-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>8話:あなたが拠って立つ支柱

04.少女の罪



 鳥たちが急いで森に戻ろうとする夕暮れ。フィランは茜色に染まる道をのんびりと歩いていた。
 海にも見紛う湖からは、姫神の送る優しい風が一日の疲れを癒すように吹きつけ、紅の木々をさわさわと揺らす。フィランがヴェルスに来て気に入っているのが、この涼しげな風であった。水面を通ってきた風は余計な熱を含んでいないため、清々しく身体に染みて心地よい。
「久々に早く帰れたな」
 普段であればオーヴィンやジャドの酒に付き合わされることも多いのだが、今日は断って帰ってきたのだ。――フィランには、家に大切な人が待っているのだから。
 ティレは日中はまどろんでいることが多く、午後の散歩やクレーゼの遣いを除いてほとんど外に出ることがない。元から体の弱い彼女にそれが精一杯であることを知るフィランは、それでもひと時の間、彼女が心落ち着いて過ごせる場所があることを喜ばしく思っていた。たまには早く帰って、一緒に夕食でも作ることにしよう。ティレの不器用さは包丁を持たせると自分の指までざく切りにしかねない恐ろしさを秘めているが、都市の話をしてやりながら二人で過ごす時間は紛れもなく幸福であった。
 そんなことを考えている間に家につき、古い建屋を見上げてフィランは吐息をついた。戻ってきてほっとするくらいには、この家にも慣れてしまったようだ――。

「ただいまー……?」

 簾を横に開いて中に入ったとき、はじめフィランは違和感を覚えて目を瞬いた。普段であればティレが窓辺の臥床に座ってぼんやりとしている筈だ。しかし――窓辺の少女が、はっとしてこちらを向く。その瞳には、追い詰められたような表情が浮かんでいて。
 そしてそれ以上にフィランを驚かせたのが、中央のテーブルでたった今立ち上がった妖精族の少年の姿だ。
「おい」
 青い髪の下に目を光らせ、クロイスはフィランを睨み上げた。糾弾の刃を秘めた視線は、それだけで脳髄を焼くかのよう。フィランは呼吸を止めて、妖精と対峙する。
「ルシェトから聞いたぞ」
 茜色の斜光が窓辺から降り注ぐ。簾の間から吹き込む風は、いつの間にか温度を失って肌を苛む。色を失ったフィランは、その先を聞きたくないと思った。
 しかし、彼にとっての、彼女にとっての悪夢を、妖精の声は無慈悲に紡ぐ。


「こいつ、本国の豊穣の巫女だろう」


 目蓋の裏に、豪雨の情景が蘇った。
 雷鳴が轟いている。暴風に嬲られた雨粒は飛沫となって視界を霞ませ、少女の輪郭をおぼろげにする。むせ返るような雨の匂い。闇の匂い。依るべき支柱を失った自分。一人では立つこともできなかった、冷たい石畳に囲まれて過ごした日々。
 しかし確かに彼女はそこにいた。雨風に打たれ、泣いているのかも定かでないほど顔を濡らして。
 その淡い藤色の髪は、――そう、あの頃は確かに膝の下まで伸びていて。


 ――何故……泣いているのですか?


「……」
「おい、なんとか言えよ。豊穣の巫女って、神殿にいるもんだろ。なんでそんな奴がこんなところに――」
 妖精が言い終わる前に、フィランは足を踏み出していた。その顔からは大よそ感情らしきものが読み取れない。クロイスは怪訝そうにしたが、そこで動かなかったのが事を決した。
 風が唸る。衝撃と共に視界が反転し、クロイスはフィランの腕が疾風のように自らの身体を掴んだのだと気付いた。魔法で逃げようとしたが、痛いほどの強さで身体を拘束され――同時に彼と視線を通わせて、クロイスは凍りついた。
「表に出ろ」
 冴え冴えと輝く黄金の瞳。ルシェトは人を野に散る獣と表現したが、それすら遥かに足りぬ。凶暴な眼光の奥底に若者の狂気じみた怒りを見て、クロイスはされるがままに外に連れ出された。
「おい、待……っ、」
 柔らかい髪を揺らしながら淡々と家の裏に至った若者は、手の中の妖精をぞんざいに放り捨てる。危うく地面に尻餅をつきそうになったクロイスは慌てて飛び上がり、自らの身体を抱えながら若者と対峙した。握られた力が全身にこびりついており、体中が恐怖に痺れていた。
「な、なんだよ……突然」
「何故分かった」
 若者は面のような無表情で問い質す。茜色が世界を金色に染めている。水の香りを含んだ風は、何もかもを洗うようなのに。
 震え出しそうな声で、クロイスは答える。
「……あいつ、具眼だ。それもとびきりよく『視えてる』。あんな人里に近い泉であいつらを見るなんて、下手すりゃ俺様と同じくらいだ」
「お前にも見えるのか」
「そ、そりゃ俺様は妖精だからな! 眷族の姿くらい見えるさ」
 クロイスはそこまで言うと、逆に噛み付くように聞き返した。
「それよりなんだよ、あの魔法は!?」
 若者はほんの微か、怯んだように見えた。それを良いことに、妖精は怒りの言葉を畳み掛ける。
「あんなの生き物にかける魔法じゃないぞ。なんてことやってんだよ。あんな魔法かけられて、どんだけ苦しいか分かってんのか? 死んじまわなかったのが不思議なくらいだよ。なんであんなことしたんだよ!?」
「……」
 降りかかる糾弾を、フィランは僅かに顔を歪めながら聞く。
「黙りやがって。ムカついてんのはこっちなんだよ、魔法のことなんも分かってない癖して好き放題やりやがって! おい、なんとか答えろよ!?」
 怒りに頬を赤黒くさせたクロイスが、若者に掴みかかろうとしたときだった。

「あぁあ。これじゃ埒があかないね。クロイス、あの魔法がかかったのはそこの人間のせいじゃないと思うよ」

「は……」
 クロイスが振り向く間もなく、空から現れたルシェトがついと二人の間に割って入る。
「悪いね、人間。相棒に変に知識を吹き込んだばかりに混乱させた。こいつったら、言っても聞かずに飛び出していくんだから」
 ルシェトは宙に浮いたまま、くすくすと笑った。
「……っ」
 顎を引いたフィランは知覚したようだった。妖精が唇に乗せるそれが、謝罪に見せかけた底知れぬ悪意であることを。故に彼が放つ殺気は更に強いものとなる。けれど陰鬱な妖精は若者が発露する感情を楽しむように、ニッと口元を歪めた。

「人知れず姿を消した豊穣の巫女、ティアルティレジア。本国に災厄を呼び寄せた悪名高き魔女、だっけ?」

「……やめろ」
 怒気を込めてフィランが睨む。
「具眼を持った人間にしてはマシな扱いだと思うけどね?」
「ましな扱いだって?」
 聞き返す若者の言葉は吐き捨てるかのよう。それでルシェトがたじろぐこともなかったけれども。
「そうさ。本来の具眼は未来の天候を読むなんて単純な力じゃない。洪水を呼ぶなんて可愛いものさ」
「ティレは洪水を呼び寄せてなんかいない。ただ、嵐を『視た』だけだ!」
「そうだろうね」
「なのに――」

 言いながら、知らずと拳を握り込んでいることに気付いてフィランは唇を噛んだ。
 妖精の言う通り、ティレは未来の天候を読む豊穣の巫女であった。
 彼女は類稀なる冴えた具眼を持ってこの世に生まれた娘だった。通常であれば具眼持ちといえど精神を研ぎ澄まさねば視えぬ筈の未来を、ティレは日常的に見ることが出来たのだ。
 そんな稀代の天才は巫女の修行を積むと、帝国の中心部たる本国の神殿に遣わされた。優秀な彼女は役目を完璧に成し遂げ、従来の巫女とは比べ物にならないほど正確に天候を読みきった。

 ――そして災厄の予兆も、寸分違わずに視てしまったのだ。

 ただ『視た』だけだったのに。彼女がしたのはそれだけだったのに。
 暴君による悪政に次いで洪水の悲劇に見舞われた人々は、正確すぎる情報を齎した豊穣の巫女に疑念の眼差しを向ける。これは全て巫女を騙った魔女の仕業だと怨嗟の矛先を向ける。そうして年端も行かぬたった一人の少女へと、憎悪の渦が注ぎ込んだのだ。
 ――黄金の錫杖を持った少女が、本国の喧騒にまみれ、消え入りそうに立っている。
 武具を手に神殿に押し寄せる人々。荒れ狂う怒りの波。数多の悪意にさらされて、だからフィランは、彼は。

 ルシェトは金の耳飾りをいじりながらせせら笑う。
「この国は中々よく出来ている。本来の具眼とは精霊を見、その声を聞く力なんだよ。精霊の語る未来や過去の事象を知るのは勿論、物の清濁を見分けたり、知覚できない筈の音を聞くことが出来る。そんな力を争いの火種になる前に巫女という役割に封じ込め、巫女には身体と精神を弱らせる術を施して神殿に閉じ込めた。人間にしては悪くないやり方だね」
「……最低じゃないか」
 反論しながらも、フィランは胸に湧き上がる怒りを抑えきれない。ティレだけではない、この都市の巫女も同じだ。具眼を持つ子供はリュケイアの塔で特別な術を施される。その力が強ければ強いほど、強力で凄惨な術を。故に巫女の身体と精神は、極度に脆い。
 転倒が多いのは日常的に眩暈に苛まれる為。人より多く眠りを必要とするのはそのあまりに少ない体力の為。全て全て、普通の人間として生まれてこなかったために施された術によるものだ。幼少時から塔に閉じ込められ、おかしな魔力に汚染されながら、天候を読むことを強制された。
 勿論、それだけであれば、ヴェルスの巫女のように人々に敬意を払われることで報われたかもしれない。けれど――ティレは、その苦しみの先に、民からも刃を向けられたのだ。
「そんなに悲観することはないよ。海を渡った先で何が起きているか知っているかい? 向こうの人間はみんなエルフの慰み物だ。具眼持ちなんてその哀れなことったら」
「黙れ……っ」
 唸るようにフィランは遮った。海の向こうで起きていることなどどうでも良い。ティレが今ここで苦しんでいることに変わりはないのだから。その苦しみを笑うことを、彼は許すことが出来ない。
「冗談じゃない。役割を押し付けられて、自由を奪われて! 何の罪もないのに、どうしてティレがあんな目にあう必要があるんだ」
 くすくすくす。ルシェトは悪魔じみた笑いを漏らす。フィランは妖精が何を言い返すのか分かっていた。それは、誰よりも彼自身が骨身に染みて知っていたことだから。
 妖精はその絶望を、黄金に染まる世界へ優しい口調で告げる。

「それが人間だからだ」

 茜色に視界を焼かれ、眩暈を覚える。
 次々と未来を言い当てる豊穣の巫女の力を恐れ、気味悪がる人々の眼差し。
 そして稚い唇が凄惨な未来を紡げば、全ての罪を少女に着せる、その身勝手。
 分かっている。フィランはよく分かっている。人は脆く醜い存在だ。自分と異なるものを理解しようとしない。己が幸福を享受することを当たり前と思う。悪を分かりやすい他人に押し付けて、己こそが被害者だと訴える。そして他者を否定する心地よさに身を委ね、その手を振るう。
 この世の理は、排斥なのだ。

 いつか追った背は黄金の大地の果てに霞み、フィランは血が滲むほどに唇を噛み締める。だから自分は屈してはいけない。この現実を受け入れて、生きねばならない。世界が茨に塗れた煉獄だとしても、他の何を信じられなくなっても。どんな手を使ってでも、自分を信じて立っていなければ。――大切なものを守らねば。
 そう。彼にとっての支柱は彼自身。己に縋るようにして、フィランは薄く笑う。
「……全くだ。だから僕は世界の全てからティレを護る、絶対に」
 その血が混じるかのような吐露と凄惨な表情に、クロイスは息を飲んだ。ルシェトはせせら笑って返す。
「一人で守れるとでも思っているのかい?」
「ティレを他の誰かに守ってもらおうなんて思わないよ」
「でも代わりに誰の助けも得られない」
「窮地で誰かが助けてくれるなんて、そんな甘ったれたことを僕は考えない。僕は僕の力でティレを護る」
 毅然とフィランは言い返す。その輪郭は陽光に輝いて、けれど影は深い闇を落とす。張り詰めた空気の中、二人は風に吹かれて対峙する。
 その息苦しさに、クロイスは胸に手をやった。何故だろう。若者は己の足で立って己が意思を告げているというのに、どうしてこんなにひび割れて、今にも崩れてしまいそうに見えるのだろう。
 暫くの沈黙の後、ルシェトはすっと目を細めた。
「ふふ。クロイスに感謝するといい。こいつのお陰である程度の症状は回復したのだから。……あと、僕らは別にお前たちに特段の興味はない。この件を他言するつもりもないよ」
 黄金の庭に彷徨うフィランの姿を面白げに眺め、言葉を捨てる。
「哀れな人間。せいぜい苦しむがいい」
「……」
 フィランは、ぴくりとも動かなかった。それが唯一の抵抗と知っているかのように。
 けれど、影を伸ばしてたった一人で立つ姿は、まるで寄る辺を失った迷い子のようでもあった。


 ***


 ティレが顔をあげると、簾を開いた若者が視界に飛び込む。
「フィラン」
 名を呼んで立ち上がる。音もなく瞬く若者の瞳は、一体何を映しているのだろう。
 そして、今までにいくつの悲劇を見てきたのだろう。
「わたし……」
 何かを言わなければいけないと思った。しかし未来を語る口しか知らない少女は、そこに己の思いを言葉にする術を見つけられない。
 途方に暮れる少女に、若者は無言で歩み寄り、少女の細い体をかき抱いた。
 頭を胸に寄せる腕に強い力が込められている。まるで、そうすることで己の震えを抑えるかのように。
「もう大丈夫だよ、ティレ。怖い思いをさせてごめんね。これからも僕が守るから。大丈夫だからね」
 安寧を告げる掠れた声は切ないほどに優しい。本国を逃げ出した日と同じように、彼はその優しさで包んでくれる。
 何故彼はこんなにも自分を守ろうとするのだろう。
 ティレは一度全てを諦めてしまった人間だ。彼女の持つ罪深い瞳の力は、結果として人々の怨嗟を巻き起こし、大切な親友の命を奪ってしまった。こんなにも救いようのない自分に、どうして彼は手を差し伸べたのだろう。
 暗くなった視界に耳を澄ますと、彼の鼓動が聞こえる気がした。ぬくもりは心を溶かすようでもあるけれど、何処か悲しい。
 何故だろう。何故彼は自分を守るのだろう。何故自分は生きているのだろう。何が正しいのだろう。何が間違っているのだろう。ティレは目を閉じて暗闇に沈みこむ。
 けれど、自分の中に答えはなく、かといって外の世界は茨にまみれ、若者は今にも砕けてしまいそうで。
 故に少女は、依るべき柱を見つけられずにいる。
 何を守ればいいのか、分からずにいる――。




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