-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>8話:あなたが拠って立つ支柱

08.寄る辺を失って



 雲の流れの速い夜であった。吹き付ける風に黒い草むらがさらさらと揺れている。
 岩のように身を沈めたオーヴィンは、亡者たちの行く手を見てふっと目を細めた。
『下水路か』
 小型の荷車は人気のない城壁を通って用水路まで辿り着くと、壊れかけた扉を潜って地下へと潜っていく。
 上下水道を完備した都市ヴェルスの地下には、蜘蛛の巣のような下水路が広がっている。修理と増設を繰り返しているため、その全貌を知る者はいない。いや、そこは本来知っておかなければいけないのだが、暗黒時代を経て管理が行き届かなくなってしまったのだ。お陰で今や下水路は親が子供を脅しつける良い素材となっている。薄暗く悪臭漂うそこに放り込まれれば、二度と出られなくなるぞ、と。
 オーヴィンは彼らが消えるのを待つと、懐から布を取り出して顔に撒いた。鼻と口の部分に匂い草を詰めた布を挟み、ついでに顔も覆い隠す。ここからは、正体を隠していった方が良いからだ。
 準備を終えると、顎を引き、身を低くして坂を下りる。草むらに潜るようにそこだけ地面が低くなっており、傍から観るとまるで地中の世界への扉のようだ。奥には荷車の灯火が見えている。唇を舌で濡らすと、オーヴィンは後を追うのであった。


 ***


 かつては黄金の庭と高らかに詠われたヴェルスであるが、上下の水道設備が整ったのは帝国の属州に下った百年前である。当時の執政官に娘を嫁に出した将軍がいたく気にかけて造ったその堅牢な設備は、今でも市民の生活を支えている。
 黒い影たちは荷車を取り囲むようにして、精密な石造りの道を注意深く進んでいく。オーヴィンは踵から地につける歩き方で、物音一つ立てず、まるで影そのものが道を行くように後を追った。下水道は明かりの一つすらなく、水音が不気味に鳴り響いている。
 よほど慣れているのだろうか、前を行く者たちの足取りに淀みはない。ベルナーデ家襲撃の時も、まさか同じようにこの迷宮のような下水路を使ったのだろうか。
 疑念に眉を潜めたとき、不意に曲がり角の先で足音が止まった。何者かに出会ったようで、話し声が聞こえてくる。
 オーヴィンはそっと壁際に身を寄せて先を伺い、愕然とした。
 全身を暗灰色の布で覆い、更に獣の皮を被った男たちが四人、松明を持って荷車の中を改めていたのだ。オーヴィンはギルグランスと共に北方の国境にいた頃、その姿を見たことがある。そしてつい最近にも。
 禍々しい外貌の彼らは、間違いなくガルダ人であった。全身から汗が噴き出るのを感じながら、オーヴィンは食い入るように男たちを見つめた。オーヴィンは心の何処かで、ガルダ人はエルの抹殺こそが目的で、それが果たされた今はヴェルスから消えたのではと考えていた。あの事件の以後、ベルナーデ家の周りは平穏であったし、腐った魔物が出現する頻度も減っていたからだ。
 しかしたった今、ヴェルスの地下に彼らがいる。まだ別の企みがあるということだろうか。ガルダ人は松明に長い影を伸ばし、荷台の運搬人に二三言付けると尚も奥へと進み行く。あの人数に見つかれば、オーヴィンの力量ではひとたまりもないだろう。昼に伸した無頼の下っ端とは訳が違う。だが、危険であっても、ここで見逃す訳にはいかなかった。
 狭い暗路は方向感覚を簡単に狂わすため、歩けば歩くほどオーヴィンの方向感覚も鈍くなる。彼らがようやく足を止めたのは、恐らくは都市中枢部の近く、大きく門をあけた出入り口前であった。下水道にあのような規模の門などありえない。ならば勝手に改築したものと見た方が自然だった。
 門が開き、荷車は奥へと消えていく。オーヴィンは門が閉ざされて気配が完全に消えるのを待って、辺りを探索した。門の前には常時角灯がついており、薄ぼんやりと照らされた周辺は使いこまれた形跡が伺える。
 近くに門とは別に一般的な出口を見つけ、オーヴィンはそこから外へ出てみた。鉄格子を開いて外に顔を出すと、冷たく清浄な空気が肺腑を洗うように吹き付ける。周囲には背の高い建造物が軒を連ねており、やはり都市の中枢のようだ。オーヴィンが出てきたのは何処かの建物に設けられた列柱回廊の木立の影であった。
 世闇に身を隠しながら、オーヴィンは地下に門のあった方向を見上げた。いくらか予想はしていたが、実際にそれを確認すると戦慄に背筋が寒くなった。
 彼の視線の先には、ルミニ教の紋章を掲げた壮麗な神殿が、月を背景に鬱蒼と立ちはだかっている。
 ガルダ人、ルミニ教、そしてエウアネーモス。三つの単語が繋がって、恐ろしい旋律を耳元で奏で始めた。
 一旦地下道に戻ったオーヴィンは、慎重に辺りの捜索を続け、近くに小部屋を見つけた。オーヴィンは中へと足を踏み入れると戸を閉めて、魔法で燭台に火を灯す。そして、頬を歪めた。
 小部屋には大小の棚と瓶が並び、大量の穀物や食糧が所狭しと備蓄されていた。それらは、以前農園の備蓄庫が襲撃された事件をすぐに想起させた。
 脂汗が噴き出てくる。オーヴィンはあの事件を無頼の仕業と考えていたが、実際の犯人は異なったのだ。オーヴィンは気付かなかった自分に内心で舌打ちをした。略奪を常とする彼らの手口は、当主に付き従った戦場で何度も目の当たりにしてきたというのに。
 ガルダ人はヴェルスの地下に根を張り、再起の時を虎視眈々と狙っている。眩暈がするような事実が、目の前に厳然と横たわっていた。
 その時、人の気配を覚えてオーヴィンは棚の裏に飛び込んだ。ほぼ同時に、扉が荒々しく開き、少年を担いだ大男が入ってきた。オーヴィンは二人の顔を見て血の気が引いていくのを感じた。大男は無頼のゴモドゥス、そしてもう一人は――シニオンだ。
「放せ、無礼者! 神はこのような真似を決して許さぬぞ――っ!」
 暴れていたシニオンは、地面に乱暴に叩き付けられて顔を歪めた。幸いゴモドゥスは部屋に灯りがあることに不審を覚えていないようだった。仰向けに倒れたシニオンの肩を足で踏みつけ、冷酷な笑みを向ける。
「お坊ちゃん。ここは入ってはいけないと教わらなかったのか?」
 シニオンは反射的にキッとゴモドゥスを睨んだが、暫しの沈黙を置いてから静かに口を開いた。
「……貴様らはここで何を匿い、何を調べているのだ」
 ゴモドゥスの頬がぴくりと動いた。シニオンは神の教えを説くように、淀みなく続けた。
「私はルミニの司祭だ。神殿の全てを知る権利があろう。そなたが真にルミニの教えにそぐう行いを為しているのだとすれば、何故答えないのだ。あの研究室では何を行っている。運び込まれた遺体はどうするのだ」
 唇に浮かぶ薄笑いは、心が静まっているからではない。怒りと絶望を超越しているからだ。更に強く肩を踏まれて、シニオンは苦悶の呻きをあげる。
「おいおい、一体どうしたんだ。テメェはこれまで通り信者を誑かせてりゃ生きていられたのによ」
「誑かせただと」
「そうだよ。テメェのお陰で随分楽をしたってエウアネーモス様も褒めてたってのによ。見ちまったからには、死んでもらわにゃならねえな」
 その時シニオンが浮かべた表情に、オーヴィンはぞっとした。聖人と呼ぶに相応しい穏やかな顔で、シニオンは目を閉じた。まるで、もう汚物を見る必要などないというように。
「そうか、死なねばならぬか」
 オーヴィンの脳裏にルミニの教えが過ぎった。いつか裁判の日がやってきて、正しく生きた者の魂を救済する。それはなんと優美な想像だろう。そのまま少年は息絶え、自分は戻って当主と共に不正を裁く。誰もが望んだとおりに、事は進むだろう。
 悪魔の名で呼ばれた老人の眼差しを思い出す。この世のあらゆる怨嗟と憎悪を塗りこめた、あの灰色の瞳。彼の言うことは確かに真実であった。
 世界は喪失に満ちている。
 絶望はすぐ傍で、手ぐすねを引いて待っている。
 拠って立つ支柱を探すより、闇に身を染め人を利用し、奪いながら生きる方がよほど容易い。
 それは真理だ。誰にも覆すことの出来ないそれは真理だ。
 オーヴィンは、一つ息を吸い込んだ。

「精霊の御名において。――ああ。俺は、馬鹿だ」


 ***


 耳朶に響く、そんな言葉があった。

「……え?」
 遅れて、シニオンは目蓋を開く。とっさに天井を仰いだのは、それが神の声のように聞こえたからだ。
 空気がざわりと沸き立った。眼を見開いたまま、シニオンは棚の一つが崩れてゴモドゥスを薙ぎ倒し、そこから黒ずくめの悪魔が舞い降りるのを、見た。
「――フォロヴィネス」
 灰色の布で顔を覆った男は、僅かに笑ったように見えた。丸太のような腕が、己の腰を掴んで軽々と持ち上げる。
「お前さんね、嘘は良くないよ」
 ぼそりと呟くと、伏したゴモドゥスに目もくれず、一気にオーヴィンは部屋を飛び出す。
 硬直が解けた瞬間、シニオンは叫んでいた。
「何故助けた!?」
「話は後だ。大声出さないでくれ」
「後回しにするでない! 大体お主、どうしてあの場所に……っ!?」
 後ろ向きに担がれていたシニオンは、はっと息を呑んだ。
 ――少年の瞳が異形の姿を映し出す。ぬらりと地下道に影を落とす腐肉をまとった魔物たち。狼のごとく牙を剥いてこちらに向かってくる。
「なっ……魔物だと? どうしてこんなところに!?」
「んん、ゴモドゥスの仕業かな。俺たちを生きて帰すわけにいかないからねえ――ん?」
 嘯くオーヴィンは、走りながらふと天上を見上げた。
「た、戦うのか」
「いや無理。もちろん逃げるよ」
「な!?」
 あっさり敵前逃亡を告げたオーヴィンは、魔法で行く先を照らしながら次々と角を曲がっていく。だが、その灯りを目指して殺到する魔物たちの距離はみるみる縮まっていった。
「ふぉ、フォロヴィネス!」
「慌てない」
 ぼそりとオーヴィンは呟くと、腰から先端に錘をつけたロープを取り出した。曲がった地点で壁に設えた燭台に素早くロープを渡して結わえる。
 そこに一直線に飛び込んできた魔物は、ロープに足や胸を引っ掛けて、肉片を飛び散らせながら地に叩きつけられる。腐った魔物は通常の魔物より知能が低いため、次々と愚直にロープに突っ込んでは肉片と化していった。
「んん、この辺りか」
 オーヴィンは突然灯りを消すと、通路の脇道に飛び込んだ。すぐに昇り階段になり、鉄格子の扉が現れる。オーヴィンは素早く腰元から取り出した器具で錠前を外し、地上へと飛び出した。煉瓦の薪小屋を見つけて飛び込むと、閂代わりに中から短剣をくくりつけ、ようやくオーヴィンはシニオンを降ろした。
「んん、とりあえずここでやりすごそう」
 シニオンはすっかり放心してその様を見つめていたが、彼がこちらを向くと、その名を呟いた。
「フォロ、ヴィネス……」
「んん、無事か?」
 とぼけた返答を聞いて、シニオンはぎゅっと裾を握る。
「何故、助けに来たのだ……?」
 するとオーヴィンは、下水道での一部始終を教えてくれた。シニオンは呆然と瞳を震わせていたが、自分の体を抱きしめ、覚悟を決めて顔をあげた。
「フォロヴィネス、今からでも遅くない。私が囮になる故、お主だけで逃げるのだ。お主は顔を見られていないから、きっと安全であろう」
「……」
「虚言を口にしたことは謝る。助けに来てくれたことにも感謝する。しかし私はもう良いのだ……お主の思いを無視してすまぬが」
 シニオンは己の胸に手を当てて、絶望を紡ぐ。
「――私は、もう生きていけそうにない」
 支えを失ったそれは消え入りそうな囁きとなって闇に沁みた。シニオンは一人神殿に戻り、入室を禁じられた部屋を片っ端から暴いて中を物色していたところをゴモドゥスに捕らえられたのだ。神殿内の奥底にあのような荒くれ者がいたことからして、シニオンには信じられなかった。
 オーヴィンは隠者のように耳を傾けている。シニオンはゆっくりと首を振る。
「私は……きっと、神に見捨てられたのだな」

『違う』
 言葉を連ねる傍ら、シニオンの知らない自身が呟く。シニオンはそれを無視しようとする。理想を紡ぐ唇、望んだ世界、信じる心。きっとその先に真の平穏があるのだと疑わなかった。そして自分は神をひと時でも疑ったが為に闇に落とされ、こんな現実を見せられているのだ。
『違う、――違う』
 誰かが呟く。目尻が熱くなる。心の片隅の疑念。シニオンは必死にそれを抑えようとする。
「偉大なる神はその威光を認めぬ者に怖ろしき厳罰を下す。我が心はあまつ神を尊び、我が魂はその教えに捧げられるべきであった。しかし私は道を誤ったのだ。だから、――だから」
 ああ、とシニオンは心の中で呟いた。
 きっと自分は既に気付いているのだ。
 汚れた神殿。穢れた教え。清く着飾った裏でこれだけの歪みを内包するルミニ。
 心を尽くして得ようとした平等は、きっと何処にもないのだと。

 ――心を尽くして信じた神は、きっと何処にもいないのだと。

 本当は分かっていた。自分のやり方で世を変えることなど出来ないと。初めに現実から目を背けたのは、他ならぬシニオン自身なのだ。
 ただ、眼前にある悲劇を救いたくて。そんな稚拙な思いを叶えたくて叶えたくて。
「……ぁ」
 零れる涙がひとしずく。シニオンはそれを拭う。引き裂かれた心から滴る血を拭うように。けれどそれで痛みが和らぐ筈も、増して傷が塞がる筈もない。
「……何故だ」
 走りきった先に、光があるのだと信じて疑わなかった。
 この柱に寄り添うことで、自分はいくらでも強くなれるのだと。
 なのに、どうして現実は手の平を返すのだ。人は尊くあれないのだ。
「教えは正しい筈だ……全てが平等な世界を望まない者などいるものか。ならば皆で目指せば良いではないか。何故だ。どうして穢れているのだ。人は神に平伏せぬのだ」
 それは子供のような拙い訴え。高潔で清浄な慟哭であり、同時に光の中を歩んできたが故の傲慢でもある。
 けれど闇を歩いてきた男はそれを眩しげに眺める。混沌の中に、一筋の光を見つけたように。
「いいじゃないかよ」
 闇の中に悪魔が立っている。暗い冥界の河川に一人立つかのような、ほの暗いその姿。
 彼の前には絶望に咽ぶ聖職者。いと高き神の威光から見放され、その姿は今やまるで羽をもがれた小鳥のよう。
 悪魔は歌う。聖者の耳を誑かせる虚言を悪魔は歌う。
「全て正しいものじゃなくたっていいじゃないか」
 聖職者は、ぼんやりと顔をあげる。
「だってよ」
 暗がりに立った悪魔の名を持つ男は、ふと天を仰いだ。


「世界の全てが正しかったら、俺はきっと、生きていなかったよ」




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