かに持ち上げただけだった。
「この程度ですか。全く、軟弱ですね――ッ!」
 突撃を拳で迎え撃とうとしたジャドの腕を、下から鋭く突き上げ、肩を掴むと鳩尾に膝蹴りを食らわせる。鈍い音と共にジャドが体勢を崩したところに、上から握り締めた両手を振り下ろす。
 無論、ジャドも黙ってはいなかった。
「んなろォッ!」
 膝蹴りの時に体を捩って急所を僅かに逸らしていたジャドは、頑健な足腰を使ってフィランの顎目掛けて頭突きを繰り出す。当たれば脳が揺れること間違いなしの一撃であったが、フィランはそれを避けて、素早く足払いをかけた。ジャドは、猫のように飛び上がって一旦後退した。
「おお、すげぇ!」
「なんだ、喧嘩かぁ?」
「ベルナーデの奴らだよ!」
 外で喧嘩の続きが始まったと知った賭博好きたちが次々と出てきては、どちらに賭けるかと騒ぎ出す。
「鳥頭、やっちまえ! アンタに賭けてんだよ!」
「正々堂々の勝負だァ! 面白くなってきやがった!」
「行けぇ、見た目だけ好青年!」
「誰が見た目だけ好青年です!? 僕は中身も好青年ですよッ」
 丁寧に外野に突っ込むのもフィランらしいが、それを自分で言うのもどうだろう。
 古今東西、秋の祭りに喧嘩はつき物だ。しかもフィランもジャドも、元軍人だけあって動きがその辺のチンピラとは一線を画している。喧嘩の理由などいざ知らず、陽気なヴェルスの人々は裏道に陣取り、酒を片手に二人を囃し立てた。
「チッ、どいつもこいつも。ピーピーギャーギャーうるせぇな」
 すると口元を拳で拭いながら、フィランが目を細めた。
「そうやってあなたはいくつの声を無視してきたんです?」
「――あぁ?」
 酔っ払いどもの狂騒の中、ジャドにしか聞こえないほど小さな声でフィランは続ける。
「気付いているんでしょうが。幼馴染があなたに助けを求めに来たことくらい。なのにあなたは耳を塞ぐ。肝心な現実から目を逸らす」
「テメェ……!」
 ジャドの全身から峻烈な殺気が膨れ上がった。
「テメェに何が分かる――ッ!」
 横面に思い切り殴り飛ばすと、フィランは一歩も動かずに腕でそれを受け止め、輝く瞳でジャドを睨み返した。
「知りませんよ! あなたの人生理解するほど暇じゃないです僕は! でもね――」
 身を捩った体勢から元に戻る勢いを使って、鋭い殴打を繰り出す。体重が込められた一撃によろめいた瞬間、胸倉を捕まれて引き寄せられた。
「惚れた女なら報われなくても助けてやるのが男ってやつでしょうが!!」
「――」
 足腰が動揺に揺らぐのを感じた。出会った頃から変わらない、フィランの覚悟の据わった強い眼差し。自らの足で凛と立ち、恋人の手を取ったその強さ。自分には到底辿りつくことが出来ない高みを見せ付けられて、ただ、惨めな気持ちになる。
 自分が一体何をしたというのだ。
 どうして世界はこんなにも自分を苦しめるのだ。
「テメェがそれを言うかよ」
 呟くと同時に、ジャドは至近距離にあるフィランの肋骨の下に鋭く指を突き入れた。激痛に顔を歪ませるフィランを殴り倒す。
「なんだテメェ、俺に盗みの手助けしろっつってんのか!? バカじゃねぇのか、テメェ!? そこまでアイツの為に人生棄てる義理なんざねぇよ!!」
「はっ、何言ってんですかあなた。誰が盗人になれと言いました? 助けるって言葉の意味を三回回って考えてみることですねッ!」
 転がりながらも素早く起き上がったフィランは、追撃の拳を腕で受け止めた。同時に頭を捕まれて、それを腕で引き剥がそうとする。力の鬩ぎ合いでは、ジャドに利があることを知っていて、しかし一遍の怖じすら見せずに。
「好きなら守ってやって当たり前でしょうが!? 情けないったらないですよ今のあなたの顔! ――っ」
 フィランの目が見開かれる。ジャドが一瞬四肢の力を抜いたのだ。それによって全力で組み合っていたフィランの手が滑る。次の瞬間、今度こそジャドはフィランに渾身の頭突きを食らわせた。
「テメェは女がいるからそう言えるんだろうが!?」
「――っ、どっちだろうと関係ないでしょうが! 例えティレが僕に振り向かなくたって、僕の意思は変わりませんよ!」
「綺麗事言ってんじゃねぇよ、説得力ねぇぞクソが! どうせテメェも自分のもんにならねぇって分かったら手の平返すだろうが!?」
 フィランは、一瞬だけ息を呑んだ。
「信じてくれなくたって構いませんよ。でもね」
 その言葉に込められた若者の苦悩は、次の瞬間には裂帛の気合に塗りつぶされる。
「僕はティレを全てから守ります。何があってもその気持ちは変わらない!」
「ハッ。馬鹿じゃねぇのか!? それでテメェに何の得があんだよ!? それで――」
 全てが叶う保障など、何処にもないのに。
 裏切られることの方が、奪われることの方が当たり前だというのに。
 どうして、と。
 喉が紡ぐ前に、額から血を滲ませたフィランの腕が蛇のように上腕に巻きついた。頭突きがもろに入ったはずだ。痛みで力など入らぬだろうに、――なのに、フィランは怒れる獅子のように咆哮をあげた。
「甘ったれたこと抜かすんじゃないですよ!!」
 凄まじい力に引っ張られ、視界がぐるりと宙を舞う。自分より体の大きいジャドを担ぐようにしたフィランは、勢いに任せてジャドを体ごと地面にねじ伏せた。
「っぐ……!」
 とっさにフィランの服の裾を掴んだため、フィランもジャドと共に体勢を崩して膝をつく。しかし上を勝ち取ったフィランは容赦なく両手を拳にして振り上げた。
 最後に、押し出すように呟いて。
「――自分が弱いままであることを、許してどうするんです」
 拳がこめかみに叩きつけられて、視界が真っ黒になる。地面に伏したことを知覚する間もなく、ジャドは意識を失った。

「おおっ!」
「青二才の勝利か!?」
 白熱した喧嘩に大いに盛り上がった周囲は、それぞれ歓喜と悲嘆の声をあげる。無論前者はフィランに賭けた者で、後者がジャドに賭けた者である。
「だ、誰が青二才だって……」
 肩で呼吸しながらフィランは立ち上がろうとした。しかし、不意にその体が真横に流れる。
「いうんです、か」
 どしゃり。呆気なく地に伏した若者を見て、人々は目を丸くした。
「あれ、相打ち……?」
「た、確かにモロに頭突きくらってたしなァ」
「あれで落ちなかったのがおかしいくらいだぜ」
「根性だけはあるからなァ、このあんちゃん」
 ざわめく人々の合間を縫って、オーヴィンが店からのっそりと姿を現す。熊のような体躯をした彼は、二人の姿を見て顔を手で覆った。
「あーあー。派手にやっちゃって」
「全くだな」
「ほんと、この時期の騒ぎは控えて欲しいってのに……んん!?」
 オーヴィンは自然に会話しながら横を見て、ぎょっと目を剥いた。そこには長衣で顔を隠したベルナーデ家当主ギルグランスその人が、事の顛末を見届けてうんうんと頷いていたのである。
「な、なんでここに」
 周囲に気付かれないよう、小声で話しかける。すると、当主はニヤリと笑って手の中の銀貨を見せびらかせた。
「フィランに賭けてみた」
 何やってんだよ、このオヤジ。
 突っ込む気力も失せてげんなりしていると、ギルグランスは呵々と笑った。
「良い。若者同士はこうでなくては。さて、引き上げるとするか」
 手伝え、と短く指示されて、オーヴィンはやれやれと頭を振りながら、倒れた若者たちの元へ向かうのであった。




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