-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>9話:運命の悪戯への私的見解とその対策

02.運命の出会い、その一



「あら、ベルナーデん家の人たちじゃない!」
 広場で織物を売るベラに声をかけられて、男二人はぎょっと肩を飛び上がらせた。
「な、なななななんだベラさんかよ」
「どどどどどうも良いお日柄で」
 振り向いたジャドとフィランは必死で平静を装うが、その声は完全に上ずっている。ベラは怪訝そうに眉を潜めた。
「なんだい、大の男がそんな顔して。どこ行くんだい?」
「ひぅ!?」
 珍しくフィランが動揺を露に奇妙な悲鳴をあげる。益々これはおかしいと、ベラは勘繰りの視線を二人に向けた。
「なーんかありそうだねぇ?」
「べ、別に何でもねぇよ!」
 ジャドは、逃げるように背を向けて歩き出した。フィランもこそこそと後に続く。
 後に残されたベラは、腰に手をやりながら、男たちの後姿を見送るのであった。
「……なんだろうねぇ?」


「僕は、行きたくないんです」
 この世の真理を告げるかのごとく、フィランが言う。
「あぁオレだってテメェと行くなんざ死んでも御免だよクソが」
 ジャドも半ばやけっぱちの様子で告げた。しかし結局二人は暫くの沈黙の後、盛大に溜息をつくと、のろのろと目的地へ足を向ける。
 彼らの行く先。それは、通称「猫の道」と呼ばれる、旧市街に程近い細道であった。
 いや。別にそこに猛獣が潜んでいるというわけではない。
 しかしフィランはそこに行きたくなかった。泣きたくなるほど行きたくなかった。
 何故か。
 それは、その、なんだ。大抵の者が聞けば予想できるように、「猫」が、隠語で娼婦を意味するからである。

 そう。猫の道とはつまり、――ヴェルスの花街のことなのだ。

 帝国ファルダは性に寛大な国である。娼婦業が取り締まられることはほとんどなく、都市の華やぎの一つとして受け入れられている。ヴェルスでもご他聞に漏れず、夕暮れに花街に繰り出せば、艶かしい肌を露出させた「猫」たちに出会うことができる。
 なお男たちの名誉の為に言っておくと、彼らがそこを訪れる理由は決して疚しいものではない。彼の主人ギルグランスより、とある娼館に遣わされたのである。せめて勘違いされないよう、娼婦たちが寝静まる午前中を選んだのだが、フィランは道中から哀れな様子になっていた。
「なんで僕がこんなところに……」
 当主の言うところによると、ある娼館の主より、どうしても伝えたいことがあるから直接来て欲しいと要請があったのだという。ジャドなどは「テメェが来いよ」とぼやいたものだが、何かの事情があるのだろうと、当主は二人を遣わしたのだ。
「伝えたいことってなんでしょうね?」
「さぁな、オヤジが遊んだ料金でも踏み倒したんじゃねぇのか」
「もしそうだったら僕はあの人を殴りに行きますが。そもそも、なんで貴族家が娼館とこうも堂々と懇意にするんです」
「……まあ、オヤジがアレだからな」
「本当に、冗談じゃないです」
 頭を抱えている若者を見て、ジャドはケッと息を抜いてから、意地悪そうに笑った。
「んなこと言っといて、別に始めてでもねぇんだろ?」
「……」
 フィランは心の底から嫌そうな顔をした。まあ、そこのところは色々と察してほしい。誰にでも、若い頃というものがある。

 猫の道は日当たりの悪い細道で、そこかしこに艶かしい女神像が飾ってある。軒先に昼間でも灯火を点す店が娼館の証だ。華やぐ夜を終えて、今は多くが静まり返っている。本物の猫が閉まった扉の前に座り込み、風に遊ばれる木の葉を眺めながら尻尾をくゆらせていた。
 昼間でも営業している店をなるべく見ないようにしながら、フィランはひたすら歩を進める。こうなれば一刻も早く用事を済ますのが先決である。
 初めは猥雑な印象しか受けなかった猫の道も、奥に進むにつれて、金持ちの貴族や商人が接待に使う高級娼館が目立ち始める。フィランたちが目指すのは、その中でもとりわけ古い館であった。
「ここか」
 ジャドが目を細めて看板を見上げる。年季の入った煉瓦作りの壁には美しい刺繍の入ったタピストリが飾られ、門の前には天使の彫刻が硝子の燭台を捧げ持っている。まるで貴族の屋敷のようだ。娼館としては楚々とした装いが、気品ある金持ちに受けるのかもしれない。
「失礼ですが、御用ですか」
 立ち止まっていると、門番の奴隷が歩み寄ってきた。表層は穏やかに、眼差しには警戒の光を込めて、用向きを問い質してくる。そりゃこんな貴族向けの娼館前に一般人全開な男二人がたむろしていたら、追っ払いたくもなるだろうが。
「ベルナーデ家の者です。マダム・アイミーナにお目通しを願います」
 フィランが言うと、奴隷は胡散臭そうにしながらも頭を下げて奥へ入っていった。
「ケッ。けったくそ悪ぃ奴だな」
「まあ僕らみたいなのがお呼ばれするようなところじゃないですしね」
「……どんな女がいると思う?」
 なんだかんだでジャドは中の様子に興味があるようだ。フィランはやれやれと首を振った。
「さあ。ティレの次に可愛い子ならいるかもしれないですが。こういう所の娼婦は芸達者ですからね、ジャドの教養じゃついてけないかもしれないですよ」
「てめぇ!?」
 掴みかかるジャドをいなしていると、門番の奴隷が帰ってきた。奴隷は冷ややかな眼差しをくれながら、二人を中へと案内してくれるのであった。


 ***


「へえ、アンタたちがギルグランスの手下かい」
 薄暗い室内は落ち着いた調度品で飾り付けられ、壁には屈強な男奴隷たちが微動だにせずに控えている。焚き染められた香の匂いの中、机に向かって帳簿をつけているのは、どっしりとした輪郭を持つ中年の女であった。大きな髪留めで豊かな髪を結い上げ、肉厚のある胸元に金の首飾りを何重にも撒きつけている。ぎょろりと目を光らせ頬まで裂けた唇で不敵に笑う様は地獄の門番のようで、フィランは素直に恐怖を覚えた。
「……どうも。フィランと申します。こちらはジャド」
 フィランが声を押し出すと、ジャドも居心地が悪そうに会釈する。美しい娼婦の一人や二人すれ違うのを楽しみにしていた彼は、顔色がやや悪い。娼館の主アイミーナはさらさらと帳簿に墨を走らせながら、低い声で笑った。
「怯える必要はないよ、坊や。それともこんなところに来て緊張しているのかい?」
 アイミーナは計算玉をいじりながら上機嫌そうにフィランたちを眺め上げた。
 ジャドが小さく舌打ちして顔を背けると、可愛いねえ、とアイミーナは笑う。
「さあ、歓迎させて貰おうか、ギルグランスとは昔からの馴染みだ。アンタもここを自分の家と思いな」
 それはちょっと、とフィランは内心で思った。
「それでマダム・アイミーナ、用とは一体なんですか?」
「あぁ。それがね」
 アイミーナは計算玉を素早く弾きながら、長い睫を胡散臭そうに細めた。
「うちの子の一人がね、どうしてもベルナーデ家に伝えたいことがあるって聞かないんだ」
「娼婦が僕たちに言付けですか?」
「いや、あの子は娼婦じゃなくてね――まあいい」
 思わせぶりにアイミーナは首を振ると、その目を眇める。
「でもね、不思議なんだよ。あの子はギルグランスを知らない筈なんだ。アタシはあの子をギルグランスに出したことはないからね。なのに話したいことがあるって言うんだよ。アタシが代わりに聞くっていっても話しやしない。普段はいい子なのに、今回ばかりは困っちまってね」
「……つぅか、オヤジがここで遊んでるのかよ」
「昔からの馴染みと言ったろう、坊や? アタシだって娘時代はラムボルトとギルグランスの二人から求愛されたもんさ。そりゃあもう熱烈にね」
 体重が自分の倍はありそうな女の娘時代を思い浮かべることの出来ない男たちは、曖昧に笑う他ない。
「だからアンタたちに来て貰ったわけだ。一旦ここに入った子は外に出すわけにいかないからね」
 アイミーナが顔を向けると、下働きの幼い女奴隷が前に進み出る。
「ティンクに蓮の間で待つよう伝えておくれ」
「かしこまりました」
 奴隷は優雅な振る舞いで頭を下げると、淑やかに部屋を出ていった。
 後に残されたジャドは、気まずそうに立ったまま視線を巡らせる。すると、フィランがぽつりと呟いた。
「……ご当主の兄君も一緒にここに来ていたんですか」
「ん、ラムボルトかい? あぁ、昔はね。弟に負けず愉快な男だった」
 アイミーナはふと筆を止めて、物思いにふけるように視線を遠くに向けた。
「もう死んで何年経つんだっけね。アタシは未だに信じられないよ、ラムボルトが死ぬなんて。もしかすると何処かでひょっこり生きてんじゃないかい」
 その声音には深い情の念と共に、哀しげな諦念が含まれていた。この女はきっと、生きていると言いながらも頭では彼の死を理解しているのだろう。アイミーナは、寂しそうに笑った。
「アタシらの世界は狭い。外で何が起きても、アタシたちは知らないふりで仕事をする。でも、あの太陽のような男には、もう一度会いたかったねえ」
「……」
 フィランが目を伏せていると、先ほどの奴隷女が戻ってきた。
「ティンクは起きていたかい?」
「はい。部屋で待っております」
「そうかい。なら案内を頼むよ」
 奴隷女は会釈すると、フィランたちに恭しく頭を下げ、奥の回廊へ促すのであった。


 ***


 世の中には驚きの出会いと呼べる邂逅はいくらでもある。事実、ティレは予言で思いがけない人物に出会うと告げた。きっと指先軽やかな運命の女神たちは、そうやって人の運命を弄んで楽しむのであろう。
 いや、しかし――しかし、である。
『こんな』
 フィランはぎゅっと拳を握り締め、唇を噛んだ。
『こんな出会いが、運命であってたまるか』
 そう。彼は白みゆく視界の中で、その意思だけは確かなものとして胸に刻むのであった。


「はじめまして。どうぞ楽にして下さいな」
 蓮の間と呼ばれる部屋は談笑室として使われているらしく、卓上には果物の籠や花瓶が並んでいる。奥に見える大きめの臥床を意図して見ないようにしながら――否。フィランとジャドは、目の前の事実ですら認識することを拒否していた。そのまま意識を失えたならどれほど楽だったか。
 目の前で恥ずかしそうに笑っている――人物。
「やだ、ごめんなさい。さっきまで寝てたからお化粧に時間が取れなくて。恥ずかしいわ」
「……」
「……」
 思考停止状態の二人の前で四肢をくねらせてもじもじと笑う、褐色の肌も巻き毛も華奢な身体にまとう薄布も、何処から何処まで見てもそれは娼婦。――いや、娼婦ではなく。



 男であった。



「ジャド、僕は帰ります」
「奇遇だな。オレも帰るところだ」
「あん! 待ってよ!」
 早々に踵を返しかけた男たちを、美しく着飾った男が腰を浮かせて引き止める。
「ほんとに大切な話なの! あたし、このことを誰かに伝えなきゃって思って……」
 逼迫した声に、相手をからかう様子はない。流石に足を止めざるをえず、恐る恐るフィランとジャドは振り向いた。そこにいるのは頬を染めて目に涙を溜め、鳩尾にぎゅっと手を重ねて唇を震わせている、華奢な身体つきだがどうみても女性ではない――。



 男娼である。



 繰り返して言うが、逞しき技で諸国に君臨する帝国ファルダは性に対して寛大だ。歳の差があろうが性別が同じだろうが、あらゆる恋愛が「当人の責任」の名の下に黙認されている。このため、各都市の花街には必ずといって良いほど男娼がいる。その自由さといえば、議会で男色趣味を暴露された三代前の皇帝が「男が好きで何が悪い」と開き直り、公務の視察に愛人(男)を連れて周り仲睦まじい姿を堂々と見せ付けたなんて伝説があるくらいだ。
 そういうわけで、自立と自由を尊ぶ帝国にあって男娼は全く珍しくない――のだが。
「ごめんなさいね。勘違いされてもおかしくないわ。あたし、こんなだから」
「……いえ、そんな」
 フィランは、蚊が鳴くような弱々しい声で返すしかない。
「でもお願い、話を聞いてちょうだい。ダナラスの仇を取ってほしいの」
「ダナラス?」
 逃げ帰る寸前であったジャドが、記憶に引っかかったように眉を潜めた。
「ダナラスって、アレか、前に殺された剣闘士か」
「そうよ。話はあの人のことなの……」
「え? ちょ、ちょっと待って下さい。誰です?」
 一人話についていけないフィランが口を挟むと、ジャドは記憶をなぞるように目を眇めた。
「夏に殺された剣闘士だ。うちに調査しろって話が来ただろーが? ん? そういやテメェはいなかったか」
「……あ、そういえば」
 フィランはピンときて腕を組んだ。確かあれはレティオの馬の訓練を始めて頼まれた日だった。フィランはジャドたちと剣闘士の殺害事件の調査に行く途中で当主に呼び止められたのだ。
「あの話って結局どうなったんでしたっけ」
 ジャドは唸りながら頭をかいた。
「結局、何も分かねぇで終わったっけな。ふらりと剣闘士が宿舎からいなくなったかと思えば、次の日湖岸に死体があがった。目撃者も手がかりもまるでなしだ」
「その人、あたしの客だったの」
「え」
「な」
 フィランとジャドはそれぞれ間抜けな声を出してティンクを見つめた。ティンクは寂しそうに笑った。
「本当に死んじゃったんだね、いい人だったのに。あたしの竪琴を褒めてくれた人なのよ。胸に剣を刺されていたんでしょう? こんな酷いことってないわ」
 その眼差しには、犯人への静かな怒りが燃え上がっている。しかし剣闘士と男娼の秘められた関係などむしろ知りたくなかった二人は気まずそうに目を逸らす。

「彼、ガルダ人だったのよ」

 だから、ティンクがそう告げたとき、二人は暫くその意味を理解することが出来なかった。
「……え?」
 紡いだ声が自分のものでないようだと感じながら、フィランは顔をあげた。ティンクが告げる事実――殺された、ガルダ人の剣闘士。それは彼らの胸に刻まれた凄惨な光景を想起させる。
「オイ、ちょっと待て」
 ジャドもフィランと同じことを思ったようで、引き締まった表情でティンクを見つめる。ティンクもまた、精一杯の勇気を振り絞るかのように唇を縛り、それを見返した。
「あたしは」
 そしてティンクは、静かに語りだした。
「あたしはダナラスから、あるものを預かってたの。死ぬ直前、ダナラスは言ったわ、自分は他のガルダ人に追われてるって。だから、もし自分が死んだら、それを燃やしてくれって」
 急速に鼓動が早まり、フィランは拳を握りこんだ。
「あるものって?」
 ティンクは目を伏せて、首を振った。
「ちゃんと見せてあげるわ。まだ燃やしてないの。ううん、あたし、燃やすなんて出来なかった。そこにはきっとダナラスを殺した奴らの手がかりがあるはずだから。ダナラスの仇を討ちたいの。でも誰に相談していいか分からなくて、そんなとき、ベルナーデの人たちが調べてたって話を人づてに聞いたから、……だから」
 苦悩を込め、ぎゅっと膝の上で拳を握る。
「お願い。あたしの話を、聞いて。あたしは、あなたたちからしたら気持ち悪いかもしれないけれど……」
 しん、と部屋には沈黙が落ちた。外を知ることの出来ないティンクの肩は細く頼りない。けれど幼さを残した顔立ちには、恋人を失った哀しみと怒りが満ちている。
 フィランもジャドも、もう目を逸らしたりはしなかった。ティンクは臥床に座りなおすと、ゆっくりと事の次第を話し出した。

「ダナラスは出身を隠してこの都市に住んでいたわ。その秘密をあたしだけに教えてくれたの」
 先ほどとは打って変わってフィランとジャドは男娼の話に聞き入った。ダナラスという男は、ガルダ人の奴隷剣闘士として地方の闘技場で過ごしたが、そこから逃げ出し、ヴェルスに落ち延びたのだそうだ。
「それで、彼は何をあなたに預けていたんですか」
 フィランは急く気持ちを抑え、ゆっくりと問う。
「これ……」
 ティンクは、後ろの台から、そっと巻物を取ってフィランに受け渡した。
「ダナラスの日記よ。ダナラスは毎日ここに来て、日記をつけていたの」
「ここに毎日!? どんだけ稼いでたんだよ」
「だってダナラスは強いもの。誰にも負けないわ」
 きゅん、と胸元に腕を寄せるティンクの前で、ジャドはちょっぴり剣闘士家業に心揺れるのであった。剣闘士は危険な職業だが、一躍有名になれば多額の出場代が支払われるのだ。
 そんな会話を他所に、フィランは年季が入った巻物を手の中で観察した。表面は手垢で汚れ、縛り紐はすっかり色褪せている。ティンクの言う通り、毎日記録をつけていたのだろう。
「この中身をあなたは読みましたか?」
 ティンクは目を瞬かせ、当然のように首を振った。
「読んでないわ。あたし、字なんて読めないもの」
 フィランは頷いて、巻物の紐を解いた。
「何が書いてあるんだ?」
「急かさないで下さい。それに期待しすぎると損ですよ、単なる愛情日誌かもしれませんし」
「やだ、騎士様ったら!」
 頬に手をやって腰を揺する男娼を見ないようにしながら、フィランはジャドにも見えるように巻物を開いた。
「うげ。なんだこれ」
 内容を見た途端、ジャドがぎょっと顔を引きつらせる。そこには、虫の集合を想起させるような細かい文字がびっしりと穿たれていたのだ。けれど黙って目を走らせるフィランに負けるのも癪だったので、ジャドは顔を歪めながらも解読に入った。
「えーと、やは、――のこくに、我、あ、アジュル、の」
「夜半の刻に、我、アジュルノの野に至り。雲なき漆黒の空。闇に吸い込まれるかのような奇異なる風の音。煉獄の門は地中に口を開き、我が身は恐怖に震撼する」
 淀みない口調で読んでのけたフィランにジャドは驚いた。ジャドとて読み書きが出来ないわけではないが、それ以上に日記の文面が難解なのである。
「よく読めんな、テメェ」
「ええ」
 フィランは、にっこりと笑った。
「教養の違いです」
「殴っていいか」
「駄目です」
 振り下ろされた腕を片手でぎしぎしと止めながら、フィランはジャドと睨み合った。
「しかし、この書き手も相当の学がありますね。本当にガルダ人だったんですか?」
 蛮族の呼び名で知られるガルダ人は、帝国の文化を徹底的に嫌っていた筈だ。薬草の調合法を全て口伝で受け継ぐほどの彼らが帝国風に文字で書物に残すやり方をするわけがないと、フィランは眉を潜める。
 するとティンクは、遠くを見るように蝋燭の火を目に映した。
「ダナラスは本当に頭のいい人だったの。彼は言っていたわ。ガルダは変わらなければならなかったって」
 華美な装飾品に囲まれた男娼は、記憶にある言葉をとつとつと蘇らせる。
「ダナラスはね、元々医術師だったの。ほら、ガルダ人って草木に詳しいんでしょう? ガルダの薬草の技術と、帝国に元からある医術を組み合わせれば、もっとたくさんの人が救える筈だって。それが彼の口癖だった」
 しんと静まり返った室内で、ティンクは言葉を継いだ。
「ガルダが帝国の一部になってから、ダナラスは帝国に渡って、本当に驚いたんですって。帝国はなんて医術が進んでるんだろうって。それで、たくさんたくさん勉強したって聞いたわ」
 フィランは小さく頷いた。帝国は、新しき属州の者を胎の内に取り込むことを拒まない。敗戦したばかりのガルダ人ですら、求めれば本国で学ぶことを許されたのだ。きっとダナラスも本国に向かい、最先端の医術を学んだのだろう。
「でも、ガルダは反乱を起こしてしまった。ダナラスもそのとき捕まったそうよ」
「帝国では何処でもガルダ人というだけで捕囚されましたからね。仕方のないことでしょう」
「ダナラスは裏切ってないのにね」
 ティンクは寂しそうに笑った。
 その後ダナラスは剣闘士として凄惨な処刑に参加させられたが、紆余曲折あってヴェルスに逃げ、剣闘士をしながら医術の研究をしていたのだという。
「剣闘士をやりながら医師だって? またちぐはぐだな」
「そうでもないですよ。闘技場には腕のいい医師が揃っています、怪我人が毎日のように出ますからね。戦いながら手当てもできるなら、それなりに歓迎される筈です」
「ダナラスは剣闘士なんてやりたくないって言ってたわ」
 ティンクは記憶を手繰るように、すっと目を細めた。
「でも、ガルダ人の自分にまともな仕事は出来ないからって、――こんな汚れた手で人を助けることなんて出来ないからって、笑ってた。ねえ、ベルナーデの人たち。ダナラスはいい人だったよ? なのにどうして自由に仕事が選べなかったんだろう」
 真っ直ぐな問いに、フィランとジャドは言葉を詰まらせた。強大な帝国の手は栄えを得ながら、その裏で血に染まっている。裏切りの償いとしてあらゆる救済を奪いつくされることは、正か誤か。それは、神でさえ答えることの出来ない命題だ。
 その業によって食べることが出来なくなってしまった男の姿が思い起こされ、フィランは唇を噛んだ。
「ガルダ人にも、共存の道を選ぼうとした人はいたのですね」
「そうよ。彼はこの国が嫌いじゃないって言ってたわ」
 ティンクがそう言うと、エルの思い出が被ったのか、ジャドは頬を歪めて舌打ちをした。
「ねえ、騎士様。何か分かりそう?」
「そうですね……」
 フィランは改めて日記を見下ろして、難しげに眉根を寄せた。
「一見、日記というより詩歌に見えますけれど。日付がありますし、何かの記録だと考えると、暗号が使われているのかもしれません」
「暗号だって?」
 ジャドが怪訝そうに聞き返すと、フィランは頷いてみせた。
「勘ですけどね。神話に出てくる名称が多いのはそれぞれ何かの比喩なんじゃないかと。専門家に見せた方が早いでしょう。これ、借りてもいいですか」
「ええ。お願い、きっと手がかりを見つけて」
 ティンクの真剣な眼差しを受けて、フィランは巻物を握り締めた。ダナラスはヴェルスに潜むガルダ人に殺された可能性が高い。彼が身の危機に気付いていたとすれば、もしかすると、この書物にはとんでもない手がかりが眠っているかもしれないのだ。
「僕らも、知り合の命をガルダ人に奪われました」
 フィランが告げると、ジャドが目を頷き、ティンクはゆっくりと瞬きをした。
「そうだ。ダナラスの仇はエルの仇も同じだ。ぜってぇ犯人には落とし前をつけさせるぜ」
「――ええ、きっと」
 ティンクは目元を潤ませて頷くと、胸元に手をやってフィランとジャドを交互に見た。
「ところでお兄さんたち、とっても格好いいわね。ねえ、今なら安くしとくけど、どう!?」
 フィランとジャドは、間髪いれずに叫ぶのであった。

「「結構です!!」」


 ***


 秋晴れの広がるヴェルスは、豊作の喜びに浮き足立っている。家々の軒先には紅い飾り輪が飾られ、その下には白い椀に一滴の酒を垂らした水が供されていた。秋になると実りを求めてやってくる神々はこの水を飲んで喉を潤し、見返りとして家に祝福を齎すとされているのだ。道行く人々の表情も明るく、フィランは気分を入れ替えるように伸びをした。やはり殺伐とした娼婦街とこのような住宅街では、空気が違う。
「ふう、生き返る気分です」
「その巻物は何処に持ってくんだ?」
「ポマス博士のところですよ」
 ジャドは顔を引きつらせた。
「あのイカレ博士かよ」
「いかれているのは確かですが、学識の広さならヴェルスで一番ですよ。それに、暗号と聞いたら食いつくに決まってます」
「……」
 ジャドは想像してみた。

『素晴らしい! なんと難解な文面なのです、これはこのポペ(略)への挑戦なのですね!? ハッ、こうしてはいられません、早速解読に取り掛からねばウッフフフフフ!』

「……適任じゃねぇか」
「ついでにしばらく引きこもってくれたら島が静かになって良いのですが」
 やれやれと首を振ったフィランは、足元に黄色の鞠玉が転がってきたのに目を留めた。拾いながら転がってきた方向に顔を向けると、慌てた様子の大道芸人が走ってくるところだった。
「どうぞ」
「すいやせん。ありがとうございまさぁ」
 鞠玉を渡してやると、余所者らしき芸人は礼を言って荷物を満載した馬車へと戻っていく。秋の祭りに一儲けしようと流れてきたのだろう。
「知らねぇ顔が増えやがったな」
「これから新年祭までもっと増えるんでしょう? 楽しみですね」
「ったく。気楽なもんだな。外の連中が入ってくると仕事がやりづれぇんだよ」
「それはそうでしょうがね」
 嫌そうに鼻を鳴らすジャドの隣で、フィランは楽しげに目を細めた。流れてきた者たちの中には、異国情緒溢れる服装をした者も多く、見るだけで目を楽しませてくれる。祭りに揉め事はつきものだが、フィランはこういった集まりが嫌いではなかった。
「何が起きるか分からないのが良いんですよ。例えばあなたの幼馴染とばったり出くわしたっておかしくないわけです」
「はぁ? バーカ。つーかオレに幼馴染なんて――」

 不意にヴェルスのやわらかい風が、するりと吹き抜ける。
 ジャドの目線が、誘われるようにあがった。人が行き交う道の合間、まるで見えない筈だった何かを見てしまったかのように、その目が見開かれる。
 彼の視線の先、当たり前に流れていった風景の一つがぴたりと止まり、そこに立つ娘が――名を、呼ぶ。

「ジャド?」

 ジャドは電流が走ったように止まり、ぎょっとのけぞる。
「……」
 開いた口をそのままに、ジャドは娘を凝視した。
 娘も佇立したまま、口元に手をやる。
「ウソ……ほんとにジャドなの?」
 豊かに波打つ赤紫の髪。やや吊りあがった気の強そうな目。すらりと長い手足。
「サナー、てめぇ、サナーか?」
 ジャドが、記憶を確かめるようにその名を紡ぐ。

 出会う。運命が出会わせる。古い人、もう二度と会うことのないはずだった人――。

「え」
 頭の中に、そんな予言が駆け巡って。
「え、えぇ?」
 ひとり取り残されたフィランは呆然とするばかりであった。




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