-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>8話:あなたが拠って立つ支柱

05.遥かな理想、濁った空



 いかにも重たげな灰色の雲が立ちこめる、陰鬱な朝のことである。
 ギルグランスへの報告に行く時間が丁度合ったため、他の者たちと共に屋敷へ向かおうと集合場所に来たオーヴィンは。
「……お前さん、一体どしたの」
 そこに凄まじく気が滅入った様子の槍使いを見つけて、首を傾げた。
 いや。気が滅入った、という言葉ではまるで足りない。木にもたれかかった若者は今にも昏倒しそうな具合。目の下に黒く浮いた隈は一睡もしていないことを如実に示し、濁った空気を身にまとう様は、冥界の河川を五週ほど巡ってきたようだ。普段が健康そうなのもあって、なんというか、落差が物凄かった。
 すると髪の毛に手を突っ込んだフィランは、唸るように告げる。
「ちょっと夢見が良くなかっただけです……気にしないで下さい」
「いや、夢見がどうこうなんてもんじゃないような」
「風邪も少し引いたのかもしれませんね、大したことないです」
 そこに細い目をほぼ閉じたままのジャドが気だるげに姿を現す。しかし流石の彼も若者の変調に気付いたようで、げっと顔を引きつらせた。
「アン、どうした? ティレにでもフラれたか」
「馬鹿言わないで下さい、そんなことがあったらここへ来る前に首吊ってます」
「……さらっと恐ろしいこと言わないでほしい」
「てことは、なんだアレか」
 いかにも寝不足なフィランを見て、ジャドは何を想像したのかニヤっと下世話な笑みを浮かべた。
「ったくよォ、おアツイこって――ドッ!?」
 めしょん、と顔面に固いサンダルの裏がめり込んで、そのままジャドは彼岸へと旅立った。
「行きましょう」
「……南無」
 振り返りもせずに歩き出すフィランと、自業自得の仲間に軽く礼をしてから続くオーヴィンであった。

 しかしそれにしても何があったのだろう。見るも悲惨なフィランは気力だけで己を立たせているように見える。こんなにまでなっても家から出てきた根性は賞賛に値するが、流石にこのまま働かせるのはまずいと思い、オーヴィンは家に戻るように薦めることにした。
「火急の用事はなさそうだし、レティオの馬術だって事情話せば一日くらい休めるよ。とりあえずゆっくりしてきな。その顔、お前さんが自分で思ってる百倍はやばいよ」
「……」
 坂道で立ち止まったフィランは眉間に指を当てて考え込む。それは多分、不調を押し隠すことの出来ない自分への苛立ち。この若者は見かけによらず気位が高い。弱っていることを悟られるのは、彼の矜持に反するのだろう。
 オーヴィンはそんな槍使いの後姿を見つめ、ふうっと息をついた。

「――やっぱり、理由は言えないか?」

 諦念を含んだ問いかけだった。低く耳朶に届くような。
 きっとフィランは目を見開いたに違いない。少なくとも、肩が揺れたのは見届けることが出来た。
 風が止まった一瞬。若者が答えを返すまで、ほんの一息か二息の間であった。
 迷ったのだろうか、それとも初めから答えを決めていたのだろうか。若者は、髪をいじりながら口を開く。
「何のことです。だから言ったでしょう。真夜中に起きてしまいましてね、それから寝られなかったんです」
 そっけない答えにちくりと胸を刺されるのを感じて、オーヴィンは淡く笑った。自分は未だこの若者の信用を勝ち得ていないらしい。その事実が少しだけ、胸に痛かった。
「そうか。まあ、気が向いたらその悪夢の中身でも教えてくれ」
「……」
 フィランは振り向くと、間が悪そうに視線を逸らした。
「あなたは例の教団の調査ですか?」
 半ば無理矢理変えられた話題に、オーヴィンは肩を竦めて頷いてみせる。
「まあな」
「何か進展はありましたか」
「んん。一進一退てところかねえ」
 湖の向こうに広がる都市の様子に目を細める。地味な調査は簡単に答えをくれはしないものである。それは経験上、骨身に染みてよく分かっていた。この世界の神々は、そんなに甘ったるく助けの手を差し伸べてはくれないのだ。
 そのとき、ふとシニオンの声が蘇った。

 ――ルミニの神は違う。神の前に万物は平等だ。身分も、生まれも、民族の違いもない。助けを求める全ての者に、ルミニは救いを与えるのだ。

「……確かあれ、一神教でしたか」
「んん?」
 目を瞬くと、フィランは汚らわしいものを見るように頬を歪めていた。
「一神教? そうなのかな」
「他の神を否定していませんでしたか?」
「ああ。そういや湖の姫神さまを邪悪とか言ってたもんよ」
 そうだろうというようにフィランは頷いて目を眇めた。
「僕たちはこの国の様々なものに神が宿ることを知っています。けれど彼らは唯一の神のみを信奉し、他の神を邪教の主とする。全く、軟弱な連中です」
 怪訝そうなオーヴィンを見てフィランは失笑すると、吐き捨てるように続けた。
「一つの正義を振りかざして、他者の間違いを指摘する気持ちよさに酔ってるだけですよ。馬鹿馬鹿しい」
「……相変わらず辛辣ね、お前さん」
「当たり前のことを言っただけです」
「んー」
 オーヴィンは唇を親指でなぞりながら考えた。フィランの言いたいことはなんとなく理解できる。渡し守の爺が語ってくれた島の伝説を、頭から信じろとはいわなくとも、否定することはないんじゃないかとは確かにオーヴィンも思うのだが――。
 けれど、こうも思うのだ。世の中は優しくなく、人の心もそう強くはないのが現実だ。ならば、幻でも良い。救いの手はあっても良いのでないか。
 現にオーヴィンも、今の支えを知らなければ――少年の言葉をどう受け止めていたか。
「救われる奴がいるなら、それもいいんじゃないか?」
 フィランは鼻を鳴らして口角を吊り上げた。
「信じたい人が信じればいいです。僕はそんなものに縋らないですけどね――否定の先に理想なんてあるわけがない」
 寝不足が祟っているのだろうか、普段より饒舌にフィランは己の意を語る。そして語り過ぎたことに気付いたのか、彼は首を振って元来た方に戻り始めた。
「それじゃあお言葉に甘えて今日は休みます。ご当主に申し訳ないと伝えて下さい」
「ああ。たまには色々忘れてゆっくりするといいよ」
 フィランは僅かに振り向いて、そっと会釈して返す。歳に見合わぬ、疲れた横顔だった。
「……全く、あの連中にはいい思い出がないんですよ。ルミニがどうか知らないですけど、軍時代のメガラヤの一神教組は教義がどうとかいって死体を土葬にしてくれるもんですからもう臭いってのなんのって」
 ぶつぶつ言いながらフィランは去っていく。そんな後姿を苦笑して眺めやりながら、オーヴィンはやれやれと息を抜くのであった。
「そっちが本音じゃないのか?」
 そこまで独り言を呟いて、オーヴィンはふと顎をあげた。
 それは、若者の言葉を胸で反復したときに生まれた僅かな疑念。
「死体を土葬?」
 肌に吹き付ける風は、雨の匂いを含んでいる。本日のヴェルスは暗鬱な空模様となるのだろう。オーヴィンは空を見上げて考え込み、そして真剣な眼差しを曇天のヴェルスに向けた。


 ***


 長衣の裾を捌いて進むシニオンは不機嫌であった。淡い褐色の巻き毛が風を孕んで弾むが、それですらも不快だと言いたげに荒っぽく撫で付ける。
 ヴェルスの中心街に堂々たる威容を構える聖ルミニの神殿内部は、その場を聖所たらしめる冷たい静寂に満ちている。大理石で作られた通路の中央に走る緋色の絨毯を惜しげもなく踏みつけて、シニオンは聖堂の最奥に至った。
 そこには十字を重ね合わせたルミニの紋が象られた祭壇があり、聖句を連ねた巻物が重ねられている。けれどそれらは今のシニオンの波打つ心を穏やかにさせる力を持たない。普段であれば上方の円形窓から注ぐ光によって神々しいばかりであるのに、陽のない今日の祭壇は何処か精彩を欠いているようだ。
「――そのようなことはない。神はいかなるときも、我らを見ておられる」
 自らの心を落ち着けるよう、胸に下げた聖印をいじりながらシニオンは呟く。
「主よ、慈悲深き主よ。あなたは驕れる者を打ち倒し、弱き者を救われる。主よ、あなた以外の誰の前にも私は平伏しません」
 祈りを唇に乗せていると、やがていくらかの平静が戻ってきて、シニオンはゆっくりと顔を上げた。
 全ては昨日出会った男のせいだ。朝の泉のように静まった眼差しで、既に自らが拠って立つ柱があると言い切った男。あの男は本物の悪魔だったのかもしれないとシニオンは思う。一晩が明けた後ですら、こんなにも心をざわつかせるのだから。
 シニオンがその洗礼名を受け取る前、ヴェルスの近隣都市の貴族家に生まれ育った彼は、何一つ不自由のない暮らしを営んできた。毎日のように美しい衣を羽織り、贅を尽くした食物を口にし、優秀な教師をつけられ、誰からも愛される心優しく気立ての良い少年に育った。
 初めて疑念が生まれたのは十歳の頃だった。屋敷には掃除をする同じくらいの歳の奴隷がいた。粗末な布を持って広い屋敷を必死に掃除するその子供が哀れで、シニオンは手助けをしてやろうとした。奴隷の子供は酷く怯えた様子で、その申し出を断った。しかしシニオンは聞く耳を持たず、奴隷と同じように屋敷を掃除した。
 その日の夕方、シニオンが見たのは屋敷の片隅で家畜のように鞭を打たれる奴隷の子供の姿であった。ぞっとして耳を澄ますと、更に恐ろしい言葉が聞こえてきた。仕えるべき主人に自分の仕事を肩代わりさせるなど何を考えているのか。恥を知れ。この役立たず。
 子供はごめんなさいごめんなさいと謝罪を口にしながら鞭を受けている。
 今すぐやめさせろと、シニオンはその場にいた親に懇願した。しかし親は質の悪い調度品を見るような眼差しで奴隷たちを見やり、お前が構うことではないと言った。
 ――何を言っているの。同じ人間でしょう。
 ――なのに、どうしてあんな仕打ちを受けなければならないの。
 ――違う。あれは人間ではない。
 両親は、おぞましいことを口にする。

 ――あれは、物を言う道具だ。

 両親が言うに、この世には三つの道具があるのだという。
 ひとつは物言わぬ道具。ひとつは曖昧に物を言う道具。そして最後の一つははっきりとものを言う道具。それぞれ、物、家畜、奴隷を表している。
 だから、奴隷は人ではない。手入れされ、管理されるべき存在だ。

 美しく着飾った人々を前に、シニオンはまるで己の足元が瓦解していくような心地を味わっていた。
 だって、こうして鞭を打たれている奴隷たちは、笑うことも涙することも出来る人間ではないか。
 なのに奴隷という身分に生まれただけで、この仕打ちを受けねばならない。
 奴隷部屋から聞こえてくる罵声と謝罪はいつまで経ってもシニオンの頭から離れなかった。

 それからも、シニオンが目を凝らせば凝らすほど、世界の歪みは至るところに見えるのだった。町の片隅で物乞いをする老人。その横を宝石を散りばめた輿で進む貴族たち。必死に汗を流しても作物を安く買い叩かれてしまう農夫。広場に捨てられた子供を奴隷にするために拾い集める商人たち。その不幸に手を伸べない人、人、人。
 この世界はなんと穢れているのだ。
 愕然たる思いで世を見つめるシニオンに、しかし運命は残酷であった。時の流れは彼に傲慢な貴族であるよう仕向ける。暖かい食事を運ばれ、豪奢な着物を渡されて。シニオンがどれほど嫌がっても、両親は奴隷に命じさせて貴族の生活を続けさせた。そして貧しい人々に施しをしたがるシニオンこそ傲慢であるのだと語った。この国の身分は流動的だ。力ある者なら奴隷の身分を乗り越えて平民の座を掴み取っている。奴隷は取り残されたからこそ奴隷なのだ。人間以下の彼らに与えられるべき慰みなどありえないと。

 違う。そんなものは違う。
 幸福が強者だけに与えられるだなんて、そんな世界は間違っている。

 シニオンは抗った。家出を繰り返し、彼は貧しい地区を渡り歩いた。貴族としての身に罵声をかけられることもあった。危険な目にあったのも一度や二度ではない。けれど少年は耐えた。家の者に見つからないよう、身なりを変える方法を学び、流れの者に金を与えて身軽に動く術を身につけた。彼は子供の身でありながら人々の話に真摯に耳を傾けた。
 そんなときにある貧しい奴隷から聞いたのが、ルミニ教の話であった。その奴隷は熱心な信者で、読めもしない聖句が記された巻物を大事そうに抱えながら、シニオンにその宗旨を教えてくれた。
 ルミニの神は全ての者に等しい幸福を与えて下さる。
 この闇に満ちた世界に、神は光となってそこにおわす。
 富を捨てよ。欲を捨てよ。己が血肉を神に捧げよ。
 いずれ終焉の日きたりて、慈悲深き神は必ずや、その者を神の国へ導くだろう。
 ――地に眠る清き人々は息を吹き返し、栄光の時代が訪れるだろう。
 そしてシニオンは、自らが拠って立つ支柱を手に入れた。

「心が鎮まらぬようだな」
「っ?」
 不意に背後から声がして、シニオンは鋭く振り向いた。
 逞しい体躯をした赤銅色の髪の男が、いつの間にか背後に立っていた。司祭服を着ているが、最近入ったものだろうか。獣のように鋭い目をした男は、祭壇を見て薄く笑う。
「大いなる神の力を以ってしても訪れぬ平穏というものがあるということか」
 そこに含まれる嘲弄を垣間見て、シニオンは男を睨み上げた。その不遜な態度から、シニオンは彼を好きになれそうになかった。
「全能なる神を侮辱する気か。かの方は求める方に惜しみない静けさを与えて下さる。そうでないのは、偏に私の修行が足りないだけだ」
 男はシニオンに一瞥すらくれず、祭壇を目に映して唇を歪める。
「神とは強きもの。神とは気高きもの。しかしその恩恵を受ける資格は修練を積んだ者にしかありえないと?」
 シニオンは己が論破されたことに気付いて、苦々しく唇を噛んだ。そう、ルミニの神は違うのだ。望めば全ての者が救われるルミニの神は、決して力のない者を見捨てたりはしない。
「……我らがどうあろうと、神はそこにおられる。その威光の前に、私の煩いなど些細なものだ。我が身を恥じよう。たったひと時でもその光を疑った我が身を」
 くつくつと肩を揺らして男は笑う。シニオンは心の中の大切なものを侮辱された気がして拳を握りこみ、彼の正体を問おうとした。しかし、それより先に男は言葉を紡ぐ。
「かつて黄金の庭と賛美された都市も今や侘しい辺境の地。弱者は天に見放されたと考え、救いを求める」
 歌うような声音であった。男は神に挑むかのような眼差しで続ける。
「弱者は傷つくことを恐れる。弱者は思考を止める。弱者は縋りたがる。成程、そんな奴らに神とは都合の良い存在ではないか」
「……何が言いたいのだ」
 笑う男の横顔は刃の切っ先のようにぎらついていて、それまで憤怒に燃えていたシニオンは不意に胸騒ぎを覚えた。崇高なる神が祭られた聖堂に、この男の姿がべっとりと付着した紅い染みのように見えて。
 しかし男が答える前に、低い声が響き渡った。
「こんなところにいたのか」
 シニオンが振り向くと、離れた聖堂の入り口に浅黒い肌をした中年の男が立っている。この教団に出資している商人エウアネーモスだ。
 けれどその通る声音は僅かな苛立ちも含んでいる。すると赤銅色の髪の男は、長髪を揺らしてゆったりと歩き出した。シニオンは一人残されるのも気に入らなかったので、共に歩き出す。こつこつと足を鳴らして立つエウアネーモスとは、何度か話したことがあった。この男の金があったからこそルミニ教はこのような豪壮な神殿を維持できているといっていい。その点は感謝しているのだが、本当に神の教えを理解しているのかとシニオンは常々思っていた。彼は神に感謝し敬いながら、その一方で卑しい富を生み続けているのだ。
「エウアネーモス卿。この者は見ない顔だが、一体?」
 早足で商人に近付いたシニオンは、不躾に問うた。商人は背の低いシニオンを見下ろして、愛想良く笑う。
「わたくしの遠縁の者です、シニオン殿。未だ教えに理解が及ばず、不埒を口にしたのでしたらわたくしが代わりに謝りましょう」
 それは何処か気持ちの悪い笑い方で、シニオンは胸中の不信感を自覚した。しかし司祭は己の感情で人を選り好みしてはいけない。喉から出そうな感情をこらえて、出来るだけ静かに返答する。
「……その必要はない」
 シニオンは、ちらっと赤銅色の髪の男を見上げた。彼は無言で目を細め、少年の様子を楽しんでいるように思える。シニオンは、それを一度睨みつけてから、視線を商人に戻した。
「我々の使命は魂の救済だ。世の穢れは今日明日で祓えるものではない。この者にも、神の慈悲があることを祈ろう」
 商人は大げさに目を見開き、深く頷いた。
「なんと寛大な。流石シニオン殿は心得ておられる。一日も早く我らの理想の世が訪れることを、わたくしも祈りましょう」
 商人はそう笑いかけて、丁寧に礼をすると男を連れて去っていく。残されたシニオンの心は晴れなかった。何故だろう。目の前の人間たちから、言葉に出来ない腐臭を覚えた気がして。
 彼らが来てから、神殿はどこか変わってしまったように思える。司祭たちはろくに教えも説かずに信者を増やすことに専念するようになった。信者の数によって司祭の権力が左右される。そんな考え方が、気が付けば蔓延していた。ここは聖なるルミニの神殿だというのに――。
 否、とシニオンは口の中で唱えた。疑うことは罪なのだ。自分に出来ることは、ただルミニの教えによって人を救うこと。必ず自分の想いは人に通じる筈だ。誰もが平等に暮らせる穏やかな世界。誰だって、欲しがらない者などいないはず。だから、このようなことで迷っている暇などない。
 そうだ。今日もあの悪魔の名を持つ男に会いに行こう。今までのように、一人一人教えを広めて行けば、きっといつか、世界中の人が分かってくれるはずだ。
 けれど、何故かシニオンの心には灰が降り積もったようで。しかしその事実を認めるわけにもいかず、彼は一人、広い回廊で顔を歪めた。


 ***

 雨粒の混じる風を身に受けながら、街道から波打つ麦穂の海を見渡す。収穫を間近に重たい実をつけたそれらは、強い風になぶられてざらざらと音を立てていた。今日の女神はどうにも機嫌が悪いらしい。
 歩きながら視線を身近に向ければ、街道脇に塚が転々と続いているのが目に入る。それらはかつて都市に生きた人々の墓標であった。帝国内で人生を終えた者は、その生涯を後の者に標す為に街道脇に葬られるのである。少し先まで行けば、ベルナーデ家の先祖が眠る塚も拝むことができる。ギルグランスの亡き妻を弔う為に、オーヴィンは連き添いで何度か訪れたことがあった。
 商人の馬車や連れあう旅人たちとすれ違いながら、オーヴィンは暫く石畳の道を歩いた。道々には大小様々な墓標が立ち並んでいる。
 ふと、ある墓石の周りに人だかりが出来ているのを見て、オーヴィンは立ち止まった。
 老若男女問わず黒い衣を着た人々は手に花を持っている。彼らの視線の中央では、葬儀屋の男たちが無骨な腕で石窟を閉めるところであった。隣で司祭服を着た男が弔いの祈りを捧げている。
 人は死ぬと虚ろな身となって冥界に下るため、その肉体はただの抜け殻となる。最期まで命を刻み続けた身体は炎によって清められ、土に還って次なる命を紡ぐのだ。親族たちは故人を想いながら、手にした花を手向け、その魂が冥王に優しく抱かれることを祈る。彼らの鎮痛な面持ちは、いかに故人が愛されていたかを物語るようであった。他人の死は、乗り越えてゆかねばならない。その為に人は他者を手厚く葬り、その墓で嘆き、魂を見送る。ならばもしかすると、葬儀とは生者の為のものかもしれない。墓石にも、そこに眠る者がどう死んだのかではなく、どう生きたかが刻まれるのだから。
「よう、ちょっといいかい」
 人々がまばらになった頃を見計らって、オーヴィンは葬儀屋の男の一人に話しかけた。土に服を汚した葬儀屋の若い男は、一仕事終えて疲れた様子であったが、顔をあげてオーヴィンを迎えてくれた。
「へい。葬儀の御用で?」
「いんや。冥王さまとご縁があるわけじゃないんだけどな。聞きたいことがあるんだ」
 不思議そうな顔をする葬儀屋に、オーヴィンは声を低くして問う。
「近頃、土葬の依頼が増えてないか?」
 葬儀屋はなんだという様子で眉をあげた。
「へえ。よくご存知で。なんだぁ、わたしにはよく分かりませんが、ここんとこ遺体を焼くのを嫌がる方が多くてねぇ」
 期待通りの答えに、オーヴィンは内心で気を引き締めながら問いを続けた。
「やっぱりな。そういうのもこの通りに埋めるのか?」
「まさか」
 葬儀屋は肩を竦めて苦笑する。
「焼かない遺体は深くに埋めても臭うんでさぁ、この辺りに埋めるなんてとてもやってられませんよ。そういうのはまとめて農地の外れに埋葬してます」
 それがどうしたのだろうと首を傾げる葬儀屋の前で、オーヴィンは考え込んだ。
「……その場所、教えてくれるかい」
「えぇ? いいですけど。知り合いでも埋まってるんですかい?」
「嫌な言い方しないでくれ。まあ、ちょいと調べものがあってね」
 オーヴィンはあからさまに怪訝そうにする葬儀屋に、確認するように問うた。
「あんまりお勧めできないところなのか?」
「そりゃぁ、あんまり……、臭うって言ったでしょう。野犬に死体が掘り返されてることもあるもんでさぁ」
「へえ」
 それは確かに行きたくない。
「あとね、綺麗な女が埋葬されたなんて知れた日には変な趣味の連中が」
「ストップもういいよく分かったよ」
 オーヴィンは静かに埋葬屋の言を止めた。世の中には、知らなくて良い現実というものがある。
 墓所の位置を聞き出すと、オーヴィンは礼を言って踵を返しかけ、ふと振り向いた。
「そうだ。もう一つ聞かせてくれ。埋めた筈の遺体がごっそりなくなってることは?」
 葬儀屋は不思議そうに目を瞬いた。
「さあ。わたしらは埋めるのが仕事ですしねぇ、あからさまに荒らされてるならともかく、後のことはとんと知りませんで」
「そうだよなあ」
「ああ。でも」
 強い風に髪をなぶられながら、葬儀屋は呑気に告げた。
「遺体を焼かないでおくのは、そうしとけばいつか滅びの日に復活できるとかなんとかって、葬儀のときに聞いたことがあります。気味悪い話と思いましたけどね。その日が来でもすれば、あの死体も息を吹き返すのかもしれねぇですね」

 ――邪教の徒め、そのようでは滅びの日に業火に撒かれて灰と散るぞ。

「……」
 ごうごうと風が耳朶を叩く。オーヴィンは暫く黙った後、再度礼を言ってヴェルスへと引き返していくのだった。




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