-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>9話:運命の悪戯への私的見解とその対策

01.ヴェルスの秋



「これはどういうことだ」
 微かに震えた声が、石造りの部屋に不穏な響きをもたらす。
 暗く濁った空間であった。商人エウアネーモスは非難と共に厳しい眼差しを向ける。部屋の隅に腰掛けた、獣のような外貌の男――ガルダの亡霊、蛇を狩るバストルへ向けて。
 彼らの足元には、首から血を流して仰臥するゴモドゥスの遺体がある。哀れな遺骸を前に、しかしバストルの口元には平素と変わらぬ微笑みが浮かんでいた。
 ルミニの神殿が焼け落ちた翌日、逃げ延びたガルダ人を訪ねたエウアネーモスを待っていたのは、最も信頼を置いて使っていた部下が惨殺された有様であったのだ。
「勝手に地下に魔物を放っていたので斬った」
 バストルは当然のように返答する。エウアネーモスは舌打ちしたい気分でそれを聞いた。
 まさかあそこまで早くルミニの神殿に手が回されるとは思っていなかったのだ。しかも、ただの狂信者であったシニオンがベルナーデ家の手に渡ってしまうなど、どうして考えられたであろうか。
 否。たった今、現実問題として懸念すべきは己の命だ。隠れ処を奪われたガルダ人は自分を無能と判断し、殺しに来るだろう。故にエウアネーモスは先手を打たねばならなかったのだ。
 しかし暗がりに腰掛けたバストルには、怒りも焦りもない。彼は手を伸ばして器から何かを指ですくい、舌で舐めとった。獣の血か、人の血かもしれぬ。極上の酒を口にしたような面持ちで、バストルは目を閉じた。
「何を恐れている」
 嘲笑うかのような返答であった。エウアネーモスは一瞬背筋を伸ばしたが、すぐに眉を潜めて不快を示した。この男の前で卑屈な態度を見せれば即刻斬られる。それを知っているからこそ、エウアネーモスは強気にならざるをえなかった。
「恐れてなどはおらぬ。これからどうするのだ。もうあのような根城は用意してやれんぞ」
 反応を嘲るように、バストルは肩を揺らして笑いながら、商人を見上げる。
 そして紡がれた言葉に、エウアネーモスは寒気が立ち上るのを隠せなかった。
「じきに廃墟と化す土地に城などいらぬ」
 伸びた紅い髪の合間から、爛々と輝く目がこちらを見上げ、唇から鋭い牙が覗いている。エウアネーモスは、改めて己が既に引き返せないところまで来ていることを知るのだった。
「た、確かに、計画はこのまま実行できよう。しかし急ぐ必要があるのではないか」
 にやにや笑う男に一矢報いてやろうと、エウアネーモスは唇を歪めた。
「破壊の日より前に、ベルナーデの犬に貴様の喉笛を引きちぎられても困ると言っているのだ」
 突如、部屋を大爆笑が満たした。
 鼓膜を突き破り、臓腑を直接揺さぶるような笑い声。
「忘れたか、外民。そうならないようにするのが貴様の役割だろう?」
「――っ」
 いつ目の前に立たれたのか。エウアネーモスはすぐ傍に狂気の権化が佇んでいることに気づき、背筋を凍らせた。
「死体は十分集まった。貴様は黙って私の言ったものを集めろ」
 刃を押し当てられたかのような威圧感であった。額に汗が伝うのを感じる。
「……分かった。なるべく迅速にやってみよう」
 その返事に、バストルはクッと喉の奥で笑って再び闇へと戻っていった。
『恐れるな』
 エウアネーモスは己に言い聞かせる。所詮は野に放たれた獣と同じ蛮族だ。利用しているのは自分の方なのだ。
 奪い取られた栄光を取り戻すために、修羅の道を歩むことを選んだ。そのためなら、己のものでなくなったヴェルスなど必要ない。
「エインシャルは幸運だ。地獄がこの世に蘇る前に私が先に殺してやったのだから」
 バストルの言葉に、エウアネーモスも、暗い声で肯定を紡いだ。
「全くだな。ヴェルス人はこれから地獄を見るのだ」
 ガルダ人は、犬歯をぎらつかせて嗤っている。
 せいぜい笑っていろ。
 エウアネーモスは仄暗く目を伏せた。歯を食い縛り耐えねばならぬのは、今だけだ。
 最後に笑うのは、きっと自分なのだから。

 ヴェルスの地下は有象無象の思いを包み込んで、神すら惑う闇に没している。
 暗い小部屋を後にするエウアネーモスの目には、闇を怖じぬ強壮な意思が宿っていた。


 -黄金の庭に告ぐ-
 9話:運命の悪戯への私的見解とその対策


 ***


 友の優しい声が聞こえる。陽だまりのような柔らい声だ。
 頬に触れるその掌に甘えて、いつまでもまどろんでいたくなる。
 けれど同時に、心の片隅で哀しみが芽吹くのも感じていた。
 ああ。それは、きっと、もう自分が現実を認識しているから。
 彼女がもう何処にもいないのだと、知ってしまっているから――。


「……ん」
 うっとりと目蓋を開いたティレは、毛布にくるまったまま暫し夢と現を彷徨った。そうしている内に、ぼやけた心に自我が戻ってくる。もう、ここは牢獄のような神殿ではない。あの鬨の声の響き渡る恐ろしい神殿ではない――。
「わたし」
 呟いてみて、ようやく自分が起きたことに気付く。
 体を起こすと、隣に寝ていた筈のフィランの姿はない。触ってみても温もりはなく、随分前に出ていったことが伺える。
 簾の隙間から零れる光を暫く眺めたティレは、するりと寝台から足を滑らせた。


 東の空から夜明けの女神の立ち上るヴェルスの朝は、瑞々しくひんやりとした空気に包まれている。空は薔薇色に染まり、薄い雲が美しく棚引く。地に目を向ければ、声麗しき女神の風に誘われて草が身を揺すっている。
 そんな景色に暫し見とれ、そしてちょこちょこと歩いていたティレは、家の裏手でふと足を止めた。
 光の注ぐそこに、槍を中段に構えたフィランの姿があったのだ。
 上半身の衣服をはだけて腰に巻きつけ、見えない何かを見定めるように目を細めながら、フィランは制止している。光輝をまとう若い横顔は、まるで燦然と煌く刃のようだ。
 ふっと、時が弾けるようにフィランの柔らかい髪が流れた。次の瞬間、鋭く長槍を突き出し、切っ先を翻して間合いを取り、素早い薙ぎを繰り出す。足は力強く大地を咬み、腕の動きに合わせて槍が鮮やかに宙を舞う。
 神々に挑むかのような斬撃を、ティレは暫し呆然と見つめた。突き、薙ぎ、払い。攻撃と牽制、防御を繰り返す。槍の切っ先は陽光に煌き、石突から垂れる飾り紐が大きな円を描いてたなびく。


 ティレがフィランに初めて出会ったのは、豊穣の巫女になったばかりの頃であった。軍を辞めたフィランは、経理役の文官として本国の豊穣の神殿に遣わされたのだ。
 突然決まった十七歳の青年の就任に、事情を知らない関係者は首を傾げたものであった。神殿の内務など出世街道から外れた閑職で、前途ある貴族の若者が回される役ではないのである。
 けれど、就任の日、挨拶に来たフィランのやつれた顔は、今でもよく覚えている。

 ――フィラルディーン・ティムス・フォルトス。
 ――どうぞ、ラルディとお呼びください。

 生気のない声。縋るものをなくし、荒んだ心を抱え、茫洋と虚空を彷徨う瞳。肩の落ちた、老人のような歩き方。それが、ラルディと名乗った十七歳の青年の姿であった。
 彼は周囲との関わりを避け、淡々と職務をこなしていた。問題を起こして軍を辞めた上、日がな酒と喧嘩に明け暮れた若者を、見るに見かねたとある貴族がこの職に斡旋したのだと、ティレは後になってから聞いたのだった。
 あの頃に比べれば、彼の表情は見違えるように明るくなった。長い年月が彼の傷を僅かなりとも塞いでくれたのかもしれない。
 しかし、心の傷が完全に癒えたわけではないのだ。彼の佇まいを見ていれば、それは良く分かる。明るい笑顔を見るたびに、ティレはそれが今にも泣き出しそうな顔に見えることがある。自制が行き届いているように見えて、彼の心は陽炎のように不安定だ。
 ティレにはどうすれば良いか分からない。自分が彼の支えになっているなら、それは嬉しいことなのだと思う。けれど、何処かで、自分では彼を救うことが出来ないのではとも思っていた。
 フィランは、見えない何かを振り払うように槍を振るい続けている。
 ティレは、じっとその様を見つめている。

 朝露に濡れた土を跳ね上げて、フィランは振り向き様に槍を突き出そうとした。その途中、金の瞳がこちらを見て弾ける。
「えっ」
 あ、と思ったときには遅かった。変な力が入ったのか、フィランのサンダルが泥の上を滑る。
 次の瞬間、どしゃっ、と気持ちの良い音を立てて、彼は豪快なる尻餅をついていたのであった。
「……フィラン」
 転んだことも忘れたように唖然とするフィランの元にティレは近付いていった。
「お、起きてたんだ、ティレ……って」
 はっとしたフィランは立ち上がりつつ、赤面しながら服をかきあげて袖を通した。
 彼がそうしたのは、ティレが彼の身体の無数の傷痕を見つめていたからだ。普段はゆったりとした短衣で隠れて見えないが、痛々しいそれらは彼の人生そのものを物語るようだ。
「こ、こら、まじまじと見ない」
 凝視に耐えられず、フィランが苦言を申し立てる。
「……」
 ティレはひょいと手を持ち上げてフィランの服をめくろうとした。
「興味を持たない!」
「……」
 ティレは少し残念そうに眉を下げた。
「毎日、やってるの?」
「うん?」
「槍」
 気まずげに胸元を整えていたフィランは、ああと言って地に転がった槍を見下ろした。
「うん。昔からの習慣だから。それに鍛えておかないと、いざというときに――ね」
、僅かに目を伏せてその色を暗くする。そうして、改めて怪訝そうにティレを見下ろした。
「ところで何かあったのかい? 怖い夢でも?」
 きっとこんな朝早くに起きてきたことを訝しがっているのだろう。ティレはふるふると首を横に振った。
「痛むところがあるのかい?」
 ティレはもう一度かぶりを振る。むしろ逆であったのだ。あの妖精に不思議な術をかけられてからというもの、不思議なほど身体が軽い。
 フィランもそのことに薄々気付いているのだろう。暫く複雑そうな眼差しを向け、しかし一度目を閉じて、彼はふんわりと笑った。
「お腹は減った?」
 優しい声だった。まるで心を溶かすような。
 ティレは初めて頷いた。フィランは日常を噛み締めるように頷いた。
「そっか。じゃあ、ご飯にしよう」
 おいで、と。フィランはティレを促す。そのとき背後から吹いてきた風を受けて、ティレはふと立ち止まった。
「ティレ?」
「……」
 さわさわと世界が揺れる。木々の葉がその身を揺らすような音列が聞こえてくる。
 はっと息を呑む恋人にも気付かず、ティレはぽつりと呟いた。
 それは常人が聞けば当たり前の、けれど彼女の正体を知る者にとっては恐ろしい言葉。
「空が、青い」
「ティレ」
 両の肩を捕まれて顔をあげると、そこにフィランの顔があった。不安と恐れが混じった表情で、フィランは暫くティレを見つめた。
 そうして、ゆっくりと額に唇を寄せる。
「視なくていいよ。ちょっとずつ忘れていこう。いつかきっと視えなくなるから」
 押し殺すように紡がれるのは確約された真実ではない、彼自身の祈りだ。
 けれど現実は悲しい。頭がはっきりとするようになって、ティレは前よりも『彼ら』の声が明瞭に聞こえるようになったことを自覚していた。
 目蓋を閉じて、静かに告げる。
「でも、視える」
 視えてしまう。未来の空が。
 そしてその下に広がる――。
「なら僕が」
 フィランが唐突に力強く言ったため、ティレは思わず目を開いた。
「僕が一緒にいるよ。視えたものは僕に全部言って。僕が一緒に未来を視る」
 見上げた先に、金の瞳。出会った頃と変わらない、ぼろぼろに傷ついた眼差しだった。帝国と自身の為にその身を軍に投じ、絶望と共にそこを去った彼は、何もかもを封じ込め、すぐそこで苦悩している。
 視線を通わせていると、フィランはふと杏色の髪を揺らせて俯いた。
「だから、ティレは笑っていて」
「……フィラン」
 するとフィランは顔をあげ、いつものように首を傾げる。
「さっきは何が視えたの?」
「……」
 ティレは服の裾を握る。フィランの優しさが心に染みて嬉しいのに、少しだけ痛い。
 フィランは辛抱強くティレの返答を待っている。だからティレは、押し出すように呟くのであった。
「出会う」
 神々が与えられた祝福の目。具眼が紡ぐ、定められた『予言』。


「出会う。運命が出会わせる。古い人、もう二度と会うことのないはずだった人――」


 ***


 部屋にはパンが焼ける香ばしい香りと耳が痛くなるような緊張が、同じほどに満ちていた。ベルナーデ家の当主ギルグランスは多くの視線に囲まれて、焼きたてのパンにかぶりつく。豊かな香りと湯気が立ち上る様を、誰もが固唾を呑んで見守っていた。そして、よく咀嚼して飲み込んだ当主の口元に満足げな笑みが浮かぶと、彼らの顔が一様に明るくなった。
「うむ、うまいな」
「ほ、本当ですか、ギルグランス様」
 農園の主は目を輝かせ、パンを焼いた女たちも嬉しそうに顔を見合わせる。朝早くから農園を訪れた当主は、今年採れたばかりの小麦で焼いたパンを試食していたのだ。
「これは高く売れるぞ。去年よりも格段に質があがった。一年の努力の賜物であろう」
「はい。全てギルグランス様のお力添えのお陰で御座いまさぁ」
「何を言っておる。この小麦を作ったのは私でなく農夫たちだ。彼らの努力と苦労がなければこの味は生み出せなかったであろう」
 ギルグランスは労を労うように、農園内の建屋に集った農夫や女たちの姿を見回す。質素な服を着た彼らの顔つきは、良い小麦を作った自信に満ち溢れている。
「む?」
 その視線が奥の卓に置かれた籠に止まった。そこには当主が食べたものと同じ丸いパンが積まれているのだ。
「あのパンはなんだ?」
「へ、へぇ」
 農園の主は頭を低くして苦笑した。
「あれは夜明け前に試し焼きしたもんです。もう冷めちまってますから、ギルグランス様にお出しするわけには」
「ふむ、ひとつ食わせろ」
「はい?」
 ぎょっとしたように主はギルグランスを見上げた。折角焼きたてを食べて貰ったところなのだ、何故まずい方を食べさせる必要があるのか。まさかそんなに腹が減っているのか。いや、大貴族がそんなはずがあるか。いや、しかしこの貴族は長くを戦場で過ごしたというし――。
「旦那様がご所望です。その籠を頂けますか」
 おろおろしていると、奴隷のセーヴェがやんわりと促してくる。農園の主は困ったように顔をあちこちに向けると、小声で女に籠を持ってくるように言いつけた。
「あ、あのぅ。先ほどのものより味が劣るのですが……」
 女が遠慮がちに捧げ持ってきた籠から、ギルグランスは気軽な様子でパンを手に取り、二つに割って口に入れる。
 半眼になってじっくりと冷めたパンを味わうギルグランスを、一同は不安げに見つめた。その眉が潜められはしないか。自分たちの努力を否定されるのではないか――。
「……ふむ」
 一度目を閉じて考え込んだギルグランスは、今にも心臓が止まりそうな農園の主を見てニヤリと笑ってみせた。
「何を死にそうな顔をしておる」
「ひっ、へ、へぇ、すみません!」
「良い。だが今から私の言うことをよく聞け」
 農園の主はかくかくと頷いて当主をじっと見上げる。するとギルグランスは音律豊かな声で告げた。
「この小麦は冷めてもうまいパンが焼けると銘打って売るのだ」

 ……。

「あ、あのぅ、恐れながらギルグランス様」
「なんだ」
「パンは食べる前に温めますし、特に貴族様方は食事の度に焼きたてを召し上がるのではないかと」
 手を合わせながら不安げに訴える農園の主に、ギルグランスは鼻で笑って返した。
「いいや。それは逆だ」
 不思議そうに顔を見合わせる者たちを見渡し、ギルグランスは籠を指差す。
「貴族は下らぬ見栄を張って豪勢な食事を用意させるがな、宴会ですぐに食事に手をつけることなどまずないのだ」
 貴族の宴ではまず食事の前に神に捧げる祈りが歌われる。更に下らない演説が何人か続き、ようやく乾杯がされたかと思えば、始まるのは食事そっちのけの密談だったりして、その間料理は放置されたままだ。しかも体面を気にする貴族は出来立ての馳走に誰よりも先に手をつけるなど、足元を見られる行為と見なしていたりもする。ようやく食事に手をつけるころには、パンなど冷め切っているのが常であった。
「そうまでして何が楽しいのか私にはよく分からんのだがな」
「旦那様、正直に言いすぎです」
 セーヴェの苦言を鮮やかに無視して、ギルグランスは得意げに髭をさすった。
「故に今の通りに言えばより高値で卸せるだろう。事実、このパンは冷めても大きく味が落ちない」
 そこまで言うと、ニヤリと老練の貴族は笑って片目を閉じた。
「――心しておけ、商人ばかりに儲けさせるな」
「へ、へぇ!」
 農園の主が深々と頭を下げる。他の者たちも初めて聞く貴族の事情に納得顔で頷き、未来への期待を込めて顔を見合わせあうのであった。


「ギルグランス様、汚いところですがまたいらして下さい」
 籠を持ってきた女が帰ろうとするギルグランスに声をかけると、ギルグランスは笑って女の手を取り、指に口付けた。
「汚いなど。それに、いくら土埃が舞おうと、そなたの美しさを覆い隠せるものではない」
 にっこり。
「――」
 卒倒寸前と言った具合で女がくらくらすると、他の女たちが仕事を放り出して群がった。
「ギルグランス様! あのぅ、先ほどのパンをこねたのは私で」
「焼いたのは私よ! ギルグランス様、あのパンをおいしいと言って下さったとき、私がどれだけ嬉しかったかご存知ですか」
「ちょっと押さないで、私だって昨日はこの部屋埃一つないように掃除したんだから!」
「ははは、花の娘たち。私に尽くしてくれるのは嬉しいが、夫のことも忘れんようにな」
「忘れたいですあんな男! ギルグランス様の方がよっぽど素敵ですわ」
「そ、そりゃないだろう」
 部屋の隅から夫らしき男が悲しげに声をあげると、どっと笑いが沸き起こる。
 ギルグランスは彼らの明るい表情を見て、満足げに笑った。一時期経済が破綻しかけたヴェルスであるが、ようやく周辺都市の口を賄う要としての誇りが息を吹き返しつつある。元々女神に愛された肥沃な土を持っているのだ。後は民の心持次第で、いくらでも豊かになることが出来る。この都市はいつかその恵みを以って、黄金の庭と賞賛されるほどの大国にもなったのだから。
『この活気を守らねばな』
 ギルグランスは彼らの笑顔を見るたびにそう思う。腐った魔物の出現や頻発する不穏な事件は民の心に陰を落としていることだろう。特に先日のルミニ教の一件では、後味の悪い結果を残してしまった。
 シニオンを故郷に送り届けると、ギルグランスはすぐに神祇官長の権限でルミニ教の公な調査を実施したのであった。既にガルダ人とルミニ教、またエウアネーモスの関わりは疑いようもなかったからだ。
 しかし、結局のところ神殿は焼失しており、具体的な証拠を見つけることは叶わなかった。ギルグランスに出来たのは、献金に関する不正とルミニ教の墓地に埋葬された遺体の焼失を糾弾し、ルミニ教への活動停止を命じることだけであった。
 ルミニ教は半年の布教及び集会の禁止を言い渡され、神殿はその間閉鎖されることになった。ひとまず牽制はできたが、息の根を止めるには至らなかったのである。
 更にこの件はガルダ人の潜伏を裏付けるものとして、ヴェルスの二人官から総督へ帝国軍介入の要請が送られたが、返答は至極曖昧であった。物的証拠がないという理由で、州都は行動を渋ったのである。襲撃先が議会場であればまだしも、貴族の邸宅と新興宗教の神殿のみでは、単なる無頼の仕業と思われて仕方がなかった。更に帝国の緊張が高まる今、下手に軍を動かして不安定な本国を刺激したくないという思いもあるのであろう。残念だが、それが属州の辺境都市たるヴェルスが受け入れねばならぬ立場であった。あるいはギルグランスが個人で兵を呼べば参集するかもしれないが、それこそ間違いなく謀反と見なされるだろう。
 あれからもオーヴィンを地下に潜らせ、自警団にも警備を強化させているが、ガルダ人の足取りは掴めず、更にエウアネーモスも表には姿を現さなくなった。ベルナーデ家の戦いは、まだまだ続きそうだ。
「そういえば、ギルグランス様」
 ふとギルグランスは顔をあげた。女たちの様子に苦笑しながら、純朴な農園の主が問いかけてきたのだ。
「今度の狩猟祭には参加されるのですか?」
 すると、セーヴェが不穏な単語を耳にしたようにぴくりと固まり、――そして。

 ギルグランスは祭りを心待ちにする少年のように、にぃっと口元を歪めたのであった。
「うむ。無論である」


 ***


 小麦が色づく豊穣の都ヴェルスの秋は、祭事の多い賑やかな季節である。都市を挙げて大々的に祝われる収穫祭から、荘厳に執り行われる拝送祭、そして年明け祝う新年祭。その合間にも各神殿では様々な形で神々への感謝の儀が執り行われる。特に今年は豊作であるため、民も全ての神に感謝したくなる思いであった。頻発する不穏な事件を覆い隠すように町並みは次々と飾り付けられ、近隣都市からは今こそ商機と大道芸人や見世物屋が集まってくる。
 そんな浮き足立った季節の幕開けとして、鏃速き月の女神イェーナに捧げられる狩猟祭がある。
「つまり一番大きな獲物を捕まえれば勝ちなんですね?」
 ベルナーデ家の面々が集まる昼下がりの中庭である。フィランが興味津々に問うと、当主は嬉しそうに肯定した。
「うむ。この日ばかりは立ち入りを禁じたフェガンドの森も開放される。腕が鳴るというものだ」
「……旦那様、本当に参加されるのですか」
 当主の後ろに控えたセーヴェが苦言を申し立てる。いや、決して当主が魔物に食われるのを恐れているのではない。彼の心配は、この時期に当主の警護が緩むことにあるのだ。
 祭りの多いヴェルスの秋は、翌年の議会の要職が選出される時期でもあった。都市議会で最高の権力を持つ二人官もじきに選挙となる。一年の任期を持つこの職は、都市に戻ってきて日の浅いギルグランスに与えられることはなかったが、ついに先日の議会で彼が前任から推挙され、最有力候補として挙げられたのだ。都市の貴族たちも認めざるを得なくなったのである。今のヴェルスの再興が、彼の手によって成ったものであることを。
 しかしそれに反抗する思惑があるのも確かだ。当主は飄々としたものだが、これまで暗殺の危機に晒されたのも一度や二度ではない。しかもガルダ人の件もある。貴族当主が自ら祭りに参加すれば、ベルナーデ家の武勇を示し、民の人気を勝ち取ることができるだろう。しかし多くの男が武具を持って野に向かう狩猟祭は、格好の暗殺の機会ではないか。
「いらぬ心配をするな、セーヴェ。良い鍋の具を狩ってきてやる」
「せめて配下を一人お傍につけて下さい」
 むっ、とギルグランスの眉間にしわがよった。
「何故だ。むさくるしい男と一緒に狩りなど冗談では――」
 びきり、とセーヴェの眉間にしわがよった。
「ギルグランス様」
「……オーヴィン、当日は供につけ」
 ベルナーデ家奴隷頭の機嫌を敏感に察知した当主は、渋々その意向を汲むことにする。オーヴィンはやれやれと肩を落としながら返事をした。当主の供に科せられる使命は主を守ることでなく、主の暴走を喰い止めることにあるのだ。
「レティオ様も参加されるときは必ずお供を連れていきますよう」
「……こいつらか」
 レティオが面倒そうに横目を向けると、フィランとジャドはそれぞれ口角を吊り上げた。
「仕方ないですね、あなた一人ではまだ心もとないです」
「ま、オレたちについてくりゃ死ぬこたねぇよ」
「相変わらず口だけは達者だな。仲良く魔物に伸されても助けるつもりはないぞ」
 火花を散らす甥と配下たちを見て、当主はくつくつと笑った。狩猟祭は成人男子のみが参加を許されるため、レティオは初参加なのだ。しかしこう『仲の良い』配下をつければ不安がることもあるまい。
「どちらにせよ心して行け。あの森の魔物は凶暴だ」
 心配ではなく力付ける意味を込めて言う。すると、レティオは橙の目で不敵に笑ってみせた。
「はい。叔父上には負けません」
「ほう」
 思いがけぬ甥の強気に、ギルグランスは一旦驚き、そして眼光を輝かせて口の端を吊り上げた。ぎゃーやる気になっちゃったー、とセーヴェとオーヴィンは隅で頭を抱えた。
「よろしい。私も手加減はせぬ、存分に戦うがいい」
「はい、叔父上」
 レティオは陽の当たる場所で燦然と言い切った。輝く風の女神ウェルセネラが陽光にじゃれて遊ぶかのような大気に包まれて、豊かな秋は深みを増していく。中庭で紅い髪を揺らせるレティオは、初夏の日差しのような若々しさに満ち溢れていた。

「ところで、ジャド、フィラン」
 若き甥子の成長を内心で嬉しく思っていたフィランは、ジャドと共に名を呼ばれて目を瞬いた。当主は愛用の椅子に頬杖をついたまま半眼になった。
 その表情が面倒事を意味することは今までの経験は明らかで。だから二人は、続きを聞いて盛大に顔をしかめるのであった。
「貴様らは狩猟祭の前に一仕事だ」




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