-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>8話:あなたが拠って立つ支柱

06.光を見た悪魔と、闇を見た聖職者



 ――世界は暗闇だ。

 しわがれた唇がそう紡ぐ。

 ――この世界は暗闇だ。

 それはいつの日か聞いた悪魔の囁き。
 忘れられない、絶望の呼び声。

 腐敗した町の片隅で、老人から受けた手解きは多岐に渡った。鍵のこじ開け方から魔法の使い方まで、無頼の世界に生きるに必要な全て。
 初めは飲んだくれから金目の物を盗んでこいと。続いて、賭博に興じる者から財布を掠め取れと。そして別の都市から流れてきた荒くれ者を皆殺しにしろ、と。
 仕事を終わらせ、ある時は泥まみれで、ある時は血まみれで戻ってくる自分を見て、老人は薄く唇を歪める。そして決まってこう言うのだ。

 ――どうだ。簡単だったろう?

 同じ建屋に住む娼婦たちから聞かされた話がある。
 兄弟と妻子を無頼に殺され、修羅の道に落ちて悪魔の名で呼ばれるに至った男の物語。

 ――奪うことは簡単だろう。とても簡単だろう。
 ――だから世界は暗闇なんだ。

 空虚な部屋で、彼は淡々と語る。
 老人に仕えているというだけで、自分の扱いは特別であった。淀んだ池のような酒場に集う者どもでも、誰も自分には手を出さなかった。彼らは自分に、どれだけ老人が恐ろしい男かを語ったものだった。人間の皮を生きたまま剥いだ。大勢を鎖で縛り付けて火を放った。命乞いをする女を笑いながら蹴り殺した――。
 そんなものを聞かされ続けたものだから、大抵の凄惨なことでは驚かなくなった。血と酒と砂の臭いにも慣れきってしまった。

 自分の手は汚らしい血に染まり、世界は知らぬところで廻っていた。
 そこには、正義も悪もなく、罪だけが折り重なっていく。


 ***


 雨粒がぽたりぽたりと落ちたのも束の間。豊穣の女神の加護ある都市ヴェルスは、あっという間に灰色の霧が立ちこめる風雨に包まれた。住民たちは急いで軒先の荷物を室内に引き込み、旅の商人たちは宿り場所を求めて会堂に集う。雨粒を含んだ風は気温を奪うため、彼らは羽織物を胸元に引き寄せながら女神の不機嫌に苦笑しあうのであった。
 彼らと同じように会堂に駆け込んだオーヴィンは、濡れた顔を腕で拭いながら、たむろう人々を眺めやった。
 見かけない顔が多いのは収穫の季節を間近にして商人たちが集まってきているからだ。今年は特に新参の商人が増えたようである。農園で上質な小麦を作るようになって、大都市の貴族からの需要が高まったためだろう。また、近年新しく作り始めた葡萄酒も、豊穣の都の名につられて興味を示す者が多いと聞く。
 逆に、これまでヴェルスに君臨していた古参の商人たちもいるが、彼らの顔色は薄暗い。ギルグランスが戻ってきてからというもの、次々と彼らにとって不利な法案が可決され、暴利を貪ることが出来なくなったためだ。特に最大の勢力を誇っていたエウアネーモス商会の衰退は著しく、同じく古参のごろつきと共にベルナーデ家に反抗している。まあ、相手は軍時代に総司令官の嫁を寝取った他、多くの伝説を持つギルグランスである。本人は至って飄々としており――苦労するのは配下ばかりなのであるが。


「罪の癒し手は近辺都市の貴族――成程な」
 報告に言った折、ギルグランスは溜息交じりに言ったものだった。昨日オーヴィンを捕まえた老奴隷は、ベルナーデ家に並ぶヴェルスの名門アメストラ家の奴隷であったのだ。彼にアメストラ家邸宅まで連行されたオーヴィンは、そこで当主からシニオンの素性を聞くことになったのだ。
 その話をするとギルグランスは苦汁を口に含んだような顔をした。アメストラ家の当主トランヴェードは禿頭で長身の目立つ男で、更に都市の自警団の団長も務めるヴェルス最後の良心と言われた真面目な貴族だ。ギルグランスと同じく来期の二人官を目されている優秀な都市議員でもあるが、礼を重んじ放蕩を憎む堅物で、何かと放埓なギルグランスと反目しているのだ。
「ふん、あやつめ。人の配下を勝手に連行しおって。足でも引っ掛けてやったか」
「そんな恐ろしいことはしないよ」
 やれやれとオーヴィンは頭をかく。絵に描いたような堅物のトランヴェードは、オーヴィンも苦手としているのだ。昨日もいくつか説教をされた気がする。中身は忘れたが。
 シニオンの本名はセルニフェイトといい、ヴェルスの近郊都市の貴族家の跡取りなのだそうだ。ところが突然行方を眩ませ、ルミニ教の司祭として布教しているところを彼の実家と縁のあるトランヴェードが見つけたのだという。
『何度も説得を試みたのだがまるで応じぬ。それどころか私に入信を迫ってくる始末でな……』
 トランヴェードはそこで珍しく言葉を濁したが、改まると更に高圧的に尋問をした。
『貴様らの常日頃の行いを鑑みた上での冷静な判断だ。嘘を吐くのは賢明ではないと言っておこう』
 彼はオーヴィンがシニオンと共にいたことから、シニオンの家出にベルナーデ家の関与を疑っていたのだ。つくづく運の神に見放された一日であったと、思い出すだに感じ入ってしまうオーヴィンである。シニオンとは初対面であり無関係であると信じてもらうためにどれほど時間と労力がかかったことか。
「それで? 他に情報は引き出せたか」
「んん。ルミニ教がおかしいことに気付いてるみたいだったよ。暴力沙汰も増えてきてるからだろうなあ、かなり心配してた」
「……ふむ」
 ニヤリ、とギルグランスは意味ありげに笑った。
「私の方でもルミニ教について調べたところ、面白い話を聞いたぞ。どうやらトランヴェードの息子もルミニ教に入信してしまったそうだ」
「え」
 オーヴィンは口を曲げた。トランヴェードの今ひとつ煮え切らない表情が思い起こされる。
「家の金を勝手に献金したそうでな。お陰で親子の縁を切る云々の騒動になっているらしいぞ。これを機会に散財すれば良いのだ、あのハゲめ」
「あー……」
 オーヴィンは顔に手をやった。息子のことはよく知らないが、恐らく改心を迫るシニオンの弁舌にコロリとやられでもしたのだろう。だからトランヴェードは奴隷まで使って熱心に調査していたのか。
「俺も直接教義を聞いたけどよ、そこまで簡単に金を払っちまうもんなのかねえ」
「割と多いぞ。世を儚んで危険な宗教に傾倒する奴は」
 あのトランヴェードも一緒に傾倒してくれればさっさと倒せるものを、と本気で残念そうにギルグランスは首を振った。
「特に働かなくとも喰っていける成人前の貴族や婚姻後の婦人に多いな。身につけた教養の割にすることがなく、自らが生きている意味を見失った者たちだ」
 ギルグランスは、面倒そうに執務机に巻物を広げながら続けた。
「そこに付け入られるってわけか」
「利用するかされるかは様々だ。時には自ら盗賊団じみた組織を作る豪胆な奴もいる」
「宗教にはまって盗賊団ってのはなあ……」
 本末転倒じゃないか、と呟きかけたオーヴィンに、ギルグランスはニヤリと笑ってみせた。
「信じる力は諸刃の剣だ。速く駆ける獣ほど、脇が目に入らなくなるというもの。振りかざされる正義は、とんでもない歪みをも覆い隠してしまうこともある」
 ギルグランスはそう言いながら、奴隷のセーヴェがせっせと運んでくる巻物の多さに顔をしかめた。祭儀の多い季節に入り、神祇官長としての仕事が一気に増えたのである。
「どっちにしろ、ルミニ教の立ち入り調査ができるなら早めにしてもらいたいんだが」
「貴様まで私の仕事を増やす気か」
 うんざりしたように髭をさする主に、オーヴィンは思わず苦笑した。
「んん。実際に被害が出てるって方々で聞くし。例の罪の癒し手もあのままじゃ利用されるだけされて始末されそうだ、ちょっと気になる」
 ギルグランスは巻物を取ろうとしていた手をふと止め、オーヴィンをまじまじと見上げた。
「珍しいではないか。疑り深い根暗な貴様が出会ったばかりの相手を気にかけるなど」
「……今の発言は傷ついてもいいよな?」
「ふん。全く、槍使いの時は散々配下にするなだのなんだの文句を言いおった癖に、こういうときばかりこだわりおって。私の苦労も慮って欲しいというものだ」
「……」
 やれやれと肩を竦める当主に、今度はオーヴィンが気まずげに口の端を曲げるのであった。実際、図星であったからだ。
「まあ、トランヴェードに恩を売ってやるのも悪くはない。ベルナーデ家に罪の癒し手と息子の両名を家に届けられたときの奴の顔は確かに見てみたいところだ。うむ、やるか」
 勝手に算段して勝手に決めつけた当主は、上機嫌に計画を練り始めた。単に山積みの仕事の中で呈の良い現実逃避案件が発見できただけのようにも見えるが。
「どちらにせよ立ち入り検査には二人官両名の認可が必要となる。あまり期待はするなよ」
「分かってるよ」
 オーヴィンは素直に返した。この当主は無茶を言う反面、配下からの要求には甘いところがある。口ではそう言っているが、出来うる限りのことはしてくれるだろう。後は、オーヴィン自身の判断と力量にかかっているのだ。


 帝国内は様々な人種が混在しており、砂漠の民の血が混じるオーヴィンの容姿は特別ではない。降りしきる雨の中、ふらりと列柱から離れて歩き出すオーヴィンを気に留める者など誰もいない。
 ――だからこそオーヴィンは、自分を追う視線に敏感だ。背後にある尾行の気配を感じながら、オーヴィンは内心で溜息をついた。半分はこの厄介事へ、半分はそれに気付いてしまう自分自身にだ。
 トージから仕入れた情報を元に、雨の降り注ぐ貧民街を進む。無秩序に建物の建てられたこの辺りは、晴れた日ですら見通しが悪いのに、今や灰がかってほとんど先が見えない。道端の物乞いに小銭を渡して話を聞きながら、オーヴィンはとある横道を折れた。このような通りで横道に入るのは、常人であれば自殺行為である。光の全く届かない細道には浮浪者が多く、どのような惨事も闇に葬られるからだ。
 布に包まって動かず、生死すら定かでない人の塊を踏まないように越えて進むと、雨が屋根を叩く音に罵声と破壊音が混じってくる。一度目で見つけられたのは運が良い。積み上げられた木箱の陰で様子を伺っていると、音が止み、扉を蹴破って三名ほどの人相の悪い男たちが出てきた。主格と思われる男は首に金の鎖を巻いており、それぞれ興奮状態にあるようでニヤニヤと笑いながら話し合っている。注意深く視線を走らせたオーヴィンは、開いてこちらを向いた古い木戸に、粗末な木彫りの紋章があるのを見つけた。そこに穿たれたルミニの印を見て確信を得ると同時に、背後から声があがった。
「お前たち、何をしている!?」
 振り向く男たちと違って、オーヴィンは動揺しなかった。予想していたことだったからだ。変わりに、あーあ、と頭を抱えた。後ろの方から姿を現したシニオンが、胸を張ってぬかるむ道を男たちの方へ歩いていく。家の戸口に掲げられたルミニの紋章に、彼も気付いたに違いない。
 この後の展開は予想がついていたので、オーヴィンはさっさと事を片付けることにした。シニオンが正義の口火を切る前に早口で詠唱を読み上げ、魔力を形作る。まずは頭上の看板を力の礫で落としてならず者の一人目を潰し、駆け寄ろうとした二人目の足元を風の刃で掬い取って転倒させる。最後の一人が突然の襲撃による混乱から目覚める前に、ぬかるむ道を蹴ったオーヴィンは懐まで迫り、ナイフを柄ごと鳩尾に打ちつけた。
「フォロヴィネス!?」
「あーあー。勘弁してくれ。接近戦は苦手なんだ」
 三名を地に這わせ、ふいーと額を拭ったオーヴィンの名を、シニオンが呼ぶ。そして同時に尾行が露見したことを気にしたのか、気まずそうに目を逸らした。
「い、いや、私が何故ここにいるのかを訝っているのだろうな。会堂にてお主を偶然見つけたので、いつ声をかけようかと」
「んん、知ってるよ。それより、これ」
 オーヴィンはナイフの柄を受けて崩れ落ちた男の首根を引っ張りあげると、素早く金の鎖を首から引きぬいた。鎖に紋章がついていることを確認してシニオンに放る。
「お前さんとこの教会、実態はこんなだよ」
 慌ててそれを受け取ったシニオンは、風の怪物テュロドスが描かれた紋章を瞳に映した。
「どういうことだ?」
「それはゴモドゥスっていう荒くれ一派の紋章だよ。おーい、起きてるか」
 ようやく起き上がり始めたならず者たちに、オーヴィンは静かに言い放った。
「あんまり調子に乗るとトージが本腰入れてお前さんたちを殺しにきちまうよ。気をつけてな」
「んの野郎……」
 悔しげな呻き声を無視して、オーヴィンは扉に向き直った。これ以上歯向かうようならもう少し痛めつけねばならないが、幸いその気配はなさそうだった。
「お前さん、真実を見る覚悟はあるか?」
 呆然とするシニオンに、オーヴィンは問う。雨に打たれたシニオンは輝きよりも疲労が勝っているように見えた。シニオンは困惑の表情でオーヴィンを見つめ返している。
 オーヴィンは一つ息をつくと、手で招く仕草をして、開けっ放しだった小さな木戸を潜って中に入った。シニオンが慌てて後をついてくる。彼とて、ルミニの紋章を掲げた家の中の様子は気になるのだろう。
 そして、絶句の表情を浮かべた。
「こ、これは」
 オーヴィンはさして驚きもしない。無頼に荒らされた家の惨状など、彼にとっては見慣れたものだ。狭い家屋はまるで暴風が吹き荒れたかのごとく、棚も食器も粉微塵となり、割れた瓶から伝った安い葡萄酒と水が混じって床を汚している。その奥に襤褸切れのように蹲る若い男を見つけて、オーヴィンは低く言った。
「これは酷い目に遭ったもんだな」
「ひ……酷いなどという言葉で済まされるものか! おい、お主、大丈夫か?」
 長衣の裾をからげて奥へと駆け寄ったシニオンは、若い男の前で膝をつく。小刻みに震えていた男は突然顔をあげてシニオンを凝視し、その顔を悲痛に歪ませた。
 瞬間、オーヴィンはシニオンの首の後ろを掴んで後ろに下がらせた。男が陶器の破片を振り下ろしたからだ。
「帰れ、クソ忌々しい神め!!」
 空ぶった指から破片が抜けて乾いた音を立てる。男の痩せた顔は腫れ上がって所々青黒く、迸る怒りによって目だけが爛々と輝いていた。
「人を食い物にしやがって。このペテン師め、何が救われるだ! 全部嘘じゃないかッ」
「ま、待て。何を言っているのだ」
「何を言っているだと? ふざけるな!! お前みたいな身なりの綺麗な奴らに騙されて入信した俺が馬鹿だったよ! 献金の集金だって毎日なんあ奴らに付きまとわれて、妻も連れていかれた、金も先祖の宝も全部奪われた! お前たちルミニのせいで!」
 それまで男の怒気に押されていたシニオンだったが、ある程度事情を飲み込んだのか、きっと眉を吊り上げた。
「る……ルミニの神は今の言葉を聞き逃したりはせぬぞ! 恥を知れっ。あの者どもとルミニに一切関係はない!」
「それが関係あるみたいなんだよ」
 そう答えたのはオーヴィンであった。愕然と見上げるシニオンの眼差しは縋るようであったが、彼はそれに応えなかった。
「ルミニ教に入信したら最後、死ぬまで献金を搾り取られるって、もうその筋じゃ有名な話になってるよ」
 シニオンの瞳に困惑と怒りが次々と浮かぶ。それが言葉になる前に、オーヴィンは腰元から銀貨の入った巾着を取り出し、男の前に置いた。
「自分から話したいことがあればベルナーデ家に来るといいよ。神祇官長の当主さんは、あれでも不正を放っておくことはしないはずだ」
 男はわなわなと唇を震わせていたが、次第に殻に篭るように膝を抱えて顔を隠した。
「どうして、こんなことに……」
 頭を抱えた男に言うべきことは全て言ったと、オーヴィンはシニオンの肩を押して家を辞した。
 既に無頼どもの姿はなかった。無人の通りで小雨に打たれたシニオンは、混乱しているのか胸に手を当ててしきりに呼気を整えていた。オーヴィンは横から先ほどもぎ取った金の紋章を差し出す。
「真実を確かめるかはお前さんに任せるよ、ただ忠告はしておく。あの教会には、あんまり関わらない方がいい」
 しかしシニオンはそれに直接答えず、暫しの沈黙を置いてからぽつりと呟いた。
「……オーヴィン。お主、私が後をつけていることを知った上でここに来たのか」
 差し出した紋章が雨に濡れていく。俯いたままのシニオンに、オーヴィンは鈍く笑った。それが一番シニオンの心に深い傷を与えることを知っていて、あえて続けた。
「んん、それが半分。自分で現場を観に行きたかったっていうのがもう半分」
「私にこの場を見せれば私の心が揺らぐと踏んだか」
「そうだよ」
 するとシニオンはこちらを憤怒の眼差しで振り仰いだ。同時に紋章を叩き落される。口にするのも忌まわしいと言わんばかりに、シニオンは短く吐き捨てた。
「悪魔め」
 常人であれば傷となる筈のその言葉は、オーヴィンにとっては心を震わすにも値しない。ただ、空虚な自分を眺める物悲しさが残るけれども。
「私は信じぬぞ。あれをルミニの者が行ったと? 何の証拠もないではないか! この不正を神は許さぬぞ。この件は神殿に持ち帰り、私の名義で調査を行う。いずれ悪しき者には天罰が下ろう」
 シニオンは肩をいからせて糾弾する。しかし、それはまるで風になびく布に刃を突き出すかのようで、目の前の男を屈服させるには程遠い。オーヴィンは暗がりから言葉を紡ぐ。――さながら悪魔のように。
「ならどうしてお前さんは俺についてきた? いつも通り、布教に励んでればいいのに。ルミニ教を疑って俺についてきたんじゃないのか」
 肺腑を鷲掴みにされたような顔で、シニオンは息を呑んだ。濡れた衣服を握り締めて眦を吊り上げ、しかし返す刃は精彩を欠いていて。
「そのようなことはない! 私は何があってもルミニを疑いはせぬぞ、その教えの実践こそ真の理想を作り上げるのだ」
「本当に何があっても?」
 冷たい闇で頬を撫でるような声。その囁きに負けぬよう、シニオンは必死に声を絞り出した。
「当たり前だ、私の神は、ルミニの神はっ……!」
 輝くような白い頬に激情を宿したシニオンの面立ちは美しくあったが、声は虚しく雨にかき消される。オーヴィンは一瞥しただけで踵を返して歩き出した。
「待て、フォロヴィネス! 私の話は終わっていない」
「まだついてくるかは任せるよ」
 今日確かめることはまだ残っている。暫くすると、シニオンが後ろをついてくる気配があった。つっかえた足音。心の柱を失いかけた歪みが、背後から聞こえてくる。
「私は」
 搾り出すような声音に、以前のような燦然とした自信はない。一語一語を噛み締めるように、シニオンは続けた。
「私は必ずや真実を暴き、お主の目を覚まさせるぞ。この世は悪しき闇に覆われている。あの者が出遭った惨禍も、神の試練なのかもしれぬ。そう、あの者は試されているのだ。以降の生き方によって真の救いが待っていることであろう。だから……」
 呟きながら、彼はその論理の歪みに気付いてしまっている。祈るような言葉は、逆に救いを求めているかのようで。けれど悪魔の名を持つ男は、その答えを告げることはしなかった。


 ***


「ここは墓地ではないか」
 薄暗い小雨の中、外衣を頭から被ったシニオンが怪訝そうに呟く。同じく外衣で雨風から身を守りながら、オーヴィンは目を眇めた。
「お前さんとこの信者は、みんなここに埋葬されてると聞いたんだが」
「……そうだが、それがどうした」
「いんや。遺体を焼かないなんて珍しいと思ってな」
 シニオンはやや憔悴したようであったが、気丈に口を開いた。
「ルミニの教義に従ったまでだ。後に終末の日が来れば、全ての死者は蘇り、その罪を問われるのだ。体がなければ蘇ることが出来ないではないか」
 オーヴィンが見渡す先には、深い森を背景に黒々とした土が耕され、墓石が連なっている。往来の激しい街道と違って人の気配のない墓地には、何処か不吉な印象があった。
「そういや前も終末の日がなんとかって言ってたな。なんかあるのか」
「終末の日とはすなわち、滅びと再生が約束された審判の時だ」
 シニオンは、すっと灰色の空を指差した。
「時の流れが終わる時、それが終末の日だ。天の門はついに開き、地には光の矢が注ぐ。万物は恐るべき猛火で灰燼に帰すのだ」
「……」
 オーヴィンは、黙った。顎に手をあてて考えて、うーんと唸った。
「みんな死ぬの?」
「うむ」
「一人残らず?」
「うむ」
「それはちょっと、やりすぎじゃないのか」
 心からの素朴な感想を漏らすしかないオーヴィンである。
「神の前にやりすぎも何もない。それが厳然たる事実である」
「……」
 オーヴィンはぽりぽりと頬をかいた。以前シニオンは恋の為に岬を島にしてしまった姫神を邪悪と言ったが、そんなの話にならないくらいルミニ教の神も邪悪ではないか。あれか、戦場でたまに見かける破壊神信仰とかいうやつか。
 しかしシニオンはそれが当たり前だというように続ける。
「このためにこそ浄化が必要なのだ。真に正しき道を歩む人間は、死後に天使によって天界へと召し上げられるだろう」
「……でも死んじまうんだろう?」
「一体この世界に何の希望があるというのだ」
 ふと、オーヴィンは空を仰いだシニオンの横顔に、悲しげなものが宿るのを視た。さあっと風が吹いて雨粒が煽られる。
「この世界は穢れた地獄だ。……平等など、何処にもない」
 オーヴィンはそこに少年の苦悩の心を読み取る。シニオンは雨風に負けぬ眼光でオーヴィンを見上げた。
「私はもうあんなものを見たくはないのだ! 私は平等な世界が見たい。誰も飢えず、誰も苦しまず、誰も泣くことのない世界が見たいのだ。終末の日の後に来る神の世が、きっとそれを叶えてくれる」
 雨粒を含んだ風が吹きぬけた後は、変わらぬ小雨が降りしきる。木々を叩くそれらの音はまるで神がすすり泣くかのよう。オーヴィンは静かに目を閉じて、鼻から息を抜いた。
「その理想は、終末の日が来ない『今』には絶対に訪れないのか?」
 シニオンは胸を捕まれたように唇を噛み締め、俯いた。
「……先ほども見たろう。この世界は、暗闇に包まれているから」
 押し出すような声だった。薄く笑ったオーヴィンは、歩いていって墓石の前にしゃがみこみ、石に触れた。
「そうだな。真っ暗だよ。この世界は。何処へ行ったって同じだ」
 掴んだ墓石に力を込めて具合を見てから、その周辺を検める。続いて隣の墓石に移動し、同じことをする。鼻歌のように、言葉を唇に乗せながら。
「飢えた人も苦しむ人も見捨てられた人も。悲劇も不幸も、その深さも、底なし沼みたいに限りがない」
「お主は、当然のように言うのだな」
「長い間、あちこちをぶらぶらしてたからなあ。酷いもんは色々見たさ」
「それを見て、救おうと思わなかったのか」
「思わなかったよ。慣れちまってたから」
 ざり、とシニオンの靴が砂を咬む音がした。オーヴィンは次の墓石を調べながら、淡々と続ける。
「それに自分が生きることに一杯一杯だったよ。喰わないと生きていけない。他人を押しのけてでも、喰わなきゃいけない。――余裕がない人間ってのは手段を選ばない。他人を助けたいと思えるのは、自分にそれだけの余裕があるからだよ」
「しかし、施しても、施しても……世界は変わらない」
「そりゃあなあ。人は麦とは違うもんだ」
「だから神がいるのだ! 神は我々を見ていて下さる。どれほど苦しくとも、きっと――報われる日が来る」
 オーヴィンはふっと目を細めて、墓石を指でなぞった。
「……報いの日を待ち続けることしか出来ないんだなあ」
「うむ? 今何と言った?」
「いんや。なんでもないよ」
 立ち上がったオーヴィンは、もう一度辺りを見回した。
「今日は埋葬がなかったみたいだな」
 シニオンはなんだというように眉を持ち上げる。
「当たり前だ。今宵は満月だからな」
「んん?」
 今度はオーヴィンが怪訝そうな顔をする番だった。シニオンは風にはためく裾を押さえながら、半眼になった。
「満月の晩は悪魔の力が最も強まるのだ。故にルミニの徒は悪しきものを取り込まぬよう、次の夜が明けるまで食を絶ち、外出を控える」
「……お前さんは外出しちまってるわけだが」
「う、うるさい」
「そうか、満月か。うーむ」
 オーヴィンは唇を指でなぞりながらもう一度辺りを見回すと、のっそりと踵を返した。
「何処へ行くのだ?」
「んん、ちょっと気になるから今日はその辺で待つことにする」
 シニオンの前を素通りして、オーヴィンは鬱蒼と茂る森へ分け入ると、雨風を避けられる木陰を見つけて腰を下ろした。
 シニオンは暫く迷っていたが、一際強い風になぶられると、渋々木陰に入ってくる。
「今度は私に何を見せる気だ」
「もっかい、忠告だけはしておくよ。これ以上は見ない方がいいかもしれない」
 突き放すように言うと、それ以上シニオンは答えなかった。夜のように暗い、陰鬱な午後だった。沈黙の合間を縫って、風の音がごうごうと耳朶を叩く。正面に座った少年は、濡れた服の裾を握って唇を噛んでいた。




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