-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>8話:あなたが拠って立つ支柱

10.優しい悪魔



「いやー、とりあえずなんとかなって良かった――ぼふっ!?」
 神殿の前で待っていた当主に近付いたオーヴィンは、出会い頭に腹に拳を食らって崩れ落ちた。
 その鋭い観察眼と手先の器用さで見事にシニオンを救った男を一瞬にして地に這わせた当主本人は、松明に照らされた横顔を凶悪にさせる。
「何が良かっただ。主を召使のようにこき使いおって、今宵はアルティディアのところに遊びにいくつもりが台無しではないか!?」
 ギロリ、と当主を睨んだのはアメストラ家当主のトランヴェードだ。彼はギルグランスの要請を受け、二人官に承認を訴えて自警団を派遣したのである。ルミニ教に自らの息子が傾倒したことを心配していた禿頭の当主の迅速な手配があったからこそ、今宵のルミニ教の強制捜査に踏み込むことが出来たといえるだろう。今も火災の鎮火に自警団が必死の活動を行っているのだ。ついでに彼はギルグランスの女遊びに厳しい目を向けている。
 ぽかーん、とシニオンはその様を見守るしかない。すると当主は気まずそうに配下の首根を掴んでずるずると引きずり、階段を下りていった。


 ***


 一夜にしてルミニの神殿は焼け落ち、外郭を残すのみとなった。鎮火後すぐにオーヴィンが調査に入ったが、ガルダ人の姿は忽然と消えてしまい、結果的に敵の尻尾を掴むには至らなかった。恐らくガルダ人は自衛団が集まってきたことを受けて神殿を燃やし、地下道を使って逃げたのだろう。
 オーヴィンはすぐに地下道も見に行ったが、多くの門や通路が破壊されており、ゴモドゥスの姿でさえ見つけることはできなかった。
 神殿に駆けつけたエウアネーモスは、逆にこの事件はガルダ人が引き起こしたものであり自分は被害者であると訴えた。オーヴィンやシニオンの証言以外に証拠のない現状で神祇官長のギルグランスが出来ることは、明日以降のルミニ教に対する徹底調査であった。少なくとも墓から遺体が消えていることは相手も隠せない筈だ。
 シニオンはその晩、怪我人として神祇官長の元に保護されたという呈でベルナーデ家に招かれた。無論、真実を見てしまった彼の命を狙う者から守るためである。
「その……感謝する」
 深夜になってようやく帰宅した一同の下、気まずげに告げるシニオンに、椅子にどっかりと座り込んだ当主はニヤと笑ってみせた。
「礼ならそこのとぼけ面にされるがよかろう。ねちねちと疑り深いそやつが会って間もない者を助けるなど真に珍しい」
「褒められてない気がする」
「うるさい、それより貴様は私に礼を言え。敬え。崇め奉れ。そして私の懐の深さに敬服し、死ぬまで尽くすがいい」
「……」
 オーヴィンは何も言わず指で目頭を覆った。

「あの教団は、一体何をしていたのだ」
 臥床に腰掛けて唇を噛む少年に、当主は眉を持ち上げてみせた。
「ガルダ人を匿い、亡者や腐った魔物の研究を行っていたのだろう」
 ――シニオンは絶望の味に、心が空洞になってしまったかのような錯覚を覚えた。
 信じた神は、身を預けた教団は、シニオンを裏切っていた。あらゆる民が救われる理想郷を目指した教えは、影で醜く汚れていた。
 その事実を知ることはシニオンにとって心臓に杭を刺されるに等しい。
 神に人を救う力があると信じて、ひたすらにその威光を信じた。けれど、疲弊した心は絶望を紡がずにはいられなかった。
「……私は、間違っていたのか」
 掠れた声を聞いて、当主はゆっくりと首を振った。
「間違ってはいないのだろう。そうまでして民を想う気持ちは見上げたものだ。その想いを利用する連中の方が屑と呼ぶに相応しい」
「神の教えは間違っていないと?」
「何もかも正しいとは思わんがな」
 シニオンは椅子の手すりに頬杖をつく当主に、迷い子のような眼差しを向ける。どうしてそうやって迷いのない眼をしているのか。暗闇に覆われたこの世界に、何故そうやって平然としていられるのか。
「お主は……神を恐れぬのか?」
「恐ろしいさ。神とはその指先で我々の運命を容易く弄ぶ」
 そのとき当主はふっと遠くを見るように目を細めた。しかし次の瞬間には、そこには剛健な笑みがある。峻烈な生の輝き。猛々しくも揺るがぬ芯を持ちえた力強い表情だ。
「だが私は、神の奴隷ではない」
 その言葉は何よりも太い槌となり、胸を貫かれたようにシニオンは息を呑んだ。
「我が神は私に道を示さぬ。私は我が決めた道を行く。神々は祝福を与えるだろう。己が足で立ち、己が頭脳で道を選ぶ者を」
「……お主は」
 シニオンは、呆然と呟く。幼い頃読んだ物語に登場した神にも見紛う英雄たち。まるで彼らの一人がそこに立つかのように、当主の居住まいは堂々としている。
 そして影にはオーヴィンが、その姿を眩しそうに見つめている。
 この時シニオンの心に浮かんだもの。それは、絶望と呼べば良いのだろうか。
 現実を胸に落としたシニオンは理解する。
 この者たちに救いの神はいらぬ。きっと彼らは自らの手で自らを救うのだろう。
 悪魔が闇の中で呟いたように。ここにはきっと、燦然と輝く絶対の光でなく、静かな燐光が存在するのだから。そしてそれが悪魔を救ったのだろう。
 揺るがぬ事実に気付いてしまったシニオンは、唇を噛み締めて、俯いた。

 光は一体何処にある。
 手を伸ばして届かなくても良い。
 ただ、そこに向けて必死で走ることのできる光は、一体何処にある。

 再び闇に投げ出されたシニオンの頭上に、星たちが漆黒の空に静かな光を散らしていた。


 ***


 寝台に老人が座している。それは古びた酒場の階上にある、錆びた時の一角だ。
 周りにわだかまる敷布ですら硬質に見えるほど、老人の居住まいは凍り付いている。
 魔法を教えるその指先はしわがれて、温もりを忘れて傷ついて。
 盗みと殺しを教えてくれたあの老人は、自分に何を見せたかったのだろう。
 全てを灰色の渦に押し込めて、ただ混沌を作りたかったのか。
 そうだ。きっとそうなのだろう。
 色あせた瞳が見る世界は絶望に塗れ、怒りと憎しみの吹き荒れる心は石のように硬く、更に堕ちていくことをきっと彼は望んだのだろう。

「なあ、じいさん」
 理想の欠片もない世界で、広がる現実を俯瞰して生きてきた。
 持っていれば奪われる。信じていれば裏切られる。辛いとすら思わない、当たり前の事実。
 それをただ受け入れて、諾々と歩いてきた。
 ――否。今思えば違う。自分はきっと、受け入れてなどいなかったのだ。
 悪魔の名を継いだのも。顔と名前を覚えられることを嫌ったのも。ただ、灰色の世界に自分がいることを認めたくなかっただけだ。自分はたぶん、逃げたかった。灰色の世界に身をおいて、埋もれてしまうのが怖くて。
「こんな世界だけどよ」
 オーヴィンは少しだけ遠くを見るように顎をあげた。
 喪失に塗れた世界は絶望に満ち溢れているのかもしれないけれど。
 そうやって苦しんで生きていく人々の姿が、何故か、少し、オーヴィンには眩い。
 だから彼は呟く。ゆっくりと灰に足を踏み入れ、光と影を選り分け始めた彼は。
「……それでもいいじゃないかよ」


「何か言ったか?」
 ふとギルグランスが振り向いたので、オーヴィンは首を横に振ってみせた。老練の当主は不思議そうにしながらも、視線を元に戻す。
 早朝のベルナーデ家の門前には輿が到着している。そこには既にシニオンが乗っており、ベルナーデ家の面々を複雑そうに見下ろしていた。彼はベルナーデ家の手配により、一旦アメストラ家に渡され、隣の都市にある実家に送還されることになったのだ。ちなみに後から聞いた話だが、勝手に家の金を使いこんでしまったアメストラ家の息子は無事に戻ってきたらしい。神殿内にいた彼は、自警団と共に消火に奮戦し、近隣への被害を防いだことから、父トランヴェードも縁を切らずに許してやったのだという。彼は本当に何も知らなかったのだ。
「道中は安心されるがいい。トランヴェードに話は通してある、命を狙われることはないだろう」
「……」
 シニオンは覇気なく目を落とし、ぼそぼそと礼を言う。その視線が、オーヴィンにやられた。
 当主の影に隠れるように立つオーヴィンは、淡く笑う。遠くから、届かない光を眺めるように。
「フォロヴィネス」
 シニオンは悪魔の名を呼んだ。ギルグランスはお前に話だというようにオーヴィンに一瞥をやる。
 オーヴィンは少しだけ面映い気持ちにかられながら、頭をかいた。あまり前に出るのは好きでないのである。
「……んん、まあ、なんだ」
 朝の日差しも、爽やかな空気も。オーヴィンには少し光が強すぎる。ややためらってから、オーヴィンはふっと口の端を歪めた。
「あんまりへこたれないようにな」
「……」
 シニオンは浮かない顔のまま口の端を縛る。それをただ思いの整理がついていないためだと認識したベルナーデ家の者たちは、彼をそのまま送り出そうとした。
 しかし突然シニオンは意を決したように目を開いたのである。
「フォロヴィネス、――ヴェギルグランス殿も。二人とも、あの島に用心されよ」
「うぇ、島? 灯台島のことか?」
 神の啓示を説くより力強く、シニオンは頷いてみせる。当主は怪訝そうに顎を引いた。
「何か知っているのか」
 シニオンは悲しげに目を伏せて、しかしはっきりとした口調で答える。
「……一部の神殿関係者が、しきりにあの島を調べていたのだ。資料室で島についての書面を大量に見つけたこともある。何かと思って島を見にいったのが――フォロヴィネス、お主との出会いだった」
「あぁ、だからお前さんあんなところにいたのか」
「しかし灯台島の何を調べていたのだ?」
「地形や動植物の生態に関する記載が多かったように思う。あんなもの、何に使うのか知らぬが……」
 それを聞いたギルグランスは暫く黙考していたが、見当がつかないというようにオーヴィンに視線を流す。オーヴィンも同じように肩を竦めて首を振った。
「あんな寂れた島、大層なものがあるとは思えないんだけどなあ」
「うむ……」
 当主は目を眇めて灯台島の方向を見やった。今や夜の女神は漆黒の裾に星々を集めて去り、夜明けの女神が空の彼方を明るく染めている。それらを背景に、灯台は孤独にそそり立っている。
 柔らかい風に髪をなびかせながら、シニオンは寂しげに乞うた。
「……どうか、悪しきものは正してほしい」
「無論だ。そう簡単に尻尾を出す連中とも思えぬが、必ずや真実は白日の下に晒そう」
「感謝する」
 シニオンはそっと会釈すると、瞳に光を宿して言い切った。
「フォロヴィネス、私は諦めぬぞ」
 オーヴィンは風を受けながら、歳若い少年の姿を見上げる。
「私は理想を手にしてみせる。かりそめの光ではない、本物の光を人々に与えてみせる。私は思考を止めたりはせぬぞ」
 みるみる明るさを増していく空が光の筋を注ぐ。世界が蘇るようなその様において、シニオンの言葉は強く響いた。ギルグランスが満足げに笑い、オーヴィンもまた、そっと頷く。
 奴隷が輿の窓に布をかけて閉めると、シニオンの乗った輿は静かに運ばれていった。ギルグランスとオーヴィンは、坂の向こうに遠ざかるそれを見えなくなるまで見送った。

「……どう思う」
「んん。あの島には五年住んだけどよ、そう不審なことなんてなかったよ。――いや、おかしいな」
 オーヴィンは言いながら疑問に気付き、唇を親指でなぞった。
「そんなに調査されてたなら、見慣れない顔の一つや二つ、見てもいいくらいだが」
 これまでを省みても、そのような記憶はない。
「最近灯台島を調べ始めたのはポマス博士くらいだよ。あの博士、まさかガルダ人に通じてるとかないよな?」
「ありえんな。あの方は研究熱心だが、自由を好む御仁だ。まあ、灯台島に只ならぬ興味を示しているのは同じだ、話を聞けば手がかりが得られるかもしれんが」
 ギルグランスは朝日の昇る方角を睨みながら考え込む。
 ルミニの神殿地下でオーヴィンとシニオンは腐った魔物を見た。それは、ルミニとガルダ、そしてエウアネーモスの繋がりを示唆している。しかし見ただけでは証拠にはならず、教会を告発することは出来ない。彼らも事の隠蔽のため、これまで以上に慎重になるだろう。エウアネーモスの近辺を公式に調査をするには、歪みない証拠が必要なのだ。
「だがよ、エウアネーモスの狙いは何だ? 帝国人がガルダに手を貸して、何の利があるんだろう」
 ギルグランスは半眼のまま暫く考えこんでいた。そしてふと、風に吹かれながら、静かに呟いた。
「オーヴィン。数百年続く帝国の繁栄は、いつ終わると思う?」
 朝の清浄な空気は肌を洗うようなのに、オーヴィンは不意に胸が冷える気がした。
「遠征の失敗、本国の混乱、地方統治の腐敗。民の不安は募るばかりだ。あの神殿に縋る者が増えたのも頷けよう。誰しもが国の未来を憂いているのだ」
 老練の当主は、低い声で現実を淡々と語る。
「ならば帝国の末端の都市など、面倒な帝国の慣わしを捨て独立してしまった方が有利ではないか」
 思わずオーヴィンは当主の横顔を見た。自らが立っている地盤が砕かれてしまいそうな気がしたのだ。何があっても帝国は壊れない。そんな当たり前の事実を、根底から壊される気がして。
 すると当主は、失笑と共にオーヴィンを見返した。
「短絡的だな。国が新しくなれば全てがうまくいくとでも? いまの帝国は動き方ひとつで息を吹き返すであろうに」
「……」
 その姿にぶれがないことを確認して、ようやくオーヴィンは胸を撫で下ろす。そして、自分がいかにこの当主の居住まいに拠っているのかを思い知るのであった。やはり自分はこの当主がいるからこそ、生きていられるのかもしれない。
「ふむ。全ては憶測に過ぎん。エウアネーモスについては引き続き調査を――?」
 ギルグランスは、目頭を覆っている配下を見て眉を潜めた。
「どうした。素晴らしい未来を予見して打ち震えているのか」
「……そんなとこ」
 やれやれとオーヴィンは手を放して、目蓋を開いた。ベルナーデ家の門前から見える都市は、朝の訪れに輝いている。青々と広がる空に、鳥たちが伸びやかに翼を広げる。
 ある小部屋の片隅に座り込んで、老人を見つめていた子供がいた。
 今は老練の当主を見つめ、ようやく立ち上がることが出来ている。
「貴様、変わったな」
「……え」
 当主はなびく髪を押さえている。オーヴィンはただ、朝日の中に立っている。
「昔は魚のような目をしていたが、そうか。私にこき使われた数年間も無駄ではなかったということか」
 鋭く、静かな灰色の瞳がオーヴィンを見据え、嬉しげに細められる。そして呵々と笑い、当主は屋敷へと入っていく。
「……」
 やや不満げにそれを眺めたオーヴィンは、深く息をついた。
「ああ、認めたくないがそうかもしれないよ」
 光と闇のどちらに行くことも出来ない人生だと思っていたけれども。
 それでも何処かへ足が踏み出せれば、それだけで生きていけるのだろうと、今は思う。

 だって空を見上げれば、こんなにも世界は明るい。

「やれやれ」
 いつからこの目は光が見えるようになったのか。オーヴィンは考えながら当主の後姿を追った。




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