-黄金の庭に告ぐ- <第一部>8話:あなたが拠って立つ支柱 09.悪魔が求めた光 世界は暗闇だ。 そう紡いだ老人の肌は固くひび割れて、濁った目は光を宿していない。 部屋の片隅に膝を抱えた少年は、それを見て思う。 寝台で上体を起こし、彫像のように座す老人が抱く、闇に溺れた悲しみの重さ。 周りの者が哀れみを込めて語る、光の虚像。 全てが灰色にしか見えない少年の胸は、ただ空っぽで。 少年は夢想する。老人が悪魔と化すまでに至った、その光の眩さを。 ――少年は、光を知りたいと切望する。 *** 「俺が育ったのは南の都市の寂れた旧市街でな。帝国からも見放された、酷いところだった。秩序なんてありやしない、盗みも殺しも当たり前のゴミ溜めだ」 こんなときに何を言い出すのだろうと、シニオンはオーヴィンの横顔を見た。今は息を潜めて周囲に注意を払わねばならぬ時だというのに、オーヴィンは、老人のような眼差しで淡々と語る。 「俺はどこぞの大御所の召使だった。いんや、召使なんかじゃないかな。命じられれば殺しもやったから」 そこで一つ溜息。シニオンは顔をしかめた。この男は、隠れ場所が発見されることを想定していないのだろうか。 「大御所が死んでから、俺のいた酒場は他所の連中に焼かれた。主がいなくなった飼い犬は殺されちまう。だから俺は故郷から逃げ落ちて、顔を隠しながら帝国を渡り歩いた」 「そうか。だからお主は聖なる名前ですら借り物を使ったのだな」 シニオンは溜息をつきつつも、相槌を打った。オーヴィンは少しだけ笑った。 「いんや、名前なんてどうでもよかった。それより一つの都市にあんまりいすぎると、顔と名前を覚えられちまう。それが嫌でさ。たぶん、自分が何者なのか、決められちまうのが怖かったんだなあ。仕事をちょちょっとやって、覚えられる前に次の都市に行った」 「……なんだ。それでは親しき友も、語るべき同志も見つからぬではないか」 何故こんな状況で自分は悠長に会話をしているのだろう。今でこそ背後は沈黙しているが、いつ追っ手が追いついてくるかも分からない。恐ろしき死の瞬間が、間近に迫っているかもしれないのに。 オーヴィンは、ぼりぼりと頭をかく。 「んん。そうだねえ。ずっと一人だった。だってよ、――何を見たって灰色だったんだ。世界がなんだか霞んでた。全員の顔が同じに見えたら、話す気も失せちまうだろう?」 「それはお主の眼が曇っていたせいだ」 「……耳が痛いねえ」 オーヴィンは口元を歪めた。 「でっかい靄の中を、ただ滑るように生きてるみたいだったよ。腹が減れば飯を食って、眠くなったら眼を閉じて。そうやって老いて死んでいくんだと思ってた」 シニオンは、ふと顔をあげる。思っていた。それは過去の気持ちを示すものであったから。 「あるとき、俺は北方で暗殺の仕事を引き受けた。標的は、とある帝国軍の軍人だった」 暗殺。その単語に、シニオンは寒気を覚えた。なのにオーヴィンは軽い口調で続ける。 「そいつのこと調べたんだけどさ、確かに善人じゃあなかったよ。属州出身の癖にふてぶてしいし、口は悪いし、無駄に偉そうだし、性格は極悪だし、娼館で大量に女侍らせてるし、顔も嫌味ったらしく整ってるし。軍でも問題児として有名人だ。殺したがる奴はいくらでもいただろうなあ」 「……お主も殺したいと思ったのか」 「いんや。俺はお仕事だから。ただ相手を殺す、それだけだよ」 当たり前を語るような口ぶりに、シニオンは頬を歪める。オーヴィンはそれを見て、ゆっくりと目蓋を伏せた。 「なあ、シニオン」 名を呼ばれたシニオンは、何故か目の前の男の心に、初めて触れたような気がした。 「お前さんが思ってるほど人殺しは大したことじゃないよ。人間が一人死んだところで、世界が滅びるわけでもない。でも、お前さんが持つその気持ちは大切にしておいた方がいい。人を殺しても世界は滅びない。でも、人を殺せば、ひとつ、世界が灰色になる」 「……フォロヴィネス」 古の悪魔と同じ名を唇に乗せる。そのときシニオンは何故か、わけもなくこの男を許したくなったのだ。罪に彩られたであろうその腕を清めてやりたいと。 しかし男は、穢れた身体を抱えて続きを歌う。 「俺はいつも通り仕事に臨んだ。準備をして、軍に潜り込んで機会を狙った」 弓を番えるように眼を細める男は、きっと淡々と、黒い影のように標的の後を追ったに違いない。 「でも、失敗だった。失敗どころじゃない。乱闘になっちまって、二人して川に落ちた。雨が降ったばかりだったからよ、そのまま随分流されて、岸辺にたどり着いたと思ったらガルダ人の森の真っ只中だった」 「が、ガルダだと!?」 シニオンは思わず聞き返す。ガルダは帝国人なら誰もが知る逆賊である。残忍で知られる彼らの恐ろしさは各地で語り継がれており、シニオンもよく知るところだった。 「んん、超怖かった。昼なのに暗いし方角分かんないし、辺りは魔物の気配で一杯。しかも流されたときに足を怪我しちまってた。これは自殺した方がマシかなと思ったよ」 オーヴィンはそう肩を竦めてみせる。しかし、不意にその瞳に光が揺らめいた。 そう、それは闇に生きた彼が見た、一片の光。 「そんなときだ。標的だった軍人さんが目の前に現れてよ」 ――なんだ、そんなところにいたのか。 ――全く、面倒なことをしおって。帰るのは骨だぞ。 ――おい貴様。責任を取って力を貸せ。 シニオンが目を見開いたそのとき、身が竦むような槌音が聞こえた。扉を誰かが叩いているのだ。更に複数の声が交差し、巨大なものが打ち付けられる。神の怒りを思わせるそれは部屋を震撼させ、伝わる律動にシニオンは全身を凍りつかせた。隠れ場所が見つかったのだ。 「こちとら怪我人だし、生きることはもう諦めてた。だから俺は言ったよ。どうせ俺もあんたも死ぬんだから、今ここで命を絶った方がマシだって。そしたらさ」 「ふぉ、フォロヴィネス! それどころではない――」 言い終わる前に、再度槌が打ち付けられて扉が大きく軋む。 「その人は言った。諦めるのか、ってさ。俺は笑っちまった。あんな絶望的な状況で、ずぶ濡れで泥だらけで、あちこち怪我して酷い成りだってのに。なに格好つけてんだって」 「フォロヴィネス!」 悲鳴のようなシニオンの叫びも、槌音の前にはまるで力を持たない。揺れる小屋のあちこちから砂がぱらぱらと零れ落ち、扉はいよいよその身をたわませる。 しかしオーヴィンはぴくりとも動かない。それは生きることを諦めたかのよう。 いや――、シニオンは逆に、彼の超然たる佇まいに畏怖を覚える。その様は例え槍の雨が降ろうと、心穏やかに教えを口ずさみ続ける僧侶のよう。 「その人は俺を無理矢理連れていった。自分を狙う殺し屋だった俺をだ。その癖、殴られるは怒られるは散々でさ、いざとなったら囮として使ってやるとか言われて、――魔物に襲われて、ガルダ人に襲われて。でもその人は、決して俺を見捨てなかった」 そのとき、松明の光が煌々と輝くルミニの神殿の前で、サンダルが土を咬む音があった。 長い影。それが力強い動きで前へ進み出る。橙に照らされた横顔に、不敵な笑みを浮かべて。 「忘れられないんだよ。その人の目の奥に、何かが輝いてたんだ。生きていることが楽しくてしょうがないって目だった。正しさなんて何処にもない世の中でさ、あんな真っ暗な森で軍務に就いて。なのに羽根が生えたみたいに自由で、自信たっぷりで、眩しくて――なんでなんだろうなあ」 悪魔の名を持つ男は、その手をゆっくりともたげて指を握る。光に手を伸ばし、そっと掴もうとするように。 扉を叩く槌の猛攻は勢いを増し、ついに蝶番代わりの刃が弾けとぼうとする。しかしシニオンは、扉でなく闇の片隅に座る男を見つめていた。神を信じぬ男。それは暗がりを彷徨い神を否定したからではない。 シニオンは男の目に光を見る。見えない何かを見ようとする、その毅然とした意思。それこそが人の力であり、その瞳の奥底に光を宿す源となる。 そうして灰にまみれた悪魔は、まとわりつく灰の本質が、歓喜と悲嘆、光と影の入り混じった混沌なのだと気付くに至る。その境を見極めようと、彼はひとり、手を伸ばす。 「俺はそれが知りたくて、だから、あの人についていこうと思った」 シニオンにはそれがまるで奇跡のように思えた。 きっともう一度打撃が加えられていたのなら、扉は破られていたことだろう。 だというのに、神にその祈りが通じたというのか。オーヴィンが告げると同時に槌音は止んだ。別のものが打ち付けられるわけでも、怒鳴り声が聞こえてくるわけでもない。複数の足音が遠のき、薄暗い小部屋には、嘘のような静寂が訪れた。 シニオンは目の当たりにしたことを前に、呆然と呟いた。 「……どういうことだ、これは」 「んん。間に合ったみたいだな」 オーヴィンはのっそりと立ち上がり、口元を歪める。 「間に合ったとはなんだ。まさか、悪魔の力でも借りたというのか?」 「そうねえ、悪魔っていうより、あれは邪神だね」 扉を眺めやるその横顔には、汗一つかいていない。窮地に追い込まれたというのに、何故この男はここまで――。 「何故だ。何故、お主は平静でいられる」 オーヴィンは一度、振り向いた。その顔が、苦笑を形作る。 「世界はさ、きっと本当に暗闇なんだろうよ」 悪魔の名を持つ男は、その唇に絶望を乗せる。 「でもたぶん、俺が欲しかった支えは」 大いなる神の導に拠って生きるシニオンにとって、その続きはきっと刃になる。それを両者は知りながら、一人は語り、一人は耳を澄ます。悪魔の囁きと呼ぶには哀しいほどに優しい、その答え。 「それは神とかでっかい光とか、そんな大げさなものじゃなくてさ。ほんの小さな光で良いんだ。触れたら消えちまいそうな希望。俺の世界は真っ暗だから。それだけあったら、どんな馬鹿らしい道でも、十分に生きていけるんだよ」 俺は、その光に出会っちまったから。 言外に呟いて、オーヴィンはのっそりと立ち上がると、扉を開く。外は夜空の美しい、静かな夜であった。 何が起きているのだろう。オーヴィンを追っていくと、彼の行き先はなんとルミニ教の神殿の正門だった。そして、繰り広げられている夜とも思えぬ騒ぎにシニオンは驚愕した。 神殿前にはヴェルスの自警団が行き来しており、神殿内のいくつかの窓からは煙が立ち上っている。自警団を指揮しているのは団長でもあるアメストラ家当主トランヴェードであり、その隣には長身の偉丈夫が腕を組んで立っている。 「神祇官長権限での強制捜査だよ。たぶん、昼間に襲われた奴がベルナーデ家に陳情に来たんだ」 オーヴィンに言われ、シニオンは家を荒らされて俯いていた男のことを思い出した。オーヴィンは逃亡の途中で、神殿前の騒ぎの気配に気付いていたのだ。だから敵をやりすごす時も悠長にしていたのだろう。 「んん。まあ、ちょっと怖かったよ」 一体何処まで本気なのか、問い質してもオーヴィンはのらりくらりとしている。 シニオンは燃え盛る神殿を呆然と見上げていた。強制捜査に気付いた神殿内部の人間が、見られてはならない証拠品に火を放ったのだろうか。オーヴィンもこれには苦い顔をしている。燃えてしまえば、ルミニ教の不正を暴く手段がなくなってしまうのだ。 「んじゃあ、ぼちぼち邪神様んとこに行くかねえ」 オーヴィンはそう言って神殿へと歩いていった。 彼の背を追いながら、シニオンの頬をはらはらと涙が伝っていた。シニオンの支えであった神殿は焼け落ちつつある。神は一体何処にいるのだろう。確かな光は一体何処にあるのだろう。何処にもないというなら、出会うまで彷徨うしかないのか。 悪魔ですら見つけられた己の支柱。彼はそれをほんの僅かな光で良いと言ったが。その僅かな光とは、一体何処にあるのだろう。 神殿は狂騒に包まれている。再び闇に投げ出される心地を味わいながら、シニオンは小さな掌で涙を拭うのだった。 Back |