-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>7話:少年と豊穣の巫女

08.今は、ただ前へ



「わーっ、すごい! ほんとに捕まえちゃった」
 間延びした声が倉庫に響き渡って、ジャドが振り向いた。
「おぉ、巫女さん、レティオ。こっちはぬかりないぜ」
 巫女を伴って倉庫に辿り付いたレティオは、状況を把握して頷いた。ジャドが僅かに眉を曲げたのは、その後ろからゴモドゥスもついてきていたからだろう。
 ゴモドゥスの顔は怒りに青ざめていた。本来であれば姦計を巡らせたゴモドゥスによって、檻は妖精の襲来と同時に裏口から神殿の外に出そうとしていたのである。しかしそこをフィランが襲撃して檻ごと奪取したのだった。
 新手が現れた隙を妖精は伺ったようだが、フィランは妖精だけを睨み続けている。炎の熱波に恐怖しながら、妖精はすっかり観念したようだった。ひとたび身体に火がつけば、大樹の精霊でもある妖精は瞬時に灰と化してしまうのだ。
「レティオ、喋れる程度に無事ならこの妖精の処遇の判断を」
 フィランに促されて、レティオははっとした。この場では最年少のレティオだが、その立場はベルナーデ家の者の中で最も高いのである。けれど妖精はそれが理解できないようであった。
「はぁ? なんでこんなガキにそんな権限が」
「黙りなさい。確かに小生意気なガキですけど僕の主の親族です。侮辱は許しませんよ」
「お前が黙れフィラン」
 フィランが妖精を捕まえた張本人でなければ無言で殴っていたところである。それを殺気を込めて睨むに留め、レティオは一歩前に出る。ベルナーデ家を代表する者として、挨拶をするために。

「ヴェレティオール・アウル・ベルナーデ。栄えある帝国に名を連ねるヴェルスに名高きベルナーデ家当主ヴェギルグランスが甥子」

 はっきりと、名乗ってやった。妖精だけではなく人間たちまでがこちらをを見つめる。
「名乗れ」
「……んな」
「名乗れ」
 低い声で命ずると、妖精は口ごもる。そうして暫くしてから、ぼそりと自分の名を告げた。
「……クロイス」
「真の名か」
 やりにくそうに唇を噛み締めてから、妖精は眉を吊り上げて叫んだ。
「クロイス・ルライ・ド・ルマイラ! これで気が済んだかよ」
「神殿を穢した理由を問う」
「はあ?」
 クロイスは気味悪げに口を尖らせた。
「だからー、言ったろ。暇つぶしだよ。わけわかんねー、なんでそんなマジになるんだよ。たかが建物のひとつやふたつ」
 それは人間に対する嘲笑であり挑発だった。人と異なる価値観を持ちうる彼らにとって、偶像に払う敬意など存在しないのだ。
 だから妖精が期待したのは、口の端から泡を飛ばすような反論だったのだろう。けれど人は沈黙を守る。その場の全員が、捕らえられた妖精を静かに見つめている。
「……う」
 クロイスは眉を歪めた。人々の視線が、それぞれ糸のように細い刃となって自らを縛り付けているようだった。
「な、なんだよ、なんなんだよ……」
 うろたえる妖精を見上げたまま、レティオは息を深く吸った。極刑を伴う断罪は容易い。フィランに一言殺せと命ずれば、都市の象徴でもある神殿を穢した妖精を屠ることが出来る。それはとてもとても簡単なこと。都市の誇りを傷つけられたと怒りと憎悪に身を任せ、否定するのは簡単なこと。
 しかしそれはゴモドゥスが落とした凶器まじりの砂の滝と一体何が違うのだろう。
「お前は何処の神を信じているのだ」
 レティオは問う。戸惑うクロイスに、次の声はもう少し強く。
「お前の神は誰だ」
「だ、誰って」
 クロイスは頬を歪めて答えを紡いだ。少年の声よりもう少し弱く。
「神つったら一人だろ。精霊の女神様、だよ……」
「……一神教ですか。唯一の神のみを信じ、他の神を否定する。帝国内ではメガラヤ地方で見られる信仰です。その信仰は一族の結束を強固に高めます」
 フィランが頬を歪め、僅かな嫌悪感と共にそう補足した。
 天神トロイゼを最高神とする帝国は、属州に下った国の民にも自らの神を崇めることを許している。それは帝国の風土が元々多数の神を認めるからだ。天に地に森に街に、戦場の気運から夫婦の仲にまでこの国には神が住まうのである。
 しかしただ一人の神を信じる者たちは同じように考えない。少数ではあるが、帝国にこのような価値観を持つ民族がいることはレティオも知っていた。
「妖精族が唯一の神を信じるとは始めて知った。ならば」
 事実を確認すると、レティオは牙を剥くように眼光を剥き出しにした。
「他の神は敬意に値しないというのか」
「……ん、それは」
 視線を泳がせたクロイスは、その問いを笑いで誤魔化せないことを悟ったようだった。悪戯を咎められた子供のように、ぼそぼそと語り始めた。
「だって、同じような神殿ならいくつもあるだろ。どうしてたった一つちょっかい出したくらいでそんなにカリカリするんだ」
 レティオはふと目を瞬き、問いを重ねた。
「お前はこの神殿が何を司るか知っているか」
「えぇ? あれだろ、ほーじょーのめがみ、だっけ? よくわかんねぇけど」
「豊穣の女神ヴェーラメーラ。結髪美々しき実りの女神にして天神が妹君、ならびに輝く風の女神の母。原初の神の末裔プシュラーナ十二柱の一を担う母神だ」
 きょとん、と妖精が首を傾げる。
 レティオはそれを見て、頭の中の紅く凝り固まった何かが氷解していくのを感じていた。

 ――なんだ、こいつ。何も知らないだけなんじゃないか。

 小さき賢人と呼ばれて強大な魔法を簡単に使うものだから、まるで全能の識者のように思っていた。しかしその認識とは裏腹に、この国の神に関しては驚くほどに無知なのだ。今レティオが口にしたのは、帝国人であれば当たり前の常識であるのだから。
「なんだそりゃ。そんなに大層な神様なのかよ」
「たりめーだろ!? ガキだって知ってるぜ。なんせ怒り狂って全世界の作物を腐らせたんだぜ」
「はっ……そんなに凶暴な奴が神なのかよ!?」
「ええ。恐ろしい女神ですよ。老婆の姿で人前に現れますが、ぞんざいに扱えばその家の赤子を連れ去ります」
「ただの鬼畜じゃねぇか!?」
「あはは。でも優しいよ、寝ぼけて石像殴っちゃったことあったけど、謝ったら許してくれたし」
「ナディア様、その件は反省して下さい」
「ぎく。ダリア、いたんだ」
 香木を焚いていたダリアを見て、気まずそうに顔を背ける豊穣の巫女である。
「しかし禾穀を司る女神ですから。農業が生命線のヴェルスにとっては、まさに命そのものといった存在でしょうね」
「……命、そのもの?」
 小さな声で妖精はその言葉を口内に転がす。知らない考え方を、咀嚼するかのように。
「そうだ」
 レティオは頷いて肯定した。巫女が静かに自分を肯定してくれたように。怒りを以ってするのでなく、静まる心を従えて凛と立ちながら。
「だから我々は心無き者の蹂躙を許さない」

「……っく、はははははははっ!!」

 誰もが予想だにしない笑い声だった。それは炎に捕らわれた妖精のものでなく、勿論どの人間のものでもなく。
 卓上に置かれた禍々しき檻。その中から、けたたましい笑い声が聞こえたのである。
「ッ」
 初めに動いたのはゴモドゥスだった。大切な妖精を捕まえた檻に手を伸ばそうとする。炎によってベルナーデ家は妖精を捕まえたが、もう一体はゴモドゥスたちが捕らえたものだ。手柄を主張する上でこれ以上大切なものはない。
 けれど次の瞬間、ゴモドゥスはその手を最後まで伸ばさなかったことを天に感謝せねばならなかった。ぞわっと空気が沸き立ち、燐光が檻の中から舞ったかと思うと、小さな光の柱が蛇のように噴出したのである。
 檻に触れていたら人間の手など食いちぎられていただろう。そう確信できる破裂音。檻は木っ端微塵に砕け散り、中から若草色の髪をした妖精族の少年が姿を現した。長い前髪の下に覗く瞳は陰鬱な鈍色。その表情は悪意ある笑みに彩られ、大きく拍手をしてみせる。
「人間にしちゃ中々やるじゃないか。見事だったよ。ふふ、どうだいクロイス、人間ぶぜいにしてやられた気持ちは」
「……ぅ、ルシェト」
 気まずげに眉根を寄せるクロイスを一瞥して、若草色の妖精は人間たちが得物の柄に手をかけているのに気付き、両手をあげてみせた。
「ああ、心配する必要はないよ。このゲームはクロイスの負けだ。今更助っ人ぶるつもりはないさ」
「お、お前。まさかわざと捕まってやがったのか」
 憎々しげなゴモドゥスに問いに、若草色の妖精は凄惨な笑みを浮かべて返した。
「身の程を知れ。あの程度の結界、子供だましもいいところだ。そいつが遊んでくって言うから、暇つぶしに入ってやったに過ぎない」
 レティオは突然の闖入者の出現に、冷たい汗が浮かぶのを感じた。陰鬱で抜け目ない妖精は、明らかにクロイスより格上だ。まともにやりあっても勝てないと、本能が告げている。そして若草色の妖精もまた、そんなレティオを面白がるようにふふっと笑った。
「身構えなくていい。こいつには責任を取らせるよ。逃げない様に僕が監視しておこう。見せてもらおうじゃないか、人間のやり方で罰してくれるんだろう?」
 それは同時に、人の分際でどうやって妖精を罰するつもりかと見下しているようでもあった。見え透いた嘲笑に、フィランがやりにくそうに頬を歪める。
「さて、どうします?」
「……巫女。あなたは彼らを許すか」
 レティオに問われると、ナディアはうーんと難しげに唸った。
「びっくりしたけど、悪気はなかったみたいだしねぇ」
 ナディアの眉間のしわが苦悩に深くなる。ぐりぐりとこめかみを揉みながら、彼女は溜息をついた。
「そうねぇ。こうなったら、あの方に判断を仰ぐのが一番じゃない? 色々知ってそうだし」
「あ、あの方?」
 クロイスが不安げに聞き返すが、ベルナーデ家の者たちは妥当だというようにそれぞれ頷いたのであった。
「それが良さそうですね」
「だな」
「……致し方ない」
 はあ、とレティオは溜息をついてその意見を呑む。
「なんだよ? 何するつもりだよ……?」
 孤立したクロイスだけが、首を回しておろおろとしているのであった。


 ***


「……で」
 ベルナーデ家、中庭。愛用の椅子にでーんと座った当主ギルグランスは、頬杖をついたまま「どうしろと?」と視線をセーヴェに投げた。主人に長年付き添ったセーヴェも、「さあ?」と思いを込めて首を横に振るしかない。
 甥と配下がとっ捕まえてきた二人の妖精は並んで臥床に腰掛けていた。クロイスと名乗った青髪の妖精は不貞腐れたように足をぶらぶらさせており、ルシェトと名乗った若草色の髪の妖精は暇そうに目を閉じている。
 鼻から息を抜いたギルグランスは、正直なところを言うしかなかった。
「妖精族はもう少し温厚な種族と聞いていたのだがな」
「『これ』が妖精族と思われるのは甚だ不愉快だ」
 ぴしゃりとルシェトが断じると、クロイスが不満げに隣を睨む。
「ちげーよ。他が腑抜けなだけだ。人間なんかに媚びやがってよ、だーれがこの世界の支配者だとフムグッ!?」
「見ての通りクロイスは跳ね返りでね。故郷の森でもうまくやれずに飛び出してきた無知蒙昧だ」
「……」
 渋面を指で覆ったギルグランスは、「処遇の決定をお願いします」と真顔で頼ってきた甥を思い浮かべて溜息を漏らした。そりゃこんなのの処遇を求められたら叔父に頼みたくなろうものである。ギルグランスだって仮に父親が生きてたら即行で押し付けて逃げている。
「とにかく、危うく巫女の命を奪いかけたという点は見過ごせぬ」
 それを聞くと、がばりと身を起こしてクロイスは眦を吊り上げた。
「違う!」
「うむ?」
「だーかーらー、アンタの甥にも言ったけどさ、あれだけは俺様じゃないって! 俺様は馬鹿な人間でも女と子供にゃ手を出さないって決めてるんだ」
 片眉をあげて、ギルグランスはルシェトに視線を向けた。無言の問いに、ルシェトはニヤリと卑屈に笑うだけだった。
「貴様でないとすれば、では誰だというのだ?」
「君の甥子は薄々気付いてるようだったけど?」
 耳で揺れる金のピアスをいじりながらルシェトはくすくすと笑う。絶対違うと口を尖らせる妖精を前に、ギルグランスは益々首を傾げるのであった。


 ***


 妖精たちを叔父の下に預けたレティオたちは、豊穣の神殿に戻って後片付けを手伝っていた。
「もー、すごーく格好良かったー!」
 女官の一部は早くも若きベルナーデ家跡継ぎの勇姿に黄色い声をあげており、フィランとジャドは呪詛を込めた眼差しを当人に注いだ。世の中というものはなんとも不公平に過ぎる。妖精を捕まえた功労者は自分たちだというのに。
 そして骨抜きにされた女の渦中に豊穣の巫女本人も加わっている事実に女官ダリアは頭を抱えるばかりだ。きゃあきゃあ騒ぐ女たちの真ん中には、頬を朱に染めたナディアが黄金の錫杖を振り回して少年の素晴らしさを語っているのである。
「もーね、ほんとー脳髄直撃ってこういうことー!? 山猫みたいに走ってきてくれて、私の前でばばって腕広げてねー!? 正統派!? 正統派王子様って感じー!?」
「きゃー巫女様ずるいーーっ!! 私も庇ってほしいですー!」
「王子だけど可愛いですよあの子ー!? ちょっと小っちゃいところがもう激ヤバ!?」
「ぎゅーってしたい! あの不機嫌そうなところをぎゅーって!?」
「……」
 女官ダリアの苦悩は今後も続きそうである。

 さて、配下を従え見事妖精を捕らえたと噂の渦中にあるレティオ本人は、神殿の片隅にて引き上げようとする二人の男を呼び止めていた。
「エウアネーモス卿。少し良いか」
「これは、レティオ殿」
 直接顛末を聞きにきていた商人エウアネーモスは、尊大な顔に苦笑を浮かべてレティオを迎えた。後ろでゴモドゥスが表情なくこちらを見下ろしている。
 空気が重くなるような威圧感を覚えたが、そんな恐れをおくびにも出さず、レティオは高いところにある顔を見上げた。するとエウアネーモスは自分から口を開いた。
「今回は誠にお恥ずかしい限りでした。あなた方の見事な手際には感服する限りです」
 言葉の上辺に賞賛を、しかし根底には得体の知れぬ暗い色を含ませて、エウアネーモスは笑う。レティオは粘つくそれらを無視し、ゴモドゥスに顔を向けると、静かな声で問うた。
「何故巫女がいると分かって砂袋を切った」
 ゴモドゥスの眉が僅かに動く。
 妖精が広間を突っ切ったとき。明らかに巫女に危害が及ぶ距離で、ゴモドゥスは金属片入りの砂袋を切ってみせたのだ。クッ、と喉を鳴らしたゴモドゥスは肩をすくめる。
「あぁ、まさか妖精があんなことをするとは思ってなくてな。なんだ、文句があるのかい?」
「巫女は朝から自室で眠っていた筈だ。だがあのとき、巫女は気がつけば広間にいたと言った」
「巫女様は昔からお目覚めが悪いですからね。こんなことを言うのは失礼ですが、寝ぼけて外に出られたのではないですか?」
 エウアネーモスが不思議そうに口添えする。それを切り払うように、レティオは尚も続けた。
「同じ時間、女官たちは外に出払っていたし、ダリアは倉庫で香を焚いていた。眠る巫女を秘密裏に連れ出すことは可能だ」
「なあ坊ちゃんよ。何が言いたいんだい」
 オーヴィンよりも大柄な体躯で凄まれる。レティオはその根底にあるものを見極めようと、顎を引いた。
「……昨日、回廊の段差に油を撒いたのが妖精ではないとしたら」
「あぁ?」
 聞き返すその音色の僅かな揺らぎを、レティオは確かに耳に刻んだ。ゴモドゥスは失笑して少年を見下ろす。
「妖精に決まってんだろうが。それとも心当たりがあんのか?」
 揺れる肩に目を細めながら、レティオは先ほどのことを思い出していた。そう、巫女を守ろうと檻の前に立ちふさがったレティオの身体は、金属片に貫通されて然るべきだったのだ。しかしレティオは見た。降り注ぐ凶器を含んだ砂嵐の向こうで、妖精がこちらを捉え、その目を見開いたのを。
『おっと』
 次の瞬間、空気の流れが突如変わり、巻き上がる風が砂嵐を上方へと押し上げた。レティオの鼻の先で、凶刃の風は四方に霧散したのである。
 自分と巫女を助けたのだと、レティオは暫く信じられずに呆然と立ち尽くしていたのだった。
 巫女を傷つける意思はなかった、そう眦を吊り上げて言い切った妖精の顔と、ゴモドゥスの狡猾な表情。証拠などがあるわけではない。しかし、しかし――。

 都市中の貴族に通じ、人と人を繋ぐ役を担う豊穣の巫女。
 ヴェルス再興の要として市民に支持される彼女の影響力は、下手をすれば都市議員より強い。
 ベルナーデ家とも懇意にしており、積極的に力を貸していることは都市で知らぬ者などいるまい。
 胸に冷たく恐ろしい予感が沸き起こる。
 もしも、そんな彼女が、事故で命を落とすことがあれば。

 言葉を探していたレティオは、唐突に響き渡った笑い声に顔をあげた。
 笑ったのはエウアネーモスであった。彼は愉快そうに目を細め、優しく語りかけてきた。
「レティオ殿。ベルナーデ家の勇壮な跡取り殿。お若いあなたにふたつのことを教えて差し上げましょう」
 商人がゴモドゥスに軽く目配せをした、次の瞬間だった。
 ゴモドゥスの太い腕がレティオの肩に回った。レティオが一歩退こうとしたが、遅かった。
 くるりと世界がひっくり返った。首を、反対側の腕に掴み上げられる。全身を砕くような衝撃が走り、柱に叩きつけられたのだと気付いた頃には、レティオは薄い呻き声を漏らしていた。
 指に力が入らない。喉を捻り上げられては声も出ず、レティオは優越感に笑うゴモドゥスと視線を通わせる。その後ろで、エウアネーモスは世間話をするように続けた。
「ひとつ。中途半端な賢さは早死にの元ですよ」
 その一言が示す事実に、かっと頭の奥が熱くなった。やはりこの者たちの狙いは妖精ではなく、ナディアの命だったのだ。檻などただの紛い物であったに違いない。
「き、さま……っ」
「私はね、虫唾が走るのですよ。甘ったれた妄想を垂れ流して人心を掴んだと勘違いしている馬鹿げた女を見ていると」
 全身が怒りに戦慄く。ゴモドゥスの腕を掴み、引き剥がそうとすると、エウアネーモスは指で合図をした。ぱっと手を放され、その場に落とされて激しく咳き込む。
「もうひとつ。私たちに楯突くなど考えないことです。この神殿のことなど、戯れに過ぎません。じきに分かるでしょう。巻き込まれたくなければ、さっさと都市を出ていくことです」
 滲んだ涙を拭って見上げた先にあるエウアネーモスの目は魚のように感情がなく、底知れぬ闇を湛えていた。そうして彼は、凄惨な笑みを浮かべる。
 エウアネーモスが踵を返すと、まだ物足りないようにゴモドゥスが腕を鳴らした。
「やめておきなさい。ゴモドゥス。私も、今回の件ではあなたに失望しているのです」
 感情のない声にゴモドゥスは頬を強張らせ、舌打ちをしながら商人と共に去っていく。
 神殿の影で僅かな間に起きたことなど、誰の目にも留まらない。暫く立ち上がれずに咽ていたレティオは、そのまま愚かな己の無力を――。
 呪いはしなかった。

「……」
 口元を手の甲で拭うと、レティオはゆらりと立ち上がった。緋色の前髪に隠れた、その唇には僅かな笑みすら浮かぶ。
「残念だな」
 遠ざかるエウアネーモスとゴモドゥスの後姿に、レティオは吐き捨てた。
 昔の自分であれば、ここで膝をついていたことだろう。自分に何ができるのかと、その非力に懊悩していたことだろう。
 しかしナディアも、フィランもジャドも。自分が自分であることを認めてくれる。信頼をおき、力を貸してくれる。なのに、こんなところで屈してたまるものか。
 そうだ。もっと無様で惨めな思いを噛み締めたことがある。越えられない壁を前に、涙に暮れた日々がある。悔しく、恐ろしく、悲しい思い出がある。それは今でも己の心を苛んでいる。けれど、だからこそ自分を肯定してくれる者たちの思いが胸で燐光を放つのだろう。そうした全ての記憶が、きっとこの足を立たせるのだろうとレティオは思った。
 レティオは首に手をやって、ふんと鼻を鳴らす。
 ――あの男の方が、もっと強かった。
 ならばそれを超えるほどに強くなり、あんな連中など追い出してやる。あの笑顔を守るために、この手で闇など打ち払ってやる。巫女の命を脅かす者を、許しはしない。
 ベルナーデの家名を冠す、この真名にかけて。
 まずは叔父に報告せねばならない。ぎゅっと唇を噛んで、レティオは足早に歩き出した。
「あ、こんなところにいたんですか。ジャドー? いましたよ! 帰りましょう」
「だーくそ。どこほっつき歩いてたんだよ。ったく探させやがって」
 広間に出たところで、荷物をまとめたフィランとジャドが駆け寄ってくる。
「……何かあったんですか?」
「別に」
 鋭いフィランはきっとレティオの様子に普段と違うものを感じたのだろう。レティオは挑むように一度だけ女神の彫像を見上げて、そして踵を返した。
「引き上げるぞ。ジャド、戻ったら予定通り剣術の稽古だ」
「げ!? これからやるつもりかよ!?」
「二日に一度という取り決めだろう」
「かーっ! 今日くらい忘れてろよそういう面倒なことはよ!?」
「フィランもだ。夕方から馬術を見ろ」
「え、稽古ですか?」
「他の何に聞こえる」
「ちょ、いや待ってください!? 一段落したことですし、僕はこれからティレと散歩にでも……」
 ギロ、と殺気だった顔で睨むと、流石のフィランも口を噤んだ。
 顔を見合わせた師匠たちは、なんという弟子を持ってしまったものかと同情の視線を交して肩を落とし合った。無論、そんな彼らを先陣を切る少年は見ることもないが――。
『負けるものか』
 暗雲が立ち込めたかに見えた都市の空は、女神の気まぐれを体現するかのように再び群青色を取り戻している。天界に向かって吼える一角獣の家紋が表す通り、少年は見えない相手に切り込むかのように足を進めるのであった。

 その姿は今はまだ小さくとも、いつかは世界を知るだろう。
 秋に揺らめく彼の影は、たった一瞬獅子の姿を形作り、人の足を以って前へ進む。
 今は、ただ前へ。




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