-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>9話:運命の悪戯への私的見解とその対策

04.世界は、優しくない



 ちりんちりん、と雲雀亭の扉の鈴が客の来訪を告げる。慣れた様子で足を踏み入れ、胡散臭い連中に好まれた酒場の変わらぬ様子に眉を下げたフィランは、そして。
「げ」
 奥のカウンターにいる仲間たちの姿を見て――否。正確にはジャドの後姿を見て、盛大に眉を潜めた。
「あ、ぅぉーい、フィラン。こっち来てくれ」
 フィランを見つけたオーヴィンが、天の助けを見たと言わんばかりに手招きする。
 オーヴィンの隣に座っていたジャドは、数秒遅れてこちらに気付き、ゆっくりと顔を向けて。
「あぁ? フィランかぁー? あー?」
 激しく、非常に激しく酔っていた。
「……」
 フィランは、がっくりと肩を落とした。
 ――どうも、幼馴染との再会はうまくいかなかったらしい。


 ***


「ちょっとジャド!? いい加減やめなさい、飲みすぎですよ!」
「るせー!? いいから貸せやこのヤロー!」
「あーあー、ほら口の端からそんなに零して勿体無い!」
 フィランは椀から零れた酒が衣服を汚さぬようジャドの顎に布巾を当ててやる。そんな甲斐甲斐しさなど意にも介さず、ジャドは葡萄酒を水のようにがばがばと煽った。
「すげー……」
 反対側からオーヴィンが感嘆の眼差しを向ける。なんというか、葉杖持つ酒神デュオが宿ったとしか思えない飲みっぷりである。
「フィラン、アンタもよく付き合うねぇ」
 雲雀亭の主人ベーカーがカウンターごしに苦笑すると、フィランは力なく首を振った。
「こういうのには慣れてますよ。まあ、人生には飲まなきゃやってられない日がありますからね」
 妙に悟った発言に、この若者は一体過去に何があったのだろうとベーカーは思った。
 とにもかくにも、ジャドがここまで荒れるのも珍しい。
「ォイ酒が足りねーぞチクショウがァ!?」
「はいはい、ちゃんと目ぇついてんですかアナタの手元にあるでしょうが」
 若干暴言を織り交ぜつつ、フィランは友人の酒に付き合ってやることにした。何があったか知らないが、まあ、大体の予想はつく。そしてもし予想通りであるとしたら、――もう、好きなだけ飲ませてやるくらいしか慰める方法が思いつかなかったのである。


 ***


「マジふざけんなよクソがよォ!? 何が待ってたのにだ、バカじゃねぇのかバカバカしいなァええオイ!?」
「そうですね。でも近所迷惑ですからやめてくださいね」
 ジャドは灯台島へ渡る船の上でも荒れ放題であった。
「あーあー、こんなに時間になっちまって」
 オーヴィンがフィランに櫂を任せ、松明で先方を照らしながら言う。渡し守の爺が寝てしまったため、帰るには灯台を頼りに自分で船を出すしかなかったのだ。
 ジャドは散々明後日の方角にわめいていたと思えば、突然星の輝き方にケチをつけて説教を始め、暫くすると静かになった。寝たのかと思っていたが、島に着いてみると、意外と意識はあるようだった。フィランとオーヴィンは溜息をつくと、仕方なく肩を貸してやった。
「ほら、帰りますよ」
「大丈夫か?」
「……」
 虚ろな目をしたジャドは両側から支えられて億劫そうに立ち上がり、千鳥足で歩き出す。足元を松明で照らしながら、二人は背の高い酔っ払いを伴って坂道を登っていった。
「……っ」
「どうしました?」
 不意に短く喉を鳴らす音を聞いて、フィランは隣に顔を向ける。吐き気を催したのかと思ったが、どうも様子がおかしい。肩を僅かに震わせ、途切れ途切れに詰まったような息を吐いている。
「ジャド?」
 まさか、と青褪めたフィランの視線の先で、松明に照らされて、きらきらと光るものがあった。
「……ぅ、……ぐすっ」
「……」
 泣き出しちゃった。

 もしこれがティレだったら、指で涙を拭ってやり、抱きしめて頭を撫でてやったことだろう。が、相手は三十路に近いただの酔っ払いである。うわぁ……と顔を引きつらせたフィランは、オーヴィンに助けを求める視線をやった。オーヴィンは力なく首を振る。
「これは、あれだ。きっと俺らに課された神の試練だよ」
「こんな試練あってたまりますか」
 泣きたいのはこっちだと言わんばかりにフィランは訴える。しかし季節も秋、その辺に放置すれば風邪を引くことには間違いない。今すぐこの酔っ払いを捨てていきたくなる誘惑をこらえながら、二人は、仕方なく歩き続けることにした。
「くそ、……っく、……チクショウ」
「……」
 切れ切れの息の合間に慟哭が聞こえてくる。酒が入っているとはいえ、それは耳に突き刺さるようで、フィランは頬を歪めた。このまま家に放り投げて帰ることもできる。しかし、一方でフィランにはよく理解できるのであった。ただ一人で嘆くのであれば、部屋に閉じこもって一人で倒れるまで飲めばいい。しかし外で仲間の世話になるほど飲むのは、――それは、助けを求めている以外の何でもないのだ。
「ああ、もう」
 フィランが首を振ると、オーヴィンはそれだけで若者の決心を察し、松明に照らされた横顔で薄く笑った。
 二人は広場まで行って岩の一つにジャドを座らせた。フィランは自宅まで走っていって、手早く水を調達する。戻ると、ジャドは座っていられなかったらしく、岩の麓で地べたに足を投げ出していた。
「ほら、どうぞ」
 椀をオーヴィンに渡し、俯いてぼたぼたと涙を零しているジャドにも渡すと、隣に腰を下ろす。オーヴィンは水を一口だけ飲むと、岩の陰にもたれかかり、空を見上げた。今宵は聞き役に徹するつもりらしい。
 はあ、と息を吐き出して、フィランも暫く夜の風に聞き入った。ジャドに付き合って随分飲んだからだろう。フィランは酒が抜けるのが早い方だが、まだ少し頭がぼんやりとする。じっとしていると、服と皮膚の間にわだかまる熱が、ゆっくりと風に薄れていく。硬く冷たい岩は、酒を飲んだ身体には心地よかった。
「何があったんです?」
 問いかけへの返答には、暫くの時を要した。けれど、時が伸ばされてしまったような夜更けにおいては、焦りも苛立ちも感じない。背中を丸めたジャドは、俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「テメェ、何で軍辞めたんだよ」
 低く、掠れた声。フィランは目を瞬いた。そして、思い出す。ジャドもまた、過去は帝国軍に在籍していたのだ。
 帝国軍の軍役は基本的に二十五年で、五体満足である限り満了前の除隊は許されない。裏を返せば、フィランもジャドも、普通でないが故にこの地にいるのだった。
 フィランは椀に張られた水に視線を落とす。従軍時のことを問われるのは、少し辛かった。
「――嫌になってしまったんですよ。国のために戦うことが」
「そんなんでよく辞められたな」
「僕は大隊長でしたから。後釜なんていくらだっていたんです、辞表も正式に受理されましたよ」
「……そうか、テメェは貴族だったな」
 力なくジャドは呟く。貴族にとって、帝国軍とは熾烈な競争社会である。得た地位を捨てるなど、自ら谷底へ飛び降りるのと同じだ。だがフィランは飛び降りた。何もかもを捨てて逃げ出した――。
「あなたこそよく辞められましたね。属州軍だったんでしょう?」
「歩兵隊長だった」
「え?」
 フィランが聞き返したのは、単語が聞き取れなかったからではない。――その地位が予想外に高かったためだ。
「冗談じゃねぇよ」
 暗がりに隠れるように、ジャドは目蓋を掌で覆う。
「冗談じゃねぇ」
 まるで現実を拒絶するかのように、ジャドは呻いた。


 ***


 幼い頃は、誰よりも早く走れたものだった。
 村で競争すれば、誰も自分に追いつける者はいなかった。
 低い草原に覆われた山の合間、羊と山羊を飼いながら細々と暮らす集落。それがジャドの生まれ故郷だ。
 空気の薄い土地に育ったジャドは、山羊より軽やかに野山を駆け巡った。
「ちょっと、待ってよジャド!」
 逆に一番遅かったのが幼馴染のサナーだった。
「のろまな奴」
「ちょっと、なんか言った!?」
「別に?」
 サナーの息が切れているのをいいことに、先導するジャドはにやにや笑う。先に丘について、岩の上で足をぶらつかせていると、ようやくサナーは顔を真っ赤にして追いついてくるのだった。
「あんた、まるで猿ね……」
「じゃあサナーは亀か」
「なによ、カメって」
「知らねぇの? この前旅のオッサンが言ってたぜ。海にいて、平べったくて、すんげぇうすのろなんだってさ」
「それってどういうことよ!」
 ようやくジャドにからかわれたのだと理解したサナーは、顔を益々赤くする。ジャドはニッと笑って岩の上に立った。そして、真剣な眼差しで辺りを眺め下ろす。
 代わり映えのしない景色。ようやく自分たちが食べる分しか生み出せない、貧しい村。ジャドはそんなものよりも、見たい世界があった。十六歳で入隊を許される帝国軍に入り、剣を手に蛮族と戦いたかった。吹き付ける風を全身で受け、ジャドは目を細める。
「世界がオレを呼んでるな」
「バカみたい。あんた、ほんとに兵隊になるの?」
「たりめーだ。金持ちになれるぞ。テメェにもうめぇもんたらふく食わしてやる」
 ジャドはそう言って、岩の下の少女を見下ろす。すると気の強そうな瞳でサナーは見返してきた。
「何言ってんのよ。誰でも入れるわけないんでしょ? アンタなんて一発で落とされるわよ」
「バーカ。この村で一番足が早いのは誰だと思ってんだ」
「バカはどっちよ。知らないの? 兵隊になるには文字が読めなきゃいけないのよ」
「へっ」
 ジャドが目を剥くと、サナーは呆れたように肩を竦めた。
「そういう試験もあるって、お父さんが言ってたわ。お生憎様」
「ばっ、……そ、そのくらいなんとかすらぁ」
 ジャドは気まずそうに頭をかいた。しかし、サナーの横顔を見ていると、そう簡単に諦められないのである。みすぼらしい農村の服、汚れた頬、か細い腕。それらはジャドの胸の決意を益々固くさせる。
 少し前に、軍の大々的な移動があり、ジャドの村の近くを大隊が通ったことがあった。ジャドとサナーをはじめ、子供たちは帝国軍の姿を一目見るために、草原の端で待っていた。果たして軍がやってきたとき、子供たちは目を丸くしたものであった。
 目の前を通る軍の輝く帷子や盾、真紅の外衣。物の具をつけた逞しい馬。何もかもが息を呑むほど美しかった。立派な身なりをした先頭の司令官がジャドたちの姿を見止め、軽く片目を閉じて笑ってくれた瞬間、まるで恋をしたようにジャドは頬を赤くした。
 しかし、ある一人の兵士が小さく呟いた言葉もまた、ジャドの胸に突き刺さったのである。

『汚ぇガキどもだな』

 染料もろくにとれない山間の集落。泥と風雨に晒されて、自分たちの姿がどれほどみすぼらしかったか。きらびやかな帝国軍の姿を見たが故に、ジャドは思い知るのであった。
 帝国軍に入れば、命の危険に晒されるとはいえ、衣食住が保障され、更に俸給も出る。二十五年働けば解放されるし、元帝国兵と言えば職には困らない。サナーを都会に住まわせ、綺麗な服を買ってやることだって出来る。
 帝国軍に入れば。
 帝国軍に入れば、その行く手は光輝いているのだと。
 だからジャドは、村を飛び出したのだ。


 ***


「あの少年は?」
 各地に置かれた帝国軍の拠点の一つで、司令官は足を止め、訓練場を興味深げに見つめた。
 行われているのは新兵の訓練であり、ちょうど髪を逆立てた新兵が、組み手で相手を投げ飛ばすところであった。
「ええ。今年一番の新入りですよ」
 視察に付き添っていた部隊長が、嬉しそうに答える。
「中々のものです。山育ちだけあって、足腰が強い。特に足の速さには目を見張るものがありましてな。まあ、筆記の方はぎりぎりでしたが」
「あぁ、確かに頭は良さそうではないな」
 司令官と部隊長は苦笑しあった。帝国軍では規律や命令が全員に行き渡るよう、入隊に当たって識字力を必須としている。故に入隊試験には筆記も含まれるのである。
「だが、そうだな。動きは悪くない。まるで山犬のようだ」
 司令官は新兵が次々と勝ち越していくのを見届け、満足げに頷くのであった。


「ジャド。司令官が貴様を褒めていたぞ」
「マジか――じゃねぇ、本当ですか!」
 ジャド(言葉遣い矯正中)が目を輝かせると、部隊長はニッと口の端を上げてみせた。
「本国の貴族の目に留まっただけでも大したものだ。誇りに思うがいい」
「っしゃー! じゃあ今日の掃除当番免除に――でっ!?」
「アホか」
 部隊長が調子に乗りかけた新入りを拳で黙らせると、周りの者はどっと笑った。
 ジャドは本国の市民権を持っていないため、入れたのは正規軍ではなく属州兵からなる補助部隊である。戦闘では危険な前線の基地に置かれることが多く、その癖与えられる武具は正規軍ほど立派ではない。しかし生活と身分が保障されているため、不満はなかった。それに、下手に本国出身の都会人と混じるよりは、地方出身者同士の方が組織の輪として安定するものだ。山育ちの少年は、負けん気の強さと擦れていないところが上官たちに気に入られ、すぐに軍に馴染んでいった。

 厳しい規律で守られた軍の生活は苦難も多く、死を間近に見ることも多かったが、仲間の存在がジャドの心を強くしてくれた。それに、初めて俸給を貰ったときの喜びは今でも忘れられない。自分の力で稼ぎ、金を得るという、ただそれだけのことがこの上なく嬉しかった。貰った金の内、小遣いの分を自分で決め、何を買おうかとあれこれ考えるのも楽しかった。
 両親とサナーには頻繁に手紙を書いて近況を知らせた。毎回手紙と共に、都市で買った珍しいものを贈った。

 帝国軍で最も基本的な武具である肘ほどの長さの剣を携え、ジャドはめきめきとその技を鍛えていく。
 国の為に戦うなど、途方もないことは考えられなかった。
 ただ、自分の力で生きていると胸を張って言える日々が嬉しくて。
 苦楽を共にした仲間たちと共に過ごせる日々が嬉しくて。

 軍に入って七年目、ジャドは若くして、二十名の歩兵をまとめる歩兵隊長の任に就いた。
 彼に任されたのは新入りの中でも、規律からはみ出しがちな者たちだった。情に厚く面倒見の良いジャドが、彼らの教育を任されたのである。
「まーったく、年寄りの連中め。面倒くせぇの全部俺に押し付けやがった」
 始めは毒づいたジャドであったが、中々どうして部隊をうまくまとめあげたのである。粗野でがさつだが、話に耳を傾けてくれる歳の近い隊長は、癖のある兵士たちに慕われた。
 しかし同時に、人の上に立ったそのとき、人は知らねば良かった歪みを見ることもある。
 補助部隊の上層部に、軍の金を着服している者がいるのだと、ある日ジャドは部下から相談を受けた。軍に入りたての、生真面目で曲がったことを嫌う少年だった。彼は正規軍の隊長が金庫の金をそっと懐に入れてしまうところを目撃したのだという。
 すぐに上層部に申し出るべきと訴える部下の言を、ジャドは真剣に聞き、親しい上官に報告した。
 しかし上官は渋面でそれを聞くと、捨ておくようにと命じたのであった。世の中には善人もいれば悪人もいる。水は清すぎれば魚が住むに適さない、といい含めて。
 これが非常時であれば違ったのだろうが、ジャドが当時駐在していた基地は割と平穏で、軍の金が少しくらい個人の懐に流れ込んだところで、大した問題ではなかったのだ。
 ジャドは、生まれて初めて板挟みにされる苦しみを味わった。真剣な顔で断罪を求める部下と、目を瞑れという上官。確かに上官の言うことは理解できた。問題の隊長は正規軍の所属である上に貴族家の出であった。属州軍の人間が、そう易々と手を出せる相手ではない。下手をすれば、ジャドなど簡単に潰されてしまう。――任期を満了して、サナーを娶る夢を、打ち砕かれてしまう。
 けれど部下は真っ直ぐな眼差しでジャドを見据える。
 ――貴方は、正義を貫かないのですか。
 その言葉が心に響かなかったといえば、嘘になる。
 けれどジャドが本当に望んでいたのは、変わらぬ日常で。
 あの時、本当に自分が正義を信じていたのか。それとも、ただ日常に戻りたかっただけなのか。自分でもはっきりと判断することが出来ぬまま……。
 ジャドは迷いながらも、上層部が動かざるを得ない証拠を掴もうと、部下に乞われるままに動き始めた。
 結果の悲惨さは目も当てられなかった――否。
 それがジャドにとっての「終わり」であった。

 隊長の罪を暴こうとした少年は、逆上した隊長に殺された。
 部下の無残な遺体を見た、ジャドは。


 ***


「……で、正規軍の隊長を殺して逃げたんですか。よく逃げ切れましたね」
 フィランは素直に驚いていた。帝国軍において規律の遵守は絶対であり、特に脱走兵に容赦はない。草の根を分けて探し出され、見せしめに生きたまま魔物に食われるのが常だ。もしかすると真実を知る誰かが手を回したのかもしれないが。
 追っ手から逃げたジャドは、半死半生でヴェルスに落ち延びた。だが職もなく浮浪していれば、奴隷商人の格好の餌食になる。最後の意地で逃げていたところを、通りがかりのギルグランスに拾われたのだという。
「オレは、あいつを無視すれば良かったのか?」
 ジャドは空虚な、それでいて痛々しい呟きを歯列から漏らす。
「そうすればサナーに合わせる顔もあったのかよ。何もなかったフリをして、そのまま軍にいれば良かったのか。あいつを――ちゃんと守れなかった自分を、全部全部見ないふりをして!」
 頭を抱えて、拒絶するようにジャドは首を振る。
「無理だ」
 短く、彼は慟哭する。
「オレには、無理だ」
 酒が回りすぎたのだろう、何度も無理だと口にして。
「なんでだよ、冗談じゃねぇ」
 肺腑に押し込めていた嘆きを搾り出すように。
「兵隊やって、金貰って退役して。女房作って子供が出来て。そういう人生が当たり前みたいにあるもんだと思ってたんだよ」
 声は震えて、掠れて、今にも潰えてしまいそうで。
「なんでなんだよ」
 もう、光は程遠い。

 フィランは月明かりにぼんやり浮かぶ影をじっと見つめ、力なく首を振った。身体から体温が抜け落ちていく。まるで立ち上がる力を奪うように。
「そうですね」
 ジャドは肩を震わせている。ジャドは部下を思う上官であったからこそ、最後の最後で己の夢を――幼馴染を選ぶことが出来なかったのだ。根は優しい男であるから。けれど――。
「でも、世界は優しくないんです」
 やわらかい声が紡ぐ絶望は、闇に染み入って消えていく。
「思い通りに行くことなんてない。みんなが自分のために、自分の人生を生きているんですから。だから、酷いことはいくらだってあるんですよ」
 オーヴィンは空を見上げたまま、岩のように静止している。ジャドは額に指をやって俯いている。その様を痛ましく思う一方、フィランは考えるのだ。そんな悲劇なら、この世界に星の数ほど転がっている。世界の理は否定と喪失だ。いつ自らの足元が崩れようと、助けてくれる者がいるとは限らない。
 いつか地獄のような砂漠の只中で、フィランは思い知ったことがある。世界は眩い煉獄だ、と。
 だから受け入れるしかないのだろうと、フィランは思う。

「酷い世の中です」
 その嘆きが天に届けばどれほど良いか。

 けれど届かないことは二人とも分かっていて。嗚咽をこらえる掠れた吐息を聞きながら、フィランは目を伏せた。




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