-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>8話:あなたが拠って立つ支柱

02.シニオン



 勿論いくら適当なギルグランスとて、何も考えずに妖精たちを島に放り込んだわけではない。
 豊穣の神殿での一件を聞いた当主は、罪を償うべき妖精にこう命じたのであった。

 ――今後一年、ヴェルスに留まり人間と暮らすことで、その文化を学べ。

 一説には千年を超えて生きるという妖精にとって、一年など瞬きほどの時間だろう。けれどその間人間と共に生きることで、人の暮らしと歴史、文化を学んでほしい。そんな思いが込められた『懲罰』にはルシェトも賛成したため、渋々クロイスは従うことになったのである。
 けれど妖精が住まうのに都市内では人目がありすぎる。そういった点で、都市と距離を置いた灯台島は何よりの環境であった。こうして島長の屋敷には、招かれた二人の妖精が並んで座っているのである。
「ようこそ。何もない島ですが、歓迎いたしますわ」
 妖精を見るのは初めてであろうに、クレーゼは平素と変わりない懐の深さで二人を迎えた。隣に座る島長の方が、「ほあー」と間抜けな声を出しながら妖精をまじまじと観察している。
「別に歓迎してくれなくていい。たった一年で出て行くんだから」
 そっけないルシェトの返答に、クレーゼはころころと笑った。
「まあ。あなた方にとっての一年など、取るに足らない時間ですか」
「僕にとっちゃね。まあ、クロイスにしてみれば実り多き一年になるかもしれないけど」
「……ちぇ」
 ふてくされた様子でクロイスは羽根を揺らしている。それはまるで悪戯を叱られた子供そのもので、クレーゼは微笑ましそうに頬を緩ませた。
「空き家でしたら片付ければいくらでもありますが」
「結構だ。森があればいい。人間臭い建物に住むなんてそれこそ寒気がするからね」
「森には魔物が出ます。それでも森に住まうと?」
「ふん。相手を知る必要があるのは人間の方なんじゃないか」
 ルシェトは若緑色の髪を揺らして卑屈に笑う。悪意すら感じ取れるその眼差しを、クレーゼは正面から受け止めて目を細めた。
「そうですわね。あなた方と私たちでは、あまりに生き方が違うようです。この一年で、私たちも多くを学ぶことでしょう」
「そう祈りたいね。同種族で殺しあう血生臭い人間にもその程度の理性があることを信じてるよ」
「くす。あなたは人間というものをよくご存知ね」
 美しく髪を結った老女は、ふんわりと首を傾げる。
「けれど同族で慈しみあうのもまた人間です。あなたがこの滞在でそれを知って下さると、とても嬉しく思いますわ」
 不意に妖精の声が低くなった。
「自惚れるな、人間」
 それまでの馬鹿にするような表情と打って変わった、鋭い眼差しを老女に向ける。酷く不快げに頬を歪め、妖精は続けた。
「仮初の幻で現実を覆い隠すな。所詮お前たちの本質など、野に散る獣とそう変わらない」
「……」
 敵意を剥き出しにした妖精の視線と、泉のように静まり返ったクレーゼの視線が音もなく交わる。

 そんな張り詰めた空間に対峙する二人の横。クレーゼの隣では島長が、ルシェトの隣ではクロイスが、『俺たち暇だよな』『まだ終わんねえのかな』『そんなんどうでもいいじゃねえかよなぁ』『それにしても腹減らねえか』と視線で会話しては、影で溜息ばかりをついていた。


 さて、二人にとっては緊迫した、もう二人にとっては退屈な会合が済むと、妖精たちは連れ立って屋敷を辞した。秋もいよいよ本番を迎える陽の袂に進むと、そこに立ちふさがる人影があった。
「な、なんだ?」
 クロイスが首を傾げる。自在に宙を舞う妖精にとって、人一人が立ちふさがっていようと、大した障害ではない。しかし、ぷるぷると拳を握り締めた小柄な影は、妙な気迫をまとってそこに立っているのであった。
 その顔が、ゆっくりと上がってこちらを見定める――。


 ***


 椀を地面に置くと、それまで戸棚の上にいた小さな影がするりと降り立った。全身を覆う毛は黒いが、胸の部分だけが白い。細い尻尾をくねらせて椀の前に座り込んだ猫は、水でふやかしたパンをかつかつと食べ始める。オーヴィンはしゃがみこんだまま、小刻みに動く耳をぼんやりと眺めた。
 オーヴィンが寝泊りをしているのは灯台島の外れの古小屋だ。そこに住み着いた猫を、フィランなどはオーヴィンの飼い猫と思っているらしいが、実際はそれほど気心知れた間柄ではない。いつの間にか同居しはじめたこの猫がオーヴィンに寄ってくるのは、食事のときだけだ。何日か家を空けると、代わりにミモルザの診療所に行っているらしい。現金な猫である。
 食べ終わると「まずかった」といわんばかりに低く鳴き、毛づくろいを始める。そりゃ買ってから何日も経ったパンなのだからまずいだろうよ、とオーヴィンは内心で語りかける。
 小屋の様相にもオーヴィンは全く関心がない。この小屋は昔は猟師の家だったそうだが、当時の生活を思わせるものは軒並み放置している。手入れをしているのは寝床と炉のみだ。ジャドなどは顔をしかめて「人の住む場所じゃねぇ」と言う。彼の自宅の有様も別の意味で人が住む場所ではないとオーヴィンは考えているのだが。
「気にしないのがいけないのかねえ」
 家中の埃を被ったがらくたを眺めながら呟く。初めてヴェルスを訪れたとき、オーヴィンは定住せず都市内の空き家を渡り歩いたものだった。ギルグランスの軍役時代から、それが彼の暮し方だったのだ。だが、とうとう当主から「所在くらいはっきりしろ」と苦言を呈され、クレーゼの提案で灯台島に住むことになったのだ。毎晩同じところに戻ってくるのは不便ではあったが、エルが先に住んでいたし、人が少ないのはそれなりに気が落ち着く。そんな理由で、オーヴィンはこの家を寝床にしている。
 なんとなく猫に触れようとすると、猫はするりと窓から出ていった。
 オーヴィンは頭をかいて立ち上がった。

 くあーっと大欠伸をしながら表に出ると、長閑な日差しが目に眩しく降り注ぐ。仮眠のつもりが、思いの他熟睡してしまった。陽は真上で燦々と輝いている。
 瞬間であった。
「ぎゃーーーーーッ!!?」
 寝不足のどんよりとした頭に絶叫が突き刺さった。何事かと叫び声の元を見ると、右側の丘に土煙があがり、それが神の進軍もかくやという速度でみるみる近付いてくる。
「来るんじゃねぇって言ってるだろーーー!? なんなんだよ一体ッ!?」
「少し! 少しだけでいいのです! そ、そのぅ、ちょっと解剖させて頂ければ」
「殺る気満々じゃねぇかよ!?」
「だったら羽根を見るくらいでも! 削ったり切り取ったりしませんから! あぁ、我慢しますよ、標本にしたいですが我慢しますから!!」
「発言が不穏当すぎるわ!?」
「このポペラユプポピュポマルス、妖精を間近で見る千載一遇の機会を逃すことは神の名において許されないのですーーーッ!!」
「来るな寄るな近付くなーーーー!?」
 全力で逃げ惑う妖精と、ナイフ片手に目を爛々と輝かせて後を追うポマス博士である。妖精が放つ魔法を鮮やかな足捌きで避けながら、オーヴィンの目の前を神速で通過していく。なんというか、人間離れした動きである。学問への探究心は、人をここまで駆り立てるのか。
「ご主人様、落ち着いて下さいー……」
 その更に後ろから、ぼてぼてと追いかけるポマス博士の助手奴隷。
「……」
 妖精の標本てのは売れるんだろうかと考えながら、オーヴィンは丘を下っていった。


 ***


「どうも。いつも悪いな、爺さん」
「気にすんな。こうでもしてねぇと身体がなまっちまうわぁ」
 渡し守の爺はオーヴィンを都市側の岸辺に降ろすと、櫂を片手に小気味良く笑った。彼の切る粗末な服の間から、多くの古い傷跡が見えるのを知りながら、オーヴィンは手をあげて礼を示す。
 都市の者はこの老人の正体を元帝国兵と噂している。帝国の一般兵はその任期を満了すると、報酬を与えられて第二の人生を始めるのが常だ。この老人もその人生の多くを国の為に戦い、傷もその時に受けたものなのだと。
 そんなことを考えていると、不意に声をかけられた。
「この舟はあの島へ行くのか?」
 振り向くと、長衣を着た見知らぬ少年と目が合う。都市の方から歩いてきたらしい、淡い褐色の巻き毛で輪郭を覆った賢そうな少年であった。背丈はオーヴィンの胸ほどまでしかなく、幼い体つきと司祭服のような長衣がなんとも不釣合いだ。
「うん、坊主。灯台島に興味があるのか」
 一瞬だけ警戒の表情を覗かせてから、渡し守の爺は快活そうに笑った。それもそうだろう。少年が庶民でないことは外貌から一目で分かる。長衣とは、本来成人しないと着用が許されない衣服なのだ。幼くしてそれを着るだけの、特別な理由があるに違いない。
「何故あんなところに灯台があるのだ? こちら側に経てた方が管理しやすいだろう」
 少年はぴっと灯台を指差して不躾に問う。渡し守の爺とオーヴィンは顔を見合わせた。オーヴィンは確かに、と指で顎をなぞる。初めて訪れたときからそうだったものだから、疑問にすら思わなかったのだ。
 けれど渡し守の爺はニッと笑った。こちらはその理由を知っているようだ。
「あの島はな、昔はこの都市と陸続きだったんだよ」
「へえ?」
 驚いたのはオーヴィンである。都市に来て五年目、初めて知る新事実であった。
 対する少年も驚いたようだったが、こちらは怪訝そうに眉を潜める。
「そんなことがあるものか。島の部分だけが湖に流れ出たとでも言うのか?」
「そうさ」
 渡し守の爺は、離れの小島を眩しそうに眺めた。
「まだこの地に帝国もなく、ヴェルスが黄金の庭と持て囃されていた頃の話だ。足首清らかな湖の姫神様がな、ある美しい岬の灯台に立つ男に心を奪われ、そのお力で岬ごと湖に引き込んでしまったのだよ」
「すげえ。愛は偉大だな」
 だからってそんな壮大な引き込み方をするだろうか。なんとも神様らしい強引さに、感じ入ってしまうオーヴィンである。
「ははは。恋する乙女はいかなる苦難も打ち砕くのだ」
「なんて邪悪なんだ」
 放たれたのは、和やかな空気に水を差すような声だった。オーヴィンが振り向くと、少年がこちらを挑むように見上げていた。
「そんなものはただの悪魔であろう。たかが性欲の為に人の暮らしを踏みにじるなど、低俗な行為だ」
「……うえ?」
「だというのにお主らは悪魔を神と呼ぶ。神の名を語るにもふさわしくない邪悪な存在だというのに」
「いや……まあ、そうっちゃそうなんだけどな」
 言いたい放題の少年を前に、オーヴィンはぼりぼりと頭をかく。渡し守の爺は自分の話が面白くなかったのだろうかと困惑した様子だ。このままでは流石に爺の面目が立たないと、オーヴィンは溜息と共に告げた。
「でもよ。恋をしたくらいで邪悪にされてたら、人間なんて皆邪悪になっちまうよ」
「その通りだ」
「ふへ?」
 思いがけない返答をされて、声を滑らせてしまうオーヴィンである。鼻を鳴らした少年は、ニヤリと笑ってオーヴィンを見上げてきた。
「なるほど、お主の目は眩んでいるようだ。しかし聡明でもあるとみた。この私がそなたを目覚めさせ、真の光の元へ導いてやろう」
「……新手の宗教なら間に合ってるんだが」
「ちま臭いことを言うでない! さあ行くぞ、運命の扉が開かれる日は近いのだ」
「ええと、ちょっと待ってくれないか」
「よく分からんが、頑張ってな」
「えええ」
 渡し守の爺はオーヴィンを生贄にそそくさと櫂を漕いで離れていく。取り残された哀れな子羊に、逃がすかといわんばかりに少年は腕を掴んだ。
「さぁ、私の話を聞くがいい。きっとお主も気に入るであろう」
「いやいや、俺にも仕事が」
 そのとき、オーヴィンはふと少年の長衣の裾に染められた紋章に気付いた。見覚えのある紋章に、ぞっと背筋が冷える。まさか、まさか――。
 その答えは、太陽のようにあっけらかんとした声となって耳に届くのであった。


「お主もすぐにルミニの神に平伏するようになろう。私はシニオン、神に仕えし者。感謝せよ、お主を我が手で導いてやる」


 ***


 もうじきにやってくる収穫の季節に向け、豊穣に彩られたヴェルスは都市中が浮き足立つかのようだ。今年の麦の出来を確かめ、物量の確保と値段交渉にやってくる商人によって道行く人々も色とりどり。
 そんな都市の喧騒の片隅、会堂の裏手を歩きながら、オーヴィンはシニオンと名乗る少年を改めて観察した。彼が聞いた罪の癒し手と呼ばれる司祭の名を持つ少年を。
「お前さん、もしかすると罪の癒し手?」
 直球で聞いてみた。するとシニオンは僅かにためらって口を開いた。
「皆はそう呼ぶ。だが過ぎた名だ、私は神に遣える一介の修行者でしかない」
「ふうん」
 生返事をしながら、どうしたものかとオーヴィンは考えていた。調査すべき神殿の関係者と、こんなにも早く接触するとは想定外だ。否。早すぎる、とオーヴィンは考える。最悪を考えれば、ベルナーデ家の気配を嗅ぎつけた神殿がシニオンを斥候として放った可能性がある。
「んで、お前さんはふらふらと彷徨ってはそうやって勧誘してるのかい?」
「なっ」
 激昂したシニオンの頬に朱がさす。
「お主、私を愚弄する気か! 我が口は神の言葉を代弁しているに過ぎぬ。それを客引きのように――おい、欠伸をするな!?」
「んん」
「良いか、心して聞くがいい。お主のその茫漠たる人生に、神は燦然たる光となろう。お主もこれまでの行いを告白するがいい。神はお主の罪を許し給い、おい、何処へ行く?」
 屋台へ向かったオーヴィンは果実を二つ手にして、店主に銅貨を渡した。それを一つ、ひょいと掲げる。
「食べるか?」
「人の話を聞け!?」
 地団駄を踏むその仕草は容姿と変わってやはり幼い。オーヴィンはすっと目を細めると、観察をそれで取りやめた。
「まあ遠慮するな」
「遠慮ではない! 貴様、神罰が……うわっ!」
 果実の一つを放ると、シニオンは慌てて腕を伸ばす。放物線を描く果実にシニオンの意識が集中している間に、ひらりとオーヴィンは近くの神殿の辺に上り、裏手に曲がった。そのまま反対側の通りに出てから更に別の路地に入り、すぐに曲がる。同様のことを三度ほど繰り返して、一息をついた。これでうまくまけただろう。
 情報が集まるまでは、不用意に関係者と関わるべきではない。それがオーヴィンの判断であった。
「んん」
 それにしても、と壁に背をつけながら考える。自分自身の行動を振り返るに、ルミニ教に嗅ぎ付けられるような覚えはない。それに、もしあの少年が斥候だとして。
「ちょっと違うような気がするなあ、なんか、空気が」
「どう違うのだ?」
 オーヴィンは隣に視線を向けた。
 息をきらせたシニオンが、大きな瞳でこちらを睨み上げていた。
「……」
「……」
 睨み合い、数秒。
 オーヴィンは、おもむろにシニオンの頭を掴んだ。
「何をする!?」
「いや、幻かと思って」
「そんなわけがあるか!」
 丸太のような腕を引き剥がして憤慨するシニオンだが、それはこちらの台詞である。まさか追いつかれるとは思っていなかったのだ。
「まいった。俺も歳かなあ」
「何を言っている。神を前にすれば老人も赤子も変わりはしない。大体、お主はな」
 シニオンの説教を聞き流しながら、オーヴィンは次の手を考えた。候補としては、@もう一度逃げるAシニオンの話を聞くBシニオンを始末しちゃう、いやBは流石にまずいか、そんなことを考えている間にシニオンが道の先を見て喉を引きつらせた。うん、口に出して言っちゃったかな、と思う間に、シニオンが腕を掴んでくる。
「まずいぞ。お主、共に来い!」
「え、んん?」
 長衣を着ているとは思えぬ足さばきで奥へと連れていかれる。シニオンは古びた木箱を見つけると影に隠れ、右へ左へと忙しなく動かした。
「なあ、放してくれないか」
「それどころではないのだ!」
 至極真っ当なオーヴィンの懇願を鮮やかに無視したシニオンは、唇を噛み締めると、意を決したように木箱に登った。その時、大通りから身なりの良い奴隷の老人が鼻息荒く走りこんでくる。何処かで見たような顔だったが、逆光のせいか名前が出てこない。
「お主も早くしろ!」
 見上げたオーヴィンは、あっと口を開いた。貴族然としていた少年が、まるで下町の少年のように塀を乗り越えて裏手へ姿を消したのだ。
「ちょっ」
「ま、待ちなさい!」
「ええっ」
 どうやら追われているらしい。老人に捕まるのも面白くないので、なしくずしにオーヴィンも塀を越えることになる。向こう側から裏手に回るよう指示する老人の声が聞こえた。シニオンは降り立ったオーヴィンを見て満足げに笑うと、進行方向を指差した。
「ひとまず、この場は離脱するぞ。ついてこい」
 何故、と問う気も失せて、オーヴィンはげんなりとした。


 ***


 後ろを追うオーヴィンに言わせれば、それは少年と老人の鬼ごっこ以外の何でもなかった。その昔、ジャドが出合ったばかりの頃に一度逃げ出そうとして、エルと二人がかりで捕まえたあの苦労に比べれば雲泥の差だ。シニオンは身軽で小手先の技を見破れるほどの知恵もあるようだが、ジャドの俊足には及ぶべくもない。
 しかし年寄りに勝利するには十分だったようで、三区画も抜ければ気配は完全に消え、シニオンは解放された猫のように伸びをしてみせた。
「ここまで来れば安全だろう。お主、感謝するぞ」
「んん?」
 とぼけてみせると、シニオンは腕組みをして、足で地面を軽く撫でた。この辺りの道は舗装されていないため、くっきりと砂の跡がつく。
「私の足跡を消しながらついてくるとは、中々の腕前ではないか」
 頭の良さはジャドより上かな、と当人に聞かれたら殴られそうなことをオーヴィンは考えた。少年を助けたいというより、面倒事を避けたくてやったのだが。
 のんびり歩きながら、欠伸をする。神殿や公共施設の立ち並ぶ中心街から抜け、辺りは長閑な住宅街に変わっていた。この辺りは道が入り組んでいるから、早々見つかることはないだろう。
「それでお前さん、なんで俺にこだわるの」
「私はお主が気に入ったのだ。私の僕となり、民に正しき教えを広めるがいい」
「んん、俺は別にやることがあるんだよ」
「だから何度も言っているだろう。神はそのような些細なことは気にしない」
「いや、気にしないとまずいんだ。うちの邪神様に怒られちまう」
「やはりお主は邪教徒だったのだな!? 悔い改めるがいい、終末の日は近いのだぞ」
 確かに邪教徒というのは言い得て妙かもしれない。
「いいだろう。ルミニの神の前には全てが許される。お主の罪も、私の前で告白するが良い」
 全てが許される。その言葉を耳にして、オーヴィンはつと眉をあげた。
「――罪、ねえ」
 それまでの飄々とした声に不意に低い響きが混じり、シニオンはふと目を瞬いた。
「何だ。お主、そんなに重い罪を犯したというのか?」
 オーヴィンは表情を変えずに前を見たまま、ふっと息を吐き出して首を振った。
「まあ、色々あったさ」
 その瞳に浮かぶ砂と血の景色は、決して他人に見えるものではない。彼の生きてきた世界は、長衣をまとう少年には想像もつかぬだろう。
 ゆったりとした動きだが彼の歩みは速く、シニオンは若干小走りになる。しかし離すつもりはないらしかった。拙いながらも、じっと見つめながら必死に追随してくる。そして、その目に浮かぶ光は真摯であった。
「ならば話すがいい。神の前に全ては平等だ。その威光の元に平伏し、救いを求めるのだ。さすれば神はお主を助けよう」
「……」
 オーヴィンは刈り込んだ頭を一度撫でた。そうして、立ち止まって少年に向き直った。
「……お前さんね。そんなに俺を信者にしたいの?」
 シニオンはなんだというように目を瞬く。
「当たり前だ。その曇った眼を開かせてやる」
「別に俺でなくとも良くない?」
 若干の願いを込めて尋ねると、しかしそんな程度で挫ける気は毛頭ないらしく、燦然とした返答があった。
「何を言っている。私の目に止まったのだ、お主を救うことにそれ以上の理由がいるのか」
「……」
 オーヴィンは心底疲れたように目頭を押さえた。どうしてこんなのに目をつけられてしまったのだろう。以前当主に目をつけられたことといい、あれか。自分には奇人を引き寄せる何かがあるのか。そういう呪いでもかけられているのか。
「今度、お払いに行ってこよう……」
「禊か? ならば共に来るがいい、そう時間はとらせぬ」
 巨大な溜息をつく。これはもう、逃げられる気がしない。
「……分かったよ。お前さんとこの教えについて聞かせてくれ」
 世界が灰色になったかのような面持ちで告げると、シニオンの顔がぱっと明るくなった。
「うむ、そうか! では来るがいい、神は自ら救いを求める者を拒ばない」
 そこは拒んで欲しかったと思いながら、オーヴィンはやれやれと首を振る。ルミニ教に表立って関わるのは避けたかったが、こうなっては少年から逃げ惑うより、じっくりと話を聞いてやった方が早いと踏んだのだ。それに、オーヴィンの直感が告げている。この少年は打算なくオーヴィンを入信させたがっている。うまくやれば教会の内部情報も教えてくれるだろう。
『打算があるのはこっちかな』
 汚い大人になってしまったものである。一体何処で道を間違ったのだっけか。
 風に吹かれているオーヴィンを、シニオンは歳相応の好奇心に満ちた顔で見上げてきた。
「お主、真の名は何という?」
「んん?」
「真の名を聞いているのだ」
 オーヴィンは目を眇めて少年を見返した。自分の真名は、人には少し言いにくいものであったから。
「言わなきゃダメなの?」
「私はこれからお主の魂を浄化する。その為にまず、お主の偽らざる名を聞いておくのだ」
 風の女神が吹き込む優しい秋の風が、都市の喧騒を駆け抜けていく。今日はどうやら、風の強い日らしい。
 オーヴィンは観念したように肩を落として、薄く笑った。
「……フォロヴィネス」
 溜息をつくかのような答えに、シニオンは目を丸くする。それは彼の真名を聞く誰もが浮かべる表情だ。だから、もう彼の心は何とも思わない。
 諦念を込めた顔で、オーヴィンは続けた。

「うん。――この国の、悪魔の名前だよ」




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