-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>8話:あなたが拠って立つ支柱

03.名前のない男



 光も闇もないところを歩くような人生であった。
 それは虚無というより、むしろ灰まみれの海のような。
 踏み出すたびに、足は世界に埋もれて塵に汚れていく。
 何が光で、何が闇なのかも分からない。
 そう。全てがドブのような灰色だったのだ。

 最古の記憶は、小部屋の片隅から見る世界だ。
 自分は赤子の内に奴隷商人から買われたか道端で拾われたか。今となってはどちらでも良い。
 育ててくれたのは両親ではなく、皺くちゃの顔をした老人であった。高い背、落ち着いた背中、笑みを忘れて固くなった顔の皮、悪鬼のような鋭い眼差し。どんな荒くれ者でも、その老人の前では萎縮してしまう。艶かしく男を誘う娼婦でさえ恐怖に頭を垂れ、呼ばれぬ限り声の一つもあげない。
 物心ついた自分の仕事は、彼の生活の世話であった。孤独を好む彼は何故か自分だけを傍において仕えさせた。年老いた彼は一日のほとんどを寝台で彫像のように過ごす。階下の酒場では昼間から騒がしい無頼どもの罵声と嬌声。けれど、その部屋だけは静寂であった。
 老人は瞑目のまま、寝台に座して黙っている。
 まだ子供であった自分は、部屋の隅に膝を抱え、番犬のようにその様を見つめている。


 ***


「……お主は、悪魔なのか?」
 シニオンは真剣な眼差しで悪魔を名乗った男を見上げた。オーヴィンは少し困った顔をする。だから真名を告げたくなかったのだ。
「まさか。俺だってそんな意味があるって知ったのは後になってからだよ」
「なんという親だ。居場所を教えろ、天誅を下してくれる」
「うーんと、いくつか訂正する」
 本日のヴェルスは風が強いが空は青く、弾むような陽気であった。軒先で機織をする女や、子豚を追う子供たち。新鮮な水を吐き出す水道の前には、桶を持った女や奴隷たちが列を作っている。オーヴィンは、そんな庶民たちの姿を眺めやった。とても彼らのように生きられなかった自身の姿を、鏡に映すかのように。
「まず俺には両親がいない」
「――」
 シニオンが口を開く前に、オーヴィンは続けた。
「ついでにこれは誰につけられた名前でもないよ。俺には、名前がなかったから」
 別に隠していることではない。まあ、噛み付かれるであろうと予想はついていたけれど。
「どういうことだ? 名前がない者などいるものか」
 やはりシニオンは眦を吊り上げて不可解を露にしてみせた。
「いんや、そんなことないさ」
 くあーっと欠伸をしながら、オーヴィンは気楽に続ける。
「奴隷なんていい例だよ。捨て子だった奴は特にな。大体売られた先で名前がつけられる。ようは呼ぶときに困らなきゃ名前なんていらないんだ」
「そんなことがあるものか。例え別の名を与えられようと、その者の魂に染み付いた名前がある、それこそが真名であろう。そもそもお主、名前がないなら何と呼ばれていたのだ」
「んん。育て親のじいさんには『オイ』としか呼ばれたことがないよ。他の連中にも『じーさんとこのガキ』で通じてたからなあ」
「そんなことが……」
 オーヴィンとは対照的に、シニオンはいたく衝撃であったようで、難しげに考え込んでしまう。
「まあ、自分で言うのもあれだけどよ。ゴミの掃き溜めみたいなところだったし、今は元気なんだからそう問題は」
「問題あるだろう! 世界はやはり闇に覆われているのだ……」
 ぶつぶつと嘆く。少年にとっては世界の命運をかける大問題のようだ。
「ならば、フォロヴィネス。悪魔の名を持つ者よ、何故お主はその名を名乗ったのだ?」
 悪魔の名を持つ者。その言葉はオーヴィンの心の表層に、僅かな波紋をもたらす。最古の記憶に浮かび上がる、闇を体現したような瞳を思い出した。そう、あの小部屋の寝台に座し、虚空をひたと見つめていた、老人の眼差しを。そして、その唇が紡いだ低い声。
 オーヴィンは、肩をすくめて嘯いてみせる。
「じいさんの名前だったんだよ。なんも知らなかったから、じいさんが死んだ後、名前に困って継いじまった」
「お主の育て親は悪魔であったのか?」
 耳の奥に蘇る、あの老人のしわがれた声。

 ――世界は暗闇だ。

 少年の純粋な問いに、オーヴィンは淡く笑って返した。
「……うん、そうだったかもな」


 ***


 建国より数百年を経る帝国ファルダの帝位は、長年の間を血筋で受け継がれてきた。しかしその皇帝が倒れた今、もやは血縁は信じられぬと、西から東から、新たな皇帝たちが兵らによって擁立されつつある。
 初めに本国を手中にしたのはリュケイアなど知識人の多い都市を擁す東の属州の将軍である。自らの命運を試すは今と兵を引き連れて首都ファルダに至った彼は、手配を素早く進めた。元より本国で名高い貴族の出であることを利用し、敵対する要職者を次々と排斥して皇帝の地位を勝ち取ったのである。
 しかし突如現れた東の将軍の知名度は他地方では低く、この即位に納得しない者は大勢いた。新皇帝の初仕事は器量の大きさによってそれらの反意を鎮めることであったのである。しかし皇帝はここで大きな誤ちを犯す。
 将軍でありながらも学問を愛する新皇帝は、他の地方の学の低さを嘲笑し、蛮族の地と言及した上で東方にしか有利にならない施策を打ったのだ。これに広大な領土を擁す帝国ファルダの各地に住む知識人がまずキレた。
『その沸いた脳みそ叩き割って死に晒せ糞野郎ーーッ!? 自分だけ気候のいいところで議論交わしてる温い連中に野蛮扱いされてたまるか!?』
 地方の識者から現地探訪をモットーとする旅の学者までが各地で次々に新皇帝批判の声明を上げる。舌鋒鋭い彼らの弁によって民の不信感は益々強まり、更に何名かの学者は帝位を狙う将軍に入れ知恵をして一部地域からの小麦の輸出を止めさせた。豊かな食料の多くを属州の生産に頼る本国は、その影響をもろに受けて物価が高騰し、民は皇帝に厳しい眼差しを注ぐようになる。
 そこに兵を率いて南方の将軍が雪崩れ込んだ。栄えある帝国で百年となかった本国領土内での会戦となり、帝国兵同士が刃を合わせる凄惨な光景が繰り広げられた。そこで決着が着かなかったのも悪かったが、更に悪いことに程なくして東方の将軍が暗殺されてしまったのだ。南方の将軍はそのまま皇帝の地位に取り付いたが、前皇帝を正面から破らなかったという悪名が着いてまわることになる。質実剛健を美徳とする帝国において暗殺は最も卑劣とされるのだ。その暗殺の真犯人は定かではないが――。

 そんな様子で連日届く本国の不穏な話は、ヴェルスの民にも暗い影を与えている。
「今や帝国の崩壊も近い」
 道端の丸太に腰掛けたオーヴィンへ、シニオンは深刻な顔で断じた。
「尊き皇帝の血筋は汚れ、それを受け継ぐべき者もおらず、大地には己の利のみを求める魑魅魍魎がひしめいている。正しき道を選び取り、天使の助けを得られる人間が一体どれほどいることか」
 熱を込めて、その指を都市の外へと向ける。
「野を見るがいい。死した魔物が起き上がり、我々に害を加えているではないか。これは我らの業によって大地が穢れたためなのだ」
「腐った魔物は術で蘇ったんじゃないのか?」
 オーヴィンは片眉をあげて問うた。エルは死した魔物が動き回ることを、ガルダ人の術ではないかと当主に告げていたのだ。
「違う。これは罪深き人間への天罰である」
 世迷い言を笑うように、シニオンは幼さの残る口元を歪めた。
「フォロヴィネス。お主に帝国がここまで傾いた理由が分かるか」
 オーヴィンの答えを待たずに、シニオンは滔々と続ける。
「それは地に嘆きが満ちているためだ。同じ人間であるのに貴族は裕福な暮らしを営み奴隷は虐げられる。広場には毎日のように子供が捨てられ、国境では今も血が流されている。地は人々の怨嗟の声で満ちているのだ。何故だ? フォロヴィネス、何故お主は両親の元で育てられなかったのだ? 何故お主は悪魔の名を継がねばならなかったのだ。なんという不平だ。このような世界の一体何処に理想があるというのだ?」
 力強く語るその眼差しは真剣で、心から帝国のありようを気遣う様子が伺える。けれど、とオーヴィンは苦笑した。
「そうだな、確かに現実は酷いもんだと思うよ。真っ暗だ。でも、それでもやってかなきゃいけないのが世の中だ」
「違う」
 シニオンは自らの理論に歯向かわれたことが気に喰わないようで、切り裂くように否定した。
「ルミニの神は違う。神の前に万物は平等だ。身分も、生まれも、民族の違いもない。助けを求める全ての者に、ルミニは救いを与えるのだ。真に正しき民はもう飢えに苦しむことはなく、日々我らを支配する煩わしき欲望から解放されるのだ。フォロヴィネス、目を覚ませ。大いなる神はお主の心の闇に光を灯し、確かな支柱となろう」
「……支柱、ねぇ」
 唇を親指でなぞりながらオーヴィンは目を細める。世界は闇だと告げた老人の眼差しを、その脳裏に思い浮かべながら。
「おお、これはシニオン様」
 そのとき、老人の声がして二人は振り向いた。シニオンは尊大な笑みを作り、オーヴィンは眉を潜める。そこには貧しそうな老人が子供を連れて、今にも平伏せんばかりに頭を下げていたのだ。二人とも痩せて襤褸切れのような服を着ており、奴隷の身分であることを示す木札を首から下げている。
 シニオンは改めて背を伸ばし、彼らに正面から向き直った。鷹揚に迎える彼に、老人は恭しく歩み寄った。子供は老人の服の裾を掴んだまま、じっとシニオンを見上げている。
「お前たちか。体の具合はどうだ?」
「ありがたいことです。我々のような数に足らぬ者にまでお声をいただきまして……。お陰で孫共々、今日も神に身を捧げることができます」
 そう言った老人は懐から小汚い巾着袋を取り出した。子供があっと口をあける。
「僅かばかりですが、神へお返しいたします」
 浮き出た形からして、中身は僅かな小銭だろう。頷いたシニオンが受け取ろうとすると、子供の手が伸びた。瞬く間に掴んだ巾着袋を後ろに隠した子供は、敵意ある視線をシニオンに向けた。
「渡すもんか! じいちゃんが汗水垂らして溜めたお金だっ」
「こら、リュード!」
「絶対に渡すもんか!」
 老人が慌てて取り上げようとするが、子供は頑なに首を横に振り続ける。それを見ていたシニオンは、ふと息を吐いた。
「童よ。年寄りを困らせるのは感心しない」
「お前なんかに何が分かるっ」
 美しい法衣をまとったシニオンに、泥で汚れた子供は噛み付くように吼えた。その様は周囲を行きかう庶民たちの不審げな視線を誘う。しかしシニオンは全く怖じた様子もなく、その場に膝をついた。
 顔を覗き込まれて僅かに怯む子供に、シニオンは笑みを見せた。
「祖父のものを取られたくなかったか。大した孝行である。しかし、父なる神への恩を忘れてはならないぞ」
「神様なんているもんかっ。何処にも姿が見えないじゃないか」
 子供は怒りのままに言い返した。するとシニオンは穏やかに目を伏せる。
「生きている内はな。しかし死すれば神はお主の前に現れ、お主を裁くであろう。行いが悪ければ、地獄の業火に焼かれるぞ」
 そう語るシニオンの声はゆっくりとしていて、しかし静かに耳朶を打ったようだった。地獄、という言葉に子供の喉がごくりと鳴る。
「で、でも、みんながおいしいものを食べてるのに、どうして俺たちだけが腹を空かせてなくちゃいけないんだ」
「それは、お主らが幸福であるからだ」
 言い切ったシニオンを、少年は愕然と見上げた。シニオンは目を細めて、先を続けた。
「神の国は己を捧げ、尊い命を全うした魂にのみ門を開く。貧しさを知らぬ者は、より深い奈落に落とされるであろう。苦しみを知らぬ者は、より暗い闇夜を彷徨うだろう。お主は祖父と共に金銭に取り付かれた者を見てきたのだろう。肥え太った者、意地汚い者、貪り食らう者。彼らに天の門が開くと思うか」
 子供は俯いたままシニオンの足元を見つめている。でも、と小さく呟いた唇は震えて、それでも老人の腕に促され、少年はおずおずと手を前に持ってきた。彼らにとっては大金なのであろうそれを、瞳に涙を湛えて見つめている。
「良い子だ」
 シニオンがそれを摘み上げると、子供は腕をもぎ取られたように目で追った。するとシニオンは袋の紐をとき、一枚だけ錆びた銅貨を抜き取った。そして巾着袋を結びなおすと、子供の手に戻してやった。
「今日はこの一枚の銅貨とお主の孝心を神々への供物としよう。くれぐれも放蕩に走るでないぞ、祖父を大事にすることだ」
「し、しかし、シニオン様!」
「良いのだ」
 少年に微笑まれて言葉に詰まった老人は、変わりに何度も頭を下げた。頭を撫でられた子供は、粗末な巾着袋を手に呆然としている。見開かれた子供の瞳に、聖者の顔が映りこむ。
「お主らに神々の加護があるように。神はいつでもお主らを見守っている」
 そう残して踵を返す歳若い司祭は、貧しい奴隷はもとより、周りで見ていた庶民ですら感嘆の溜息をつく。人々の囁きの間にシニオン、罪の癒し手といった単語が踊るのが風に乗って聞こえてくる。
「……お見事」
「すまなかったな、フォロヴィネス。時間をとらせた」
 聖者に相応しい足取りで戻ってきたシニオンには、しかし奢る様子がまるでない。それはたった今空から降ってきた天使のようで、成程癒し手と呼ばれるのも頷けよう。
「さあ、神殿へ行くぞ。お主の罪を払い、入信の儀を執り行おう」
「いや。俺、入るの決定なの?」
 シニオンは頭から水をかけられたような顔をしてこちらを見た。
「何を今更言っているのだ?」
「うーん、俺は話を聞きたいだけで、入る気はないんだが」
 頭をかきながら首を横に振るオーヴィンである。するとシニオンは気圧された様子もなくオーヴィンの服の裾を掴んだ。
「何故だ。私はお主を導きたいのだ。お主は言っただろう、この世は暗いと。ならばこそ、ルミニの神はお主の行く先を照らす光となろう」
 その瞳に踊る光は陽に照らされて峻烈に輝く。光の袂で、天から地を睥睨するかのように。その眩しさは心を奪うほどでもあり、逆に影に落ちた自分の眼差しは、きっと対照的に仄暗いのだろう。オーヴィンはふと思う。もし過去の自分であったら、彼に何を思ったろう。
「どうした、フォロヴィネス。私の顔に何かついているか」
 ――きっと何も思わなかったろう。オーヴィンは苦い笑いが唇に浮くのを感じながら、首を横に振った。
「照らす光はいらないよ。俺には光がなくても、拠って立つ柱がある」
 シニオンの瞳が、驚愕に見開かれる。まるで殴られでもしたかのように。
「柱だと……? それは、どういう」
「んん。それより、ぼちぼち逃げた方がいいんじゃないか」
 オーヴィンがちらと視線をやると、シニオンも背後を振り返った。初めに追いかけてきた老奴隷が道の向こうからこちらを見つけたところであった。シニオンはやや迷ったようであったが、唇を引き縛ると、オーヴィンに挑むような視線を向けた。
「フォロヴィネス。悪いが禊は後日としよう。だが貴様の眼は闇に霞んでいる。いずれ来る約束の日までに、私は必ずお主を救ってみせよう」
 そう言うが早く、司祭服の裾を持って走り去った。
「あー……」
 そんなに頑張って救わなくていいんだけど、と言おうと思ったときには既に少年の後姿はない。それにしても、妙な手合いに目をつけられてしまったものである。
「あなたはベルナーデ家の者ですね!? 何故彼の逃亡を手助けするのです!」
「んん?」
 シニオンの去った方角を向いて頭をかいていると、突然後ろから怒声をかけられて、オーヴィンは振り向き、視線を下げた。シニオンを追っていた小柄な老奴隷が顔を赤くしてこちらを睨んでいる。先ほどの孫を連れた老人と同じ奴隷階級でも、こちらは貴族に仕えているようで良い生地の衣服を着ていた。どっかで見たな、とオーヴィンは思いつつ。
「どっかで見たな」
 口に出して言ってしまった瞬間、殴りかかる勢いで詰め寄られた。
「こっちは嫌になるほど知ってるわい!?」
「……」
 よく分からないけれど、物事があまり良い方向に進んでいないのは確かなようで、オーヴィンはぽりぼりと頭をかくのであった。


 ***


 一方、例の島では、相変わらず妖精クロイスの受難が続いていた。
「くうっ! 解剖も羽根切断もダメだって分かってます! ちょっと間近で見るくらいなら、見るくらいならハアハア!?」
「来んな変態ーーーッ!?」
 秋の風の吹き込む灯台島に悲痛な叫びが木霊する。七色の羽根をはためかせて逃げる妖精、それを追うは学究の徒ポマス博士。研究のことになると回りが見えなくなる少々困った博士である。
 灯台島に逗留中の妖精クロイスは必死で逃げ回るのだが、一体どんな嗅覚をしているのか、何処にいてもその追撃の手が止むことはない。頭の良いルシェトがうまく立ち回るものだから、結局追われるのはクロイスの方になるのである。
「だぁかぁらぁ、俺様は見世物じゃねぇ! マジぶっ殺すぞテメェ!?」
「殺す!? どのような魔法を使って殺すのです? 妖精はどのような魔法を使えるのです! 殺して下さい! 是非私を殺して下されーーッ!!」
「ギャァアーーー!?」
 ポマス博士は頬を染めて呼気を荒げながら襲い掛かってくる。これが見目麗しい少女であったら本望と言っていいかもしれないが、相手はいい年こいた老人である。気色悪いだけでしかない。
 一体なんて島に閉じ込められてしまったのだ。呑気に島への逗留を命じてくれた某当主の顔を思い出すだに、クロイスは絶対あの男をぎゃふんといわせてやろうと心に誓う。
 そうしている内に森に分け入るが、ポマス博士は忍もかくやという足捌きで追ってくる。人間の使う道を避けて木々の合間を複雑に飛んでいるというのに、差は一向に離れないのだ。
「人間かよあいつ!?」
 しゅたん、しゅたん、と巧みに足場を選んで着地しながらポマス博士は追随する。夢に出てくること請け合いの興奮絶頂の表情で。
「ぐっ……!」
 宙を自在に舞う妖精といえど、乱立する木々を避けながら高速で飛行するのは楽ではない。それに、あまりに長距離を飛べば疲れもする。クロイスは額に汗を浮かべながら木々の合間に突っ込んだ。そこは藪が高々と茂っているため、流石に人間であれば足止めをくらうであろう。その間に出来るだけ遠くに逃げるしかない。
 ぱっと視界が開けたのはその時だった。偶然人の使う小道に突き当たったのである。そこには一人の少女が歩いており、まずいと思ったときにはもう遅かった。
「ぐあっ!?」
「っ」
 ばしゃん。水がぶちまけられる音と共に、少女の身体が薙ぎ倒される。もろに少女の頭に側面から激突したクロイスもまた、弾き飛ばされて地面に墜落した。
 慌てて身体を起こしたクロイスは、目の前の状況に青くなる。倒れたのは淡い藤色の髪を短く切った小柄な少女で、――きっと泉に水を汲みに行った帰りだったのだろう。桶は無残にひっくり返ってしまっている。
 謝罪の言葉をかけるべきだったが、その前にクロイスは殺気を覚えた。ポマス博士がすぐそこまで来ているのだ。
「わ、悪い!!」
 こうなったら一か八かである。不思議そうに身体を起こす少女に構わず、クロイスは彼女の髪の中に飛び込んだ。豊かに渦を巻く藤色のそれは、妖精の身体をすっぽりと覆ってしまう。
「……」
 少女――ティレは、不思議そうに目を瞬かせていた。すると程なくして森の中から茨まみれのポマス博士が姿を現す。なんというか、悪鬼と思われても仕方ない風体である。
「おお、これは槍使いの許婚殿。妖精はどっちに向かいましたかな!?」
「……」
 ティレは座り込んだままゆっくりとポマス博士を見上げ、首を傾げた。元より表情に乏しい少女の顔は、茫洋として捉え所がない。
 そしてその人差し指がついともたげられ、ポマス博士が出てきた方向と反対を指した。
「そちらに行ったのですな!?」
 確認を取る時間も惜しいようで、ポマス博士は土煙を上げて走り去った。後には、長閑な秋の森の情景が戻ってくる。
「……ふう」
 身を凍らせていたクロイスはそろそろと髪の合間から抜け出して、安堵の溜息をついた。そして桶を手に立ち上がる少女を見上げる。とっさに口裏を合わせてくれた彼女には感謝せねばならない。
「その、ありが――?」
 けれど言葉は途切れてしまった。少女は妖精に見向きもせず桶の中を覗くと、踵を返して歩き出してしまったのだ。
「お、おい……?」
 恐らくは再び水を汲みに行くのだろう。けれどそうさせてしまったのはクロイス自身で、何を言って良いからずに口をはくはくさせる。しかし少女は振り返りもしない。
 ――怒らせてしまったのだろうか。
 そう思うと流石に心が痛んで、クロイスは思わず少女の後を追いかけた。
「おい、待てって。俺様が悪かったよ」
「……」
 少女は眠たげな表情のまま、静かに歩いていく。引っ込みのつかないクロイスは益々情けない顔になりながら追従するしかない。

 都市内では至る場所に設けられた水道も、灯台島までは引かれていない。故に灯台島では生活用水に井戸を用いていたが、飲料用に湧き水を求めて森に足を伸ばすこともあった。若干歩くことにはなるが、奥まった場所に清らかな泉があるのである。
 ティレは小鳥の梢の中、涼しげな水音のする方に歩いていく。そして彼女の倍ほどの背丈のある岩を伝って流れ落ちる湧き水が泉を作る場所に着くと、その端にしゃがみこんだ。
 木々に守られながら生まれた水は清く澄んで、太い根が張る底まで見通せるほどだ。ティレは初めそこに桶を浸し、水を汲んだ。クロイスが見ている横で、ゆっくりと立ち上がる。
 しかし、不意にその動きが止まった。
 さわさわと風が髪を揺らす。少女はぼんやりとした褐色の瞳で、水面より少し上の虚空をじっと見つめる。
「――」
 クロイスは、その眼差しに背筋を凍らせた。
 少女は思い巡らすように目を閉じると、おもむろに桶の水を捨て、泉の反対側に廻った。そしてある一点でぴたりと止まり、再び水を汲む。
 それは常人が見れば、気まぐれでそちらから水を取りたくなったのだと考えることだろう。しかし妖精のクロイスにとっては、恐ろしい光景以外の何でもなかった。
「お前……」
 ぽたぽたと水を滴らせる桶を無表情で持ち上げた少女に、たまらずクロイスは目の前まで飛んでいって叫んだ。

「お前、視えるのか……!?」

「――」
 初めて、ティレの瞳が驚愕に弾けた。するりと指から落ちた桶が、再三水をぶちまける。
 蛇に睨まれた蛙のように、少女は妖精を見返す。分かる筈がないと思っていたことを言い当てられた、そんな恐怖の表情で。
 二人は初め、音もなく見つめあっていたが、暫く経ってクロイスが再び口を開いた。
「視える、んだな……」
 確認するように呟く。日陰の水場に抜ける風を受け、半透明の羽根がゆっくりと揺れる。そしてクロイスは更に何かに気付いたように耳をぴんとあげた。
「……ん、ちょっといいか」
 一度言うと、クロイスは恐る恐る、ティレの顔に近付いていった。ティレは時を止めてしまったかのように動かない。けれどその足は震えていて、断罪を待つ咎人のようであった。
 手を伸ばして少女の額に触れた妖精は、ぎょっと腕を引っ込める。
「う、なんだこれ……」
 まるで見えない刃に触れたかのような面持ちで、再度クロイスは少女の額に触れた。その羽根が緊張にぴんと強張り、口元が引き縛られる。
 そして何かに気付いたように、クロイスは絶句の表情を浮かべた。少女の瞳を覗き込み、口早に問いかける。
「お前、頭痛はよくあるか」
「……」
 ティレは僅かな沈黙の後、こくりと頷いた。
「頭がぼんやりすることは。集中できないことは?」
 茫洋とした少女の顔に亀裂が入る。動揺に睫を震わせ、少女は再度頷いた。
 クロイスは呆然とそれを受け止めて、眉を下げた。
 誰に言うともなく、小さく呟く。
「……酷いことしやがる、人間ってやつは」
「――」
 ティレはぎゅっと拳を握り締めて俯いた。どれほどの労苦を背負いここまで生きてきたのか。クロイスは暫くそんな少女を見つめていたが、意を決して、再び額に両手を当てた。
「……?」
「いいからじっとしてろ。何も考えるな」
 ぽう、とその手から煌きが生まれ、少女の額に吸い込まれる。
「あ……」
 ティレは自然と目を閉じて、だらりと腕を横に垂らした。
 クロイスは普段とは比べ物にならないほど真剣な表情で、魔力を手繰り寄せる。四枚の羽根が張り詰めて光を宿し、あるはずのない風が彼の青い髪を宙に浮かせる。
 ……と、少女の額から光が染みた。そこから燐光が零れ出し、辺りに散っていく。半眼になった妖精は、額に汗を浮かべながらも集中力を更に更に高めていく。
 それは長期に渡る、静かな魔力放出であった。少女の額から零れる光が次第に弱々しくなり、目に見えないほどになると、ようやく妖精は力を抜く。すると少女もはっとして顔をあげた。褐色の瞳が瞬き、少女は自分の居場所を確かめるようにきょろきょろとする。
「これで少しは楽になったろ」
 クロイスは全身の疲労感を持て余し、木の根に腰掛けた。ティレは自分の頭に手をやって、不思議そうに首を傾げる。
「……頭、重たくない」
「淀んだ魔力を出して、術式も解いてやったからな。完全に元に戻ったってわけじゃないが……まあ、さっきの礼だよ。気にすんな」
 ティレは未だに何が起きたのか分からない様子で、ぺたぺたと自分の体を触ったり、辺りを見回したりしている。クロイスは満足げに笑って、そんな自分に気付いて動揺し、眉を吊り上げた。
「そ、それよりだな! 誰だよそんな妙な術をかけたの――」
「悪趣味な術であることは確かだね」
「どわ!?」
 クロイスが振り向くと、すぐ後ろで暇そうに腰掛けるルシェトの姿があった。
「お、お前いつの間に!?」
「君の注意力のなさは尊敬に値するね。これじゃ例の博士に狩られるのも時間の問題だ」
「うっ、うるさい! ちょっと難しい魔法使ったから疲れただけだよ」
「全くだ。君にあの魔法は難しすぎると思ってたけど、よく頑張ったね。失敗したらどう笑ってやろうかと考えてたのに」
「お、お前なぁ……」
 辟易とするクロイスに代わり、ルシェトは飛び上がると灰色の瞳で陰鬱に笑った。ティレはぴくりと反応して一歩足を下げる。
「ふふ。クロイスの気まぐれに出会えたとは運がいい。さもなくば、人間。お前は一生その苦しみを背負うところだった」
「……」
 ティレは僅かに眉根を寄せ、若草色の妖精の思惑を推し量ろうとする。くぐもった笑いを零したルシェトは、高慢に小さな少女を見下ろした。
「ほうら、前より頭がよく働くようになっただろう? くすくす。ところで聞きたいんだけど」
 嘲笑うかのように、妖精はその歪んだ口元から刃を放つ。

「本国で小耳に挟んだ話があるんだけど、あれはお前のことかな?」

「――」
 ティレは無力に唇を震わせるしかない。クロイスは座り込んだまま、怪訝そうに眉を潜めた。
「なんだよ、それ。なんか知ってるのか?」
 悪意のない問いは、けれどそれ自体が時に心を抉ることをクロイスはまだ知らない。無力に俯くティレを尻目に、ルシェトは手を緩めるつもりはないようであった。その唇が、紛うことのない真実を紡ぐ。
「この娘はね――」




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