-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>8話:あなたが拠って立つ支柱

07.幕間の闇



「……フォロヴィネス。今から言うのは、私の独り言だ」
 腰を下ろしてから、どの程度の時間が経ったろうか。薄暗い視界の中、今にも擦り切れて消えてしまいそうな声が唐突に聞こえた。オーヴィンはゆるりと目の前のシニオンを視界に納める。
「だから、何も答えるでないぞ」
 雨に濡れたその様に、晴れ晴れと聖典の教えを語る勇ましさはなく、まるで人の足に踏み潰された花のようだ。そして、彼が語る言葉も。
「私とて、何かがおかしいとは感じていたのだ」
 鬱蒼と茂る木々の元で体を丸め、シニオンは押し出すように告げる。
「今や他の司祭に正しい教えを広めようとする者はおらぬ。エウアネーモスという商人が、増やした信者の数だけ俸給を与えるようにしたからだ。ろくに教えも知らず、入信さえしていれば救われると信じている信者のなんと多いことか」
 とつとつと、降りしきる雨のように彼は続ける。
「私は何度も彼らに訴えた。我々の目指すところは真の神の教えを説くことだ。悪戯に教えを広めるだけでは、邪神を信じる者たちと何も変わらないと。しかし、私の言葉に耳を貸す者はいなかった」
 悔しさに歪むその頬は苦痛が滲み、深い闇が落ちている。しかし同時にそれは、不思議と清廉であるようにオーヴィンには感じられた。
「故に。故に、私は警鐘を鳴らさねばならぬ」
 少年の純白を思わせる冴え冴えとした輝きは、痛ましいまでに美しい。
「一人でも多くの民に真の教えを説き、曇った眼を目覚めさせねばならぬのだ。私は諦めぬ。我が行いを恥ずべきものとは思わぬ。そうせよと、神が私をお導きになるからだ」
 はっきりと少年は言い切って、片手で顔を被せた。そうせぬと己を保っていられないと言うかのように。そして、たった一人で呻く。
「私は、間違っていない……」
 神の前に慟哭するかのようであるが、彼の前にいるのは古い悪魔の名を持つ男である。
 オーヴィンは何も答えなかった。それが、彼にできる唯一の返答であった。


 ***


 全てに輝く陽の神がその姿を現すことのないまま天と地に夜が訪れる。シニオンはもどかしい思いでオーヴィンがいる方向を睨んだ。
 夜闇に閉ざされた視界で、彼の輪郭は微動だにしない。彫像が置かれているのだと言われたら信じてしまえそうな程の静けさだ。
 雨は止んでいたが、体が酷く冷えて重たかった。自分は何をしているのだろう。明るい日差しの袂で弱き者に教えを広めるのが自分の役割だというのに。しかし、とシニオンは思う。陽が明けて、また自分は元のように神の言葉を語れるだろうか。白い布に落ちた染みがいくら洗っても落ちないように、もう清くはあれない気がした。もう立ち上がれない気がした。自分に縋る者のために、聖者であらねばならないのに、悪魔の前で苦しむ様を見せてしまった――。
 秋の夜の空気は容赦なく体温を奪っていく。昼間から何も口にしていないため、空腹もこたえた。
 どうして目の前の男は平然としているのだろう。そう思って身じろぎをしたそのとき、風に人の声が混じった。
 はっとするシニオンを手で制し、オーヴィンは闇の奥底に目を向けた。

 松明の明かりがゆるりゆるりと近付いてくる。それはまるでこの世の境界の河川から対岸の冥界を見るかのよう。
 オーヴィンは自分の悪い予感が当たったことを確信して、頬を歪めた。思えば不可解であったのだ。エルが殺されたとき、彼の周りに撒かれていた二十を越える遺体。敵はそれを一体何処から調達したのか。
 戦場であれば容易いであろうが、ここは国境の戦線からも離れた辺境である。一つや二つならまだしも、数十の遺体を手に入れるとなると容易ではない。少なくともそれだけの人数が一度に殺されれば、噂の一つは立つはずだ。
 ――けれど、人を焼かずに埋葬する墓地があるのなら、調達は可能だ。
 人の気配は四つほど。土を踏む音と、僅かな会話。すすり泣くような風に灯火が揺れる。彼らは墓地の中で暫く話した後、それぞれ散った。影が墓石に取り憑くように近寄り、その麓でかがみこむ。その時、目を細めたオーヴィンの遥か頭上で、不意に途切れた雲間から満月の明かりが覗いた。
「――!」
 オーヴィンは音もなく身を動かすと、シニオンの口をとっさに塞いだ。青白く輝く月の元に照らし出された墓地。そこにたった今起き上がった亡者のようにたむろう人々。

 彼らが皆、死者の眠る墓を掘り起こしているのだ。

 口を押さえられたシニオンは凍りついたように固まっている。オーヴィンもまた、唇を引き縛ってその様を見続けた。
 彼らは淡々と墓石を外して中を暴く。そうして一人が屈みこみ、棺の蓋をぞんざいに放り投げ、中から汁の滴る黒い影を――。
 シニオンに食事を取らせなかったのは正解であった。自身も吐き気を覚えながら、オーヴィンは目を伏せた。これ以上死者が辱められる光景を見る必要はない。本当に見なくてはいけないのは、彼らが死体を運ぶ先だ。
 手にかたかたと振動が伝わってくる。シニオンが震えていることに気付き、オーヴィンは少しためらってから、少年の頭に顔を近づけた。
「見るな」
 ここまでついてきたのは少年自身だ。けれど、耐えられる絶望には限度がある。暗い茂みの中でシニオンがどんな顔をしているのか察し、オーヴィンは僅かに憐憫を覚えた。本当は見せない方が良かったのだろう。この世界の陰に潜むものなど。
 彼らは掘り起こしたものを麻布の上に乗せると、上からも布を被せて荷台に乗せる。その手際の良さが、この作業が彼らにとって始めてではないことを如実に示している。墓石を元に戻した彼らがカラカラと荷台を引いていくのを見届けてから、オーヴィンはシニオンの口を離してやった。
「……っ」
 硬直から解き放たれたシニオンは、地面に手をつくと激しくえずく。酷い吐き気に襲われているに違いない。辺りには噎せ返るような死臭が立ちこめている。
「お前さんはここで休んでな。これ以上は、見ない方がいい」
 オーヴィンは硬直した体をほぐすと、影たちが去った方向を睨んだ。彼にとってはここからが正念場なのだ。
 しかし驚いたことに、声を出すことですら辛いだろうシニオンは、瞳に涙を溜めたまま呟いた。
「……私も、行かなくては」
 オーヴィンは肩を落として首を振った。
「やめときな。こっからは本当にまずい。休んだらベルナーデ家に行ってくれ、話は通してある。いるのは人相の悪い当主と愛想の悪い甥っ子だがよ、まあ悪いようには――」
「立ち止まっていられるものか! 教えが冒涜されているのだぞ!?」
 本人は身を絞るように言ったつもりだろうが、声は掠れて痛々しい。それでもシニオンは首を振って激情を露にした。
「すぐに神殿に戻らねば。この罪を皆の者に教えなくては。神の名にかけて冒涜者を捕らえ、然るべき厳罰を下し――」
 オーヴィンは目を細める。賢い少年はきっと現状を正しく理解している。けれど、認めてしまうわけにはいかないのだ。それは、彼にとっての支柱を疑うことに他ならないのだから。
「やめといた方がいい。下手したら殺されちまうよ」
「はっ……まだそんなことを弄すか、悪魔め。そのように誘惑しようと、私は耳を貸さぬぞ。決して屈さぬぞ。これはお主と同じ悪魔の所業だ。我が神は決してお許しにならない!」
 ぜいぜいと息を乱れさせて。必死に柱にしがみ付くように、シニオンは吼える。けれどそれは、まるで泣いているかのようで。
 沈黙したままのオーヴィンを前に、シニオンも力を使い果たしたように俯いた。柔らかい巻き毛が青白く照らされている。
 そうして暫く沈黙した後、シニオンはぽつりと呟いた。
「……分かった。お主の言う通りにしよう」
 覇気のない答えだ。オーヴィンはやれやれと首を振る。
「もしもお前さんの言う通りルミニ教が潔白だったら、そのときはちゃんと謝るよ。でも今は、悪いが疑わせてくれ」
 地についたシニオンの指が、枝葉を握りこむ。信じたものを奪われる絶望の味は、オーヴィンには分からない。けれど己の胸を刺す痛みが真実であることを自覚し、彼は柔らかく笑った。
「じゃあ、また後でな」
 一度シニオンの頭に手をのせて、すぐに離す。あまりもたもたしていては荷車を見失ってしまう。オーヴィンはシニオンを伴って茂みを出ると、手早く点した松明をシニオンに渡し、闇夜の道を走り出した。


 一人取り残されたシニオンは、荒らされた墓場を暫くぼんやりと眺めていた。荒らされたといっても、他人には分からぬように取り繕われている。けれどシニオンの目に、月夜に照らされるそれは穢されたものとして映った。
 疑念は、きっと昔からあったのだ。
 壮麗な神殿の内部に潜むもう一つの教えの在り様に気付かぬほど、シニオンは愚鈍ではなかった。
 けれど、意図して目を逸らした。そんなものはないと心に蓋をした。
 闇に目を向ける必要はない。自分は弱き民を救うシニオンであればいい。自分が足に力を込めて立っていれば、きっとそれを神は見ていてくれる。自分が打ち負けなければ、きっと理想郷はやってくる。
 信じていたのだ。そこに光があるのだと。
 ――そこに神がいるのだと。
 しかし、自分は何処かで理解してしまっている。
 いくら教えを説こうと、変わらぬものは変わらない。

 ――大いなる神の力を以ってしても訪れぬ平穏というものがあるということか。
 あの、嘲弄するかのような眼差し。

 ――一日も早く我らの理想の世が訪れることを、わたくしも祈りましょう。
 あの、瞳の奥に野心を秘めた眼差し。

 ――だから、『絶対』なんて信じられないよ。
 あの、全てを見定めたかのような眼差し。

 ああ、とシニオンは呻き声を漏らす。
 神で世界は救えない。
 人はそれ以上を求めてしまう。

 もしも、それが真理なのだとしたら。
 この世界そのものが間違いではないか。

 血が滲むほどに唇を噛み締めて、シニオンは俯く。神から見放されたような夜闇に包まれて、地を踏む二本の足はあまりにか細い。
 その瞳が、光を求めてゆらゆら彷徨う。
「……すまない、フィロヴィネス」
 憔悴した顔で空を見上げ、シニオンは呟いた。
 頼りない肩がふらりと動く。シニオンは哀しげな眼差しで都市の方向を見定める。怜悧な思考が弾き出す答えを、神の祈りが覆い隠す。
「それでも私には、神しかおらぬのだ」
 そうして傷ついた足が地を蹴って、少年の矮躯を前へと突き動かす。
 すまない、と。己の罪に許しを乞う声を聞く者は誰もいない。けれど少年は僅かな希望に縋るように、前へ進み続けた。




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