-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>9話:運命の悪戯への私的見解とその対策

03.運命の出会い、その二



 その昔、誰よりも早く走れた頃があった。
 熱い体で風を切り裂いて走る。丘も谷も踏み越えて。子供たちの先頭に立って。
 誰よりも先に丘に上って見た世界。山々も草原も広く自由で、無限の可能性が広がっていて。
 あの頃は、きっと果てまで走っていけると思っていた。

 いかなる困難もこの足があれば乗り越えていけると信じていた。

 苦しみも哀しみも飛び越え、風のように走り抜けていけると、信じ続けていた。


 ***


「ねぇ、なんで黙ってるのよ。折角お仲間が気を利かせてくれたっていうのに」
「……べ、別にお仲間って柄じゃねぇよ」
 昼間から景気の良い居酒屋の片隅である。むっつりと隅の方を見つめつつ、ジャドは気まずそうに返した。
 十年来の再会を果たした幼馴染のサナーは、ジャドの隣に腰掛けて、水飲みを手で弄んでいる。
 フィランはジャドを置いてポマス博士の元へ向かったため、ここにはいない。曰く、幼馴染との邂逅に自分が水を差すわけにはいかないとのこと。いや、今考えればあの表情には若干下世話な感情が混じっていたと思う。ムカつくので次会ったら殴ろうとジャドは心に決めるのであった。
「それにしたって、なんであんたがここにいるのよ。軍にいたんじゃなかったの?」
 悶々としていると、サナーにぽつりと問われる。それは胃を鷲掴みにされるような問いで、ジャドは舌打ちしたくなった。まさか半ば脱走するように軍を辞めたなど言えるものか。――あんな大見得を切って故郷を飛び出したというのに。
「う、うるせぇよ。テメェこそなんでここにいるんだよ」
「……別に何だっていいじゃない」
「別にってテメェな――」
 ジャドは隣に視線をやって、思わずどきりとしてしまう。長い髪を一房だけ編みこんで後ろに流したサナーの横顔には、昔日にあった幼さの代わりに大人びた装いがある。化粧をしているのかもしれない。野山を駆け巡って陽に焼けていた肌は、今や柔らかい色気さえ感じさせる。

『こいつと最後に会ったのは……十五んときで、えーと、何年前だ?』

 やや現実逃避気味に思いを馳せるジャドである。
 サナーもちらちらとジャドの様子を伺っては溜息をついたり、苛立ったように目を閉じたり、何かを言いかけては言い出せないでいる。ジャドが故郷を飛び出したとき、お互いにまだ少年少女だったのだ。十年以上の時を隔てた二人の合間は、まるで錆び付いてしまったかのようにぎこちない。
 言葉を探している内にジャドは無意識に首飾りを触っていた。それを見たサナーは瞠目し、眉を潜めた。
「やだ。あんた、まだそんなの持ってたわけ?」
「あぁ?」
 ジャドは片眉を上げて返し、そして自分の手に収まっていたものに気付いて顔をしかめる。円形の木彫りに少量の金属を打ち付けた安っぽいお守りであった。太陽神を象った、武運を高める首飾り。
 それは故郷からの出立の日、サナーが贈ってくれたものであった。軍へ入るジャドを敵の矢から守り、その刃が研ぎ澄まされるようにと思いを込めて。
 ――褪せた情景が溢れ出してくる。旅立つ自分を見送る、今にも泣き出しそうなサナーの笑い顔。そんな少女に向かって、必ず立派になって、そして。

 お前を嫁にすると約束した、無知な自分と。

「……」
 ジャドは頭を抱えたくなった。まさか今日この日まで肌身離さず身につけていたなど、この状況で言えというのか運命の女神たちは。
「信じられない」
 サナーはがっくりと肩を落とし、手の平を項垂れた額にあてて首を振った。流石にムッとして口を開きかけたとき、丁度酒場に入ってきた若い男がこちらを見て怪訝そうな顔をする。サナーはそれに気付くと、思い立ったようにすくっと立ち上がった。その様は思いがけぬ決別を物語っており、ジャドは呼吸を止めた。
 サナーは気の強い眼差しに弾劾を込め、ジャドを睨みつける。
「信じられえない。ええ、信じられないわ。便りも出さなくなったあんたが、いつの間にか軍を辞めてたことも。こんな田舎でのうのうと暮らしてたことも!」
「――っ、オイ、テメェ」
 負けじとジャドも立ち上がるが、サナーの眼光の強さに続きが出てこない。痴話喧嘩かと好奇の視線を向ける周囲など気にする様子もなく、サナーは眉を吊り上げた。そして放たれた言葉は、鋭い矢のようにジャドの胸に突き刺さった。
「あんたがそんなに情けない男だったなんて、思ってなかった」
「っ、待てよ!?」
 掴もうとした手を軽く払いのけられる。故郷にいた頃にはなかった他人の扱いのうまさ。その仕草でさえ、心をぐっさりと抉る――。
「サナー」
 名を呼んだ。拳を握り、歯を食い縛る。何かを言い返さなければいけない。しかし何を言ってもただの言い訳にしかならないことを、ジャド自身が一番よく分かっていた。
 サナーはふんと鼻を鳴らして背を向け、僅かに視線だけをジャドに向けた。
「バカみたい。良かったわ、あんたみたいのをさっさと見限って」
 言い捨てると、さっさと出口まで歩いていってしまう。
「お、オイ」
 追いかけたジャドは、サナーの行動にぎょっとした。サナーは出口に突っ立っていた若い男に遠慮なく近寄ると、その腕に自らの腕を絡めたのだ。この展開には周囲も驚いて、半口を開けて見守るしかない。
「あたしね」
 ジャドとサナーの視線がかち合う。幼い頃から変わらない、気の強い眼差し。幼い頃と変わってしまった、抗いようのない現実。ジャドは気圧されて、空気を食むしかない。
 酒場の空気を飲み込んで、サナーはきっぱりと言い切った。

「あたし、結婚したの」
 頭が、真っ白になった。

 世界が遠のいた心地を味わうジャドを、サナーは満足げに眺める。
「今日は夫の仕事先がここだったから一緒に来ただけよ。すぐに他の都市へ行くから、安心してちょうだい」
 逆光となったサナーの隣で若い男が困ったように眉を下げた。
「さ、サナー? これはどういうことなの?」
「いいの! 行きましょ、あたし、こんな辛気臭い男のいるとこじゃなくて、他の店に行きたいわ」
 サナーは若い男の頬に口元を近づけて言うと、ジャドに流し目をくれて刺々しく言い放った。
「さよなら」
 荒っぽく閉まる扉の音が、ジャドから救いを奪っていく。


 しーん。


「な、なあ。誰か声かけてやれよ」
「酒でも奢ってやるか?」
「やめとけ、今はそっとしといてやんな」
「可愛そうになあ」
 元の喧騒が戻ってきても、ジャドは未だ出口に向かって突っ立ったまま。そんな男を哀れんで、ひそひそと会話が繰り広げられるのだった。


 ***


 そんな絶望のどん底に叩きつけられた男の悲哀など知りもせず、島の方では抜けるような青空が広がり、穏やかな昼下がりに包まれていた。
「おい」
 ティレが桶を手に提げて林中を行くさなかのことである。顔を向けると、途中の岩に妖精が腰掛けているのが目に止まる。
「……」
 ティレは、ああ、妖精がいるな、と思った。
「素通りすんなッ!?」
 ぽけっと様相を眺めながら歩いていくと、青筋を立てたクロイスに呼び止められる。
 立ち止まったティレの前に回りこんで、クロイスは胸を張った。
「お前な!」
 けれどいざ話そうとすると言葉が出てこないようで、気まずそうに目を泳がせる。
「えっと、なんだ、その」
 ティレは歩き出した。
「だから待て!?」
 クロイスは羽根を翻してすっ飛んでくる。そしてこちらの顔を真剣な顔つきで見つめると、彼は安堵したように眉を下げた。
「よし、元気そうだな」
 ティレは目を瞬いた。
「元気そう?」
「気になってたんだよ、変な痕が残ってないか」
「どうして?」
「どうしてって、当たり前だろ。も、もちろん俺様が治したんだから大丈夫に決まってるがな、念のためってやつだ。これからも、おかしなことがあったら俺様に言えよ」
 クロイスはそう言って頬をかくと、ぶっきらぼうに問いかけてきた。
「お前、名前なんていうの?」
「……ティレ」
「ティレ、か。そういやあの物騒な男もそう呼んでたな。よろしくな、ティレ。俺様の名前は知ってるか?」
 ティレは少し考えてから答えた。
「フィランが言ってた、妖精は、緑のと青のがいるって」
「あのやろう!?」
 島の大半の人間から同様に覚えられていることなど露知らず、一人憤るクロイスである。
「いいか! 俺様はクロイスだ、よく覚えとけよ!」
 ぴっと指差され、ティレは頷いた。
「クロイス。覚えた」
「しししっ。素直な奴だな、お前。今日も水汲みか?」
「うん」
 ティレとクロイスは連れ立って穏やかな林道を歩きだす。暫く歩くと、行く手から再びクロイスから声をかけられた。
「オイ、足元ばっか見るなよ。前向こうぜ、前」
「前?」
 伏せ眼がちだったティレは、少しだけ顔をあげた。
「もっとだよ、もっと」
「……マリルにも同じこと言われた」
「あたりめーだ、萎れた花みたいだぜ、お前の歩き方」
「頭が痛かったから」
「今は違うだろ?」
 胸を突かれた気分で、ティレは何度か目を瞬いた。正面を向いたその先で、羽根を閃かせたクロイスが無邪気に笑う。
「どうだよ、変わった世界は?」
「……」
 顎をあげて、辺りをゆっくりと見回す。
 さわさわと風がそよぐ。枝葉が囁くように揺れる。小鳥や虫が賑やかな歌を歌う。濃い緑や土の黒が、涼やかに匂い立っている。
「風が吹いてる」
 気がつけば、立ち止まっていた。高い天蓋を見上げ、息を吸い込む。
「涼しい。きれいな音。いい匂い。心地いい」
 眼を開き、とつとつと、感じるままに声を出す。以前はそれが、たまらなく苦痛だったのに。
「……ふしぎ」
 クロイスは七色の羽根を揺らし、楽しげに宙を舞った。
「ししし、そりゃいい。そうだよ、世界は不思議だらけだ。だから俺様は旅してんだ――って、おい!?」
 風に導かれたような気がして、気が付けば歩き出していた。そのとき、足が木の根に引っかかった。立て直す間もなく、盛大に転倒した。
「オイ!?」
 しかし、草が群生した地帯であったため、あまり痛みはない。手をついて勢い良く起き上がると、クロイスはヒッと息を呑んだ。
「お、おい……? どうしたんだよ」
「痛い」
「そりゃ痛いだろ!? なんだ、怪我でもしたか!?」
 と、蝶がひらひらと目の前を通り過ぎる。綺麗だったので手を伸ばし、立ち上がって後を追う。
「待てよ!?」
 泉に辿り付くまで、普段の五倍は時間を要した。
「お前なぁ……」
 ティレは泉に到着すると、一度辺りを見回し、精霊たちの気配が最も多い場所で膝を折って水を汲む。彼らは清浄な水を好むからだ。
「わぷっ!?」
 ティレの肩口に腰掛けていたクロイスは、屈むと同時に渦巻く髪に背後から襲われていた。足をじたばたさせるクロイスに絡まる髪を見て、ティレは動きを止めた。
「……」
 少し考え込み、もう一度屈んで泉に自分の顔を映してみる。横で再度妖精が悲鳴を上げるのを他所に、ティレはじっと己の姿を見続けた。毛先を指で触り、そして、ぱっと立ち上がる。
「どわ!?」
 少女は、肩から妖精が転げ落ちていくのも気付かず走り去った。
「お、おいバカ待てよ!?」
「見つけましたよ」
「ひぃ!?」
 ぬらりと背後の茂みから立ち上がる影の声に、産毛が立つ思いで飛び上がる。そしてクロイスはその正体を確かめた。確かめてしまった。
「ふふふ、こんなところにいらしたのですね」
「げっ、変態博士!?」
 羽根を翻して逃げようとした目の前に、しゅたん、と飛び上がったポマス博士が舞い降りる。
「ちょ、てめぇ人間かよ!?」
「お待ち下さい! ちょっとお話を頂くだけです! あっ、あと、できれば羽根の一部を切り取らせていただければ、駄目ならせめて髪だけでも!」
「そんな怖ぇこと出来るかーーーッ!?」
 もうこんな島やだ、とクロイスは心の底から思うのであった。


 ***


 小鹿のような足取りでティレは灯台島を走っていく。服の裾を風になびかせ、淡い若藤色の髪をやわらかく弾ませながら。
「あらあら」
 軒先で花を愛でていたクレーゼが、その様を見て眩しそうに目を細める。
「なんだか元気になったわね」
 古びて朽ちかけた集落を少女が走る姿は、まるで天を統べる神々に祝福されたように軽やかだ。
 そのとき、風に乗って聞こえた歌声に、老女はふと目を瞬く。視線をやると、岬の方に小さな影が立っているのが見える。
 そしてクレーゼは、また心地良さそうに目蓋を閉じるのであった。
「そういえば、もうそんな季節なのねえ」

 一旦家に戻って取ったものを握り締め、ティレは岬に立つマリルを見上げた。マリルは胸に手を当てて歌を歌っている。
 まるで心を溶かすような、柔らかく優しい歌声であった。物悲しげな旋律が、風に乗って秋のヴェルスへと染みていく。
 近付いていくと、マリルはふと歌うことをやめて振り向いた。聞かれていたことを恥らうように赤面しながら、マリルは首を傾げた。
「ティレ。どうしました?」
「……」
 ティレは微動だにせずにマリルを見つめる。
「ティレ?」
「……」
 ティレは穴が開くほどにマリルを見つめる。
「あの、ティレ?」
「……」
 そして、ティレは。
「ひゃ!?」
 ティレは突如として持っていたものをマリルの鼻先すれすれに突き出した。一歩後ずさってマリルが確認したそれは、鞘に収まった台所用の小刀である。
「きって」
 ティレはぽつりと言う。
「は、はい?」
「きって」
「……」
 暫し唖然としていたマリルは。
「い、いけません!」
 先ほどのティレと同じくらい突発的に、手首に手刀をくらわせてくる。そして、小刀を取り落としたティレの肩を掴んでぎりぎりまで顔を寄せてきた。
「何を考えてるんですか! 命を粗末にしてはいけません! あなたが亡くなったらフィランがどれだけ悲しむか分かっているんですか!?」
「……」
 必死の形相で迫ってくるマリルを前に、ティレはなにかがちがう、と思うのであった。


「……あの、本当に切るんですか?」
 誤解が解けるまでに少なからずの時間を要してから、二人は灯台島の外れの小川を訪れていた。マリルは今ひとつ気が乗らず、よく磨いだ短剣を手に眉を下げる。ティレは身近な岩に腰掛けると、背を向けてマリルに頭を任せるのであった。今すぐにこの髪を切ってくれ、と。
 ティレの淡い藤色の髪は島に来て以来手を入れておらず、今は肩にかかるほどに伸びている。それを元通りに切って欲しいという彼女の要望は、マリルにとって信じがたいものだった。
 髪は女の命である。美しく長い髪は全ての女の憧れであるし、自らのそれに日々手を入れることは女の誇りとも言えよう。だからこそ断髪が女性にとっての懲罰になりえるのだ。
 マリルは初めてティレの少年のように短い髪を見たとき、その様を痛ましく思ったものだった。断罪されたのか、事故で失ったのか。駆け落ちという経緯もあり、怖くて聞くことができなかった。だから、早く彼女の髪が伸びるようにと影ながら祈っていたというのに。
 手を出さないマリルを訝しんだか、ティレが不思議そうな目線で振り向く。マリルはごくりと唾を呑んでティレに近付き、そっと髪に触れた。子猫のようにふわふわとした美しい巻き毛だ。こんなものを切るなど、花を戴く美の女神ハリュモナに祟られそうである。
「伸ばした方が可愛いと思いますよ?」
 ティレは僅かに眉をあげ、そして考え込むように瞳を伏せた。
「……たい」
「はい?」
 マリルは少女の声を聞こうと耳を澄ます。すると、予想外の返答が聞こえてきた。
「おばあさんみたい」
 瞳を見開く。ティレは憂いを乗せて自分の白っぽい藤色の髪を触っている。
 思わずマリルは、ぷっと吹き出した。
 ――なんだ。そんなことを気にしていたのか。
「……?」
「あはは。ティレも女の子ですね」
 ティレの少女らしい一面を垣間見れたことが嬉しくて、マリルはティレの隣に腰掛けてその顔を覗き込んだ。
「マリルはティレの髪、とても綺麗な色だと思いますよ」
「……」
 ティレはぷるぷると首を横に振る。マリルは苦笑しながらティレの髪を指ですいた。
「どうしても短くしたいんですか?」
 ティレはこくりと首を縦に振る。マリルはティレの横顔を見ながら考え込んだ。初めはぎょっとしたが、よくよく考えれば短髪も見せ方を変えれば可愛らしくなるかもしれない。そうだ、この際化粧もしてやろうか。マリルは一つ頷くと、にっこりと笑ってみせた。
「分かりました。可愛くしてあげますから、任せてくださいね」


 ***


「……あれ?」
 フィランは川原にたむろう二人の少女を見つけて立ち止まる。ポマス博士の助手にダナラスの日記を渡し、ジャドの様子でも見に行こうかと歩いていたところである。
 何をやっているのだろうと近寄っていくと、マリルが真剣な表情でティレの正面に座り、小物入れの籠を膝に、指でティレの頬をなぞっている。驚かせないようにわざと足音を立ててやると、マリルがまず気付いた。そしてティレもまた――こちらを、見る。
「やあ、二人とも何やっ……」
 フィランの声が、途切れた。
 こちらを向いたティレの瞳。ふんわりとけぶる長い睫。僅かに憂いの影がかった目蓋。花びらを浮かべたように色づいた頬。
 顎の辺りまで切られた髪が甘く揺らめく様は美少年のようでもあるが、品格を失わないのはその清廉さのためか。
 そうしてやわらかい桃色の唇が、名を紡ぐ――。
「フィラン」
「ぶっ」
 フィランはあえなく鼻血を出した。
「わあっ!? 大丈夫ですか!?」
 元帝国軍の貴族が見るも無残に卒倒しかける様を、立ち上がったマリルが慌てて支えてやる。
「ご、ごめん」
 フィランは鼻を押さえながら、改めてティレと向き合った。花のような、という言葉がこれ以上当てはまると思ったことはない。
「とても綺麗だよ、ティレ」
 言葉だけとれば甘ったるい恋人の囁きだが、指の間から溢れる鼻血が全てを台無しにしている、とマリルは思った。
「マリルにしてもらったのかい?」
 ティレが頷くと、マリルは手を後ろにやって笑った。流血沙汰になるとは思っていなかったが、喜んでもらえたのは素直に嬉しい。
「ティレにはもうちょっと紅い色を入れたいんですけど、手持ちがないんです。お祭りまでには用意しておくんで、もっとおめかししちゃいましょう」
 マリルの足元の籠には、葉に包まれた化粧品が転がっている。化粧品は金持ちにしか持てない代物だが、薬の調合で余ったものを流用して作っておいたのであった。
 本来は自分のためのものだったが、こう喜ばれると、もっとティレのために調合してやりたくなる。
『お財布にも余裕があるし……』
 マリルはうん、と頷くと、籠を拾い上げた。友人のために何かが出来ることがこんなに嬉しいことなのだと、今までは知らなかった――。
「マリル、都市の方まで行ってきますね!」
 日の傾き具合を見るに、薬屋の婆はまだ店を開けている筈だ。恋人たちに手を振って、マリルは髪を翻して駆け出した。


 ***


 風が頬を優しく撫でていく。幼い頃はただ煩わしいだけでしかなかった喧騒が、今はとても心地よい。
 マリルはなびく髪を耳にかけながら、行き交う人々を眺めて目を細めた。初めはただの殺風景な地方都市にしか思えなかったヴェルスが、今は揺り篭のように温かくみえる。
『こうやって皆がいてくれるからかな』
 マリルは湖の向こうに横たわる灯台島の景色を思い起こし、目蓋を閉じた。灯台島でマリルは多くの出会いと別れを繰り返した。優しく自分を迎え入れてくれたクレーゼ、ひょうきんな島長、医術の師となったミモルザ、ベルナーデ家の面々――。そうした人との繋がりが、マリルの心に力を与えてくれる。自分のためでなく、誰かのために生きることが、胸に希望と勇気を分け与えてくれる。それが、苦しいほどに嬉しく愛おしい。
 あちこち店を回り、祭りの準備をする人々を眺めていたら、陽が西の果てへ沈む時間になってしまった。人々は荷を抱えながら、それぞれ家や宿へ引き上げていく。風の女神に優しく促されるように、マリルも灯台島へと歩き出した。
「わっ」
 荷車を引く牛を避けようとしたところで、影から歩いてきた旅人とぶつかってしまう。
「す、すみませ……」
「マリルーナ」
「え?」
 心臓に、直接手を触れられた感覚であった。突然知らない声で本名を呼ばれて、マリルは同じ背丈のその少年の顔を見つめた。


「――」
 世界が美しい黄金色に輝いている。まるで、悪夢を呼び起こすかのように。


 腕の中から、布で包んだ薬草が落ちていく。
 足元が崩れていく音がする。
 少年が立っていた。
 煉瓦色の髪、黒に近い灰の瞳。
 自分と瓜二つな顔が、そこにある。
 鏡を見たようなその様に、嘘だと呟いた声は掠れて、音にすらならず。
 少年の口元が、ふんわりと笑う。


「マリルーナ……姉さん。姉さんだよね?」

 世界がぴたりと停止した。
 悲鳴も何もかもを飲み込んで、指先軽やかな運命の女神は微笑する。




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